第8話そうだ、変身してみよう。
『国内最大手の自動車メーカー、みずの自動車が今日発表した新型車〈ブール〉は――』
告白騒動のあと、家に帰った俺はリビングにあるソファの前で正座していた。背後のテレビでは無機質な声のアナウンサーが経済ニュースを伝えている。
「折り入ってお願いしたいことがございます」
「お小遣いなら増やさないよ」
ソファに座って雑誌を読んでいる母さんは、視線すらやらずに冷たく言い放った。
「そんなご無体な。ちょっとくらい増やしてくれてもいいじゃないですかぁ」
「五千円もあれば十分でしょ。もっとほしかったらバイトしなさい」
「とんでもない!」
俺は両手と首を勢い良く振りながら即答する。俺がバイトなんてした日には、起こした問題の賠償で給料が吹き飛ぶどころか国家予算規模でマイナスになりかねない。
そんな俺を見た母さんは、わざとらしく大きなため息をついた。
「バイトくらいすればいいじゃない。柑奈だってやってるんだからさ」
柑奈は近所のスーパーマーケットでレジ打ちをしている。愛想がいいと評判だ。柑奈目当てで買いに来るお客さんもいるとか。変なやつにナンパされたりしないか心配だ。
「働くなんてまっぴらごめんでございやす。生きるために命をすり減らすなんて、ありゃ悪魔との取引としか思えませんぜ。あっしには到底できない芸当でさあ」
「そう思うなら、お父さんが大変な思いをしてやっと手に入れたお金をほいほいもらおうとするもんじゃないよ」
「うん、俺もそう思う」
本当、父さんはどうして耐えられるんだろう。生きるためには働かなきゃいけないってことはわかる。でもそうやって得た日々のうち、多くの時間はまた生きる糧を得るための労働に費やされるわけだ。これじゃあ働くために生きてるみたいじゃないか。
「だから別に小遣いせびりに来たわけじゃないんだよ」
「じゃあなんだっていうわけ?」
小さく目を見開いた母さんは、雑誌をめくる手を止めてようやくこちらを見た。そんな母さんに向かって、俺はにやりと笑う。
「女装するのを手伝ってほしい」
「……は?」
母さんの目が点になった。
――男が駄目なら女になればいいじゃない!
ついさっき、下校中にそんな神のお告げがあったのである。何の神だろう。なかなかアバンギャルドないい神様だよな。悪魔のささやきかもしれないけど。
本当は柑奈に協力してもらった方がいいんだろうとは思う。でもさすがの俺も告白を受けた直後に、水野さんに近づく手伝いをしてくれなんて言えるほど無神経ではない。
「ちょっといろいろあって、どうしても女装する必要があるんだよね」
「どんないろいろよ。まあ面白そうだから別にいいけど」
そう言って母さんはくつくつと笑った。さすが俺と柑奈の母親。順応力が高い。
「じゃあとりあえずメイクしてみてくれる? 超いけてる感じでよろしく」
「ええ、任せなさい」
こうして俺の女装計画がスタートしてから十数分後。
全身のコーディネートを終えた俺は、リビングの全身鏡の前でポーズをとりながら変身した自分の姿をながめていた。やばい、超美人だわ。ミスコン出たら満場一致で優勝だな。
「な、なんなの? その恰好……」
そんな声に振り向いてみると、柑奈が能面を貼り付けたような無表情で立っていた。
「どう? いい女でしょう?」
胸くらいまでの長さの黒いウィッグ。太い眉、真っ赤な口紅、青いアイシャドー、体の線を強調するぴっちりとしたワンピース。
「数十年前のセンスだよ!」
「え、でも母さんはいけてるって言ってたわよ?」
「お母さんの世代のイケイケだからね!」
ウィッグもワンピースも母上様の私物。ちなみに父さんと母さんが出会ったのはディスコだったとかなんとか。
「女装としてどうこうっていう問題以前に、その恰好はないよ……」
うん、俺もうすうす気づいてたよ。だって外でこんな恰好の人見ないもん。でも頑張って言い聞かせればプラシーボ効果でなんとかなるかと思ったんだよ。
「そうか。じゃあファッション雑誌でも買って勉強するか」
母さんに頼んだのはやっぱり間違いだったかな。
「水野さんが男の子苦手だっていうから女装するってことでしょ? 私が手伝おうか?」
「え? いいの?」
驚く俺を見た柑奈は呆れたようにため息をついた。
「どうせ、仁くんのことが好きな私に、水野さんに近づくための手伝いをしてくれなんて言えないー、とか考えてたんでしょ?」
「ぐう」
的確すぎてぐうの音しか出なかった。
「もー。そういう気遣いは嬉しいけどね、すごく嬉しいけどね、ちょっと私を見くびりすぎだと思うよ。私そんなこと気にする人間じゃないのに」
柑奈が頬をふくらませてぷりぷり怒る。
見返りがないどころか自分の不利益になるかもしれないのに人に奉仕できるなんて。いやはや、本当によくできた妹だぜ。目頭が熱くなってくる。
「それじゃあお願いしようかな」
「報酬はチュー一回でいいよ!」
「せっかく一瞬感心したのに!」
でも何かしら柑奈にも得があった方がこちらとしても気が楽だ。とりあえず問題は頬なのか唇なのかだな。頬なら構わないけどさすがに唇はちょっと考えちゃうな……。
「冗談だからそんなに考えこまなくていいよ。ささ、まずは今のメイク落とそっか」
「え、おう」
柑奈は楽しげに笑いながら、戸惑う俺の手を引いて洗面所に向かった。そこで今のお化けメイクを落とすと、その足で柑奈の部屋に連れていかれた。
我が家は二階建てで、二階に俺と柑奈それぞれの部屋がある。お互いの部屋の行き来は結構自由だ。柑奈に漫画を借りてそのまま柑奈の部屋で読むなんてこともあるし、逆に柑奈が意味もなく俺の部屋でゴロゴロしてることもある。
「はい、ここ座って」
中に入った俺は、鏡台の前に座るよう指示された。
鏡台もそうだけど、柑奈の部屋はパステル系の暖色が基調になっている。ぬいぐるみなんかもいっぱいおいてあるし、なぜかいい匂いもするし、いかにも女の子っぽい部屋だ。
「うーん、手伝うとは言ったものの、私も男の子のメイクは初めてだから勝手がわかんないや。女の子と同じでいいってことはないだろうし」
柑奈はポケットから携帯電話を取り出して女装情報の検索を始める。柑奈もいっぱしの女子高生なんだな、と感じさせる慣れた手つき。そしてしばらくの間画面とにらめっこした後、納得したように頷いて携帯をしまった。
「一番は男の子っぽい骨ばった感じを隠すことみたい。仁くんはそんなにゴツゴツしてないからそんなに手間じゃなさそうだね」
「よくわからないけどよろしく頼む」
「ふふん、柑奈ちゃんにお任せだよ!」
柑奈はそう言って、いくつもの化粧品を両手の指の間に挟んで不敵に笑った。暗器を手にした忍者みたいでかっこいい。なんかすごいことをやってくれそうな気がする。
そうして、辺見柑奈先生による圧巻のメイクアップショーが幕を開けた。塗られて、描かれて、抱きしめられて……抱きしめ?
まあ、ときどき明らかに余計とわかる動作も混じったけど、俺の顔はちゃくちゃくと変化していき、気づいたときには鏡の中に美少女が収まっていた。
「え、これ俺? めちゃくちゃ可愛くない?」
「うん! 可愛いしかっこいいし優しいし大好きだよ!」
「うん、ありがとう」
いやー、本当に別人みたいだな。ほとんどの人がぱっと見ただけじゃ俺だってわかんないだろうな。俺本人ですらこれが自分だと信じられないわけだし。ヘンジンが見事に大ヘンシン、ってね。やかましいわ。
「ウィッグはこのままでもいいんだけど……。もうちょっと額の骨格が隠れるようなウィッグの方がいいのかな」
「他にもあるらしいし母さんに聞いてみよう」
「え、他にもあるの? お母さんがウィッグつけてるとこなんて見たことないけど。なんでそんなの持ってるんだろ」
「ああ、父さんの夜の趣味が云々とか。コスチュームもいろいろあるって」
「……うん、見たことなくてよかった」
もしかしたら、手元にあるこのウィッグのお陰で今俺がここにいるのかもしれない。そう思うと感慨深いな。……深いか?
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