第9話 魔法の実験

 用意されたのは銀のティーポット、口からは湯気が出ている。シェフィールド製のティーポットで、それなりに高い値段がするものなのだが、竜也はそんなことも知らず、近くにあったお湯の入る容器として目についたこれを持ってきたのだった。しかも握る取っ手が小さいという理由で、彼はあまりこのティーポットが好きではなかった。


 今机の上にあるティーポットを、研一と竜也そして雪の3人は囲んでいた。ティーポットからは、ゆらゆらと蒸気が楽しげに浮かぶ。

 そのままなかなか切り出さない研一にしびれを切らせた竜也が、ほら、早く始めてくれよ、と小さく囁いた。

 研一はあきれた様な表情を浮かべてから、口を開いた。

「オルタナってのはな、一言で表すと脳に錯覚を起こして、本当はしていないのにまるでしているかのように思わせる仮想現実の世界なんだ」


 それを聞いた雪は目をパチクリさせた。頭の上には「?」のマークが沢山浮かぶ。


「え? それどういうこと? 昔おばあちゃん家で3Dの映画は観たことがあるよ。実際には無いんだけど、本物みたいに見えた、そういうこと?」


 研一はゆっくりと首を横に振る。雪は斜め上を見上げなから続けた。


「じゃあ、今私たちが使ってるこの『インサルト』と同じってこと? 前に教えてもらった事があるんだけど、この『インサルト』って確か頭の中に小さい機械を埋め込んで、そこから眼につけているコンタクトレンズに映像を飛ばして、動物とか、景色かが実際にあるように見せる、って原理なんだよね? それとも違うの?」


 研一は雪に目を合わせないで答えた。


「ちょっと違う。あれは何らかの映像を実際に目で見ているだろ? 俺たち人間は目で見たものはそのまま目の神経を通って、脳にたどり着く。そこでほんの少しの電流が流れることで初めて『今、物を見た』と認識しているんだ。

 だがオルタナは違う。それらをすっ飛ばして直接脳に電流を流し、たとえ何も見ていなくても『今、物を見ている』と認識させるんだ」


 雪の表情が凍りついた。目が泳ぎだし、まるでロシア語で話しかけられた様な表情を浮かべた。頭は今にもショート寸前、そんな顔色だった。


「雪ちゃん、大丈夫。ここからだから、な? 研一?」


 研一はふう、と力を抜いてから、机の上をきれいに片付けた。


「今からとある実験をする。机の上に手を置いて」


 それを聞いた雪は、ぼーっとしていた顔からまるでしゃぼん玉がパチン、と割れたようにはっとしてから頷くと、ゆっくりと右手を机の上に置いた。前かがみになった時に、肩までかかる黒髪がさらりと少し膨らんだ胸の前に溢れた。横から見るとそのくっきりとした目鼻立ちがより明確に浮かび上がった。

 今、彼女の手の甲のすぐ横には火傷しそうなお湯の入ったティーポットが構えている。


「これでいいの?」

「ああ、それじゃあそのまま目を閉じてくれ。合図をするまでは目を開けてはいけない、いいな?」

「うん、わかった」


 彼女が完全に目を閉じたことを確認すると、研一は大きな声で、


「あっ!! 悪い!」


 そう叫んだ。

 直後、雪の手にまるで電流が流れたかのような、何か大量の液体が覆いかぶさるような感触が襲った。

 直後に彼女はこう叫んでいた


「熱いっ!」


 そう言って咄嗟に自分の手の甲を見ると、あーーーっ! と長く声を発した。

 その光景を見て唖然とした。


「何これ、私てっきり……」


 彼女の手の甲の上には、ポットのお湯ではなく、ジョウロからちょろちょろと流れる水が数滴、滴っていただけだった。


「今俺は水をかけたにもかかわらず、熱いと感じただろ? この隣のポットがこぼれた、そう思ったんじゃないか? もう分かったように、本当に熱いかどうかは手が感じているんじゃなくて、脳が感じているんだ。オルタナは直接脳に作用して、いろんな事をしているかのように錯覚させる。オルタナ上では誰だって走れるし、水の中も泳げる。空だって飛べるんだ」


 へえ〜、と雪は相槌を打った。


「それだけじゃない、好きなコンサートだって並ばずに全員特等席で見られるし、服の試着だって実際にオルタナ上で試着した上で購入できる。スイーツだって食べ放題、もちろん太らない」


 スイーツの部分に特に食いつきが良かったようだ。すかさず竜也が雪に迫る。


「で、どう? やってみない? 俺さ、雪ちゃんと一緒にぜひやってみたいんだ、ね?」


 迫るタツヤは必殺技の甘い瞳、スイートアイビームを雪に向けた。切れ長の瞳で、心の奥を覗き込むような視線。目の前で自分だけをみてくれるイケメンを前に、ほとんどの女子はこのビームを拒めない。

 しばらくすると雪は、覚悟を決めたような瞳を浮かべると、竜也を見つめ返した。


「雪ちゃん、やってくれるんだね、それにはね、まず未成年は同意書が必要で……」

「竜也君、ごめん」


 竜也の表情から血の気が引いた。そのごめん、という響きに驚いたというのが一番の理由だった。


「ユ……キ、ちゃん?」


 雪は申し訳なさそうに視線を落としてから、再び竜也を見つめた。


「わたし、やっぱりマリオの1面もクリア出来ないくらいバカだから、オルタナも無理だと思う。色々誘ってくれてありがとね」


 そういって立ち上がると、研一のもとへ駆け寄った。

「研一君もありがとう、また何かあったら、色々教えてね」

 そう言って雪は、首を少しかしげ、研一を覗き込むような瞳で見つめた。

 それから、目にも止まらぬ早さで竜也の部屋に背を向けると、そのまま風のように去っていった。


 研一の前には、雪の幻影が残されていた。

 ぱっちりとした黒く輝く瞳、振り返る際、その一本一本がきめ細やかに揺れていた黒髪のロングヘア。そして紺のブレザーから弾け出る、甘いフレグランスの香り。もう見えなくなってしばらく経っても、その研一の胸はまだ速い鼓動を打っていた。


 ぼーっとする研一の一方で、竜也は急いで雪を追いかけていた。

「あ、待って雪ちゃん、マリオ出来なくても、マリコは? あ、ちょっと!」


 玄関のドアがバタンと閉まった。


 あーあ、そう言って、うなだれる竜也を尻目に、研一は初めて言われた「女子」からの、ありがとう、にどうしてよいのかわからず、少しもやもやしていた。


 ——まあ、俺なんもしてねえけどな——


 そう思いながら、刈り上げ頭をぽりぽりと掻いた。 

 そんな研一の前で竜也はもう既に他の女と5分後にオルタナ上で会う約束をとりつけていた。


 今から思えば、ここで雪が本当にオルタナを「断念」していれば、その後の未来は変わっていたのかもしれない。


 あの、凄惨な事件の結末も、もう少し違った方向へ向かっていたのかもしれない。


99:99:99

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