第35話 オルタナの住人

 どれだけ時間が経っただろうか。

 リミットの時計は12時間を切るところだった。

 相変わらずJは大型スクリーンの中で、せかせかと何らかのキーをタッチしたり、浮かび上がる様々な図形をまわしたりと作業を続けていた。


「ねえ、研一君?」

「ん?」

「J君は一体何者なの? 何であんな小さい子にこんな難しい事ができるわけ?」


 研一は待ち時間を持て余すように、Jの事を雪に話す事にした。


「あいつは『オルタナの住人』なんだ」

 雪は眉をひそめた。無理も無い、雪がそのような存在を雪が知っているはずもなかった。


「何? オルタナの住人って」


 研一は遠くを見るように、Jを見つめながら口を開いた。


「通常のオルタナユーザーは俺らみたいに、やる事が終わったら普段は普通の世界で暮らしているだろ。ただ、中には普通の世界では暮らせない人もいる」

「暮らせない?」

「Jは生まれつきの病気のせいで、全身の筋肉が少しずつ動かせなくなっていくんだ。しかも進行が早いタイプで、3歳からベッドで寝たきり。それ以降起き上がった事は一度もない」


 思わず雪は、はっ、と口に手を当て目を丸くすると、Jに視線をやった。


「ただな、頭だけはしっかりしてるんだよ。これしたいとか、こう思う、とか。そんな人にオルタナは自由な世界を与えたんだ」


 Jはそんな話すら耳に入らないほど集中していた。


「オルタナの中では脳さえしっかりしていれば自由に飛び回ったり、コミュニケーションを取ったりと、普通の人と同じ、いやそれ以上のことが出来るんだ。Jはほとんどオルタナにいて、ログアウトする事はない。そんな人達の事をオルタナの住人と呼んでいる」


 その途方もないスケールに雪はただただ耳を傾けるしか無かった。


「私たちが何気なく利用しているこのオルタナも、そんな人達からしたら、大切な世界なんでしょうね」


 一つ、研一は大きく頷く。

「オルタナの住人達はこの世界こそ全てなんだ。だからその世界の秩序を守りたいという気持ちは人一倍強い。そしてその仕組みだったり、プログラムにも人一倍長けているのもうなずけるだろう」


 なあ? 研一はJに呼びかけた。


「どうしました? ケンイチ」

「お前は確かオルタナの住人だったよな? だからこのクラッシュの解明にも力が入る。そうだろ?」


 Jは手元を目にも止まらぬ速さで動かしながら、一度研一を見やった。それから遥か上に視線を向け、また手元に戻す。


「まあ、そんなところです。それだけではありませんが……」


 その時2人は気づいていなかった。そのJの背後に浮かぶ、薄暗い真実を。

 それはまるで真夏の暑い日差しですら曇天にさせる、厚い厚い雲のようにどんよりとした気配だった。そんな暗雲さえ、Jの淡々と話すその話しぶりのせいか、その一部でさえ垣間見られる事はなかった。


 研一はそんなこと御構い無しに、右手で自分の喉元にかけられた鎌をぽんぽん、と叩いた。そして、Jに問いかける。

「なあ、お前はアプリコット社のクラッシュ解明チームに抜擢されたって言ってたよな?」

「はい、それが何か?」

「結局犯人は誰か目星ついてるのか? 最近巷を騒がせてる、東ヨーロッパのマッドハッカーの『フランケン』か? それともアジアを拠点とする集団『シルクロード』か?」


 Jは少し手を止めた。


「今のところ、犯人は『いない』ということになっています」


 いない?

 反射的に研一の口からは、間の抜けたようなそんなセリフが飛び出した。


「そんな事があるのか? こんな大それたプログラム、自然に発生したってのか?」

「最初は何らかの人物が作ったのかもしれません。しかし、そのプログラムはオルタナ上で自己膨張し、分裂し、複製され、まるで自然淘汰される生き物のように不良品は削除され、残った物はより精度の高い物となってしまった。その最終形態がこの『オルタナクラッシュ』です」


 なんてことだ、研一は思わずあっけに取られた。最初からこのプログラムを作った「犯人」に憎しみを抱いていたものの、そんなものは最初からいなかったなんて。


「そもそもケンイチ。その『犯人』がいようといまいと、僕たちのやることは変わりません。違法プログラムの削除、そして防止。それが出来なければその『犯人』を何万回死刑にしたって、再びこのような事態は繰り返されます。だから、その元凶である『犯人』については僕たちは議論としていません」


 ふーん、そんな表情を浮かべながら、研一は遠くを見つめた。そして先ほどから思っていた疑問をぶつけることにした。


「なあ、J。一つ気になる事があるんだが」

「何でしょう」

「俺みたいなのがクラッシュに巻き込まれたのは分かる。色々セキュリティやら何やらをいじっているからな。だけど何で雪のような初心者が巻き込まれたんだ? アプリコット社のセキュリティプログラムはそれなりにしっかりしていると思っていたんだが……」


 Jの返事は即答だった。


「それはユキが脱獄しているからです」

「脱獄? 雪は初心者だぜ、脱獄なんかできるはずがないだろう」

「脱獄しなければここにはいません」


 その断定的な言い回しに、研一は苛立ちを覚えた。何を根拠にそんなことを……そう思った矢先、思わず研一は、あっ! と声をあげていた。


 突如研一の脳裏に貫通した一つの記憶。

 それはシンデレラ城の前でピュアサンデーを食べた時のこと。


—— 一時的に脱獄させた。これでピュアサンデー食べられるぞ——

——ありがと〜。いっただきま〜す——


……俺があの時、雪を脱獄させてしまったために……


 研一は重いこうべを垂れ、そして頭をかかえる。

 今一度、起きてしまった事実の重大さを認識した。


 俺のせいだ。

 俺があの時、雪を脱獄させていなければ、雪はこんな目に遭わなくて済んだのに。俺のせいで雪は今、死のトラップにかけられている、これで死なせてしまったら俺が殺したようなものだ。そんな考えが研一の胸に重くのしかかった。


「よし、これをインストールすれば……」


 Jは最後のボタンをタッチした。


「みなさん、お待たせしました。準備が整いました」


 3人はJのいる大画面を見つめた。

 リミットは残り10時間に差しかかろうとしていた。


10:58:19

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