其ノ参 ~灰色ノ日記帳~
「っ……!!」
玄関の引き戸を開けて廃屋に足を踏み入れた一月は、思わず表情をしかめた。
琴音が生前祖母と二人で暮らしていたこの家は、かつて人の営みがあったとは思えない程に荒れ果てていたのだ。
壁は至る所が剥げて木目がむき出しになっていて、天井の一部分が腐って梁が落ちている。外観以上に内部の老朽化は激しく、不気味で悍ましい雰囲気が辺りを満たしていた。
現在は陽が落ち始めている時刻という事に加え、庭の木々に遮られて日当たりが悪い所為だろう。廃屋の中は非常に薄暗く、数メートル先も見渡せない程だ。
さらに、廃屋内には土やカビのような臭いが漂っていて、空気がひどく淀んでいる。息を吸うたびに、鼻腔に淀んだ空気が流れ込んでくる。
(人の家って、二年放っておかれただけでここまで……!!)
制服の袖で鼻と口を覆い、土足のまま、一月は再び歩き始めた。
土間から一段上がると、板張りの廊下だった。
床板も腐食が進んでいるようだ。歩くたびに、ギシィ、ギシィ……と不快な音がする。
廊下を歩いて、一月は手近にあった右側の扉を開けた。その部屋には割れた窓があって、微かに差し込んだ陽の光が部屋の中を照らしている。
廊下と比べれば明るかったものの、それでも薄暗いことに変わりはない。
地面を踏んでいる感触が廊下と違う。板張りの床じゃない。
視線を下に向けると、土まみれのボロボロのカーペットが敷かれていた。
(……カーペット?)
一月は思う。
カーペットが敷かれているということは、この部屋は人と接する機会の多かった部屋ではないだろうか。少なくとも、人が立ち入らないような部屋にカーペットを敷いたりはしないだろう。
(こう暗いと、何も出来ないな)
制服のポケットを探り、一月は銀色の小さなキーホルダーライトを取り出した。普段は、家や自転車の鍵を一まとめにするのに使っている物だ。円筒型の形で、ボタン電池内臓。丸いボタンを押せばそれだけで白色のLEDが点灯する。
懐中電灯程の明るさはないが、これで少しは暗闇を紛らわせる筈だ。
キーホルダーライトを点灯させる。すると部屋の一部が少しだけ明るくなり、部屋の脇に置かれた机が一月の視界に入った。
割れた窓からの風雨に侵されたのだろう。机の上にはボロボロの紙やノートや教科書、プリントファイルが無造作に放置されている。それからシャープペンシルやボールペン等の筆記用具が散乱し、それらの一部は床にまで落ちていた。
(いや、待て……!!)
ふと、一月は気付いた。
ノートや教科書、プリントファイル――それらを使うのは、主に高校生や中学生、すなわち『学生』ではないだろうか?
ここが廃屋になる前は、二人の人間がここで暮らしていた筈だ。一人は琴音の祖母、そしてもう一人は秋崎琴音だ。
だとすれば、この部屋は、
(まさか、琴音の部屋……!?)
一月の予感は、壁に掛けられた額縁に収められている一枚の表彰状によって確信に変わった。
キーホルダーライトでその表彰状を照らし、一月は印刷された内容を読む。
表彰状
秋崎 琴音
上記の者を、鵲村主催、第13回夏の剣道大会中学生部門において、
優勝したことをここに証明します。
……その下には、日付と主催者の名が印刷されていた。けれど、名前以外の文章など、もはや頭に入らなかった。
この表彰状は、あの中学二年の夏の剣道大会の時の物だった。あの、決勝戦で一月と琴音が戦い、琴音が勝利した時の。
(やっぱり……この部屋は……)
嫌でも理解せざるを得なかった。
琴音への表彰状があるということは、やはりそうだ。そうだったのだ。ここは彼女の、琴音の部屋だ。机の上に散乱したノートや教科書は、全て生前の彼女が使っていた物なのだ。
琴音の部屋、恐らくは存命の間に彼女が最も接していた場所だろう。二年前に命を失うまで、彼女はあのベッドで眠り、あの机で勉学に励み――。
そして、足元に落ちているこの日記帳に、一日の出来事を綴っていた。
「!!」
足元に落ちていたノートには、灰色の表紙にサインペンで『日記帳』と書かれ、その下に『秋崎琴音』と書かれていた。
間違いない、一月には分かる。この字は間違いなく、琴音の字だ。
灰色の日記帳を拾い上げ、手で土埃を払う。そこらの文具店や百均で売っているような、ごく一般的な日記帳だった。二年間ずっとここに落ちていたせいで汚れや傷みが酷いが、内容を確認することは出来そうだ。
「……」
灰色の日記帳の表紙を見つめ、一月は暫く黙っていた。
自分が手にしているこの日記帳程、彼女の死に関する手掛かりに繋がりそうな事が記されているかもしれない。だが故人と言えども、これは他人の、それも自分が想いを寄せていた少女の日記帳だ。勝手に見るのは、やはり気が引ける。
しかし、見なければ何も前に進まない。彼女の死の真相も、彼女を殺した犯人もわからない。
(ごめん琴音……君の死の真相を知るためだ。この日記帳、読ませてもらうよ……)
一月は心の中で、今は亡き琴音に告げた。
もしも彼女が生きていたら、何と言うのだろう。
灰色の日記帳の表紙をめくる。一ページ目、日付は二年前の九月十九日から始まっていた。琴音が殺されたのは、九月二十四日。九月十九日ということは、その五日前ということになる。所々破れ、織り目が付き、白かったであろうページの紙は、黄土色に変色していた。
そして、その黄土色の紙の上には横書きで、琴音の字で、日記が綴られていた。
一月はキーホルダーライトを口で銜え、日記帳を照らす。
開いた両手で日記帳を持ち、琴音の日記を読んだ。
『二○××年、九月十九日。
今日は、朝からいっちぃと会った。
中学に進学してから一緒に遊ぶことは減っちゃったけど、家は近いし、剣道部の時にも、剣道場でも会えるからまあいっか。
にしても、いっちぃは相変わらず目玉焼きにソースをかけて食べてるって言ってた。
目玉焼きには、断然絶対醤油だよね。
今日の英語の授業で、単語の小テストがあった。
15点満点のうち、私は14点でいっちぃは15点。いっちぃやっぱ凄いなあ……
もうじき中間試験がある。数学勉強しないと、赤点になっちゃいそう。
じゃあ、今日も夜十二時まで勉強するとしますか』
これが、一ページ目に書かれた内容だった。文中に数回出てきている『いっちぃ』とは、琴音が付けた一月の愛称である。
小学校の頃に初めて知り合った頃は、琴音は一月を『金雀枝君』と呼んでいた。その後、仲良くなるにつれて、彼女は一月を親しみを込めて、『いっちぃ』と呼ぶようになった。
それまでニックネームを付けられたことが無かった一月には、そう呼ばれるのは中々に新鮮だった。
だけどもう――そのニックネームで僕を呼ぶ人はいない。
灰色の日記帳を読むうちに、一月は琴音が在りし時の事を思い出し、涙が出そうになった。
琴音が隣にいた日々に戻りたかった。もう一度、『いっちぃ』と自分のことを呼んでもらいたかった。
しかしそれは、所詮叶わぬ願い。彼女はもう、この世にはいないのだから。
琴音と共に過ごした日々は、どんなに願おうと、何をしようと、取り戻すことは出来ない物。
何故なら、死んだ人間は絶対に生き返らないから。
(……ぐっ……!!)
一月の悲しみに溢れた表情が、一瞬で険しい表情へと変わる。日記帳を持つ手に、力が籠る。
彼は心の中で、琴音の命を奪った人間への怒りを再燃焼させた。
親友であり、想い人でもあった彼女を惨たらしく殺し、彼女の人生という名の道を断ち切った犯人――どんな道理があろうとも、許すわけにはいかなかった。
(必ず……!!)
口に銜えたキーホルダーライトで灰色の日記帳を照らし、一月は再びページをめくり始めた。
日記を読み進めたが、それから数ページは一ページ目と変わりなく、彼女の一日の出来事が綴られていた。
九月二十二日を読み終え、次のページは二十三日。
琴音が命を失う日の、前日の日記だ。
『二○××年、九月二十三日。
今日、いっち×と×××を×た。
彼とこ×な風に×ン×したこ×は、今×で一度も無××たと思×。
××ちぃ、ひ×い事言×て』
――日記はまだ続いているようだが、そこから先のページが破り取られている。
このページは特に汚れと痛みが酷く、断片的にしか読み取れない。
(……!?)
何かがある。このページには、何か重大な事が隠されている。そんな確証はどこにも無かった。しかし、一月にはそれが分かった。
辛うじて読み取れる部分に目を凝らし、一月は考える。
『彼とこ×な風に×ン×したこ×は、今×で一度も無××たと思×』
気になったのが、二行目のこの文章。
二年前の九月二十三日に、何があったというのだろうか? 一月は記憶を辿る。しかし、その問いの答えは出てこなかった。
だが、琴音が命を失う前日に何かがあった事は間違いない。そしてその『何か』に、恐らく一月自身も関わっているようだった。このページの破り取られた部分が見つかればその答えが分かるのだろうが、この荒れた部屋の中で紙切れ一枚を探すのは困難だ。
(このページで終わりか……)
この今となっては殆ど読めない日記が書かれた翌日が、事件が発生した日。すなわち、琴音が殺された日だ。
日記を書く人間がいなくなった以上、次のページは白紙に違いないだろう。そう思って一月は、何気なくページをめくった。
九月二十三日の日記の次のページは、白紙……
では、なかった。
「っ!!!!」
ページをめくった瞬間だった。喉の奥から、無意識に引きつるような声が漏れた。
弾くように日記帳を突き離し、反射的に後ずさる。
銜えていたキーホルダーライトが口から落ち、カーペットの上に転がった。
「何なんだよ、これ……!?」
落ちた日記帳は、まるで意志を持っているかのようにそのページを開き続けていた。キーホルダーライトの光が無くとも、窓からの僅かな明かりだけで、その内容は読める。
白紙だと思っていたページに書かれていたのは、ただの『文字』だ。
しかし、ページ一面に琴音の字で、
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる
六ミリ×三十五行のページを埋め尽くすように、びっしりと『殺してやる』と書かれていた。
(何だよ、これ……一体何だっていうんだよ……!?)
白紙である筈のページに文字が書き込まれていたのに驚いたのは確かだ。普通に考えれば、死んだ人間が日記を書ける筈が無い。
だとすればこれは、彼女が命を失う前に書かれた物なのだろうか。
いや、問題はそこではない。問題なのは、書かれている内容だ。
『殺してやる』という字の羅列はきれいな字だが、言いようの無い殺意と狂気、そして不気味さに満ちている。
このページを見ているだけでも、気分が悪くなりそうな程に。
一月は知っている。琴音は心優しい性格の少女だった。殺してやる、こんな下賤な言葉を、彼女が使う筈が無い。
何かの間違いだ。そうである事を祈り、カーペットの上の日記帳を見返した。だが、これはやはり琴音の字だ。見間違う筈など無かった。
「うっ……」
唾をのみ込み、精神を落ち着かせる。一月はもう一度日記帳に手を伸ばす。
伸ばした右手が、日記帳に届こうとした時、廊下の方から、パリン。と何か割れるような音が響いた。
「!!」
突然の物音に驚き、一月は開け放たれた扉の方に視線を向ける。
扉の向こうには、廊下の壁があった。老朽化して、所々木目が剥き出しになった壁。
今のは……例えるならば、皿が割れるような音だ。
(誰かいるのか……?)
先ほど落としたキーホルダーライトを拾い、一月は琴音の部屋を出る。するともう一度、パリン、と何かが割れるような音が響き渡った。
こんな音が、偶然に発せられるのは考えにくい。きっと誰かが、皿か何かを意図的に叩き割ってこの音を出しているのだろう。
だとすれば、この廃屋には、誰か一月以外の人間がいる筈だ。
(……ここか……?)
音は、どうやら廊下と襖で仕切られたこの部屋から発せられているようだ。
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