其ノ四 ~牙ヲ剥ク殺意~
パリーン……。襖の向こうから、また何かが割られるような音が響いた。
これで三度目だ。
(やっぱり誰かがいるんだ……!!)
一月は襖の取っ手部分をキーホルダーライトで照らす。この襖の向こうの部屋に、誰かがいるのは間違いなかった。
もしかしたら、自分と同じように琴音の死の真相を探っている者なのかも知れない。
そうだとするならば、協力関係を築けるだろうか。一月はそう思った。
一月は襖の取っ手に向かって手を伸ばす。
取っ手に手が届こうとした瞬間、
《駄目だ!! その襖を開けるな!!》
頭に浮かんだ声と共に、一月の手が止まった。いや、止められた。
《引き返せ、今すぐ引き返せ!! 金雀枝一月!!》
それは、人間の口から発せられた声ではなく、また耳が聞いた声でも無かった。
一月の第六感が発した声だったのだ。襖を開ける意思はあった。だが、体がそれに逆らっている。体が、この襖を開けることを嫌がっていた。
「……っ……」
腕が痙攣するように震え、手の平に汗が滲んでいた。
一月の生きてきた十五年という時間の中で、初めての出来事だった。自分の意思に体が逆らうだなんて事は、今の今まで一度も無かった。
一月には、二つの選択肢があった。
自分の第六感の警告に従い、ここは引き返すか。或いは、第六感の警告を無視して、この襖を開くか。
「…………」
無言のまま、一月は眼前の襖を見つめる。
体が警告を発したということは、この襖の奥には『何か』があるのだ。その『何か』が何なのかは、一月自身にもわからない。だがそれはもしかしたら、琴音の死に関する手掛かりに繋がる物かも知れない。
悩んだ末に、一月は後者の選択肢を選んだ。
嫌がる体を強引に従わせ、両手で襖の取っ手を掴む。
「……ふう……」
何があるのか。
この襖の先に、一体何が待ち受けているのか……一呼吸置き、一月はゆっくりと襖を開いた。
その瞬間――。
「うっ!!!!」
生臭い臭いが、一月の鼻に襲い掛かったのだ。一月は反射的に袖で鼻を覆った、だがそんな行為で防げる程度の臭いでは無かった。
「うっ、げほ、ごほっ……!!」
開けられた襖から顔を背け、一月は咳き込んだ。
そして再び、襖の方に顔を戻す。襖の向こうの部屋は窓が無いらしく、廊下や琴音の部屋とは比べ物にならない程に薄暗い。
しかし、そんな事よりも、何よりも。
(何だ、この臭い……!?)
嫌でも鼻に入ってくる、この生臭い臭いは一体――。
やはりこの部屋には、何かがある。
制服の袖で鼻を覆ったまま、一月は思い切って襖をくぐり、その部屋に足を踏み入れた。キーホルダーライトで薄暗い部屋を照らす。すると、壁に埋め込むように設置された仏壇が視界に現れた。
(ここは、仏間……?)
気が付くと、生臭い臭いに混ざって、微かに線香の香りがする。床は畳敷きだ。思った通り、やはりここは仏間のようだ。
見た所、壁に埋めるように設置された仏壇以外は何も無いらしい。
広い部屋だとは言いづらかった。
しかし、設置された仏壇のせいだろうか、どこか厳かな雰囲気に包まれている。
一月は仏間をキーホルダーライトで照らし、一通り見渡した。
しかし、この臭いの発生源は見当たらない。
(この臭い、一体どこから……?)
その時、一月の足に何かが当たった。
「?」
キーホルダーライトを下に向ける。
すると、一月の足元が白のLEDで微かに明るく照らされ――仏間の畳敷きの床に倒れていた、二人の人間の姿が露わになった。
「うわっ!?」
暗い廃屋に、一月の声が響いた。驚きのあまり、少しだけ後ずさる。
そして、驚いた拍子に荒げてしまった呼吸をゆっくりと整える。
(人……?)
呼吸を整えて、恐る恐る歩み寄る。
観察すると、どうやら倒れているのは二人とも女のようだ。
それも、一月の高校の制服を着用している。ということは同級生……? それとも、二年か三年生だろうか。
一月は、また少し歩み寄り、
「……どうかした?」
声をかけてみたが、返事は無い。
もしや……こんな不気味な廃屋の中で、眠ってしまっているのだろうか。
もう一歩、一月は近づく。
「ねえ……?」
……返事は無い。
もう一歩、一月は近づいた。
「ねえ……」
キーホルダーライトで倒れている二人を照らした。
その瞬間、出る寸前だった言葉は、止まった。
「……え?」
その一文字の直後、一月は、
「う……うわああああああぁああああッ!!!!」
仏間に響き渡る程、狂人のような叫び声を上げた。
弾けるように駆け出し、壁際に移動する。一月は仏間の壁にもたれかかった。
途端に猛烈な吐き気がこみ上げ、一月は仏間の畳の上に嘔吐した。
「うぶ、げほ……!! か……!! ごほっ……!!」
吐瀉物に喉が無理やり押し広げられ、口から溢れ出る。
酸っぱい胃酸の味が、口腔内に充満していた。
「うっ……!!」
次第に、口からは黄色い胃液しか出てこなくなった。
胃の中に残っていた固形物は、もう出し尽くしてしまったのだろうか。
一月は理解した。理解せざるを得なかった。
倒れた二人の少女が、どうして呼びかけても返事をしないのか。仏間中に漂っている生臭い臭いの発信源が、何なのか。
返事をしなかったのは、目の前の二人の少女はすでに殺されていたからだ。
あの生臭い臭いは、二人の少女の裂かれた腹部からはみ出した内臓から発せられていた。
溢れ出た血液で、二人の少女を中心に畳の上に大きな血の水溜りが出来ていた。赤い赤い赤い、真っ赤な床。まるで赤い果物を踏み潰したかのように、仏間の床一面が血の海だ。
少女のうちの一人は、絶命間際に失禁したのだろう。
制服のスカートの股間部分に染みが出来ていて、体内から漏れ出た黄色い尿が白い太腿を伝い、畳に流れ落ちていた。
人間の臓器の生臭い臭気に加え、鼻を刺すようなアンモニア臭が漂っていた。
「……!!」
この光景――見覚えがあった。
人が惨殺され、まるで解剖されたカエルのように腹部を裂かれた光景。
真っ赤に染まった制服に、はみ出した胃や腸や肝臓や腎臓に、見開かれ充血した目。
家畜動物のような惨たらしい扱いを受け、血塗れの肉塊と化した人間の姿。
一月には既視感があった。
この光景を見るのは、初めてではなかったのだ。
(同じだ……二年前のあの時と……!!)
そう。二年前の九月二十四日。
秋崎琴音は、腹部を裂かれて死んでいた。
腹部から内臓を露出させ、充血した目を見開き、辺りに血の海を作り――絶命していた。丁度、目の前のこの二人の少女のように。
瞬間、一月は前方に何者かの気配を感じた。
いる。誰かが、僕の前にいる……!! 床に向けていた視線を恐る恐る前へと向ける。口の端から、胃液が滴り落ちた。
前方をキーホルダーライトで照らす、いつ現れたのか、仏間に一人の少女が立っていた。
「だ、誰だ……!?」
少女は制服姿だったが、あれは一月の高校の制服ではない。長い後ろ髪が、制服の襟にかかっているのが分かる。
こんな死体が転がっていて、生臭い臭いに覆われている場所に整然と立つ少女。
正常な人間ではない事は、容易に想像がついた。
「…………」
彼女は無言のまま、ゆっくりと一月を振り返る。
一月キーホルダーライトの光を眩しく感じる様子も見せず、また二人の少女の死体が放つ生臭い臭気に鼻を覆おうともせずに。
ゆっくりと、ゆっくりと振り返り、彼女の顔が、一月のキーホルダーライトで照らされた。
その瞬間――。
「えっ…………?」
口から、無意識にその一文字が漏れた。
荒廃した廃屋。二人の少女の惨殺死体が転がる暗い仏間で、一月の前に立っていたのは、二年前に殺された筈の、一月の親友であり、想い人でもあった少女――
秋
崎
琴
音
だったのだ。
「え……えっ!?」
目を疑った。
しかし、間違える筈は無かった。今、一月の目の前にいる少女は間違いなく、秋崎琴音だったのだ。夢なのかと思った。もしや、幻を見ているのかと思った。
何で、何で……!! 一体、どうして――!? 二年前に殺された筈の彼女が、ここに!?
死んだ人間は、絶対に生き返らない。そんなことは十分に理解していた。
だが、それならば、今目の前にいる琴音は一体――考えていた時だった、琴音が一月の方へ歩み寄ってきたのだ。
足元の少女二人の死体を、気にも留めずに踏みつけながら。
少女達の裂かれた腹から露出した臓器が琴音の足に踏まれ、グジュッという生理的嫌悪感を催す音を立てた。
「琴音……!?」
一番大切だった親友が、想い人でもあった少女が目の前にいる――筈なのに、一月は違和感を感じた。何だか、違う。
死体を躊躇なく踏みつけた事だけでなく、彼女の雰囲気。どうしてだかわからない。だが目の前にいる琴音からは、『生きている人間』という雰囲気が感じられなかった。
突如、彼女の小さな体を、黒い霧が覆い始める。長く伸ばされた黒髪や制服が煽られ、それ自体が命を有しているかのように、空を泳ぎ始める。
「琴……」
もう一度彼女の名前を呼ぼうとした瞬間だった。
琴音がいきなり手を一月へと伸ばし、彼の首を掴んだのだ。
「っ!?」
背中が後ろの壁にぶつかる。痛みと困惑と驚愕を同時に感じた。
目の前の彼女にどうしてこんな事をされるのか、全く分からなかった。
「琴音、何を……!!」
その言葉に、琴音は答えなかった。
答える代りに、琴音は一月の首を掴んでいる手に力を込め、彼の首を締め上げた。
「が……っ……!!」
一月は彼女の腕を掴み返し、どうにか自分の首から引き離そうとする。
だが、全力を込めても、首を掴んでいる琴音の腕は離れなかった。少女とは思えない程の力だった。
「――!!」
次の瞬間だった。
一月の頭の中に、自分の物とは全く違う記憶が流し込まれた。
琴音止めろ苦しい離せどうしてこんなことをする何で僕の首を締める何デナンデナンデナンデ何でお前が生きている私はお前の所為で殺されたのにそれなのにどうしてお前は生きているんだふざけるな羨ましい憎い恨めしい妬ましい赦さないユルサナイ殺してやるお前もこちらの世界に引きずり込んでやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してヤルコロシテヤル
首を掴んでいる琴音の腕を掴みながら、一月は琴音が自分に猛烈な殺意と怒りを向けているのを感じた。その時、一月は村で流れていた、この廃屋に関する噂を思い出す。
この廃屋には、『女子中学生変死事件』で殺された少女の悪霊が宿っていて、廃屋に足を踏み入れる者を呪い殺し、その腹を裂くという噂。
ただの噂だと思っていた。
しかし、『悪霊』と呼ぶ以外に、目の前の琴音の姿は説明がつかなかった。
長く伸びた前髪の隙間から覗く、猛烈な怒りと殺意に満ちた瞳。その身を覆い包む黒い霧、そして一月の首を掴んでいる彼女の手は氷のように冷たく、全く体温を感じなかった。
明らかに、人間の手の感触では無かったのだ。
「琴音……やめ……頼む……!!」
抵抗しながら一月は哀願するが、聞き入れられる筈は無かった。
悪霊と化した彼女には、もはや一月のことなど分からなかったのだろうか。
琴音が一月の首を締める力は、際限無く強まっていく。
一月にとっては、苦しみよりも寧ろ『悲しみ』の方が強かったかも知れない。彼女がもう、自分の事を理解できないのだと思うと、涙が溢れてきた。
「……っ……」
意識が途切れ途切れになる。
首を締められて続けている所為で、脳に障害が起こっているのかと思った。
視界が白くなり、手足の感覚が薄れていく中、一月はポケットに手を入れ、小学校の頃に琴音から貰ったクマのマスコットを握る。
そして、もう届かないと分かっていても、もう一度彼女の名を呼んだ。
「…………琴…………音…………」
その時――。
《だから言ったでしょ? そのいえに入ったらだめだって》
幼い少女の声が、一月の頭の中に響いた。
同時に、首を掴まれている感覚が一瞬にして消え去った。
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