其ノ弐 ~呪ワレシ廃屋~

「あ、ああああ……」


「く、来るな!! こっちに来るなぁ!!」


 天恒千早はその表情を恐怖一色に染め、その隣で佐天文美は、恐怖に駆られながら、『そいつ』を威嚇していた。だが、二人の眼前にいる『そいつ』は一向に止まる気配が無い。

 ゆっくりと、ゆっくりと忍び寄り……文美と千早への距離を詰めていく。『そいつ』が歩み寄って来る分、二人は後ろへと後退していた。


「っ!?」


 二人の背中に、何かがぶつかった。後ろを振り向く、背中に古びた木の壁が触れていた。もうこれ以上、後ろに下がることは出来ない。退路が断たれたのだ。


《殺す……殺してやる……》


 振り返った瞬間、『そいつ』が二人へと腕を伸ばしていた。

 二人は反射的に理解した。この腕が触れれば、自分達の命は無いと。どうしてだかわからないが、二人にはそれが分かった。


 しかし――分かっていても逃れる術は無かった。『そいつ』の腕が迫る中。千早は恐怖に震え、文美はただ後悔していた。ここは興味本位で来る場所では無かったと、そして千早を巻き込んでしまったことを、深く深く悔いた。

 九月二十四日、午後五時過ぎ。佐天文美、天恒千早。二人の少女は、十五年という短い生涯を終えた。



  ◎  ◎  ◎



 一月が帰宅した時、彼の母親は台所で夕食の下ごしらえをしていた。

 ジャガイモやニンジンや玉ねぎを刻み、鍋で煮ている。不意に、後ろから玄関の扉を開く音が響いた。一月が帰って来たのだ。


「お帰り、一月」


 居間に足を踏み入れると同時に、台所の方から母の声が聞こえた。


「ただいま」


 一月は覇気に欠けた返事を返す。

 そして肩に掛けていた鞄を下ろし、ダイニングテーブルの上に置く。


「……!?」


 一月は、ダイニングテーブルの上に置かれているクマのマスコットに視線を向けた。クマのマスコットは体の部分が茶色で、目は小さな黒いビーズで作られている。口はギリシャ文字の『ω』のような形をしていた。鞄や携帯電話にぶらさげるくらいの大きさの、ミニサイズのマスコットだ。


「これって……?」


 手に取ってみて、一月は確信した。このクマのマスコットは、小学生の頃に琴音から貰った、彼女の手作りの物。大切にしていたが、何年も前に失くしてしまった筈だった。


(どうしてこれが、ここに……)


「掃除してたらね、どこからか出てきたのよ」


 疑問を声に出す前に、一月の母が答えた。


「そのマスコット、一月が小学生の頃に琴音ちゃんから貰った物よね……?」


 母の言葉に答えずに、一月は手の平の上のマスコットに視線を向ける。これを琴音から貰った頃は、彼女は生きていた。元気だった。

 だけどもう、彼女は生きていない。


「……」


 一月は無言でマスコットを見つめる。

 彼女の命日の今日に、彼女から貰った物が出てくる。言いようの無い皮肉さを感じた。


「一月、琴音ちゃんの事は……もう忘れなさい」


 母の口からその言葉が発せられた。命令とも忠告とも解釈出来る言葉だった。


「え……?」


 振り向き、一月はたった一文字で返事を返す。


「担任の先生から電話があったの。一月君はクラスに馴染もうとしないで、いつも一人でいるんですって……」


「……」


「一月の気持ちは分かる。琴音ちゃんの事は、本当に気の毒だったと思うわ」


 一月の母は、二年経った今でも琴音の事を引きずっている息子が心配だった。親友を亡くして以来、息子は火が消えたように人が変わってしまった。

 殆ど無口になり、すっかり笑わなくなり、小学校の頃から大好きだった剣道もやめてしまった。そんな彼を見ているのが、不憫で堪らなかった。どうにかして、彼を救いたかった。


「でも、このままそうやって後ろ向きに生きてても、あなたは幸せになんて……」


「母さんに僕の気持ちは分からないよ」


 抑揚を欠いた冷淡な口調。母親の哀願の言葉を、一月は一言で断ち切った。


「それに、僕はきっと……もう一生幸せになんてなれないと思う」


 続けてそう言うと、一月はマスコットをポケットに押し込み、再び玄関へと向かう。


「出掛けてくる」


 母に背中を向け、一月は一言だけ言った。


「あ、一月……!!」


 返事は返ってこなかった。代わりに玄関の扉を閉める音が響いた。

 台所に一人残された一月の母は、大きくため息をついた。彼女の表情は、悲しみと無力感で満たされていた。


「誰かあの子を、一月を救ってあげて……」


 無力感と悲しみに全身を覆い尽くされ、いつのまにか、口からそんな言葉が発せられた。


《たすけて……あげようか?》


「!?」


 突然のその声に、母はビクッと身を震わせた。

 今現在、この家の中には自分以外の者は誰もいない筈だった。


《いつきを……たすけてあげようか?》


 小学生くらいの、幼い少女の声である。


「誰!? 一体、誰なの……!?」 


 居間を見渡すが、声の主は分からなかった。


 それから数十秒。その少女の声が一月の母に語りかけてくることはもう無かった。

 ――気のせい? それとも……幻聴? 一月の母はそう思うことにして、再び夕食の準備へと取り掛かった。



  ◎  ◎  ◎



 九月二十四日、午後五時半。


 金雀枝一月は、鵲村のある不気味な廃屋の前に立っていた。木造の、一階建ての廃屋だ。

 窓ガラスは割れていて、壁や屋根は目に見えて老朽化している。廃屋を囲むブロック塀は至る所にヒビが入っていて、手入れされていない庭は雑草が繁茂していた。さらに植えられた木々が大きく枝を伸ばし、無数の葉をつけている。そのせいで、見るからに庭や家への日当たりが悪そうだ。恐らく湿った場所を好む虫には絶好の環境なのだろう。玄関に続く道に敷き詰められた敷石の上には、ムカデやワラジムシといった、視界に入るだけでも人間の不快感を催す虫が這っている。

 正しく、ホラー映画にでも出てきそうな雰囲気の家だ。

 ひとたび地震でも起これば、すぐにでも倒壊しそうな廃屋。建物を命ある物として扱うなら、この廃屋は命を失った、すなわち死んだ建物だった。

 表札には『秋崎』とある。ここが、生前の秋崎琴音が祖母と二人で暮らしていた家だ。今現在この家は空き屋。つまりここに住んでいる人間はいない。

 住むどころか、村の者は誰一人としてこの家に寄り着こうとはしなかった。

 その理由は、二年前からこの村中に広まったある噂が原因だ。

 

 琴音が殺された事件、『女子中学生変死事件』が起こってから、この家は『呪われた家』と呼ばれるようになった。この家には、惨殺された少女の怨霊が宿っていて、家を訪れる者を例外なく呪い殺すのだという。さらに、少女の霊は自分が受けた痛みを他人に味わわせようと、呪い殺した者の腹を裂くらしい。

 これらはあくまで、ただの『噂』に過ぎない事だ。

 しかし、鵲村には死者の残留思念、つまり死者がこの世に残した想いを重んじる風習がある。他にも、死者を愚弄する者には祟りがあるという言い伝えもあるのだ。故に誰一人、自分から進んでこの『呪われた家』に近づこうとする者はいなかった。(ただし、一月の知る限りでは、だが……)。


 そして今正に、一月はこの『呪われた家』に足を踏み入れようとしていた。

 恐れが無い、と言えば嘘になる。しかし、恐れよりも寧ろ、真実を知りたいという気持ちの方が強かった。

 二年前の今日、琴音はどうして殺されたのか。彼女を殺した犯人は、一体誰なのか。


 目の前の不気味な家、『秋崎の廃屋』に、何か手掛かりがあるのかも知れなかった。一月には最早、引き下がるつもりは無かった。

 意を決して、一月は眼前の廃屋へと足を進め始めた。

 彼の足が廃屋の敷地内に届こうとしたその時、後ろから聞き慣れない少女の声が聞こえた。


《だめ……その家に入ったら、だめ……》


 一月ははっとして振り向いた。自分の後ろには――誰もいない。


「……っ……」


 今の少女の声、気のせいだろうか? 或いは、この『呪われた家』に無意識に恐れを抱いていて、その恐れの念が発した幻聴なのか。

 一月は踵を返し、『呪われた家』に向き直る。そして彼は、家の入口へと歩を進め始めた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る