第17話

糸島は家についた。ついた、といっても前のマンションと同じところではない。駅では1つ学校よりで、以前より部屋は狭い。1Kというらしい。本来は1人暮らしで住む部屋だ。今は唯香と2人で住んでいる。

「ただいま」

鍵を開け、扉をあける。奥から声が聞こえてきた。

「おかえり、兄貴。遅かったね。今日打ち合わせだけじゃなかったの?」

「ああ、一緒に働く仲間とね、少しあってさ」

「ふーん」

唯香は不満げな顔をしている。

「女とでもあってたんじゃないの」

そんな余裕はないことを唯香も理解しているはずだ。

でも、唯香の傷ついた心がそう言わせてしまうのだろうか。





あの夜、家族は崩壊した。







唯香から電話があり、糸島は駆けつけた。

唯香は靴も履かず、ベンチで縮こまっていた。ブルブルと生まれたての鹿のように震えている。携帯電話をまるで宝物のように、誰にも取られたくないと言っているかのように大事に両腕で抱え込んでいる。

糸島の顔が見えると唯香の表情がパッと明るくなり、目から涙がこぼれた。唯香の隣までいくと、がっしりと抱きしめられ、完全にホールドされた。動けなくなった。

「おにぃ、もう嫌。助けてよう」

感情的になっている唯香からは何も聞き出せそうにない。糸島は泣き止むまで待つことにした。


「ん、ありがとう」

10分ほど経っただろうか。唯香が泣き止み、糸島の胸に押し付けていた顔を離した。じっと糸島の目を見る唯香。

「この経緯を話してくれないか?」

やっと本題に入ることができる。ここは店内だ。この様子だけみるとまるで2人が恋人で痴情のもつれの結果、彼女を泣かせた男、というようにも見えなくはない。

「うん…」

唯香は頷くと、俯いたまま話し始めた。




夕方17時。唯香は自室に着き、カバンを下ろした。

「汗掻いちゃった、あっつ」

7月。外で15分も歩いていれば汗をかくのは仕方のないことである。唯香はすぐにシャワーを浴びに浴室に向かおうと自室のドアを開けようとする。すると、携帯電話が鳴り響いた。着信。

「こんな時間に誰よ」

ベッドの上にある携帯電話をみる。相手は母親。

なんでこんな時間に電話してくるの?唯香は少し不思議に思ったが、電話を取らない理由にはならない。とりあえず通話ボタンを押す。

「あ、唯香?今帰ったばかりよね」

「そうだけど、なに?なんか用?」

少し不機嫌に言葉を返す。家庭を振り返らず、外で遊ぶばかりの母親のことを唯香はあまり好きになれなかった。自宅のキッチンはたまに兄が簡単なものを作るときか、気が向いたときに唯香がごく稀に使用するだけ。看護師という仕事がきついのはよくわかっているのだが、家をおろそかにしていいという理由にはならない。

「ご飯ご馳走するけどこない?」

「行かない」

「ええ、今日は博樹は遅いって聞いたわよ。久々に親子でご飯食べましょうよ」

そうなんだ。兄貴、今日遅いんだ。1人で食べるの…いやだな。

「…わかった。どこに向かえばいいの?」

「やった!ありがとう。駅前でいいわよ。18時でいい?」

「わかった」

悠長にシャワーを浴びている時間はなさそう。唯香は電話を切り、すぐにシャワー室に向かった。


駅に着くと車が一台停まっているのが見えた。知らない車だ。しかし、その車に母親が寄りかかっている。車の運転席の窓を開けて、男の人と話しているのが見える。逆ナンだろうか。唯香は自分と待ち合わせしているのにそのような行動は謹んで欲しいと切実に思うのであった。

「あ、唯香。遅かったわね」

「遅いもなにも、集合5分前なんだけど」

「あ、ほんと?あぁ、ごめんごめん」

謝る気もないのに、両手を合わせ頭を下げる母。

「お、やっと唯香ちゃんきたんだ」

話しかけてきたのは車の運転席に座っている男。逆ナンの男に唯香のことを教えたのだろうか。

唯香は不機嫌に母親の手を引き、

「いこ」

と駅の改札に向かおうとした。男有りの会食なんて嫌だ。気まずくなる。

「なに言っての唯香。今日は仁ちゃんとも一緒に食べるのよ?」

…。

一瞬、唯香の思考は停止した。母親が何を言っているのか理解できなかった。仁と呼ばれた男の人は目を丸くして

「おいおい、愛理、何も話してないのかよ」

「いや、言ったはずなんだけど…、言ってなかったかも」

唯香がやっとのことで出てきた言葉が

「嫌、うそついたんだお母さん」

「嘘なんて言ってないわよ、言わなかっただけ」

「同じよ!知ってたらこなかったのに」

拳に力が入る。いつだってそうだ。この人は子供のことを道具や付き人ぐらいにしか思っていない。きっと愛してなんかない。

「まぁまぁ、唯香ちゃん。ご飯食べるだけだからさ、行こうよ。楽しませてあげるから」

男はケラケラと笑いながら、唯香の肩を軽く叩く。

今日、家には兄貴は帰りが遅く、まだ帰ってきてないだろう。

…。

「行けばいいんでしょ?」

家に帰っても寂しい、なら、まだこっちにいた方がいいかもしれない。1人でご飯を食べるよりはいいかもしれない。

早くこんな状況になるって知っていたら、朱莉や優衣ちゃんと約束してご飯でも行ってたのに。

「いいねー、唯香ちゃん。早く乗って」

「唯香、何が食べたい?少し離れたところでもいいわよ」

催促されるがままに、唯香は車に乗った。せめて、こいつらを振り回してやろう。

「じゃあ焼肉がいい」



1人8000円の高級コースを楽しみ、唯香は少し機嫌が良くなっていた。1番高いコースじゃないと帰る。そう言うと母親の顔は少し曇ったが、男は軽く承諾してくれた。

「さてと、そろそろ行こうか。いいんよね?愛理?」

「いいわよ。そのために来たんでしょ」

大人2人の話している内容がわからない。しかし、唯香はあとは帰るだけだ。知らなくても問題ない。

男の車が発進する。しかし、来た道を戻らず、途中で曲がった。コンビニでも行くのかな?

「唯香、あんた彼氏いたっけ」

母親からの突然の質問。今までの流れとは全く関係ないように唯香は感じたので、怪訝な顔をした。

「何?いきなり。中1のときは3ヶ月だけどいたよ」

「やったの?」

「やったの?って?…あぁ、やってないよ。つまんないやつだったし」

「そうなの、まだ処女だったのね、意外」

普通に驚いた顔をした母親。ふしだらな女だと唯香は思われていたようだ。

唯香は少し苛立ちを覚えた。

あんたと一緒にしないでよ。簡単に体を許そうとは思わない。

「おーい、親子で楽しく話してるところ悪いんだけどさ、愛理、あっこでいいん?」

「ん」

「りょうかい、そろそろ着くわ」

駅は見えてこない。イーサンが少し遠くに見えるが、今どこを走っているのかは唯香にはわからなかった。

駅に行くのじゃないの?

ホテルの駐車場に入った。なんでホテル?

そういえば、”やってる”と噂の女子たちのグループの奴らがラブホ、って話してたことを思い出した。ホテルの前に料金表があるとかないとか。

確か、料金表みたいなのは見えた。どういうこと?なんでここに?

「降りて、唯香」

「説明してよ、なんでこんなとこにいんの?」

「とりあえず降りてくれない?鍵閉めたいんだけど」

車の外から男に腕を引っ張られ、外に出た。先ほどまで出ていた夕焼けはなくなり、夜の黒の世界が空を支配していた。そして、初夏だというのに外は少し寒い。

「何すんのよ」

抵抗する唯香。唯香は自分がただここに呼ばれ、母を待つだけではない、と感じ取っていた。だからこそ、ホテルに行きたくない。入りたくない。

「歩いて、唯香」

「なんで?行かなくていいじゃん。車の中で待っている。それでダメなの?」

この唯香の質問に否定する、という意味はつまりこの男の相手をさせられる、ということを意味する。そう唯香は考えていた。母親は正直好きじゃないし、母親の役目を果たしていない唯香の母親は社会的にはクズだと思っている。しかし、自分の子供に男の相手をさせる、というところまで堕ちているとはおもっていない。正確には思いたくなかった。

男が唯香の両肩を掴む。

「まぁ、最近は中学生で初体験することって多いでしょ?いいじゃん、友達に自慢できるよ」

…。聞きたくない言葉を男の言葉から聞こえた気がした。唯香の頭は理解することを拒否した。

母が唯香の右手を掴み、唯香の身長まで屈み、耳元でこう言う。

「仁ちゃんがね、親子丼が食べたいんだって。唯香、手伝ってくれない?何か好きなもの買ってあげるから」





ココニイチャダメダ。





後ろにいる男の脇に思いっきりエルボーを当てた。男は「うっ」と声をあげる。力が緩む。

母は驚いた顔をしている。母親の顔をみたのは2度目だ。元父が母を拒絶したとき以来。

「離してっ」

袖に掴まっている母の手を振りほどこうと、右腕全体を大きく振った。

「止めなさい唯香!」

母の大きな声を聞いたのはいつ以来だろうか。

仕方なく、上着を脱ぎ、掴まれていた服を置いて、唯香は走り出した。

とりあえずここから逃げないと。

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