第7話
時刻は3時。外からしんしんと雨音が聞こえる。
季節は梅雨。6月上旬。
糸島は机から離れないでいる。うーんと首を捻り、入力しては消去し、また入力しては消去と何度も繰り返していた。行き詰まっているのである。
「これだけの質の高いものは作ったことないしな…」
しかし、断るわけにはいかない。逆に言うと今回の仕事を見事完遂させた暁には、仕事の幅が広がることも意味するのである。
久し振りに本棚の奥から引っ張ってきたプログラミングの本を開く。ぎっしりと書かれた文章を読み直しに入った。
雨音が強くなってきている。糸島はコーヒーを啜ろうとコップに手を伸ばした。しかし、マグカップの中に何も入っていないことに気がつく。ふぅ、とため息をつき、マグカップを手にした。
その時、枕元で充電中のタブレットに通知が来ていることにその時気がついた。
「ん?確認し忘れか?」
昨日帰宅後にすぐにメールはチェックしていた。ということは、夜にメールが来たのか。
マグカップを置き、通知を確認する。メールが来ていた。それも、先日終えたばかりの仕事の相手から。メールを開いて読む。
「ーっ、そんなっ…」
要約すると、ゲームにバグが発生したため、エンジンから全てバグを追うので近日出勤せよ、とのことである。
「…今日の夜にでもいくか…」
小さい声で呟いた。その時の糸島の後ろ姿は、まるで仕事に疲れたサラリーマンのようであった。
糸島は目をさます。どうやら机で寝てしまったようである。右腕の側にはタブレットがあった。送信完了と書いてある。どうやら、メールはきちんと返信していたようだ。
一回伸びをして時計を確認する。時刻は6時半を示していた。
「ーおい!寝坊じゃないか」
急いで部屋を出る。今日は朝食はいい。時間がない。
洗面台に駆け足で向かい、歯を磨く。今日の予定は…生徒会はない。だから、放課後に会社に向かい、バグを追う作業だけか。学校の宿題は…あ、終わっていない。
歯磨きを終わらせ、洗顔し、すぐに制服に着替えた。時刻は7時。なんとか1本早い電車には歩いて間に合う時間である。
「宿題終わってないから、早めに学校行ってするか」
玄関に向かう。そこで妹君のことを思い出した。
「すまぁん!寝坊したぁ!起こせなくてごめぇん!」
大声で家の中に向かって叫ぶ。当然返事は返ってこない。
だが、糸島は玄関のドアを開けて出て行った。
マンションの下にいくと、そこには見覚えのある後ろ姿の女子生徒がいた。前に鉢合わせしたのでこの時間にマンションを出ることを知っている。正体は門司だ。
少し早足で門司の横をすり抜けた。もちろん、急いでいるように。
「あ、糸島くん。今登校?」
糸島の意図を知ってか知らずか、急いでいる素振りをしている糸島に、門司は声をかけてきた。
これは、糸島にとっても想定外の出来事である。
「あー、まあ、今登校」
と、糸島も律儀に返事を返してしまった。
「そうなの。私も今からだから、一緒に行かない?急いでも7時5分の電車には間に合わなさそうだし」
実際その通りである。そして、その次の7時15分発の電車には普通に間に合う。
「い、いや、朝、ご飯食べてなくてさ、コンビニ寄ろうかと」
このように、少しまともに会話ができるようになったのは、門司という人間に糸島が慣れてきたためであるところが大きい。しかし、
「駅から学校までの道にもコンビニあるよ?そこじゃだめなの?」
このように、門司という人間も糸島という面倒なコミュ障人間とのコミュニケーションに慣れつつあった。以前、糸島は門司からノートを借りたり、生徒会会議の後に一緒に帰ったりしている。その出来事があったせいでどうやら糸島と仲良くなれた、と考えているらしい。
「…いい。わかった」
「じゃあ、一緒にいこ」
糸島は、押しに弱い人間であることがこの出来事からわかってもらえただろうか。
お昼時になっても一向に雨は止む気配がない。
廊下の窓から、雨がしんしんと降り続いているのが確認できた。
時間は昼休みである。購買で焼きそばパンとコーヒー牛乳を購入した糸島は、屋上への階段を上がろうとしていた。
「あれ?糸島くん、どこ行こうとしているの?」
この声の主は門司だ。朝も聞いたため、条件反射のように人物を特定してしまった。
よかった。まだ、階段を上がる前である。これならばなんとでも言い訳ができる。
「あぁ、いやさ、ボーとしてて」
「そ、そう?」
「じゃ、そういうことで」
話を区切って階段を下る。踊り場までいくと、先ほどいた場所を振り返った。もう門司の姿はない。廊下をキョロキョロと見渡し、誰もこっちをみていないと確認すると、急ぎ足で階段を上っていった。なんだよ、今日エンカウント率高すぎるだろう。しかし、やっと1人の時間がやってくる。まあ残り30分だけどな。
屋上のドアを開ける。しかし、そこにはエンカウント率は低いながら、最強の一撃を持つ鬼(会長)が現れた。
「こんにちは、糸島くん」
なんだよ。今日不幸の連続じゃないかよ。
「ここにいれば、会えると思って。…どうしたのですか?そんなに嫌そうな顔をして」
ニコニコとした微笑を顔に貼り付けている。なんだっけ?アルカイックスマイルだっけ?そんな感じ。
「い、いやぁ、できれば会いたくなかったなぁ…なんて」
「へぇ、そうですか」
クスクスと笑っている。まるで魔王だ。おぉ、我ながらいいセンスかもしれない。これからこの人のことは魔王と呼ぼう。迂闊に口に出すと怒られそう、いや、怒られるだけならいいかもしれない。〇されそう…。
笑うのを止め、笑みを顔に貼り付けた表情で会長、いや、魔王はいった。
「糸島くん、部活は入っていませんよね?」
「は、はい。部活は入っていません」
「外部の部活、クラブには入っていますか?」
ここでゲームのことを話すのは不味い。一応、フリーで働いているとはいえ、理解のない方から見れば学生のアルバイトに見えてしまう可能性がある。仮にも生徒会に所属しているので、このようなことが学校側にバレると非常に不味い。
「…いえ。何も」
「今、間がありましたね。まぁ、いいでしょう。今回は深く追求しません」
よかった…。この魔王の手にかかってしまえば、すぐにバレてしまいそうだ。
「と、いうことは、今週の土曜日は暇ですね?」
…全国の男子諸君に言いたい。2人きりのこの状況。しかも相手は女子。端から聞けば、デートのお誘いに聞こえなくもないだろう。しかし、勘違いはしてはいけない。相手をよく見ろ。百戦錬磨の魔王である。デートなわけないだろう。
「ええ」
「実は…」
なんだ、ためるのか。もったり振るな。1人の時間が減るだろ。
「…」
「…地域でボランティアがあります。今週の土曜日ですよ。しかし、人数が足りないみたいなのです。そこでうちの学校の生徒に手伝って欲しいとのことらしいです。先ほど職員室で先生から連絡がありました」
「それで、俺に声をかけた…と?」
「そうです。生徒会メンバーは結構皆さん部活熱心です。そこで、部活に入っていない糸島くんと門司さんに行ってきて貰おうかと思った次第です」
「ま、…会長は行かないのですか?」
「ま?…私は演劇部に入っています。土曜にはその関連で予定がありまして」
おいおい、よりによって門司と2人なのか。糸島は心の中で頭を抱えた。休日も一緒だとは。
「…2人でいいのですか?もっといった方がいいのではないですか?」
最後の抵抗である。
「いえ、学校としては『学校の生徒が参加した』という証拠が欲しいだけです。ですので、人数はいr」
「じゃあ、俺1人、もしくは門司1人でもいいじゃないですか。その理論だと」
よし、矛盾点をついたぞ。必ずしも2人で行く必要はない、ということにもなる。これで、休日は新しい仕事を進める時間にできる。
「…」
魔王が難しい表情をしている。しかし、口元は笑っている。まるでゲームで好敵手を見つけて嬉しがっている表情のようだ。
「…今朝、門司さんと一緒に登校していたみたいですね」
み、見られていたのか。
「それに、先日の生徒会会議の後にも一緒に帰っていたみたいですし。門司さんと仲がいいのかと思いまして」
変な方向に2人の仲を解釈されている。これは不味い。
「いや、そんなことないですよ」
「そんなこと言わないであげてください。門司さんがかわいそうです」
よよよと、目を腕で隠し、泣き真似をする魔王。あの2年庶務あたりだと騙されるか、萌え死ぬかのどちらかであろう。無論、糸島はフラストレーションが溜まっただけである。
「…」
「そんな目で見ないでくださいよ。仮にも女の子が泣いているのですよ?」
「泣いている女の子は、そんな風に微笑を浮かべませんし、表情の変化が早すぎです」
「…まあ、いいです。これは会長命令です。門司さんとともにボランティアにいってください。そのあと、月曜日に活動内容を報告書にまとめて提出してください」
会長命令と言われると、もう断れない。
せめて書類は門司に書かせようと決意する糸島であった。
駅を出ると、もうすでに暗かった。それもそのはずである。時刻は22時をまわっている。
お腹が鳴る。夕飯は食べていない。しかし、その右手にはコンビニのビニール袋があった。
「時間、かからなかったな」
結局、バグは糸島の所為ではなかった。仮にバグが糸島の所為ではあったならば、今日の日付のうちに家に帰れなかっただろう。そういう意味ではラッキーだったな。
マンションの中に入る。家の鍵を探しながらエレベーターを待つ。そういえば、携帯見てなかったな…
エレベーターがつく。中に入って携帯を確認すると、通知が15件もきていた。
思わず、誰もいないエレベーターの中で後ずさりをする。通知の主はほとんどが妹からだった。
うっわー、怒っているやつや。
家のドアを開ける。すると、ドタドタと家の奥から音を鳴らしながら、唯香が玄関にやってきた。
「ねぇ、色々言いたいことあんだけど」
「…取り敢えず、家の中に入ってもいいか?」
「まず、なんで朝起こさなかったの?おかげで遅刻したし!せんせーにめっちゃ怒られたし!」
知るかそんなもん。しかし言い返さない。今言い返すと火に油を注いだように激情するのが目に見えている。
「で、今日お母さん夜勤。知らなかったの?別に知らないのはいいけどさ、遅くなるなら連絡してよね。メールの一通、メッセの1つぐらいさ。おかげでご飯食べてないからお腹空きすぎて死ぬかと思ったわ」
◯ねばよかったのにな。残念。
「何かいったら?」
「はいはーい、俺が悪うございましたー」
言いつつ、自分の部屋に向かう。
「ねぇ、ご飯は?」
「普通に自分で買いに行けばよかっただろ。自分で作るとかさ」
「お金は母さんからもらってないし、料理はできないのあんた知ってんでしょ?」
実の兄にこの言い草である。これは酷い。誰か早くもらってくれないかなぁ。家出てけよ。
「じゃあ、俺が買ってきたやつやるから、それでいいだろ」
と、さっきコンビニで買ってきた弁当を渡す。
「…あんがと。兄貴の分は?」
「俺は腹減ってないから、サンドイッチでいいよ」
嘘だ。めちゃくちゃ腹減っている。しかし、すぐにでも今日は寝たい気分だ。かなり今日は疲れている。
「…風呂は沸いてんだよな?さすがに」
唯香に確認したが、もう自室に引きこもったのか、全く返答が聞こえない。
風呂ももういいか。朝入ろう。それよりも寝よう。今すぐ寝よう。
全身がけだるくなってきた。ベットに突っ伏す。
1分後、糸島の意識はすでに夢の中に飛んで行ってしまっていた。
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