第9話
レオーネの陣の隅に、異形の影が単騎で立っていた。
男である。おそらく顔は整っているが化粧をしていて分かりにくい。と言っても女のそれとは違い、顎から額に至るまで顔中に太い血管でも書き足すような赤い線を引いている。長い黒髪はざんばらになって肩にまでかかっていた。鎧も兜を身につけず、それどころか上半身は切傷だらけの裸体を晒している。その代わりと言わんばかりに跨っている葦毛の美しい馬は、頭から蹄まで全身を鎧で覆うように武装をしていた。
まさに異形である。男も馬も体格は平均的というのに、酷く目立っていた。
近くに布陣している部隊から男の耳へ声が聞こえた。「奴は一体何者だ」と。「なんでも単騎でやって来て、助太刀するとか言ったらしい」と返答はそう聞こえた。
彼には名も義も欲も何もが無かった。強いて言うならば、偶然通りがかったそこで戦の気配がしたから興味があった。
何故明らかに負けるであろう軍に乱入したかと言えば、寡兵に大軍を差し向けるのは彼の美意識によれば美しくないからだった。
「さて、どうだゲイル。そろそろ俺と来たことを後悔したか?」
彼が問いかけるとゲイルと呼ばれた馬は高らかに答えるように嘶いた。
「ハッハ。お前も俺に劣らず変わり者よな」
彼は腰につけていた酒瓶を返してゲイルの頭にかけた。ゲイルは喜ぶようにまた嘶きを上げる。
「大将首はあの大軍のなかだろうが……」
彼はリンドヴルム軍の本隊から視線を滑らせた。視界の先にはまるで全身を血で染めたような紅色の騎馬部隊。
「ああ、美しいなありゃあ。大陸最強の
戦場では下手に目立った者は討ち取られるのが常。だが、規格外の派手さは実績に裏づけられた自信を感じさせ、敵味方問わず畏怖させる。
「やっぱ戦うならアッチだよな、ゲイル」
紅備えを見据え、男は恐れるどころか快活に笑った。
ヴァイスは布陣した8000の兵を前に、軍議の時とは打って変わり、心を落ち着かせていた。
「皆、よく聞け!」
傍らのクラウスが見守る中、ヴァイスは常日頃のジークの言葉を思い出しながら声を張り上げた。
「我らは彼の者共に大陸の王者らしく慈悲を以って接してきた! 侵略も蹂躙もせず、ただ奴らの繁栄を見守ってきた! その恩を忘れ、私欲のために仇を返したは奴らぞ! リンドヴルムの誇り、恐れを知らぬ
瞬間、8000の兵が怒号のような声を上げた。
地面が揺れるように轟く。「義は我らに有り!」「義は我らに有り!」と兵士たちは猛っている。
クラウスは、驚嘆で固まっていた。
「……まさしく、ソーマ様の生き写し。王子殿下と共にあればこそ目立たぬが、この御仁もまさしく龍の子よ」
自分の初陣の頃はどうだっただろう。クラウスはそう思い返しつつ、暫くヴァイスの将来に思いを馳せていた。
ヴァイスの陣に続きジークの陣からも声が上がった。
その声を遠くに聞きながら、ソルは愛馬グラウルングの上で心穏やかに彼の頭を撫でていた。
彼が身に纏うのは、数多の傷に塗れた、代々受け継がれてきた紅染めの兜と鎧。リヒトから下賜された名槍ブラッドリーもまた紅の
人呼んで紅備えの紅騎将。全ての戦の一番槍を許された証である紅に塗れた彼の下には、彼自身が選び抜き練兵を行った勇猛な騎馬隊。
紅の兜を許されるのは紅騎将のみだが、彼らもまた、紅一色の鎧を与えられている。その誇りを身につけ、騎馬隊の兵たちの顔はいかにも威風堂々としており、1人失えば熟練の兵10人を失うと同等と言われるそのいずれもが名のある名将のようである。
グラウルングは心地良さそうに目を細めていた。戦いの前には、ソルにとって戦友でもある彼をいつも以上に撫でてやるのがソルの習慣だった。
「将軍! 大督将殿の陣から狼煙が上がりました!」
騎兵の一人がそう言った。グラウルングを撫でる手を止めた。
騎兵たちを見渡せば、皆、一様に心身の準備が整っているのを感じさせる。翻り、敵陣を睨む。
ソルは手綱を思い切り引いた。
グラウルングが嘶きと共に上半身を持ち上げる。
ブラッドリーの穂先を天高く掲げ、叫んだ。
「ーー我ら紅備え、合戦の
空気を震わす兵たちの咆哮。
大地を揺るがす蹄の音。
「我が名は紅騎将ソル・ユニコーン! 我が首獲って末代までの手柄とせよ!」
紅騎隊の最大の特徴は紅騎将自らが最前を駆けることである。
矢のように組まれた陣形は一糸乱れず敵陣に突き刺さる。
囲い込め、と敵の声が響いた。
包囲を狙った歩兵の網を意にも介さず、紅の巨大な矢は敵本隊に向けて突っ込む。
多勢で組まれた
ブラッドリーを振るえばその度10の兵が倒れた。
突撃は止まらない。
グラウルングに頭からぶつかった敵の馬は鍛え抜かれたその鉄のような身体に皆鼻を折られ倒れた。
四方からソルに挑んだ兵士たちも串焼きのように纏めて貫かれた。
衝く。
払う。
振るう。
突く。
突く。
突く。
穂先の血を振り払う。
口元に飛んだ返り血を舐めとると鼓動が激しく高鳴る。
悲鳴を黙らせ、
嘶きを黙らせ、
息の根を黙らせる。
突く。
空から降りそそぐ矢の雨。
血の滴る死体の傘を差す。
断末魔は聞かず、ただ風を切る音だけがソルの耳に届いた。
敵の大将の張った本陣を目前に、ようやく動きを止めた時点で紅騎兵はただの一人も陣形から
「誇り高きレオーネ人よ、我が声を聞け!」
動きを止めたソルの周囲には敵兵が囲っているが、彼の通り道が鮮やかな血の紅で染まっていることに慄き固まっていた。
「あの本陣で、貴殿らの奮戦を他所に自身で槍も持たぬのがお主らの大将だ! 力の差を知り逃散するものは追わぬ! しかしこの戦局にあって未だその気概を失わず、我に挑む勇者はあるか!」
グラウルングが一際大きな嘶きを上げると敵兵の多くは無様にも逃げ出す者が多くでた。
その時、ソルの視界に奇妙なものが映った。
逃散する兵から逆走し向かってきた者があったのである。
見るからに異形の男である。
男は高らかに良く通る声で、吟ずるように躍り出る。
「天に名高き紅騎将! 挑む機会があるならばァ! 挑み死するも我の性!」
その様に呆気に取られたソルが、はっとなって視線を走らせると、逃散しかけていた兵たちも驚きで足を止めていた。
「馬、人、一騎に打ち勝てば! 天下無双も我のこと! 元より捨てたこの命! 一世一代大博打!」
吟じながら、手に持つ片刃の長剣をその場で振りかざす。
「さあさ皆様お立ち会いお立ち会い! 流れ者のラルフがこれより死に花咲かせに参る!」
ラルフと名乗った男が踊るようにソルへと斬りかかる。
ブラッドリーの柄で受け止めた。
いなすようにしてソルの後方へ重心を崩させる。
無駄のない動作で方向転換し一突き。
ラルフは曲芸のような動きで馬上から半身を投げ出し穂先を剣で擦り上げ、辛うじて躱した。
再び互いが向き直った。両者息の一つも乱してはいない。
この間僅か数秒。打ち合ったのもたった二合。
ただそれだけのことが、確実に敵軍を盛り上げつつあることをソルは直感的に気づいていた。
僅かな攻防の興奮で、ソルの身体は震えていた。天才と持て囃されたソルが生まれて初めて、戦場で互角の者と出会った武者震いであった。
「もう楽しいねェ紅騎将殿! 遠慮せず紅騎兵たちを使ってもいいんだぜ?」
「莫迦を申すな。挑戦を受けた相手に無礼を働くは紅騎将の恥。それにーー」
ソルは、酷く喜びに満ちた表情で笑った。
「ーーただ我がため、何人にもこの一騎打ちの邪魔をさせるつもりは無い」
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