【1】なぜプロットでは原稿枚数が予測しづらいのか
吾奏も小説を書き始めた当初、まずプロットを念入りに作って小説の全体像を<設計>していました。たとえば、こんな具合です。
~プロットの例(ここから)~
アキバ・リミテッド・リアリティ
第1節「ゼラチンの気配」
聡美と真尋
ネカフェ:聡美と真尋の前夜/神田:少女に職務質問する網安官を目撃、隠れる真尋~真尋と岩戸が車中にて合流/シロノリ拉致~聡美はバイト先へ(無頼と邂逅の後)雑居ビルでお着替え、メンバーと面通し(画像認識による遊び)/神田:(森乃内1:画像認識と倒壊の動画)車中で真尋と岩戸がタッグを組む……条件として相棒の保護を希望/雑居ビル:マツゲの謎を麻里亜に説明しつつ、外へ出る聡美。無頼にシュッ……(コミカルに)……雑居ビルに蠢く黒装束
第2節「網安官vsOARG」
破滅のゲーム
車中:岩戸と真尋、潜入捜査について。<派手な格好をさせる理由>/焼きそばショップ:「ARジョークアプリ(焼きそばを青に塗りつぶす)(味噌汁のビジュアルを与えたコップの水)」<網安が守るのは現実>/車中:大義とIDSについて/焼きそばショップ:「なぜ大仰なコスプレでなければダメなのか」「客(通行人)はあくまで消費する側。店員は夢を売る側」大義、IDSに反応。/車中:OARGの危険性。動画で解説。リソースの少なさ。真尋、gelatin対策は一人の仕事と覚悟。/街角:無頼、ゲーマーを追う…大義と会話/蝶子と風太/老師と真矢/風太と蝶子が遊ぶ~無頼の逮捕劇/車中:真尋「いざというときの政治力」/実行本部:実行委員会/万世橋:真尋と岩戸、万世橋の信号待ちにて美雪を語る。実験区画へ進入……/メインステージ:AQV登場、カウントダウン。パイロ系のメインコンソール。秋葉原交番。実験開始寸前。「シロノリ行方知れず」。
………………(この調子で第10節まで続く)
~プロットの例(ここまで)~
しかし、出来上がったプロットを設計図として小説を書き始めた結果、原稿用紙四千枚超えという洒落にならない超大作が完成してしまいました orz 。世の新人公募はほとんどが三百~七百枚で上限を設定していますから、どうにもならないわけです。
この作品は講談社が主催していたネット小説公募サイト『プロジェクト・アマテラス』に掲載していたため、たまたま名のある編集者様に読んでいただける機会を得たのですが……「とにかく五百枚ぐらいで勝負しないと」とアドバイスされ、ぐぅの音も出ない次第でした。と同時に「面白さは保証する」と励ましていただき、勇気づけられもしたのですが――とにかく、枚数をどうにかしなければならない。
▶経験不足をいかに補うか
その作品(『アキバ*リミテッド*リアリティ』)は、私が初めて書き上げた長編小説でした。弱点はズバリ「経験不足」。どのパートにどれぐらいの描写が必要かといった、枚数に直結する<濃淡の感覚>が足らず、執筆してみなければ総分量を明かにできなかった。しかもミステリー形式だったために、一旦書き上げた後で削るということが到底不可能な内容になっていた。「枚数を削るにはキャラクターの数を減らすこと」と小説講座本には書かれていますが、キャラクターを一人減らせば、積み木を崩すように伏線と回収が不揃いになるという、がんじがらめの群像劇だったのです。
逆にプロットの段階で枚数が想像できるようにしておけば、プロットを足したり削ったりで作品を<設計>できたはずです。しかしプロットには<濃淡の感覚>が表れにくい。プロット通りに事が進むとも思えない。
また、プロットの中身にかかわらず「絶対五百枚に収める」といった努力目標を設定することにも無理があると感じていました。八百枚書かねば伝わらないことを五百枚に削った時、その三百枚は本当に不要だったのか。大事な場面が意味不明になったり、エピソードで語るべき内容を地の文の説明で済ませると読みづらくなったり、あるいはダイジェストのようになりはしないか。建物の設計図を無視して、施工時に柱を何本か減らすようなことをすれば倒壊するのは目に見えている。
やはり大事なのは、執筆に着手する前の<設計>だろうと思います。設計段階なら削ったり足したりが簡単にできる。しかしプロットは完成枚数が予測しづらい……もう少し確実な執筆手法はありえないものか?
そう考えた私は、出来上がった作品と事前のプロットを比較してみることにしました。
▶プロットには「二つの弱点」があった
完成品とプロットを読み比べてみると、プロットには二つの「弱点」があることがわかりました。ここに、私が思う代表的な弱点を二点あげておきます。
①プロットでは<場面設計>があいまい
私はアクションシーンを含む小説を書きたいので、地の文における場面描写にかなりの枚数を割かなければなりません。しかし一方で、喫茶店で会話するような場面では描写がほとんど不要になるのも事実です。そういった<場面設計>が、完成枚数にかなりの影響を及ぼす。
「主人公AとBの出会いは、高校の入学式だった」とプロットに書いたとして、しかしそれが講堂なのか、講堂までの道すがらなのか、あるいは式を終えて教室へ向かう最中なのか。他に何人ぐらい同級生が登場するのか。先生は? 出会いが入学式だったとして、それをわからせるために朝ベッドで目覚めるところから始めなくていいのか――そういった要素すべてが描写の分量に関わってくる。しかし、プロットにそこまで細かく書き込むことはしないだろうと思います。
②プロットでは<台詞設計>が皆無
小説における台詞は一言ずつ改行されるため、原稿用紙枚数に大きく影響します。しかしプロットに「どんな会話をして」ということを書き込んでも仕方が無い。実際に書いてみるしかないと考えるのが普通でしょう。
たとえば主人公AとヒロインBが出会う場面。それぞれに設定が幾つかあって、AとBはその要素すべてを冒頭でお互い理解した――とプロットに書いたとします。しかし、それより「如何に魅力的な出会い方をするか」が大事だろうし、その魅力は会話の質に依存していると考えられます。設定を練ったところで、会話のリズムまではプロットに書き起こせない。むしろ台詞を試作した後、また設定に立ち戻る勇気も必要でしょう。
……というわけで、小説を書いたことがある・書こうとした経験がある方ならば、原稿枚数を予測するために<場面設計><台詞設計>の両方が影響大であるということは(直感的にも)ご理解いただけると思います。
そして。
実はこの「2つの設計」こそが、映像作品における「シナリオ」の存在意義そのものであると、私は気がついたのです。
▶シナリオは「何に使われる」か
映像作品において価値を産み出すのは俳優、あるいはロケ地やセット(アニメの場合は絵・背景)です。シナリオはその青写真。監督やプロデューサーは経験を元に「この台詞をやらせるには腕のいい俳優が必要」「この場面はお金がかかるから削る」といった判断をしながら、撮影に突入することなく(つまり俳優や声優の拘束時間=ギャラを発生させず)何度も繰り返しシナリオを改稿します。
映像の現場で働いた経験を持たない方々には知られざる事実かもしれませんが、シナリオとは「俳優や声優のために台詞を記した書物」である一方、「作品がクランクインする前に予算やキャスティングを練り込むための設計図」として膨大に手直しされる<お金のかからない企画書>としての意味合いがとても強いのです(ライター1名の拘束で済めばギャラは安いもの)。
私はディレクターになる以前、映画プロデューサーとして働いていた時期があります。シナリオの改稿だけを2~3年もの間続けたオリジナル企画を、最終的に映像化したこともあります。そうした経験から「もしかしたら小説に対してもシナリオが企画書として機能するかもしれない」という考えに至りました。そういうわけで、私は2作目の長編小説にトライする前__まずプロットは作りますが、そこからいきなり小説を書き始めるのではなく__一歩手前の中間素材としてシナリオを書き起こしてみることにしました。
無論、この時点では「シナリオを元に小説を書いた時の最終形が原稿用紙何枚に膨らむか」という<膨張率>までは想定しきれておりせん。しかし、私なりに勝算がありました。
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