第5話 万病治療薬



 ある薬が開発された。その名も「万病治療薬」

 元々は服用するタイプだったが、今は散布型に改良され、地球上の大気全てに、その薬は混ぜ込まれている。早い話、息をしているだけで全ての病気や怪我が治る夢のような薬だ。

 当たり前に癌やエイズ、毎年違う病原体であるはずのインフルエンザまで、もっと言ってしまえば、老化すら、精神的な病さえも治してしまう。切断された腕だってあっという間に再生する。人間ではさすがに実験できなかったみたいだが、首と心臓の大怪我、つまり首の切断や胸部の貫通さえなければ、死なないらしい。つまり免疫と自己再生機能の爆発的向上だ。もう一度言おう、夢のような薬だ。

 副作用は無い。海水とそこらへんにある雑草を使えば、簡単に作れる。誰でも、とはいかないが、一般的な大学の研究設備があれば、作れる、と聞いた。灯台もと暗しとはまさにこのことだ。なぜ誰も思いつかなかったのか、不思議なほど簡単だそうだ。

 それはあっという間に世界中に広がった。開発者と開発会社の深海よりさらに深い善意により、誰にでも手を出せるほど格安の値段でだ。

 当たり前だが、世界中の医療機関はその役目を失った事になる。だが致し方ない。その医療機関の関係者ですら、というか真っ先に、その薬に手を出した訳だ。

 薬を飲むと、見える世界が変わる。これは「万病治療薬」発売当初の歌い文句にもなった言葉であるが、いかに普通の生活というモノで、心身共に様々な害的なにかに晒されてかに気づく。

 まず食事は水だけで事足りるようになる。肌に日光を当てて水を飲むだけで、必要最低限の栄養素を作る効能が薬に備わっている為、らしい。それも時々で十分な頻度だ。それでも最初の頃は飯を食べる。習慣的に。しかし食事による感情の変化はあまり感じなくなる。そういうと良い意味には聞こえないかもしれないが、そうじゃない。ずっと幸せなんだ。水だけだって、肉を腹一杯食べたって、同じぐらい。当たり前に体は痩せる。健康的に。羽のように軽やかになるんだ。

 そして初めて薬を飲んで驚くのは、いかに心へ負担を掛けていたかということだ。簡単にいうと、裕福な家庭に生まれ、素晴らしい家族や友人に囲まれた、小学生低学年の子供のような、なんの心配も苦悩もなくなる。全てが新鮮で、全てが希望で、全てが輝く。春風に揺れる木の葉も、砂浜に寄せては返すさざ波も、アジサイに張り付くカタツムリも、全てに感動してしまうんだ。それこそ、二十年連れ添った妻の裸だって、初めて見たときの様に感動できる。何度見たってだ。

 ある科学者が随分前に話していた。この薬の精神的効能の話だ。人間がストレスや悲しみを感じるのは、脳内である特定の物質が作り出されるから、らしい。この薬にはその心に負担になるような脳内物質を、反転させる効能があるそうだ。簡単にいうと、超ポジティブ人間を作り上げるというわけだ。辛ければ辛いほど、幸せに、そして楽しく感じる。当たり前に、幸せな感情は幸せなまま。

 例えば彼氏彼女に振られたって、次にもっと気の合う相手が現れると思う。両親や家族が死んだって、これまでの感謝しか想い出さない。借金にまみれたって、それは自分への投資なわけだ。

 まぁこのたとえ話は、薬の普及し始めた当初の話だ。今は別れるカップルなんていない。死を恐れなくていい。お金なんて使わなくても、毎日幸せだ。

 万病治療薬は今、完全な機械生産で毎日生み出されている。高性能な太陽光発電の備わった自立施設で、自己修復機能も備えた人工知能による指揮の元、人間の手は加えられてない。世界中の至る所で、今なお動いてる、はずだ。まだ働く人間が存在していたころ、映像伝達装置で流れていた。

 今は働く人間なんていない。電気だってガスだって、人の手で行われていたモノは、全てに置いて機能が停止している。だって、働く必要なんて無いだろ。

 俺だって働いてなんかいない。働いていないどころか、朽ち果てたマンションのベランダで、ずっと椅子に座ってるだけだ。椅子の上で寝て、椅子の上で起きる。関節が痛くなるなんて事は無い。理由はさっき話したとおり。陽が上れば日光に当たれるし、雨が降れば水を飲める。最高に幸せだ。

 何をしてるかって? 一日中空を眺めている。雲一つ無いなら、気分が良い。曇り空なら、気分が良い。雨が降れば、気分が良い。ずっと眺めてられる。飽きる事なんて無い。

 どうだ? 過去の俺。羨ましいだろ。最近はこうやって、寝起きがてら万病治療薬が開発される前のお前に、頭の中で自慢するのが、日課なんだ。

 あぁ、空が明るくなってきた。なんて綺麗な朝焼けなんだ。いったい何度俺を感動させれば気が済むんだ。この太陽という奴は。感動させるだけじゃない。こいつが空に上り始めると、最高に面白くなってしまうんだ。今まで何百万回、いや、何千万回、もう数なんてとっくの昔に数えるのなんて止めたが、とりあえずすごい数、こいつには笑わせて貰っている。数を重ねれば重ねるほど、どんどん面白くなる。

 ほら、両隣のベランダから、上下のベランダから、町中の至る所から、笑い声が聞こえ始めた。隣では妻が、足をバタつかせて笑ってる。

 ダメだ、もう過去のお前への自慢はお終いだ。俺も面白くなってきた。腹がよじれてくすぐったい。腹が、腹が、あぁ、楽し過ぎる。

 この上無いほど、幸せな人生だ。いったいいつまで続くのだろう。この幸せな日々は。ベランダから空を眺めるだけの日々は。薬の効能が切れなければ、死ぬことは無い。あと何千年? 何万年? もしかして何臆年? 考えただけで、心の奥底から笑いがこみ上げる。


 アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハーーーーーーーーーー

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