第3話 歯科治療恐怖症
あぁ、嫌だ、嫌だ。あんなに気をつけていたのに。
ラフな服装の男は、歯科医院の待合室で震えていた。隣の診察室から漏れる独特な機械音が、恐怖を一層高ぶらせる。
帰るか? いや、だけど虫歯を放っとけば、もっと酷い事になりかねんな。
わざわざ三時間も車を走らせ、ネットで調べ上げた腕の良い歯科医が居ると噂の医院まで赴いている。
男は高級そうな腕時計に目を向ける。予約した診察時間まで、後五分程だった。
後少しだ……どうしようか……全身麻酔でも頼むか? 正直に話して。しかしなんて笑い話だ。四十代にもなって歯医者さんが怖いなんて。仲間にバレたら、格好の餌食だな。こりゃ。
男は自身がまだ少年だった頃の、ある出来事を思い出していた。
親知らずを抜歯するため、母親に引きずられながら、歯科医院まで連れて行かれた。
レンガ張りの寂れた一戸建てに掛けられ「海馬歯科医院」という煤汚れた看板は、今でも鮮明に思い出せる。
「怖がらなくて大丈夫だから」何度もそういった中年の歯科医は、今まで出会って来た人の中で、一番の嘘つきだった、と三十年以上たった今でも、確信している。
今なら分かる。麻酔が効いていなかった。ただ激痛に暴れる体を、半笑いの歯科助手と母親に押さえつけられた。
気が遠のく感覚を、今でも思い出せる。あの頃、地獄とは歯医者さんだ、と思っていた。
今でも実家に帰れば、恨み節たっぷりにその話で母親を責める。当たり前に、笑い話のような感じで、だが。
「そのおかげで、今があるんじゃない」
母親は最後、決まってその台詞を口にして、笑う。
「まったく」と男はしぶしぶ納得したフリをするが、内心それだけは、今になっても許していなかった。
「南部さん。どうぞ」
ついに名前が呼ばれた。長く息を吐き出して、両手で顔を二回叩く。
大丈夫、大丈夫、と自身に言い聞かせ、重い腰を上げた。
「こちらでお願いします」
マスクをした小柄な女が、男を案内する。
「よろしくお願いします」会釈をして、言われるがままに、可動式の診察台に座った。
「すぐに先生がいらっしゃいますので」
男の返事を待たずに、女はどこかへ行ってしまった。
すぐ終わる、なんてことない小さな虫歯だ。
「どうも、南部さん。今日はよろしくお願いします」
背後から声を掛けられる。
「あっ、はい、お願いします」
首を横に向けて、挨拶を返す。
「あれ?」
南部の顔を見て、腕が良いと噂の初老に差し掛かっている歯科医は、目元だけで疑問を浮かべている。大きめのマスクで、あまり表情は見えない。
「どっかでお会いしてません?」
「いえ、初対面だと思いますけど?」男は顔を背けた。
「いや、ハハハ、すみませんね。えぇと」歯科医は手に持った用紙に目を通す。「今日は虫歯の治療と言うことですが?」
「えぇ、その、下顎犬歯の左横なんですが、ちょっと出来たみたいで」
「じゃあちょっと見てみますね。楽にしてくださぁい」
言われるがまま診察台にもたれ掛かると、背もたれが下がり始め、すぐに仰向け状態になった。
「じゃあちょっと口を開けて下さい」
男は大きく口を開ける。歯科医の手元は見えない。
「犬歯の左ですよね?」中々見つけられないのか、歯科医が訊いた。
「ふぁがい」口を開けたまま答える。
「これ……かな? この点みたいなヤツの事?」
「ふぁがい、しょれべしゃ」
「これっ? いや、良く見つけたね。はい、じゃあ楽にして下さい」
口内の違和感が無くなり、男は口を閉じた。
「いや、とても清潔になさってる。冊子に載せたいぐらいですよ」歯科医は軽口を言いながら、治療機材を手元の台に並べている。
「昔から気をつけていたんですけど、油断したのか年なのか」
「そんなことないですよ。ここまで綺麗な方が珍しいぐらいですから。じゃあ、軽く削るくらいなんで、このまま行きますね。口開けて下さい」
「ちょ、ちょっと待って下さい」男は慌てて話す。
ふざけんじゃねぇ。
「虫歯はちょっとかもしれませんけど、一応麻酔してほしいですね」笑えてないのは自分でも分かってたが、とりあえず笑みを作る。
「いや、これぐらい麻酔掛けなくても大丈夫ですよ。根本に近いんでね、少しチクっとするかもしれませんけど」
大丈夫ですよ? 少しチク? こいつはバカなのか? 少年の頃の思い出が、トラウマとなって蘇る。
「いや、分かってますけど、その、出来れば麻酔を掛けて頂いた方が」怒りと恐怖で、体が震える。
「ハハハ、分かりました。じゃあ軽く掛けましょう」
歯科医はそばにいた歯科助手に指示を出して、麻酔機材を持ってこさせる。
怖い、怖い、怖い、怖いよぅ。男の中に、耐えようの無い恐怖心が溢れる。
「じゃあ、口開けて下さい」
男は鼻で深呼吸をして、口を開けた。
「もう少し大きく開けて貰えますか?」
口元を動かす。
「もう少し、開けれます? さっきぐらい」
意を決して、大きく口を開けた。すぐさま口元に歯科医の指が乗る。
「力を抜いて下さい」
「ちょ、ちょっといいですか」体を起こし、荒い息を整える。地獄のような光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
「大丈夫ですか?」
男の汗の量に、歯科医は驚いている。
「いや、ハハハ、ちょっと疲れてるみたいで」男は目をギラつかせながら、堅い笑みを浮かべる。
「どうしましょうか? これぐらいの虫歯なら、少しぐらい放っといても大丈夫でしょうから、今日は検診と言うことで、治療は次回にしましょうか?」
「今日お願いします。すみません。この歯科医院が開いてる時間帯はあんまり時間がなくて、次これるのは半年後とかになっちゃうんですよ。それと、あの、申し訳ないんですが」男は口ごもる。
「はい?」
「あの、大丈夫、という言葉は、使わないで欲しいんです」
「はい?」首を傾げて、歯科医は聞き返す。
「その、大丈夫、と言う言葉は、使わないで頂けないでしょうか? 理由は、その」困り切った表情を浮かべる。
「分かりました。良いですよ。それぐらいなら」歯科医は目元だけで、優しさ溢れる笑みを浮かべた。
「本当にすみません。ありがとうございます」男は精一杯に、頭を下げた。
「じゃあ、まず麻酔を打ちましょう。横になって貰って。安心して下さい」
「はい、お願いします」
男は呼吸を整えて、仰向けになる。少し冷静になり、歯科医とのやりとりを思い返して耳を真っ赤にさせたが、それどころじゃ無い、と自身に言い聞かせる。
ゆっくりと口を開ける。今度は丁度良い具合に。口元に歯科医の指が乗った。続けざまに麻酔針が口内へ入る感覚を味わう。力強く目を閉じた。
チクっ
「うあわああぁあぁぁぁ」
口を大きく開けたまま、男は叫んだ。歯科医はすぐに麻酔針と指を男から離す。
「すす、すみません。大丈……どうされましたか?」少し怯えたような目元をしながら、歯科医は訊いた。
男は口を閉じて、涙目を向ける。
「何でも……ありません。あの、少しだけお願いがあるんですけど、いいですか?」鼻を啜る。
「何でしょうか?」
「男性の方でもいいので、誰か手を握ってくれませんか?本当にふざけたお願いだと思いますが、不安で不安で」
「手をですか? えぇと、そうですね」歯科医は隣に立つ女性の歯科助手に視線を向ける。
「え、えぇ、私でよければ、別に良いですけど」困ったように、歯科助手は答える。
「じゃあ、悪いけど、南部さんの手を握っててもらえるかな」
「はい」歯科助手は男の横に移動して、戸惑いながらも、その手を握った。
「本当に、本当にすみません」男は申し訳無さをこれでもかいうぐらい表情に浮かべ、何度も謝罪した。
「じゃあ、すぐ終わらせますので、頑張りましょう」気を取り直したかのように、歯科医は話した。
「はい、それで、あの、ここまでして貰ったので、僕も覚悟を決めました。口は絶対に閉じませんので、僕が声を出したり、叫んだりしても、治療を続けて下さい」真剣な眼差しを、歯科助手の手を握ったまま向ける。
「分かりました。頑張りましょう」歯科医は男の前に拳をかざす。
「お願いします」男は仰向けになって、口を開いた。
「麻酔の方は効いてますか?」
「はい」
「では、治療を始めます」
独特な機動音を立てながら、小さな研磨機が口の中に入る。
男は力強く目を閉じた。
キュイィィィィィン
「うわぁぁああぁぁっぁっっっぁあ」
キュイィィィイン キュイィイイィィィン
「うがががああぁああぁあああ」」
カリカリカリカリカリ
「ばしゃああぃあああいぃ」
キュイィィィン キュキュキュイィィン
「ごがりばしゃぃぃぃぃあいぃあああ」
「はい、オシマイッ」歯科医は男の胸を優しく叩く。
男は口を大きく開けたまま、身動き一つしなかった。
次の日、男は自宅近くの歯科医院へ向かう。時刻は午前八時半。
まだ開業時間前だというのに、その歯科医院のドアを開け、意気揚々と足を踏み入れる。
室内にいる誰もが、男ににこやかな笑みを向けて、清々しい挨拶をする。
院内のロッカールームへ入り、白衣に着替えた。その姿は、昨日の姿が嘘のように、威厳を纏っている。
男の名は、南部清孝。幼少期の体験により、誰もが安心できる歯科医になることを決意。猛勉強の末、その資格を得て、今では「神の手」という異名を持つほど、世界的に有名な歯科医となった。
神経を傷つけない「無痛抜歯」と呼ばれる技は、世界で彼一人しか出来ない治療法である。
終わり
★付箋文★
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