はなたちばな

はたかおる

はなたちばな

 あの日、開いた窓の向こう側で、青い楓の葉が揺れた。

 波みたいな音を立てると、少しここも涼しくなった。バスケットシューズが雑に並んだ棚の前にありったけ並べられた椅子に座って、彼と並んだ私の気持ちは少しだけ弾む。風がまた、波の音を立てる。

 冬は、来なくて良いんだ。

 かじかむような季節は、いつだって気持ちが前に出て行かない。だからこの暑さも、夏ということばも、肌の鬱陶しさも、日差しも、私は好きだ。

 窓から入ってくる空気と彼の匂いが混じって、私はそれを彼に気づかれないように吸い込む。変に懐かしい気持ちが胸に流れこむのを感じてそれが、なぜだか解らない事に当惑した。その少し後から追いかけてくる、上手く行ったり行かなかったりした幾つかのことも思いだした。この瞬間に、なんでもないような笑ってばかりの時間は流れていって、この時間の流れのなかで何を話したなんて言う事はもう、記憶の中からは戻ってこないかもしれない。

 会話が少し途切れて、どこからか雀の羽音が聞こえる。何もない空間と時間に、散らかった小さな部屋に二人しかいないことを意識させられた。だけど、今なら彼をずっと追いかけていられるような、気がした。




 唇が、唇とあたった。幼なじみの慧(さとし)史(し)とだった。

 汗臭い部室の中で、別にあんたとキスしたいわけじゃないよ、興味本位だからね、と念を押してほんの少し残る感触に戸惑っていたのを隠した。

「鼻と鼻がぶつからないように注意しろとは、ホントだったんだな」感心している彼はいったい誰にそんなことを聞いたのかと少しトゲの有る聞き方をした私に、

「イングリッド・バーグマン」と答える。彼は大まじめで少し顔を赤らめた。

「女優さん?」

「白黒の女優」

 古い人だったから聞いた事のない名前だったけれど、綺麗で格好の良い名前に感心して、美人だろうなと聞くと、

「びっくりするよ、整いすぎてて」と先週会ったかのように遠い目をする。

「なんて無機質なものの見方よ」と一言言ってやったけど、まるで気にしない。

「あ、でもね。なんて言うかこう、整うにしてもそれはいくら何でも左右対称でしょ、って有るじゃん」いきなりどうした。

「あー有るね。んー鼻の形とかどう見ても数年前と違いますみたいな?」

 何となく言わんとしてることが解ってきたけれど、そう言うことはあまり気にしない方が良いと思うけどな。と思いつつも、しばらく居なくなったと思ったらやけに美人になって帰ってくる女優なんかを思い出す。

「もうねー、せっかく最初美人だったのにもったいないなって思うんだ。最初のいろんな線が影響し合って出来たせっかくの顔を、どうしてこう、すっきりするのかと、僕は言いたいわけ」えっへん。ではない。

「んーまあ何でも良いけど、話を総合するとイングリッド・バーグマンは標準状態で完璧に美しいと。そういうわけで良いですか?」

 全然よろしいですとにこにこしている慧史。こんな話題でにこにこ出来るとは、まだ私も彼もに子供なのかなと胸に少し、くすぐったい。


 あの後、何分もしないうちに先輩がきて、いつまで遊んでんだ鍵閉めるぞ。と追い出されてしまって、いつも通りの帰り道をいつも通りに彼と歩いた。

「スティーブ・ナッシュのパスは勉強した方が良い」とか、サンズのプレイは非の打ち所がないだとか、ダンクだけがバスケじゃないぞとか、バスケットボールの話に夢中になる。

 そこにさりげなく私が挟み込む、

「ねえ、クラスの女子で誰が一番人気有ると思う?」

 であるとか、

「チカがバスケ部の男の子って良いよねなんていっちゃってんの」

 なんていう類いの探りを入れると、それこそポイントガードのようにするすると私の張り巡らせた伏線をかいくぐって、ノールックでバスケットの話をパスしてくる。

 つられて私も、

「えー黒人の脚力の方が見ててすかっとしない? サンズのやり方はなんかぽくないと思うんだよね」などと返して、結局NBAらしさってさ、などと術中にはまった事に気付くのは話題が出尽くす頃だった。

 慧史は無言でノールックパスをいきなり仕掛ける。いつだって私は、それに気づかなくて。

 本当にボールを私にぶつけると笑いながら逃げ出す彼を見て、私も笑って追いかける。

 いつも、彼は先に行ってしまう。それを私は追いかける。


 彼とは、志望を口に出来る学校も違ったし、それに上京してしまった。彼にとってはそれは小さな事だったのかもしれないけれど、私にとっては大事件だった。


 全ての試験を終えて、二日。寒い朝に慧史は私のうちにやってきた。

「一緒に不動産やさん見に行かない?」なんて、大人みたいな事を私に言ってた彼は、私が受験に失敗していたことを知っていたのだろうか。

 発表の後で良いんじゃないの?と私は押しとどめようとしたのだけど、結局ついて行くことになった。もう一度あの雰囲気を二人で歩いてみたい。でも少し胸にほんの小さなものが刺さったような気がした。

 二時間半くらい電車に揺られて神田の改札を出ると、

「やることはやったし、きっと受かってるな、うん」

 とか何とか、発表もまだなのに。

 生まれ育った町と違う、四角い建物とやけにきちんとした区画の大きさに、妙な東京を感じて私が来たかった東京ってこんなに遠くて手が届かない場所だったのかなと、口の中でつぶやいた。慧史には聞こえなかったと思う。近所の駅を歩いて不動産屋さんの間取りと値段の張り紙を見てタケーなんてはしゃぐ私たちは、帰り際に古書店に入った。

 教科書らしき専門書が並んで、とても入門書とは思えないボリュームと装丁の一冊を彼は取り出すと、大学って感じだよなハイと私に次々手渡す。

「カッコいいねー、慧史、こんなの読めないでしょ。バスケの選手しか覚えられないんだからさ」

「イヤイヤ、スコアも暗記してますよ、なんなら」と続きそうなので

「スティーブ・ナッシュでしょ! また」と釘を刺す。舌打ちしたような、覚えやがったかと悔しそうな顔をした。

「カップルさんかよー良いねえ、二人とももう合格でたの?」なんて店主らしき人の良さそうな初老の人が話に割って入ってくると、心地よくて。

「いや、実はまだなんですけど確実に受かってますよ、僕は」と根拠もなく胸を張る彼が小憎らしくて、

「僕は! 」と店主が繰り返す。

「くぅ、言ってみてー。受かってますよ! チクショー」と、店主が彼をからかう。

「もう、止めてくださいよ!。この子調子に乗っちゃいます」

 と、言ったのが合いの手になってしまったのか、店主はノリノリである。

「よし、俺も言っちゃうかな、ボクモ受かってますよ、間違いないです!」だから繰り返すな。

 初めての客とこうも笑う本屋も珍しい。店主と会話をしながら本を選ぶ。そういう店は地元にもう無い。人と本以外の話をすることができる書店自体がないから、心の中がなんだか暖かくなることに初めて気がついた。けど、こんな小さな本屋でこんな事ができるのも東京だからなんだな、と、それが小さな疎外感を私の中に生んだのも思い出す。ほんの数秒、空調の音がぐるぐる私の中にある何かをかき混ぜた。

「よし、君。何くん? さとし君。あそう」

 と、名前をすぐに覚える商売上手なタシロ老人。

「大学始まったらシラバスを持ってきなさい、かわいい彼女と一緒に。何ちゃん? れいちゃん。あそう」

 一式良いやつを俺がそろえてやる、最新情報付きで。と、笑顔で言ってくれた。勉強は教えられないけどな、と濃紺のハタキをブンブン回す。

「なんだ良い町だなぁ、あこがれちゃうねおじさん」なんて話してる二人は、彼が在学中も本当に仲が良かった。

「良い町か、そうかそうかそうだろう、うん」むかーしはもっと品が無くてこう、もう少し野暮ったかったけどね。と言う。

「駅前の学校、受けたんですよ。ぼくたち」と、彼。

「昔はものすごく風格があって、テレビなんかに出てくるの見てがっかりですね」と続ける。すると、タシロ老人はまあまあ、あれもあれで。と一人頷く。

「でもさ、駅前の学校、母校だもん俺。確かにあのたたずまいが好きすぎて結局一歩もこの町から出てないもんね俺。今のビルはなあ……。やっぱいかがなものかと思います」

 と、またもやハタキをブンブン回した。

 変な高校生と出会った記念だと言って、どういうわけか吉川英治の「宮本武蔵」の一巻を一冊ずつ私たちに配ると、大喜びの慧史と困惑を隠せない私。

「これでおもしろすぎて、またここに来ざるを得ない」と邪悪な笑顔をする、この店主はなんだか素敵だった。

 店から出るとき、私はおいて行かれるような気持ちにとらわれる。もう戻らない時間の中にいるのではないか。思わず涙を抑えきれなくて、二人を慌てさせた。

「私、多分落ちてる。ごめん」と、ここで言わなくても良いことを言ってしまったけど、思った以上に慧史は大人で、何も言わないでくれた。元々大人のタシロのおじさんも最適な慰め方をしてくれたと思う。

「受かってるかそうじゃないかはわからないが、来年も再来年もここは有るから、教科書買いなさい。クラスメートを連れてきたって私はいっこうに構わない」などと、不自然な硬い表情は何かのキャラを真似しているみたいだった。余計な部分がうまく伝わっていないよおじさん、と変な優しさに笑ってしまうと、本格的に涙も溢れてしまった。頬が濡れて、モルタルの床に小さな点がいくつも出来上がるのを見て、どこにも行くところが無くなったような心細さは無くなった。来年になってもこの小さな水たまりを私は憶えてるかな。ガラス戸の外に風の音がして私は振り向く。木枠のガラスが揺れるのを眺めているとタシロ古書店の店主は、私たちにお茶を振る舞った。

 暖かい店内から外に出ると、本の匂いと町の匂いが混ざって少し、ほっとしたような気持ちになった。今でも古書店に行くと寂しい気持ちになるのはこのときのせいでは、無いはずだ、と思う。

 帰りの電車は二時間半、九十年代のバスケットボールの話をひたすら繰り返した。ジョーダンや、マジックジョンソン。神話の登場人物みたいに現実感のない彼らのスーパープレイを解説する彼が、実際に彼がするプレーと重なってちょっと素敵だなと思った。ホームにとってつけたような灰色の階段をならんで歩きながら、戸惑う。慧史と一緒に歩くのはあと何回かなとか考えなくて良いのに、無視していた痛みに気づいた。

 どうも私は、彼が好きで、本当に好きで。それこそ、受験に失敗してしまうくらいに。

 一月もするとまた同じ学校に行くものだと思っていたらしい彼に、このとき初めて申し訳ないような気持ちになった。




 私は今、中堅の会社の事務職をしている。ひたすら液晶画面の中のフォームを埋めて、プリントする。文書を作ってそれを回す。その繰り返しの中で、少しは幸せなのかなとふと思う。そして、何もない日常の中であの日のことを思い出す。




 寒くて、とても寒くて。窓の外に降る雪がとても綺麗で。

 だけど、リノリウムの床と空調の行き届いた部屋は、雪の降る故郷の町から切り取ったように暖かくて静かだった。

「大変な事になっちゃったな」

 へへと笑う彼と、私たちはそのとき先輩と後輩になっていた。やっと追いつけたと思って一年程過ぎたとき、彼の胃に癌が出来た。すぐに入院して、何時間にも及ぶ手術をして、彼のなかの彼だったいくつかの部品を医者は取り除いた。

 すっかり細くなってしまった彼は、いつかのハタキみたいな細い腕を私に差し出す。

「握ってよ。恋人同士みたいでカッコいいじゃんこのシチュエーション」

 恋人同士じゃん。私たち。そう言ってその手をはたこうとしたとき、その細さに事の重大さを思い知って、私は泣いた。

 張り出された合格者番号を写真に撮ってわざわざ私に見せに来た彼を見たときも、二回目のキスを、大学のベンチでしたときも、私は泣いてばかりだ。と思った。




 今でも季節に一度位、お茶の水の小さな飲み屋でおじさんと乾杯する。暑い日中はオフィスにいるから夏なんてあっという間だね、なんて言う私に、

「俺は年中店の中だから通年あっという間だけどな」と、相変わらずの笑顔だ。

 ほんの少し時期が早いサンマの刺身にショウガを載せて、たっぷり醤油をつけて二人は口に運ぶ。おいしい酒の肴が皿の上から消えるまで無言で頬張ると、

「OB会に乾杯!」と何度も乾杯する。

 慧史の話題は恒例になっていて、あの細い腕や、点滴のボリューム。病院の壁の色の事など不安にさせるよね。大きな病気では何を見てもやるせないなあれは、と二人は懐かしむ。

 大学時代はそういう不安も有って一瞬で過ぎちゃった。とおじさんに言うと、

「俺もあのときは時間があっという間だったな、見舞いのたびに慧史、弱って行くみたいで辛かった。孫が死んだみたいで泣いちゃったもん俺」

 そうだよねー、泣いちゃったよね。と何度も頷く。湿っぽくなって来たとき、威勢の良いマスターが生中おかわりお待たせ。と、ジョッキをどんと置く。

「まあまあ、気を取り直してサービスだからこれ」と、塩焼きのサンマを持ってくる。

「良いやつだったよなあいつも。元気でちょっと空気読まなくてね」

 マスターも、なじみだった。私たち全員が同窓で、この日をいつも楽しみにしているのだった。

 寒くなると思い出すよね。あの頃の話題は本当に尽きない。


 話題が盛り上がってくると、店の木戸ががらがら開く。鬼平犯科帳みたいで良いでしょ、とマスターを押しのけて古本屋のおじさんが言うように、風情が有る。

「この界隈で鬼平嫌いな人は居ないですよ」

 声の主は木戸を丁寧に閉めて、マスターに挨拶すると私たちの座敷のところで靴を脱ぐ。

「よく来たねえ、調子はどうだい」おしぼりを手渡してマスターは大きな声で返す。

「いまな、ちょうどおまえの話をしていたんだ」とタシロ古書店のおじさんが言う。

「また、あれでしょ。いかに死んだかのような雰囲気で場を盛り上げて」と、遠からず言い当てると、教科書のたくさん入ったバッグを隅に置く。

「まぁまぁ、ドラマごっこですよ季節に一度の恒例の」と、私も悪びれない。

「チクショー、今の薬はホントに効くんですって。二十一世紀ですよ二千何年だと思っていらっしゃる」

「だよねー、二十一世紀だよねー、スマートフォン買っちゃったぞ俺、これでお店のブログやってます」とマスターニシジマもはしゃいでいる。

 実際、世紀末も、二十一世紀も、当たり前のイベントみたいに記憶から消えていく。鉄腕アトムよりも世の中は進んでしまったんじゃないだろうか。なんて思う。


 そして、今夜の思い出もきっとあっという間に過ぎていく。

 社会人より遅れてくるとは何事かと、三人からつつかれる彼を少しは守ってあげればいいのに、もう少しつついた。

「君は当同窓会で一番下っ端なので早くビールをつぎなさい。マスター瓶で持ってきて、わざわざコップに注ぐために」

 チクショー浪人したくせに急に立場逆転しやがって、と彼のクレームもいつもと同じで安心する。病気で遅れた彼がOBになるのはもう少し先だが。


 大変だったな、あのときは。と、この心地よい場所で幾度も思い出す。だけど今夜、どの思い出とも違うのは帰り道が最後まで彼と一緒、と言うことだ。彼も私もバスケットボールはもうやらないけれど、週末にNBAの中継を見ながら、私は彼に意識させないようこっそり彼の手を握る。喋ることはもう出尽くしてしまったけれど、暖かくて少し細くなった彼の手の温度は何よりも大切なものを私に気づかせる。

 それこそ、いつもここに有る彼の匂いに時々涙が溢れるくらい。

 


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はなたちばな はたかおる @kaworu_hata

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