第17話 対峙(1)
再び意識が浮上した時には背中の痛みはほとんどなくなっていた。少しだけズキッと鈍く痛みが走ることはあったが、その程度だった。
僕は起き上がる。昨日と違い、ベッドに再び倒れ込むことなく、スムーズに背中を起こせた。
ぼんやりと視線が右側を向く。カーテンは開いたままで、窓から藍と橙のコントラストをなす薄暗い空が見えた。夜が明け始めてきているようだった。
枕元へ視線を落とす。僕の左側でアリシアがベッドの片隅に両腕を丸めるように付き、その上に頭を置いて眠っていた。その頭は僕の方を向いており、安らかな表情をしたその寝顔が見えた。そして彼女の健やかな寝息もまた、わずかに聞こえてきた。
ただ、あまり良い姿勢で寝ているとは言い難い。足や腰を折り曲げベッドに身を任せている状態なため、身体の節々が痛くなってしまいそう体勢だった。
「ノエル……?」
アリシアを起こさないよう、ゆっくりと掛け布団から足を抜きベッドから降りようとしたのだが、彼女は目を覚ましてしまったみたいだ。
アリシアは顔を上げ、寝惚けまなこでまばたきを繰り返すその瞳を僕に向けた。
「ごめん、起こしちゃったね」
僕はそんな彼女に言う。
アリシアはぼんやりとした顔でしばしの間僕を見つめていたが、みるみるうちにその頬が赤く染まっていく。
「どうしたんだい?」
そんな彼女の様子を怪訝に思い尋ねる。
「う、上……」
いつもはっきりと言い放ってくる彼女にしては珍しく要領を得ない物言い。一体何が言いたいんだろう? と首を傾げかけ僕は気づく。
上半身、何も着ていなかった。おそらくギルが傷の手当でもする際に脱がしたのだろう。裸だった。
「ご、ごめん」
僕は慌てて布団を被る。柄にもなく頬が熱くなる。
僕の身体には傷がたくさんある。背中には銃で撃たれた時の傷痕が。そして胸や腹、腕には自分で刺したり切ったりして傷つけた際にできた痕が。 吸血鬼である僕の身体は常人ではあり得ない治癒力を誇っていたけれど、深く傷つければ痕だけはくっきりと残った。同性異性問わず、他人に堂々と見せられる状態じゃないのである。それに彼女は自分の婚約者に無理矢理手込めにされていたのだ。怖がらせてしまったかもしれない。
「べ、別に謝らなくてもいいわよ。ふ、不可抗力だし、私だってあなたに似たようなことをしてしまっていたし……」
僕と目を合わさず、明後日の方向を見ながらアリシアは言った。その声音は明らかに動揺していた。
気まずい。このままではいられない。早くシャツを着ないと。けれどクローゼットへ行こうにもアリシアがいてはベッドから動けない。また彼女の前で肌を晒してしまう。
「ごめん。何か着るからちょっと別の部屋に行っててくれないかな?」
アリシアにクローゼットからシャツを持って来いとは言えないし、彼女が見ている前で着替える訳にもいかない。
「そ、そうね。着替えないと、いけないものね。わかったわ。む、向こうで椅子にでも座って待ってるわ」
アリシアは彼女にしては珍しく、吃りながらそう告げると、ぎこちなく立ち上がり、部屋から出て行った。
服装を整えて寝室を出ると、アリシアは何も乗っていないテーブルを前に、椅子にちょこんとお行儀良く座っていた。
「さっきはごめん。脱がされていることに気づいていなくて」
「……」
アリシアは無言のままじっと半目で僕を見つめてきた。謝らなくても良いと強く訴えているのがその瞳から伝わってくる。
謝罪するのはもうよそう。
「おなか、空いてるよね。今何か用意するから」
ギルがやって来て、更に彼女に血を吸うよう迫られて、その首筋に噛み付いてしまったのは昨日のお昼前のことだった。もしかしたら彼女は丸一日何も食べていないのかもしれなかった。
「もう大丈夫なの? 怪我。背中、銃で撃たれていたでしょう」
彼女は口を開くとそう訊いてきた。
「僕は大丈夫だよ。銃で撃たれたところはきっともうほとんど治っているだろうし。僕は吸血鬼だから。七年前もそうだったから」
七年前、リリの血を吸って死なせた時も、今回と同じように僕はギルに撃たれた。そして同じように傷はすぐに治癒した。
「……あなたの身体にある傷は七年前にできたものなの?」
朝食の準備をしようと台所に足を向けかけた僕の身体は硬直する。
「うん、まあね……」
今朝、アリシアには身体を見られていた。それにギルが僕の傷を手当する際にも同席していたに違いない。
アリシアが傷だらけな僕の身体について追求してくるのは至極当然のことだった。
しかし、どうにもいたたまれなかった。
「あのウォッカ氏の息子である美術商にやられたの? 彼はあなたのその傷についてよく知っているようだったけれど」
「ギルがやったのは背中の傷だけだよ。あとは僕が……、自分で傷つけたものだよ」
平静を装うとしたが、アリシアに答える声は少し震えた。
「どうしてそんなこと……」
彼女の言葉は途中で消えた。当然の如く浮かんだ疑問をそのまま口にしたものの、尋ねても良いものか考えあぐねたようだ。
「……リリを殺してしまったから。吸血衝動で人を殺めてしまう僕なんか死ねばいいって思ったんだ。……ギルは――彼はそんな僕を間近で見ていたから。彼はそんな僕を目撃する度に止めてくれていたんだよ。もっとも彼がいない時も僕は僕を傷つけ続けていたんだけどね」
僕はアリシアに答えた。進んで話したいことじゃなかったけど、隠す必要のあることでもなかった。
「それは死ぬためにしたものなの? あなたも死にたかったの? それだけやってもあなたは死ねなかったの?」
「……まあね。僕は吸血鬼だから」
アリシアの更なる問いかけに僕は頷く。その通りだった。
アリシアはこんな僕に引いてしまうだろうか? 蔑むだろうか?
七年振りにコミュニケーションを取った異性とそうなってしまうのは悲しく怖かったが、どのみち彼女とは今日でお別れなのだ。ここでどう思われようと今後二度と関わることはないのだろう。
「あなたは、吸血鬼であるあなた自身を嫌っているのね……。ごめんなさい。身体の傷のこと、これ以上は何も聞かないわ」
彼女は謝った。僕の身体の傷について追求したことに罪悪感を覚えたようだった。普段と同じように振る舞ったつもりだったが、もしかしたらひどい顔を彼女に対して向けていたのかもしれない。 なんとなく気まずい雰囲気を残したまま食事の準備をし、僕らは朝食を取った。
今朝は牛の血を吸っていなかった。しかし不思議と喉に渇きはなかった。それに視界がいつもよりクリアで、常時ある倦怠感もなくなっていた。身体が軽くなったみたいだった。
きっとアリシアの――人間の血を吸ったからに違いない。本来吸血鬼は人間の血を吸って生きていく生き物なのだろう。だから身体の調子が良いのだ。
おそらく常に人間の血を吸血していけば、今のような本調子を保ち続けられるに違いない。
もっとも、人の血を吸って殺してしまうぐらいならば、常に倦怠感に苛まれ続けた方がましだが。
朝食の準備を整えると、僕とアリシアはお互いに無言のまま黙々とそれを食した。
昨日、アリシアをそのままギルに引き渡すことができなくて、彼女に死にたがる理由を聞いた。けれどそれはあまりに重くて僕にしてあげられるようなことはなく、結局何の解決策も出せなかった。
ギルがくれた猶予は一日。彼は今日もここへやって来て、今度こそアリシアを彼女の父親と、彼女を手込めにし続けている婚約者の元へ連れて帰るだろう。
「ねえ、もし私がここにずっといたら、いることができたのなら、あなたはどう思う?」
沈黙を破ったのはアリシアだった。
「どうって……」
「迷惑かしら」
彼女は反応を窺うかのように僕をじっと見つめる。
「迷惑とは言わないけど……。でも君の身の安全は保証できないよ。僕は吸血鬼だし男だから。それにそれは君のためにならない」
「私のためにならないって?」
「年頃の女の子が伴侶でも婚約者でもない男とずっと一緒にいるのは外聞が悪いから良くないよ。君の評価に関わる。それに僕は吸血鬼だから、いつか君のことを、今度こそ本当に殺してしまうかもしれない」
「じゃあ、私がそれでも構わなかったら迷惑じゃない? いても良いと思う?」
「それは……」
僕が返事に詰まったその時だった。音がした。何かが森を歩き、向かってくる音が。察知できる程に大きく、それも複数。明確に大勢で移動している気配が感じ取れた。
この近くをたくさんの動物か人間が移動している……?
音が大きくなる。地面を踏みしめる音。足音が。
音の主達はこの家に近づいてきている?
一体何のために? そもそも何が? 誰が?
突然のことに戸惑っていると玄関のドアをノックする音がした。
「ノエル。オレだ。開けてくれ」
ドアを叩き続ける音と共にそう呼びかける声が聞こえてきた。声の主はギルだった。
普段の彼はこんな風にドアを叩き続けたりしない。一抹の不安を覚えながら僕は慌てて席を立ち、ドアを開けた。
ドアの先にはいつになく険しい表情をした彼と、さらにその少し後方にはたくさんの人間がいた。
中央に上質な服を着た貴族であろう男が二人。そしてその周囲にはノーベルハイドの自警団であろう村人達が。もしかしたら中央の貴族二人の部下達も混じっているのかもしれない。貴族であろう二人以外は各々に銃や剣といった武器を持ち、中には防具を身につけている者達もいた。
「今すぐメイスン嬢を連れて外に出ろ。メイスン侯爵とメイスン嬢の婚約者であられるレッドフィールド子爵のお達しだ」
厳かな口調でギルはそう告げた。いつもの美術商の彼としてではなく、メイスン侯爵達の意思をノーベルハイドの吸血鬼に伝える、伝達者という体(てい)でだ。
彼としてもメイスン侯爵達を引き連れてくることは本意じゃなかったのだろう。本当はもっと穏便に事を運びたがったはずだ。険しいながらもどこか苦々しさが滲み出たその表情からはそんな彼の心情が伝わってきた。
「アリシア」
僕は首だけ後ろの方へと回し、彼女を呼ぶ。
アリシアはパンを食べる手を止め、じっと僕とギルのことを見つめていた。
「……わかってるわ。出るわよ、外へ。あなたの身を危険に晒すわけにはいかないもの」
アリシアはすぐに席を立つと、僕の目の前まで来た。
「じゃあ、来い。とりあえずメイスン侯爵達に顔を見せろ」
ギルは外にいるアリシアの父親達の方を顎で示した。
僕がギルに従い外へと足を踏み出そうとするのを確認すると、彼は前を向き歩き始めた。僕もその後へと続く。
「アリシア……?」
ついてくる気配を感じなかった僕は後ろを振り返る。彼女は俯き、立ち止まったまま震えていた。
「とりあえず、行こう」
酷だと思ったが、僕はそんな彼女の手を取り、家の外へと出た。
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