第16話 彼女が死を望む理由
初めて銃で撃たれた時、このまま当然の如く死ぬのだと思った。
僕を撃ったギルに対する恨みはなかった。リリの血を吸ってしまった報い。仕方がないと思った。僕は人の血を吸う化け物になっていたのだから。
リリは倒れていた。仰向けに。ぐったりと。噛み跡の残る首筋を晒したまま。その肌は血の気がなく蒼白。生きている人間ではあり得ない程ひたすらに青白く、不気味なぐらいだった。
ピクリとも動かなかったリリ。おそらくもう生きていない。死んでしまったに違いない。溌剌とした躍動感ともいえる生命に必ずあるはずの輝きが全く感じられなかった。
僕が……。僕が殺してしまったのだ。吸血衝動に駆られて。それを抑えられず、人間に――最愛の人へ向けてしまったのだ。
痛い。銃弾を受けた身体は熱く、悲鳴を上げていた。けどそれはきっとリリも同じだったはずで。
このまま苦しんで死ねばいい。リリの血を吸い尽くしてしまった罰だ。
リリを殺してしまった罰としてはとても足りないけれど。これで贖える気などしなかったが。
僕はそう思った。そしてさらに銃弾を何発も身体に受け、その意識は激痛で闇に消えた。
けれど僕は再び覚醒した。リリと違って。
リリは二度と目を覚まさなかった。しかし僕はもう一度目覚めてしまった。
なんで生きているんだろう?
普通の人達と同じように生きられない、あまつさえリリをも殺した吸血鬼なんて死ねばいいのに。死ぬはずだったのに。
呆然としていた僕を余所に世界は動いていて、いつの間にか僕はノーベルハイドの森へ追放されていた。殺されずに済んだのは、祖父が母の忘れ形見である僕に慈悲をかけたからだった。
けれど僕は僕が許せなかった。リリを殺した吸血鬼である自分が生き続けていることが許せなかった。
元々、動物の血を吸わないと飢えてしまう自分が嫌いだった。普通の人達と同じように肉や野菜、穀物だけを食べて生きたかった。けれどこんな僕のことを必要としていた母と、好きだと言ってくれた女の子がいた。なのに危害を加えた。僕は人間じゃなくて人殺しの吸血鬼なのだ。
死ね。死ねばいいのに。
包丁で自分の身体を刺して、刺して、刺して、刺しまくった。
けれど胸を刺しても腹を刺してもその傷はすぐに治った。激痛が走るのみで、死ねなかった。普通の人間だったら死んだであろうに、吸血鬼の驚異的な治癒力がそれを許さなかった。
痛みのあまり意識を失うことはあれど、死ぬことは決してなかった。
だから意識が戻る度に自分を刺した。
死ねばいいのに。死ね。死ね。リリを殺した吸血鬼なんて死ねばいい。
天井が僕の視界に飛び込んできた。その木目はオレンジ色に染まっており、右側からその光が差し込んでくるのを僕は感じた。
生きている。
それを認識すると差し込んでくる優しい夕日とは対照的に、視界が真っ暗になるような絶望感でいっぱいになった。
「ノエル!」
僕が目を覚ましたのに気づいたのか、枕元にいたアリシアが声を上げた。上から僕の顔をのぞき込んできた。彼女の長い黒髪が僕の頬にかかった。ずっと僕の傍にいてくれたようだ。
「あなたが起きなくなっちゃったらどうしようかと思った」
アリシアは安堵したのか、涙ぐんでいた。
「大丈夫。あの程度じゃ僕は死なないよ。ところでギルは?」
「彼なら帰ったわ。あなたの説得に応じて」
「そっか」
良かった。素直に僕はそう思った。
怯え嫌がるアリシアを、彼女が納得しないまま無理矢理連れ帰られてしまうのは忍びなかった。殺してという彼女をそのままにしておけなかった。
「うっ」
起き上がろうとしたが目眩がして再びベッドに倒れ込んでしまった。撃たれた背中にも痛みが走った。
「大丈夫!?」
「大丈夫、だよ。まだ体調は万全じゃないみたいだけど」
心配そうに僕を見つめるアリシアに笑ってみせる。痛みはだいぶ引いており、意識ははっきりとしているし、起き上がれないものの会話をする分には問題なさそうだった。
「君は大丈夫? 首」
アリシアの首元には自分で巻いたのであろう、ぐちゃぐちゃに巻かれた包帯があった。
「私は大丈夫よ。というか私の場合はあなたに殺してもらいたかったのよ。そうさせるためにあなたに迫ったのよ。そんな私の心配をするなんて、おかしな話だわ」
彼女は枕元まで持ってきたであろう椅子に座り、俯いた。
「でも君が生きていて本当に良かった。……君にとっては良くないのかもしれないけれど」
僕は首を横に傾け、アリシアを見つめた。
「……」
彼女は顔を伏せたまま沈黙した。強気な彼女にしては珍しく、僕と目を合わそうとしなかった。
「ねえ、アリシア。どうして君はそんなに死にたがるんだい? 君を殺してあげることはできないけれど、君が死を望む理由を僕は知りたい」
僕は彼女にそう告げた。
「……話すって約束したものね。……これから話すことは誰にも言わないでくれる?」
拒絶されるかと思いきや、アリシアは静かにそう尋ねてきた。彼女は今にも泣き出してしまいそうな表情をしていた。
「君が秘密にしておいて欲しいのなら言わないよ。誰にも。ギルにも」
僕はアリシアに誓う。
彼女はじっと探るように僕を見つめてからゆっくりと口を開いた。
「……私はね、婚約者に、あの人に――ロイド・レッドフィールドに犯されたの。……ここに来るまで、犯され続けていたの」
「君はまだ結婚してないんじゃ……」
「そうよ。婚約しているだけでまだ結婚していないわ」
「……そういうのは普通、その、結婚してからだよね」
「通常はそう。けれど密かに婚前交渉する夫婦だっている。あなた達みたいに。だから別に珍しいことじゃない」
アリシアは淡々と言う。いや、そう努めているようにも見えた。その証拠に、彼女の身体は小刻みに震えていた。
「君はそれに同意していたのかい?」
「……いいえ」
アリシアは否定した。
もしアリシアが婚約者のことを受け入れていたのなら、彼女が僕に殺してもらうためにここまで訪ねてくるはずがない。合意の上のはずがないのだ。けれどそれはあまりにも酷い話だった。
「そういうのは堂々とできるようなことじゃない。それに婚約段階だったら君の意思はまだ尊重されるんじゃ……」
結婚してしまえば、子供を作るためにもそういった行為は避けて通れない。たとえお互いがどんなに気に入らなかったとしても。本人達に意思決定の自由はない。
しかしアリシアはまだ結婚していない。まだなんとかそういう行為をしなくても済むはずだ。
女性の純潔は尊ばれる。彼女の身体は本来大切にされるべきなのだ。
「そんなことなかったわ。……だってあの夜、あの人は私の寝室へ訪れてきたわ。侍女達も了承済みで、手引きをしていたの。……叫んだって抵抗したって、誰も助けてくれなかった。……あの人に、殴られるだけだった。その後も時々やってきて、その度に……」
アリシアは震える自分の身体をまるで守るかのように抱き締める。
「……」
ああ、そうか。彼女は夜這いされたのだ。そして無理矢理その純潔を奪われたのだ。
絶句する僕を余所に彼女は語り続ける。
「……私はあの人にとって可愛げのない婚約者だったのよ。あの人はそれが気に入らなかった。それに私があの人を嫌っていることはみんな知っていた。……きっと、身体を交えて結ばれれば私の考えも変わると思ったんでしょう。あの人は私のことを支配したかったの。屈服させて力の差を見せつけたかったのよ。力じゃ叶わなくて、抵抗する度に殴られて、裸にされて、たくさん身体をいじられて、舐められて、舐めさせられて……」
アリシアは両手で自身の顔を覆い隠した。
「それ以上は言わなくていいよ。……辛いことは、思い出さなくて良い」
アリシアに語らせておいて何を言っているのか? そんな自問がすぐさま脳裏をかすめたが、他に言葉のかけようがなかった。
きっと彼女にとって、それはとても辛く屈辱的なことだったに違いない。死にたくなるほどに。僕に殺してと乞い願うほどに。
結婚すれば彼女は一生、そんな婚約者との行為から逃れることができない。
アリシアのお腹周りには痣が複数あった。思わず目がいってしまう程はっきりとした殴打の痕が、普段絶対に晒されることのない場所に。彼女が婚約者に良い抱かれ方をしているとはいえない。彼女はそんな暴力的な行為にこれから一生身を委ねるしかなくなるのだ。
「婚約を破棄することはできないのかい? 父親に結婚したくないって意思を伝えたりとか」
普通、子供の結婚だとか身の振り方を決める権利は父親が持っている。僕の場合全ての決定権は祖父にあったが、アリシアの場合は父親で間違いないだろう。それに彼女の口ぶりから父親との仲はそこまで悪くない気がする。
「結婚したくないって何度も父にも言ったわ。けれど駄目だった。父は妾の子供である私が結婚できるであろう男性の中で、最も良い相手だと言って私を諭そうとした。レッドフィールド家は他国との貿易で栄えた新興貴族。彼らは伝統があり、王族ともそれなりの関わりがあるメイスン家とのコネクションが欲しい。そしてメイスン家としても彼らの貿易手腕の恩恵を受けたい。だからメイスン家の正統な血筋じゃない、私を差し出すことにしただけに過ぎないでしょうに。父はロイドとの結婚が私の幸せに繋がると思っているの。そう信じて疑わないわ」
アリシアは顔から手を離し再び僕に眼差しを向け淡々と言った。
「……君の父親はその、このことを、婚約者が君に対してしていることを知っているのかい?」
「……」
僕がそう尋ねた瞬間、アリシアの目から涙が溢れた。こぼれ落ちた雫はそのまま彼女の頬を濡らす。
「……こんなこと、言えるわけないじゃない」
彼女は再び自身の顔を手で覆い隠す。
「ごめ……」
「私は嫌だった。嫌なことを無理矢理された。けれどそれがなんだって言うの? どうせ私は結婚するの。結婚して子供を産むの。夫が妻を犯すのは罪じゃない。婚約者が――ロイドが私を犯すのも罪じゃない。私の意思は関係ないのよ。私がどんなに嫌な思いをしていたってそれは当然のことで罰せられるようなことじゃない」
無神経過ぎたことを謝ろうとした僕を遮りアリシアはそう言い放った。彼女は泣いていた。そして嗚咽を漏らし始めた。
アリシアの言う通りなのだ。アリシアが死を望む程に辛く酷い仕打ちだったとしても、彼女の婚約者の行いは罪にはならない。やがて伴侶となる相手と少し早く行為に及んだだけだ。
彼女は屈辱的だっただけでなく、同時にそのことがわかったのだ。だからこそきっと絶望したのだろう。
アリシアの話は――彼女が受けた仕打ちは、受け止めてあげるにはあまりにも重すぎた。知ったところで、僕に何ができるのだろうか? 彼女の言う通り、殺してあげるのが、彼女のためになるのだろうか?
アリシアはきっと幸せにはなれない。彼女の性格からして、嫌っている彼女の婚約者と今後迎合することはないだろう。今後も無理矢理犯され続けてて、やがて結婚して子供を産まされてボロボロになっていく。そんな末路しか思い描けなかった。
「ねえ、私のこと、殺してくれる気になった?」
アリシアはもう何度目になるかわからない問いを僕に投げかけてきた。
「……君の事情を知っても、僕には君を殺せない」
アリシアが失望するとはわかっていたけれど、僕ははっきりとそう答えた。彼女には死んで欲しくなかった。けれど不幸になって欲しくもない。
「あなたはそう言うと思ったわ」
アリシアは激昂したりはせず、ただひどく悲愴な面持ちでそう口にした。
何か打開策があればと考えたが、僕はそんな彼女にどうしてあげることもできなかった。
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