第14話 死にたがりと美術商と吸血鬼(1)

噛まれた瞬間、首筋に走る鋭い痛みにやっと死ねるとアリシアは思った。もう屈辱的な思いをしないで済む。嫌だったことも何もかも全部消える。感じなくなる。

 意識が朦朧としていく。きっと人間は血が足りなくなると死ぬものなのだ。

 相変わらず首筋はひどく痛む。けどやがてそれも直に感じなくなるのだろう。耐えきれなくなる頃にはきっと全てが終わる。

 自分の血を飲む吸血鬼に身を委ねたまま意識は暗く落ちていく。そんな最中(さなか)大きな音が響いた。それは銃声。次の瞬間、食い込んでいた歯が、唇がアリシアの首筋から離れる。そして吸血鬼はそのままアリシアにもたれかかるように崩れ落ちた。

 反射的にアリシアは彼を抱きしめる。自分よりも大きくて力も強いであろう、たくましいその身体を。確かな男性の身体の感触にアリシアは震えそうになるが、手にしたぬるっとした感触にすぐに意識が向く。

「っ」

 自身の手を見てアリシアは息を呑む。べっとりとアリシアの手を染める生ぬるいそれは気味が悪くなるくらい赤かった。

 すぐさまノエルを抱きしめたままアリシアは起き上がる。

 視界に銃を構えたギル・ウォッカが映った。

「お前、なんてことしてくれたんだ!」

 開口一番、ギルはアリシアに向かって怒鳴ってきた。

「それはこっちの台詞よ。自分の友人を撃つなんてどうかしているわ」

 負けじとアリシアは言い返す。ノエルの背中からは血が溢れ出していた。ギルは彼のことを銃で撃ったのだ。

「こうでもしなきゃお前は死んでたんだ」

「私は死にたかったわ。余計なお世話よ」

「誰がお前なんかのためにやるかよ。お前が死にたがっていようがどうだろうが知ったこっちゃないが、こいつに人を殺させるような真似をするな!」

「……」

 ギルの剣幕にアリシアは何も言い返せなくなった。ノエルを抱える腕にだけ力が入る。

 くらりと視界がかすかに揺れる。目眩がした。きっと血を吸われたからだ。また、ノエルに噛まれていた首筋からは依然としてわずかながら血が噴き出しており、その一部が胸の辺りまで伝ってきていた。

「……まだ血が出てるな。とりあえず止血するぞ」

 幾分口調を和らげながら、ギルはどこからともなく包帯を取り出すと、アリシアに近づいてきた。

自分よりも体格が良く、大きな――男性がアリシアへ迫ってくる。

「来ないで!」

 反射的にアリシアは叫ぶ。

「そうしたいのは山々だが、そのままにしておけないだろう」

 しかしアリシアの言葉など意に介さずギルは彼女の前にかがみ込み、包帯を巻くためその身体に触れようとする。

 異性が――男が至近距離にいる。大きく筋肉質で女よりはるかに強いであろう身体が、相手を支配して悦ぶであろう顔が、無骨な手が、指がアリシアを触ろうとしている。

「い、嫌ああああああああああああ!」

 たまらずアリシアは絶叫する。

「な、なんだよ……」

 気圧されたギルは後ずさる。

「止血しようとしているだけで、何も俺はアンタを取って食おうってわけじゃ……」

「嫌。嫌。嫌! 来ないで。触らないで!」

 アリシアは半狂乱になって叫び続ける。目の前の男をどうにかしたかった。アリシアを屈服させれるであろう男が怖くてたまらない。

「アリシア……」

「ノエル!」

 その時、アリシアの腕の中のノエルが声を発した。思わずアリシアは彼の名前を呼ぶ。

「ギル。アリシアに……、包帯を渡してあげて……、くれる、かな……?」

 彼はぐったりと倒れたまま喋るのも辛そうだったが、声を絞り出しそう言った。

「お、おう……」

 ギルは自身のベルトに身に付けている短剣を取り出し包帯を切ると、ぞんざいにアリシアへ差し出した。アリシアはそんな美術商に触れないように包帯を受け取る。

「アリシア……。それで……。血が出てる部分を押さえるんだ。……強めに。……力を入れて」

「ええ……」

 掠れた声で告げる彼の指示通りにアリシアは反射的にする。自分は死にたいはずなのに、彼の言う通りにしてしまう。

「君が、生きててよかった……」

 銃で撃たれ、息も絶え絶えなはずなのにも関わらず、穏やかな表情(かお)でノエルは笑った。アリシアに向けて、彼女が生きていることに安堵して。

「私は……、私はあなたに殺して欲しくて、あなたに血を吸わせようとしたのに、どうしてあなたは私なんかのことをそんなに気遣ってくれるの?」

そう問うアリシアの声は震えた。なぜかとても泣きたい気持ちになった。目が潤む。涙が出そうだった。

 馬鹿な人だ。本当に馬鹿で、そして吸血鬼の癖にとても優しいのだ。

「君には……、死んで欲しくないから……」

「私よりもむしろ今はあなたが死んでしまいそうじゃない!」

 ノエルの背中からは、アリシアなんかと比べものにならないくらい血が出ている。加えて銃弾もその背中に埋まってしまっている。

「僕は……、大、丈夫……」

「そんなはずないでしょう! あなたは銃で撃たれたのよ。今にも死んじゃいそうじゃない」

 もともとただでさえ色白なその顔は今や蒼白になっている。加えて彼自身もぐったりとしている。

「いや……、死なないよ……。……死ねないんだ、僕は……」

 しかしノエルはそう言ったきり、目を閉じ完全にアリシアに身を委ねてきた。まるで力尽きたかのように。

「ノエル! ノエル! 返事してよ。死なないで」

 力を失った彼の身体を揺さぶるが返事はない。

「ノエル!」

 アリシアは彼の名前を叫ぶ。その身体を揺さぶる。もう一度何か反応を示して欲しかった。しかし彼はもう身じろぎすらしなかった。

「大丈夫だ。そいつは死なない」

 取り乱すアリシアの頭上に冷静なその声は降ってきた。

「どうしてそんなこと言えるの? このままじゃ彼は死んでしまうわ」

 アリシアは立ち上がり自分を見下ろしていたギルをキッと睨みつける。

「そいつも言ってただろう。死なない、いや死ねないって」

「そんなはずないでしょう! こんな大怪我、このまま放っておいたらすぐに死んでしまうわよ!」

「普通の人間だったらな。だがこいつは吸血鬼なんだ」

「吸血鬼だからって死なないなんて確証はないじゃない」

「いや、あるさ。七年前がそうだった」

 苦虫を噛みつぶしたようにギルは言った。

「アンタが知ってるかはわからないが、俺は七年前にもこいつを撃ったことがある。現に今もそいつの出血、もう止まってるだろう?」

「そんなはず……」

 あるわけないと続けたかったアリシアの言葉は彼の背に手を這わせるうちに消える。彼の背中は大量の血液でべったりとしていたが、ギルの言うとおり、新たな出血はなくなっていた。

「そいつはどんな大怪我を負ってもすぐに癒えてしまうんだ。吸血鬼は人間の血を吸うだけじゃなくて、驚異的な治癒能力も持ち合わせているのさ。だからそいつは死なない。たとえそいつが死にたがったってな。死ねやしないんだ。銃で撃ったって刃物で刺したってそいつの身体は元通り癒える。俺はそれをこの目で見てきたんだ」

「……たとえそうだとしてもこのままにはしておけないでしょう」

アリシアは倒れ込んだまま身動き一つしない血塗れのノエルを抱え込んだままギルを見据える。

「まあ、それは一理あるな。とりあえず血塗れの服を脱がせてベッドに寝かせる。傷口は綺麗に拭いて消毒もする。そいつの身体、貸してもらってもいいか?」

 ギルは手振りでノエルの身体を寄越せと示す。

 アリシアは恐る恐る立ち上がろうとする。しかし大の男の身体は重く抱きかかえ続けられそうになかった。

 どうすればとアリシアが逡巡していると、ギルは再び彼女の前にかがみ込んだ。アリシアは思わず肩を震わせてしまう。

「ノエルの身体をこっちに預けろ」

 ノエルの身体を受け取ろうとするギルにアリシアは硬直してしまう。無意識のうちに彼の身体を離すまいと抱き締めてしまう。

「……俺は別にアンタに危害を加える気はない。アンタの力じゃそいつを運べっこないから、貸せって言ってるんだ」

 その言葉にアリシアはなんとか腕の力を緩め、ノエルの身体をギルに差し出す。ノエルの身体をギルが抱きかかえる瞬間、彼との距離が最も縮まった。

「ッ」

 叫びたくなるのをアリシアはなんとかこらえる。ギルは何事もないかのようにアリシアからノエルの身体を担ぎ上げた。

「そんなに怖がるなよ。俺はアンタに何もしない」

「私は別にあなたを怖がってなんか……」

「そうか。まあ、どっちでもいいけどな。ただ、その胸元は正した方が良いと思うぞ。目のやり場に困る」

 ギルにはだけた胸のことを指摘され、アリシアの頬は熱くなる。慌てて自身を抱き締め、ほぼ丸見えになっていた膨らみを隠す。

 ギルはそんなアリシアにはお構いなしに、ノエルの身体を抱えたまま歩き出した。寝室にでも連れて行くつもりなのだろう。

 アリシアは胸元を正すとギルの後を追った。

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