第10話 アリシアの傷(2)

「アリシア」

 僕はその名を呼びながら、先程彼女を連れてきた辺りまで歩く。湖の畔に彼女の姿はない。

「ノエル……」

 どこに行ったのだろう? と考え込んでいると僕の名前を呼ぶアリシアの声がした。僕は彼女の声がした方へ自然と視線を向ける。

 アリシアの姿は湖の中にあった。僕がいる湖畔から数メートル離れた地点に。

 彼女の身体は腰まで水に浸かっていた。

 僕は絶句し、その場に立ち尽くした。目がアリシアに釘付けになった。

 なぜなら彼女はシャツを着ていなかった。一糸纏わぬ姿で僕とは違う、全体的に丸みを帯びて華奢な肢体を晒した状態で湖の中にいたのだ。

 僕と違って膨らんでいて柔らかそうな胸。その先端の瑞々しいピンク。アリシアは手で前を隠すことすらしないまま立っていたからそれがはっきりとわかった。ほっそりとしたお腹から水の中の腰へと続いているであろう丸くほっそりとした印象を与えるその身体の曲線。それがとても綺麗で、これが女性なんだとそんなことを思わせた。

 僕はアリシアの、女性そのものな身体に見惚れていた。けれどその色白で綺麗な肢体に似つかわしくないものがアリシアの身体にはあった。

 打撲痕。それが彼女のお腹回りに何箇所かあり、そこだけ青黒くなっていた。

 なぜお嬢様であろう彼女の身体に、しかもどう転んだって打ちつけなさそうなお腹にそんな傷があるのだろう?

 そんな疑問が頭の中に浮かんだ時、僕は視線に気づく。ハッとし目線を上げると、素肌を晒したアリシアの、茶色い意思の強そうな目が無言で僕のことを見つめていた。

「ご、ごめん」

 僕は慌てて謝りアリシアから背を向けた。そしてそのまま駆け出した。すぐさま先程いた木の元まで走り、その幹の後ろに隠れると、そこに背を預け座り込む。

 見てしまった。女の子の裸を。嫁入り前の女の子の身体を。将来を約束したわけでもないのに見てしまった。

 実物はあんな風になっているんだ。

 アリシアの肢体が蘇る。華奢で丸みを帯びた肩。膨らんだ質量感溢れる胸。くびれていた。

 書物で少しだけ身体の作りについては勉強したことがある。少しだけ触ったこともある。

 けれど下半身は水の中に隠れていたとはいえ、その肌を見たのは初めてだった。

 骨格、筋肉や脂肪の付き方、全てが僕とは違っていた。

 身体が熱くなる。良くない方向に、自身が興奮していくのがわかる。

もっとアリシアの身体が見たい。水の中に隠れていた部分も知りたい。暴きたい。その肢体を触りたい。犯したい。首筋に噛みつきたい。血を飲みたい。その血液を吸い尽くしたい。

 心臓も再び嫌な音を響かせる。大きく僕の内部で高鳴っていた。

 性的欲求と吸血衝動とがごちゃごちゃになる。混ざる。僕の意識を蝕む。理性を本能が侵食していく。

 頭を思い切り左右に振り押さえる。強く、両手で。締め付けられる痛みが頭に走る程に。

 息をできる限りゆっくり吸う。そして吐く。

 冷静にならないと。

 先程と同じ要領で僕は自身を落ち着けようとする。

 脳内に浮かぶありとあらゆる思考を追い払う。全て。先程見たアリシアの裸体を極力思い浮かべないよう、努める。

 そうしながら深呼吸し続けていると再び僕は自身が落ち着いていくのを感じる。背中から伝わってくる幹のでこぼこした感触がひどく心地よかった。

 だがまたアリシアの元へ行く勇気はなかった。

 きっとアリシアは傷口の血を洗い流すだけでなく水浴びもしていたのだろう。彼女がそれをいつ終えるか僕にはわからなかった。また彼女の裸を見てしまう事態は避けたい。

 僕は座り込んだまま動けなかった。立ち上がることさえできなかった。

「ノエル」

 ぼんやりとただ目の前に映る景色を眺めて続けていると、ふいに頭上から声が降ってきた。

「アリシア!?」

 声の主の方を反射的に見ようとしていた僕は慌てて逆方向へ顔を逸らす。

「そんなに顔を背けなくても、服はもう着たから大丈夫よ」

 そんな僕の様子を見てアリシアは言った。

「そ、そうなのかい」

 僕は恐る恐る彼女の方へ視線を遣った。

 そこには僕のシャツを着て僕のことを見下ろすアリシアの姿があった。

「どうしてそんなに私に対してビクビクしているの? 私の血のせい? 突然洗い流せだなんて湖に連れてきたりしたけれど」

「それもあるけど、見ちゃったからさ」

 裸をとは言いづらくて曖昧にぼかす。

「『見ちゃった』? もしかして私が水浴びをしていたところのこと?  ……悪かったわね。あなたがいつ戻ってくるかわからなかったし、せっかく水のあるところに来たから身体を清めたくなったのよ。今はもう服は着ているでしょう」

「別に君が謝ることじゃないよ。ただ、その、良くなかったと思うんだ。婚約者でもなんでもない僕なんかが見て良いものじゃなかったからさ。ごめん」

「どうしてあなたが謝るわけ? 服を脱いで勝手に水浴びをしていたのは私よ」

「身体を見られて嫌だったりしなかったのかい? 僕みたいな、見ず知らずの男にさ」

 怒りもせずむしろ首を傾げるアリシアに言う。メイスン家という高貴な家柄であろうところの令嬢なはずなのに、なぜか彼女からは異性に対する恥じらいが感じられない。

「こんな身体、見られたって構わないわ。もう隠す価値なんてないもの」

「もうも何も女の子の肌はそんな不特定多数に見られていいものじゃないと思うよ」

「そうかしら。でもあなたを驚かせたことは謝るわ。ごめんなさい」

「僕は別に謝って欲しくて言ったわけじゃ……」

「私、突然だったからあなたに貸してもらったスケッチ道具一式、落としてしまったんだけど」

 あまりにも自分の身体に関して無頓着な口振りに不安になったが、アリシアはそんな僕の言葉を遮ってそう口にした。

「それは、ごめん。僕も自分の画材を放り投げて来ちゃったから取りに戻ろうか」

 僕が突然彼女を湖まで引っ張ってきたのだ。落としてしまっても無理もない。僕自身も自分の画材を投げ捨ててきてしまっていた。

 僕は立ち上がると、アリシアと元来た獣道へ歩き出した。











  


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