第11話 美術商の彼(1)

アリシアが僕の元にやってきてから三日目となった。結局天気が悪かったのは彼女が僕のところへ訪れた日のみで、今日もまた快晴だった。

 アリシアは今、彼女がここへ来た日に身につけていた旅用のドレスを着ている。彼女は僕のシャツ一枚のままでも良いと主張したが、僕としてはよろしくないため着替えさせたのだ。それに今日は美術商である彼も来るため、あらぬ誤解を抱かせる訳にもいかなかった。

 美術商である彼――ギル・ウォッカは定期的に僕のところへ食料や生活用品、あと吸血用の牛や豚を連れてきてくれる。美術商としての仕事の合間を縫って来てくれているため、その間隔はまちまちだったが、その頻度は大体週に一、二回ぐらいだった。

 その彼にアリシアを託そうと僕は思っていた。商売柄様々な貴族と繋がりのある彼ならば、無事アリシアを彼女の父親や婚約者の元まで送り届けてくれるだろう。

 僕は隣で丁寧に洗い終えた皿を拭くアリシアの方へ目を遣る。朝食を共に食べ終えた彼女には今、食器の後片付けを手伝ってもらっていた。僕が洗い物担当で彼女が拭く係。

 朝食を食べ終わった後、アリシアが何か手伝いをしたいと言うので、お願いしたのだ。

 おそらく食器類を拭くなんて行為、一度もやったことがないのだろう。彼女は真剣な面持ちで取り組んでいた。

「どうしたの?」

 僕の視線に気づいてか、アリシアはそう尋ねてきた。僕のことをじっと見つめてくる茶色い瞳はどこまでもまっすぐだ。

「手伝ってくれて、ありがとう。助かるよ」

「あなたにはとても良くしてもらっているもの。これぐらい当然のことよ。むしろ足りないくらいでしょう」

「そんなことないよ」

「そんなことあるわ」

 僕としてはもっとアリシアに何かしらして欲しいとは考えていなかったが、彼女はそうは思ってくれなさそうだったので、それ以上言い返すのはやめた。

 アリシアは昨夜もまたひどく怯えていた。今のような強気で毅然とした様子からは想像もつかないくらいに。

 昨日も、どうしても一人は怖い、嫌だという彼女と手を繋いで眠っていた。しかし夜中、僕はどうしても用を足したくなり、アリシアの手を離し一人外に出ようとした。

“行かないで! 一人にしないで! あの人と二人きりになるのは嫌!! 嫌なの。やめて。お願いだから!!”

 その時彼女は僕の背に必死でしがみついてきた。

“お、落ち着いて。ちょっとトイレに行くだけだよ。すぐ戻ってくる。君を一人にしようだなんて思ってないし、ここには僕ら以外誰もいないよ。野犬や狼だって僕がいる限り襲ってくることはないし“

 思わず尋常じゃないくらい取り乱すアリシアの肩を抱く。彼女の体温と震え、そして華奢で柔らかな感触が伝わってきた。

“ご、ごめん”

 僕は慌てて彼女の肩から手を離す。代わりに手近に置いてあったランプを灯す。

“すぐに戻ってくるからさ。それにほら、ここには僕と君以外誰も、何もいないよ。だから少しの間だけ待っててくれるかな”

“嫌。嫌。嫌ぁ……”

 周囲をランプで照らしてなだめてもアリシアは首を横に振り、僕の両腕を掴んで離さなかった。ランプによって映し出された彼女の顔は今にも泣き出してしまいそうで、今にも壊れてしまいそうな危うさを孕んでいた。

 結局彼女を一人残していくことはできず、僕らは一緒に外へ出たのだった。

 そんな時折異常なまでの怯えを見せ不安定になる点が気がかりだった。しかし、このまま吸血鬼で男でもある僕と一緒にいる方がアリシアにとって良くないだろう。一度彼女のいるべき人間達の元に返した方が彼女のためになるに違いない。

 たとえ、アリシアが彼女の親や婚約者と上手くいっていなかったとしても。身内なのだからきっと話し合えば理解し合えるだろう。

 それに僕は怖かった。いつか吸血衝動を抑えきれなくなり、人間である彼女を本当に殺してしまうかもしれなくて。

 舌が乾いていた。喉がカラカラだった。朝起きてから、水は何度も飲んだのだが、その渇きは満たされなかった。

 昨日で吸血する家畜が全て死んでしまったため、今朝はまだ血を吸えていない。そのせいに違いない。

 この渇きは血でなければ満たせない。吸血鬼である僕の身体は血を欲するようにできている。どんなに血を吸うのが嫌な時でも、身体は血液を欲する。一日一回は必ず吸血しなければならない。

 アリシアを美術商の彼に引き渡した後、吸血するつもりだった。

 だからあと少しの辛抱だ。

「今朝は血を飲みに行かなかったけれど、やっと私のことを殺してくれる気になった?」

 後片付けが終わりテーブルで一息吐いていると、アリシアが僕の前にやって来てそう言った。

「いや、なってないよ。ただ血を吸う動物がいなくなっちゃったからなだけで。今日また連れてきてもらったら、吸わせてもらうつもりだよ」

 彼女はすぐ僕に殺してもらいたがる。だから即座に否定し、答えた。

「連れてきてもらう? どういうこと?」

「昨日話した、僕のところへ絵を引き取りに来たり、定期的に食料や生活用品を届けてくれる美術商の彼――ギルが、吸血用の動物も連れてきてくれるんだ」

「その人が今日、来るの?」

 アリシアの声音が固くなる。

「そうだよ」

 そんな彼女の変化が引っ掛かりつつも、別に隠し立てすることでもないので僕は頷く。

「もともとその予定だったんだ。あと彼に君を家族の元に帰してもらう仲介役になってもらおうかなって思ってる。吸血鬼である僕はノーベルハイドの街には近づけないし。ギルは美術商として貴族の間で顔が広いし、きっと君を無事家族と――父親と婚約者に引き合わせてくれると思う。対応も慣れているはずだから、できる限り穏便に事を済ませてくれるだろうし」

「私を帰すですって!?」

 アリシアは眉を吊り上げる。刺してくるような鋭い声音。今にも怒り出しそうな気配を僕は感じる。いや、もうすでに彼女を怒らせているのかもしれない。けれどアリシアのためにも言わなければならない。

「うん。一度父親や婚約者ときちんと話し合った方が良いと思うよ。家族なんだからさ。君がなぜそんなに死にたがるのか僕にはわからないけれど、一度冷静になった方が良い。それに吸血鬼で、しかも男である僕と一緒にいるのは危険だよ。外聞が悪いし、君のことをいつか殺してしまうかもしれない」

「だから私はそれを望んでいるわ! あなたに殺して欲しいってずっと言ってるじゃない!!」

 アリシアは怒鳴る。その大きな、興奮のためかわずかに震えた声と、僕を睨みつける瞳の鋭さから、彼女の怒りのボルテージが上がっていくのが目に見えるかのようだ。

「それはわかってるけど、僕は君を殺したくない。それに君に死んで欲しくないと思うよ」

「わかってない! あなたがどう思うかなんて関係ないわ!」

「君の家族だって、一緒に来たっていう父親や婚約者だってもし君が死んだりしたらきっと悲しむよ」

 激昂し続けるアリシアをなんとかなだめたくて僕は言う。

「私が死んだって父ぐらいしか悲しまないわよ」

「じゃあ父親のためにもさ……」

「あの人の元へ帰されるくらいなら死んでやるわ!」

「……」

 どうもアリシアが死にたがっている原因は、彼女の婚約者にあるようだ。

 そういえば彼女は自分の婚約者のことを大嫌いだと言っていた。リリのことを愛していた僕にはにわかに理解しがたいことだったが。

「そんなことで死ぬのは良くないよ。君と君の婚約者はいずれ夫婦になるんだし、もっとお互いに話し合ってみた方が良いんじゃないかな? きっとお互いに誤解している部分とかもあると思うよ」

 近い将来結婚する相手なのだ。アリシアのようなお嬢様の相手となればそれなりの身分のはずだ。単純にお互いのことを知らなさ過ぎてすれ違っている。それか相手の一部だけで決めつけてしまっている。出会った当初のリリと僕みたいに。コミュニケーション不足。婚約者との不和なんてそんなことが大半だ。

「何も知らない癖に勝手なこと言わないでよ!」

「勝手も何も、話さないのは君の方じゃないか」

 僕に対し変わらず大声で叫ぶアリシアに思わずそんな言葉が口から零れた。

「私は……」

 勢いそのままに何か発しようとしたが、アリシアは唇を震わしたまま引き結び、押し黙った。僕に対する怒りを抑えようとしているのか、彼女の華奢な肩もまた震えていた。

 キツイことを言ってしまったのかもしれない。けれど彼女に一方的に責め続けられるのは理不尽な気がした。

「私には自分がどうやったら死ねるのか、その死に方がわからない。だからあなたの元へ来たのに……。ノーベルハイドの人殺しの吸血鬼なら私のことを死なせてくれるに違いないって思ったからここに来たのに……」

 アリシアの茶色い、鋭く僕を睨みつけていた瞳が揺らぐのが見て取れた。それは光りたゆたう。いつの間にか彼女は瞳いっぱいに涙を湛えていた。

 その時外から牛の鳴き声が聞こえてきた。それとともに荷車を引く音や足音も。それらの音は徐々に大きく聞こえてきて、この家に近づいてきていることが容易に察せられた。

「ギルだ。彼がここに到着したみたいだ」

 僕はドアの方に視線を遣った。

「とりあえず続きは彼を交えて話し合おう」

「……」

 アリシアは無言のまま僕をキッと睨みつけると、そのまま踵を返し、部屋から出て行った。宙を光った雫に僕は慌てて彼女の後を追おうとする。

 しかし、その時玄関のドアをノックする音が聞こえてきた。そのため、僕は影を縫い付けられたのように立ち止まる。

 どうしよう?

 泣いていたアリシアをこのまま放っておけないし、かといってわざわざ来てくれたギルをこのまま待たせ続けるわけにもいかない。

 とりあえず僕は玄関のドアを開け、ギルを出迎えることにした。

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