第9話 アリシアの傷(1)
本格的にスケッチをし始めてそうそう、草をはみ終えた鹿の親子は去っていってしまった。しかしあたりは取っていたので、僕はそれに基づきスケッチブックに描き出していた。観察していた鹿の様子を――草をはんでいた時、身体を起こした時、歩き出した時の足等の身体の筋肉の動き方をよく思い出しながら。
こうだったか、またこう描くべきかと迷いながら線を重ねていったので、スケッチはかなり雑多で汚いものとなってしまった。けれど練習なので、まあ良しとする。また後日新しいページに線をもっと整理したものを描き直そう。
そんなことを考えながら手を動かしていると
「やっぱり上手ね」
僕のスケッチを覗き込み、アリシアは言った。
「いや、汚くなっちゃったし想像で描いてる部分も多いから全然だよ」
「私から見たら十分上手だと思うわ」
「ありがとう。君はどう?」
僕は描けた? とは気恥ずかしくて訊けなかった。
アリシアのスケッチブックも覗き込もうとすると、彼女は胸に抱え込み隠した。
「まずまずよ」
「僕に見せてはくれないのかい?」
「全然上手く描けていないもの。とてもあなたに見せられるような出来じゃないわ」
「別に上手くなくてもいいよ。ただ単に君が描いたのを見てみたいだけだしさ」
「……」
じっとアリシアは僕を見つめる。
「どんな出来でも、僕は笑ったり貶したりとかしないよ」
「……」
そうなだめると彼女は無言のままスケッチブックを押し付けてきた。そしてそっぽを向く。
僕は渡されアリシアのスケッチブックを見る。
彼女の言う通り、そこに描かれた絵は上手いとは言い難いものだった。髪、目、鼻、口、輪郭、首、胴体。人間を描き出そうとしていることがなんとか伝わるレベルで、前情報なしでは僕だとはわからなかったかもしれない。しかし彼女なりに頑張ったのだということは確かに伝わるものだった。
「退屈していないようで良かったよ。それに本当に僕を描いていたんだね。なんだか照れるよ」
「全然あなたっぽく描けてないけれど」
「仮にそうだったとしても僕は純粋に嬉しいよ」
アリシアが自分のことを見て描き出そうとしてくれたという事実自体が僕にはとても温かく感じた。
「……もう十分でしょう。返して」
彼女はなぜか頬を紅潮させ、僕の手からスケッチブックを奪い取った。そして見えないように抱え込む。
「ところで、お腹空かないかい? そろそろ昼食を取るために帰ろうと思うんだけど、まだ続けるかい?」
「私はあなたに従うわ。あなたがそう思うのなら帰りましょう」
アリシアは僕よりも先にその場から立ち上がった。こんなにすんなりととは思っていなかった僕の方が自身のスケッチブックを閉じたり筆記具やナイフをまとめたりと慌ててしまった。
「あ……」
置き忘れたままの筆記具等がないかどうか周囲を見回していると、地面に立つアリシアの素足が視界に入った。その瞬間、僕の視線はそこから外せなくなってしまった。
おそらく生えている雑草達の上に座っていたため、切ってしまったのだろう。彼女の色白でまっさらな素足からは赤い血が滲んでいた。ちょうど膝のやや下辺りに斜めの線が両足とも複数走っており、そこから彼女の血液は溢れてきていた。傷口を満たす程度のもの。少し深めに切ったと思われる箇所からは傷口に収まりきらなかった分が丸い小さな血溜まりを複数作り出しており、それぞれの傷口を彩りでもしているかのようだった。
赤い。にごりのない真っ赤で新鮮な血液。
それがアリシアの傷口から溢れ出している。
身体が熱くなる。ドクリと心臓が嫌な音を響かせ鳴る。
舐めたい。
その溢れ出している血液を全て吸い尽くしたい。
彼女の中で生み出されているであろう血を全て飲み干したい。
駄目だ!!
なんとかアリシアの素足、そこに刻まれた傷口、溢れ出す血から視線を引き剥がすと僕は持っていた物を全て投げ出し彼女の手を取る。
「ちょっと、ノエル。一体どうしたのよ!?」
そのまま走り出す僕に引っ張られる形で駆け出すしかなくアリシアは声を上げるが、それに対して返答する余裕はなかった。
僕は無我夢中でアリシアの手を引きながら森の中を駆ける。
血を流す彼女をなんとかしないと。
なんとかしないと僕は……。
僕は……。
七年前のことが脳裏によぎる。
血の気のない顔を晒し、仰向けに倒れていたリリ。
いつの間にか口いっぱいに含んでいたリリの血。それを吸いつくしていた僕。
もう一度アリシアの傷を――そこから流れ出す血液を見たら彼女はリリの二の舞いになるだろう。
口の中が乾く。
血。血が飲みたい。
アリシアの傷口から溢れる血は赤かった。彼女の肌とあいまってとても鮮やかな色をしていた。きっとそれはとてつもなく美味で、僕に充足感を与えてくれるに違いない。
取り憑かれそうになるその思考を振り払いたくて、僕は頭を左右に振る。
そうしながら走っていくと目の前に湖が現れた。
「血が出てるから、洗って。そこの湖で」
立ち止まると、欲望でぐちゃぐちゃになりそうな頭をなんとかなけなしの理性で抑えつつ、僕はアリシアに言う。
彼女と目は合わせられない。彼女の顔すら見るのは危険な気がした。だからどんな表情をしているかはわからない。
もしかしたら突然のことに戸惑ってるかもしれない。
でもそうしてもらわなければ困る。
「血を洗い終わったら教えて。それまで向こうに行ってるから……」
なんとか一方的にそう告げると、僕は彼女から背を向け離れた。手近な木の後ろに隠れ、その幹に背をもたれかけさせたまま座り込む。
身体はまだ熱く心臓はドクリ、ドクリと嫌な音を響かせ高鳴っていた。
それらを落ち着かせようと僕は深呼吸をする。大きく息を吸って吐くという動作を繰り返す。
人間に対する吸血衝動。
それがまた僕を支配しようとしていた。
アリシアの傷口から溢れ出ていた血を吸いたくてたまらなかった。身体にある血液を全て飲み尽くしたくなっていた。それを自分の身体は求めていた。求めようとしていた。
どう頑張ったって僕は人間にはなれない。人間と共に生きていけない。
傷つけてしまう。あまつさえ殺してしまう暴力的衝動が僕にはある。
やっぱり僕は吸血鬼なんだ。化物なんだ。人外の生き物なんだ。
その事実を今もまた突きつけられた。
頭がクラクラした。思考がぐちゃっとなっている。アリシアの膝下から溢れ出していた赤がいまだにちらついていた。口の中に残っていたリリの血の甘美でこの上ない充足を僕の身体に与えたあの味さえも蘇ってくる。
吸血鬼としての本能に侵されている。普段極力封じ込めてきているそれが吹き出してきている。そんな感覚がした。
普段の、普通の人となんら変わらない、ただの画家で人間として生きたいノエル・ファリントンとしての自分。生き物の血液を――本当は人間の血を欲している吸血鬼である自分。その二つは切っても切り離せない。
人間と吸血鬼。僕に流れている両方の血がそれを許さない。
僕は吸血衝動に襲われた自分を完全に制御することはできない。
人間の、しかも女の子であるアリシアがそんな僕と一緒にいるのはやっぱり危ない。
いや、でもアリシアは元々僕に殺されたがっていた。吸血鬼の僕に会いに雨の中やって来た。
僕が吸血衝動に身を任せて襲えば彼女はむしろ喜ぶのかもしれない。
けれど、たとえそうだとしても、自分の吸血衝動という欲望でアリシアを殺してしまうなんて、僕が嫌だ。そんなことはしたくない。
彼女をリリと同様に吸い殺してしまうであろうのも僕。そんなことをしたくないのも僕。相反する二つの感情。矛盾している。
しかし僕はそう思っている。理性の効く通常時の意識下では確かに。
うなだれてしまっていた頭を上げると背が木にもたれかかっていたため、視線は自然とまっすぐと前を向いた。
目の前にはノーベルハイドの森。木々が幾本も生い茂り、地面には草花達が広がっている。そして僕の背後にはアリシアがいる湖がある。穏やかで綺麗な水面を湛える湖が。
湖は端の方ならばそんなに深くなく、水深はせいぜい腰まで浸かるか浸からないか程度である。だから水浴びをしによく来ていた。そんな馴染みの場所でもあったので、アリシアをすぐさまここに連れてくることができたのだった。
周囲は穏やかだった。普段と何も変わらない、平穏そのものといった風情。
鳥のさえずりが耳に入ってくる。木々が揺れ生い茂った葉が揺れる音もした。吹いた風が頬を撫でる。
背中にはでこぼこした幹の感触が確かにあった。
それらを知覚できる程度に思考がまとまってくる。平常時の僕が、何の衝動にも駆られていない自分が戻ってくる。
僕は大きく息を吐く。
なんとか平常心を取り戻すことができた。
そういえばアリシアはどうしているだろうか?
一方的に湖まで連れてきて指示しておいて一人きりにさせてしまった。今頃傷口の血を洗い流し、どうすればいいのか手持ち無沙汰にしているかもしれない。
僕は自分の胸に手を当てる。まだやや速いが、アリシアの傷口から溢れる血を見た時程動悸はもう激しくない。
もう彼女と会っても大丈夫なはずだ。
僕は木の幹から背を離し、立ち上がる。そして再び湖の方へ向かった。
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