第6話 ノーベルハイドの吸血鬼(4)

「着いた。今日はここで絵を描こうと思ってるんだ」

 僕はアリシアにそう告げた。

「ねえ、あなたが描きたがっている動物というか鹿達が遥か前方にいるわよ。もっと近づかなくても良いの?」

 すると彼女は顎を突き出し、前方を指し示した。彼女が見つめている先には鹿の親子がいた。オスと違い大きな角がない母親と、その子供が二匹。僕達とは距離が遠く、その姿は小さく片手並の大きさで視認できる程度だった。

「いや、ここでいいよ。僕がこれ以上近づくと逃げられてしまうから」

「そう? でもこんなに遠くからスケッチなんてできるの?」

「う~ん。正直あまり正確にはどうしてもできないかな。一応図説なんかを見て骨格とか身体の作りは勉強したからある程度予測を立てて補って描くことはできるけれど。本当はもっと近くで観察したいとは思うけれど、僕は吸血鬼だから」

「じゃあ人間である私がまず鹿達のところに行って彼らの警戒をとってくるわ。私は動物に懐かれやすいもの。そうすればあなたももう少し間近からスケッチができるかもしれないわ」

「いや、それはできないからやめた方がいいよ。というよりも君に怪我をさせてしまうことになりかねないからやめて欲しいかな」

 今すぐ鹿の親子の元へ駆け出して行きかねないアリシアを止める。

「そんなの、やってみなければわからないじゃない」

 彼女はそう言って食い下がってきた。

「過去に君と同じようにしてくれた子がいて――彼女の場合は僕に犬を撫でさせてくれようとしてくれたんだけど、怪我させちゃったことがあるからさ。だからやめよう」

 そう彼女をなだめながら脳裏にリリのことがよぎった。癖毛だという茶髪をいつも丸く一つにまとめていた、僕の婚約者だった女の子のことが。

“別にノエルは危害を加えたことがあるわけじゃないんでしょう? むしろ仲良くしたいんでしょう? じゃあそれをラッシュにもわからせてあげないと。ノエルは優しい人だって”

 唯一癖がないという顎まである前髪を真ん中で二つに分けていたリリは僕に向かってそう言うと、僕の存在を悟らせないよう飼い犬のラッシュの気を引いた。クリーム色の美しい毛並みを持つ大型犬であるラッシュを抱きしめるようにしながら戯れ、僕が来ても逃げられないように、また手出しできないようにしてくれていた。

 その時の僕はリリの気遣いを無駄にしないため、ラッシュに近づき手を伸ばそうとしたのだ。ただその頭を撫でようと。

 しかし僕の存在に気づいた瞬間、それまでおとなしかったラッシュけたたましく吠え始め暴れ、リリの腕に噛みつき逃げ出した。

 リリの噛まれた腕からは少しだけ血が出ており、僕はその赤に真っ先に心を奪われていた。リリの怪我の心配など二の次で。

 今思えば僕は昔からずっと吸血鬼だった。

「わかったわよ。ところで彼女って誰?」

 鹿の親子に近づこうとするのを諦めたアリシアはしかし、僕の言葉が引っ掛かったのだろう。彼女はリリのことを尋ねてきた。

「リリ。リリ・オルコット。僕の婚約者だった女の子で、七年前に僕が殺してしまった人のことだよ」

 別に隠す必要もないので、僕は答えた。アリシアは僕が人殺しの吸血鬼だと知っているのだから。

「あなたはその子のことを憎んでいたの?」

「憎むだなんてとんでもない。誰よりも愛していたよ」

 思わぬ問いかけに僕は否定する。

「でもあなたはその子のことを殺したんでしょう?」

「殺すつもりなんてなかったんだ。けれど、殺してた」

「どういうこと?」

 アリシアはさらに問い詰めてきた。

 ああ、そうか。殺すという行為は通常自発的に行われるもので、無意識下にしてしまっていたなんてものじゃないのだ。だから何も知らない彼女は腑に落ちず、尋ねてくるのだ。

「本当は別のことをしようとしていたんだ。けど気づいた時にはリリの血を吸い尽くしていたんだ」

 あの時僕達は互いの身体を抱き締め合いキスをし、そしてその先のことを行おうとしていた。そうするはずだった。僕はそのつもりだった。リリもそうだった。最後にはにかむように僕を見上げ彼女が微笑んだのを覚えている。

「……最初から話すと長くなるんだ。立ったまま話しているのもなんだからさ。一旦その辺にでも座って絵を描く準備をしてから、スケッチしながら話そう」

 これ以上突っ込んでもいいものか逡巡するかのような瞳で見つめてきたアリシアに僕は言った。

 アリシアは僕がなぜリリを殺したのか気になるだろうし、僕も今まで誰にも話す機会がなかったことだから彼女に知って欲しくなった。それに胸の内を明かせばもしかしたらアリシア自身のことも話す気になってくれるかもしれない。そんな思いも湧いてきていた。

「この辺にでも座って描こうか」

 とりあえずずっと立ちっぱなしでいるわけにもいかなかったので、少しだけ歩き真正面に鹿の親子が見える位置に僕は腰を下ろした。アリシアも僕の隣に座り込んだ。

「ごめん。何か敷物を持ってくればよかった。痛くないかい?」

 草達の上に素足を折り曲げ斜めに倒して座るアリシアを見て僕は自らの過ちに気づく。彼女はズボンを履いている僕と違って、足を守るものが何もない。草花の上に肌が直接触れれば痛いだろうし切ってしまう可能性も高い。

「少しチクチクするけれど、平気よ。痛くて耐えられないって程でもないし。あなたが気に病む必要はないわ」

 当のアリシアはそう言い、痛がる素振りは特に見せなかった。

「ならいいけれど。でも本当にごめん」

「そんなに謝らないでよ。私は平気だって言っているでしょう!」

「ご……う、うん。そうだね」

 キッとアリシアに睨みつけられ反射的に出かかった謝罪の言葉を慌てて飲み込む。

「……これ君の分のスケッチブックと鉛筆と、あと消しゴム。これに今日は描いたりしてもらえるかな?」

「わかったわ。……ありがとう」

 アリシアはなぜか僕と目を合わさずにスケッチブックと鉛筆と消しゴムを受け取った。

 鹿の親子は相変わらず前方にいて、母親一匹子供二匹のその姿が遠く小さいながらもよく見えた。首を折り曲げ地面へ顔を近づけていることから、草花をついばんでいるようだった。

 いつ鹿の親子がどこか別の場所へ移動し始めてもおかしくなかったので、僕はサッと実際に見える景色よりもズームさせた形でパースだけ取る。

「さすがプロね。上手だわ」

「いや、僕なんてまだまだだよ。それにまだ雑にあたりを付けただけだし。……君も描き始めるといいよ」

 アリシアのスケッチブックは真っ白なままで、線の一本も引かれていなかった。

「でも私、あなたみたいに上手に描けないわ」

「別に上手に描く必要はないよ。僕みたいに絵で食べてる場合は別だけれど。上手く描けなくても、描くこと自体がきっと楽しいし、良い気分転換になると思うよ」

 上手い下手を気にする彼女に僕は言う。僕は小さい頃「描く」という行為自体に夢中になっていたし、面白く思っていた。もちろん上手く描ければより楽しいし、そうなりたいとも思って僕自身は今もなお努力を重ねているところだけれど、それは二の次だ。殺して欲しいと言うアリシアの心が少しでも晴れれば。そんな考えもあった。

「僕みたいに鹿の親子を描くのもいいし、森の木々や草花を描いてもいいし、スケッチが嫌だったら君の想像するものでもなんでもいいからさ。とにかく描いてみると良いんじゃないかな。描くこと自体に意味があると僕は思うよ」

「……そうね。なんでもまずはやってみるべきよね。上手くできるかどうかじゃなくてやってみるのが大切よね。……じゃあ私はノエル――あなたを描くことにするわ」

「ぼ、僕!? ……別に構わないけど、もっと良いモチーフがここにはいくらでもあるしいるよ」

「そうだとしても私はあなたがいいの」

「そ、そう。君がいいのならそれで……。ちょっと気恥ずかしいけど」

 僕が鹿の親子やその周囲の景色を目を凝らして観察し描くように、アリシアは僕のことをじっと見つめながらスケッチするのだ。

 変な表情や動作をしてしまわないか? またしていないか?

アリシアの目を意識してしまうとそんなことが気になり、つい一挙一動が固くなってしまう。見られているという独りきりの時には決して生じない状況に、変な緊張感が僕の全身を走り、特に心臓がなぜかすごくドキドキした。

「……ねえ、さっきの話の続き、聞いてもいい? あなたがどうして人を――あなたの婚約者だった女の子を殺したのか」

 鉛筆を動かしていたアリシアはふいにじっと僕へ向ける視線を強めながら訊いてきた。

「いいよ。話そうって言ったのは僕だし」

 鹿の親子へと目を凝らしていた僕は彼女の方へ向き直った。

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