第5話 ノーベルハイドの吸血鬼(3)

 食器を洗い後片付けを済ませ、他にも洗濯や軽い掃除をした後、僕は自室からスケッチブックに鉛筆と消しゴム、さらに鉛筆を削る用の小型ナイフを持ってきた。

「スケッチしに行こうと思っているんだけど、君も一緒に来ない? 家の中にずっといてもつまらないだろうし、良い気分転換になると思うよ」

ひとまずテーブルの上にスケッチブック類を置き、ずっと席に着いたまま所在なさ気にしているアリシアに声を掛ける。

「スケッチ? どこへ?」

「森に。この家周辺のだけど。君も一緒にどうかなって。ここにずっといるよりも絵でも描いてみた方がきっと楽しいと思うよ」

 もともと今日は晴れていたら森でどうにかして動物のスケッチをしようと決めていた。仕事としてではなく純粋に動物を観察し描く練習ができればというだけの個人的なもので、絶対にしなければならないというわけではないが、他に特にこれといってしたいこともなかった。

 アリシアが嫌がるのならば画材の手入れとか部屋の掃除等、別のことをすればいい。

「今から行くの?」

「うん、そのつもりだけど」

「わかったわ。なら行きましょう」

 そう言うとアリシアは椅子から立ち上がる。

「これでスケッチするの?」

 僕の隣まで歩いてくると、テーブルの上に置かれたスケッチブック類に視線を遣りながら彼女は訊いてきた。

 シャツから覗く彼女の素足。その足は太腿まで露わになっている。白い、女の子の細く、けれどふっくらとしていて柔らかそうな僕とは違う足。

 テーブルの下に隠れていたそれが再び僕の眼前に晒されていた。

その両足に目線がいってしまい、心臓がドキリと跳ねる。

「……そ、そうだよ。作品制作じゃなくて描画練習が目的だから、鉛筆だけで絵の具とかは使わないんだ。君の分も用意しておいたよ」

 僕は内心動揺しつつ彼女のシャツから覗く素足から視線を引き剥がした。婚約者でもなんでもない僕が不躾に見てしまうのは良くない。

「ごめん。君のドレス類、昨日から屋内で干してたけど、まだ生乾きだった。だから今日もそのままでいてもらうしかないと思う。さっき外へ他の洗濯物と一緒に干しておいたから今日の夕方までには完全に乾くと思うけど」

「別に謝らなくてもいいわよ。私はこのままでも全然構わないわ」

 普段腿まで露出する格好なんてしないであろうに、当のアリシアは特別気にする様子もない。僕だけが変に意識してしまっているようだ。

 そのことに安堵しつつも罪悪感も覚えるというなんとも言えない感情を抱えながらも、僕とアリシアはスケッチに行くべく外へと向かった。













 森の中は生い茂る木々に遮られているためか、晴れているにも関わらず少し薄暗い。けれど決して陰鬱さは感じない。どこからか鳥のさえずりが聞こえてきたりと生き物の息遣いをそこら中で感じられるし、時折吹いてくる風は穏やかで優しい。

「どこまで行くつもりなの?」

「もう少し行ったところに木々の開(ひら)けた場所があるから、そこで今日は描こうかなって思ってる」

 隣を歩くアリシアに尋ねられ僕は答える。彼女は獣道を進んでいるせいか、時折足を取られつまずきそうになっていたりふらついていたりしていた。本当は馬車や旅人が歩く用に整備された道を行きたかったが、吸血鬼と恐れられている僕は他の人間と出くわすわけにはいかないため、この獣道を歩いていくしかなかったのだ。

そんな不慣れな道に戸惑っている彼女をあまり遠くまで連れ出すわけにはいかない。

「何を描くつもりなの?」

「具体的には決めてないけど、動物を描けたらなって思ってる。逃げられなければだけど」

「逃げられる?」

 アリシアは首を傾げる。

「……僕は動物に嫌われているんだ。昔から」

「それは、あなたが吸血鬼だから?」

「おそらくね。きっと彼らには本能的にわかるんだろうね。僕が人間じゃない、化物だって」

「それって気のせいとかじゃなくて?」

「ううん。残念ながら違うよ。犬とか、誰かしらにペットとして飼われていて人馴れしている動物にさえ僕は警戒されて吠えられたり唸られてしまうし、撫でようとすると噛みつかれそうになるし、実際に噛まれたこともあるよ。他の人には懐いて自分から擦り寄っていくような犬とかにもね。ここの動物達も僕のことを察知した瞬間、逃げていってしまうんだ。おかげで狼とか危険な動物に出くわさなくて済んではいるんだけどね」

「……そう」

 軽く笑ってみせたが、苦々しく思っていることを悟られてしまったのか、アリシアはそれ以上深く追求してはこなかった。

 半分とはいえ吸血鬼だから僕は嫌われる。実際に牛や豚の生き血を吸って殺すことによって生きている。だから他の動物達が僕に怯え敵意を剥き出しにするのは仕方のないことなのだろう。

 しかし、見た目も生活様式も吸血行為以外は全て人として振る舞い、また七年前まで普通の人間と共に生活していた僕にとって、すごくショックを受けたことの一つだった。

 犬等の動物に懐かれる、撫でられる、他の普通の人達に対する憧憬。それは常に僕のどこかに存在していて、やがて描き出したいという渇望に変わっていった。

「ねえ、あなたって画家? それとも趣味なだけ?」

 別の質問をアリシアは僕に投げかけてきた。

「一応絵でお金をもらってるから画家かな? まだまだ半人前だと僕自身は思ってるけど」

「吸血鬼なのに……?」

「吸血鬼でも収入がないと生きていけないし。それにもう大人だし、生活費まで祖父の世話になる訳にはいかないからね。絵を描くこと自体、好きだし」

 小さい頃から僕は絵を描くことが好きで、ノーベルハイドの森へ追放される前から――物心付く前から毎日たくさん描いていた。それにファリントン家の嫡男でもない僕には将来もらえる領地も爵位もなく、家の体面を守る意味も込めて芸術家の道に進ませようという周囲の意図のもと、絵の勉強をさせてもらえていたのだ。

「どうやって売り込みに行っているの? 吸血鬼のあなたが美術商と交渉したりパトロン探しに社交界に出たりなんてできないでしょう。もちろん描いたものを売り渡すことも。吸血鬼の画家なんて聞いたこともないし」

 アリシアの疑問はもっともなことだった。通常画家というものは彼女が言ったように美術商に絵画を買い取ってもらえるように話をつけたり、支援者を得たりしなければ生計を立てることができない。しかし僕の場合は違う。

「美術商に知り合いがいるんだ。僕の元へ定期的に食料とか生活用品も持ってきてくれるんだけど、その美術商の彼から作品の依頼を受けたり、でき上がった絵画を渡してお金をもらったりしてるんだ。もっとも、持ってきてもらう食料とか生活用品の費用、僕の家まで来てくれる彼への手間賃を引いた額だし、僕が個人的に何か買うためには彼にまた頼むしかないんだけどね」

 僕の元へ定期的に訪れる彼は美術商である父と共に昔からファリントン家に出入りしていた。僕と僕の婚約者だったリリとも幼馴染でもある彼。そんな彼が今どのように僕が描いた絵を売っているか、正確なところは知らない。ただ吸血鬼である僕――ノエル・ファリントンとしてではなく、別の名前の若手画家として売りさばいているとは聞いたことがある。

「その美術商の名前は?」

「彼のことかい? ギルっていうよ」

「姓は?」

「ウォッカだけど。ギル・ウォッカって名前だよ」

 名前を聞いたところでアリシアに何がわかるのだろうか? そう思いつつ別に隠すことでもないので、僕は答えた。

「ウォッカってあのウォッカ氏かしら。そのギルって人はビリー・ウォッカ氏の血縁だったりする?」

「ビリー・ウォッカは確かにギルの父親だけど……。なぜ君がその名前を知っているんだい?」

「だって彼は目利きの美術商として有名よ。あのラミエル・フロードを見出したのもビリー・ウォッカ氏なのよ。元々は弱小だったのだけれど、その審美眼を見込まれて今やファリントン家懇意の大美術商にもなっているわ」

「ファリントン家だって!?」

 アリシアの口から出たその言葉に僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ど、どうしたのよ。突然、そんなに驚いて」

「いや、だってファリントンは僕の実家だから」

「実家!?」

 今度はアリシアが僕の言葉に驚きの声を上げた。

「……そういえばノエル。あなたの姓を聞いていなかったわ。……なんていうの?」

 なぜか顔をわずかに引き攣らせているアリシア。

「ファリントン。ノエル・ファリントンが僕のフルネームだけど」

「……ノーベルハイドの吸血鬼はファリントン家の出だったのね。ここはファリントン家の領地ですものね。……気づくべきだったわ。けれどおかしいわね。ファリントン家の一族は皆金髪に緑の瞳だった気がするのだけれど。あなたみたいな銀髪青目の人がいるなんて聞いたこともないわ」

 僕の全身を眺め回しながらアリシアは言った。

「僕は父親の所在もはっきりしないし、しかも吸血鬼だからね。隠すまではいかなくてもあまり社交界とか表舞台に立つ機会は僕にはなかったんだ。それに母も祖父の本妻じゃない――その、いわゆる愛人との子供だったからね。銀髪青目はそんな祖母と母から受け継いだものだよ。だから正統なファリントン家の人達とは容姿からして似てないし、僕自身のことは本妻の子でファリントン家の正統な後継者であるアルフレッドとかに比べたら元々全く周知されていなかったと思うよ。僕の存在を知っていたのはごく少数なはずだ。もちろん、僕が今ノーベルハイドの森に隔離されていることもね」

「そう……。あなたも正統な血筋の生まれじゃないのね」

ぽつりとアリシアはそんな言葉を漏らした。

「『あなたも』ってことは君も……?」

「……」

 しかしアリシアはその問いには答えず、プイとそっぽを向いた。

 どうも彼女の生い立ちについては深く踏み込まない方が良さそうだ。

その時何にも遮られない、まっさらで眩しい太陽の光が僕達に差し込んできた。見上げれば、木々が開(ひら)けており、雲一つない青空が見えた。

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