第3話 ノーベルハイドの吸血鬼(1)
朝。鳥の鳴き声が聞こえ始めてきた頃、僕は目を覚ました。まだ薄暗いものの、なんとか天井の木目が確認できる程度には周囲は明るかった。
僕の右手はギュッとアリシアによって握られたままだった。七年振りに触れるであろう人肌。しかも女の子の手はとても温かくて柔らかかった。
昨夜、僕は最終的にベッドで眠る彼女と手を繋ぎ床で眠っていたのであった。
幾度となく殺してと迫ってくるアリシアと攻防を繰り返したりご飯を作って一緒に食べたりした後、夜、寝室のベッドを彼女に譲り僕は最初書斎の床で毛布を被り寝ていた。しかし真夜中頃、アリシアがひどく怯えた様子で書斎にやって来た。
“ねぇ、一緒に寝てくれない?”
“……ね、寝込みを襲う作戦かい?”
アリシアのその発言に、さしもの僕も動揺してしまい心臓が飛び跳ねた。
“違うわ。今はあなたに殺してってせがんだりしない。だからお願い……”
各々の場所へと眠りに行く前と打って変わってか細い声に僕は心配になり、手元のランプを点灯させた。するとひどく怯えた顔をし、弱々しく伏せ目がちになっている彼女の姿が明かりによって映し出された。
“何かあったのかい?”
明らかに彼女の様子はおかしかった。
“何もないけれど一人だと怖いの。また食べられるんじゃないかって”
アリシアは僕から視線を逸らし、自分自身の身体を抱きしめた。
“じゃあ一緒のベッドで寝ることはちょっとできないから、君がベッドで寝て僕がその下の床で寝るって形でもいいかな?”
僕をどうこうするためではないとわかったし、本気で怯えている彼女を一人にはできそうにもなくてそう提案する。流石に女の子と一緒のベッドに入るのは色々とまずくてできないが、その傍にいるだけならば別に大丈夫だろう。我を失うことはおそらくない。
“それで構わないわ”
幸いにもアリシアは素直に頷いてくれたので、僕らは寝室へと行った。
“ねぇ。手、繋いでくれない? こんな暗闇じゃ一人みたいで怖いの”
ランプの明かりを消し僕が床に横たわり毛布を被ると、ベッド上のアリシアが言った。
“……いいよ。これでいいかい?”
僕はベッド側にある右手でアリシアの左手を探し当て取り、軽く握ってあげた。
“ええ。ありがとう”
彼女はまるで離されないようにするかの如く強く僕の手を握り返してきた。
床から起き上がると僕はそっとアリシアの左手を少しだけこじ開け、彼女から右手をゆっくりと慎重に解いた。
本当はアリシアが目覚めるまで繋いでおいてあげたかった。しかしこれからすることは万が一にも彼女には見られたくない。よって彼女が目覚める前に済ませなければならないため、仕方がなかった。
僕はそっと立ち上がる。それからなるべく足音を立てないように歩き、ドアに手を掛けゆっくりと音があまり出ないように開け、寝室を出た。そしてさらに家の外へ行くため、玄関のドアを開けた。
鳥のさえずりがあちらこちらから聞こえてきた。太陽はまだ昇っているといえる状態ではなかったが、明かりがなくとも周りは十分に見渡せ、木々の間から見える空はまだ真っ青で夜の色を残していた。これから徐々に朝の水色へと変わるのだろう。
地面は昨日の雨の影響もあり、ぬかるんでいた。あちこちに水たまりもできている。
足元に気をつけながら僕は家の裏手を少し行ったところにある家畜小屋へと向かった。
家畜小屋には今、牛が一体いた。牛は四本の足を投げ出し、力なくその身体を横たえている。僕の存在を認識するや威嚇するように鳴き声を上げ始めたがその調子はひどく弱々しい。
僕はそんな牛へと近づく。牛はのそりとなんとか立ち上がりながら鳴き続ける。力が入らないのだろう。その足は震えていた。しかし僕への警戒は決して緩めない。
嫌われているのだ。そして恐れられている。当然のことではあるのだが。
僕は一度息を大きく吸い込むと、牛に当て身を喰らわせた。地面へと再び横たわらせられる牛。悲鳴を上げたその巨体に乗っかり頭を押さえつける。
僕の眼前に晒されたその首筋に口を寄せる。そして噛む。鋭い犬歯のような牙を首筋の皮膚に喰い込ませる。
溢れ出し口の中に広がる温かく赤いであろう液体。それを僕は嚥下する。ゴクリ、ゴクリと何度も喉を鳴らす。
二十三年間ずっとしてきた行為。普通の人間であれば絶対にしないであろう吸血。しかし僕はこれをしなければ生きていけなかった。どんなに普通の食物を摂取しようとも飢えてしまう。
今回でこの牛はきっと死ぬ。これまでの経験からそれがわかる。血を吸い続ければ大体豚は二日、牛は三日で死んでしまうのだ。
アリシアに知られないようにこの牛を埋葬できるだろうか?
そんな心配が脳裏をよぎる。普段なら堂々と好きな時間に吸い、死ねば葬ることができるが、今は一人ではなく彼女がいる。
普通の人間でしかも女の子でもあるアリシアに僕の人ならざる者である証である異常行為を見られたくない。
最後に牛は悲痛な声を響かせピクリとも動かなくなった。それと同時に僕は顔を上げる。
自身の歯列を舌でねぶる。鉄の味が口内に残っていた。口の中はきっと牛の血で真っ赤に違いない。アリシアが起きるまでに一度口を水でゆすがなければ。
「!」
その時僕は感じた。
視線。
他人の。僕以外の第三者からのそれを。
反射的に家畜小屋の入り口を見た。
「どうしてここに……?」
そこには僕が一番見られたくないと思っていた人物の姿があった。
腰まで届くであろう炭のように長い黒い髪。着ているものは僕のシャツ一枚で、色白で細い綺麗な足を太腿まで晒している少女――アリシアが。彼女の大きな茶色い瞳は僕をまっすぐと、一ミリも逸らされずに見つめていた。
「足跡。ぬかるんでた地面にくっきりと残っていたあなたの足跡を辿ってきたの」
アリシアは僕と牛の様子を見ていたであろうにも関わらず、顔色一つ変えずに淡々と答える。
「あなたはやっぱり吸血鬼だったのね。全然そんな素振りを見せないから不安になっていたけれど、よかったわ」
彼女は気味悪がるどころか実に嬉しそうな笑みを浮かべた。
別に彼女は引いたりなどしないのだ。僕が何をしていても。
「僕はよくないよ」
アリシアの反応に思わず口からそんな言葉が零れた。
見られたくなかった。人間である彼女にこの行為を。普通の人間ならば絶対にしないであろう他の生き物の血を吸うという行為を。今もこんな自分を見られたくない。
たとえ彼女がなんとも思わないとしても。むしろ喜ぶのだとしても。僕は嫌だった。
「先に家へ戻っててくれないかな? 後始末をしたら朝ごはんを作るからそれまでおとなしく待ってて」
アリシアから目を逸らしつつそう言った。声が弱々しくなり震えたがなんとか絞り出した。彼女の視線がどうしようもなく嫌だった。見られているという嫌悪感で胸がいっぱいになりおかしくなりそうだった。
「私もそれを処分するの、手伝うわ」
しかし彼女は家へ戻ろうとせず食い下がってきた。
「君みたいな女の子にできることは何もないよ」
「別にできることがないにしても、私はあなたがこの後もどうするのか見届けたいわ」
「お願いだ、ここから出てってくれ!! これ以上、こんな僕を見るな!!」
思わず出てしまっていた自分の大声に僕はハッとする。
恐る恐るアリシアの方を窺う。僕が声を荒げるとは思っていなかったのだろう。彼女の目は驚愕したのか大きく見開かれ、表情もこわばっていた。
「……わかったわよ。あなたがそこまで嫌がるのならおとなしく家に戻るわ」
彼女はしょげたような口調で目を伏せそう告げると、家畜小屋から走り去っていった。
家畜小屋は静寂に包まれた。外から聞こえてくる鳥のさえずりと自分の息遣いしか聞こえない。
つい感情的になってしまった。
自責の念に駆られ、胸が痛んだ。
怒鳴るような真似をするつもりはなかった。にも関わらずアリシアに対して無意識のうちに叫んでいた。自分を抑えることができなくなっていた。
七年前、血の気のない顔を晒し自分の目の前で死んでいたリリのことが脳裏をよぎった。僕のせいで死んだ、僕が殺してしまった、僕の最愛だったただ一人の女の子のことが。
胃が急激に吐き気を訴えムカムカしてきた。
それを抑えるべく僕は生唾を一度嚥下すると、牛の死体を処分すべく運ぶため、その身体を抱え込んだ。
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