第2話雨の中の来訪者

 コンコン。激しい雨音に混じって突如聞こえてきたノック。空耳かと一瞬疑ったが、家のドアを叩くその音は鳴り止まなかった。僕は思わずラミエル・フロードの画集から顔を上げた。

 午前中まで晴れており、常時木々のせいで薄暗い森をそこそこ明るく照らしていた空模様が一変。今は夕立ちとなり、激しい雨が降り続いている真っ只中だった。

こんな天候の中、しかも僕なんかのところに一体誰が訪ねてきたのだろうか?

 僕のところへ定期的に来てくれる者は一人だけいるが、その彼は昨日食料を届けに来てくれたばかりだ。

 僕は立ち上がりドアまで歩いた。ノックの音は依然一定のリズムで聞こえてきた。僕は恐る恐るドアを開けた。

 ノックの主は女の子だった。十代中頃から少し上ぐらいの少女。炭のように真っ黒な腰まで届くであろう長い髪を持った。旅用と思われるシンプルなドレスは雨でぐっしょりと濡れていた。

 少女は自身の顔に張り付いている髪の毛もそのままに僕をまっすぐ見上げ、口を開いた。

「……お願い。私を殺して」

 射抜くように視線を逸らさず見つめてくる彼女のその瞳は真剣そのものだった。

「……」

 突然の頼みに僕は何の反応も返せなかった。

 過去に人間を殺めてしまったことがあるとはいえ、僕は殺し屋ではない。殺してと頼まれてはい、そうですかと死なせることができるはずもない。たとえ目の前の少女が本気でそれを望んでいたとしてもだ。

 雨は依然と振り続けたままで、激しく地面を叩く音だけが響く。

「……とりあえず中へ。そのままだと風邪引いちゃうだろうから」

 少女が身体を一度大きく震わせたのを見て僕はそう言った。このまま二人して突っ立ているわけにもいかないし、雨で体温を奪われているであろう彼女も今の状態では辛いだろう。    

 殺してに対する回答としてはなんとも間の抜けた感じだし、目の前の少女がなぜそれをしかも僕に対して望んでいるのか等全くわからないままではある。しかし彼女をずぶ濡れのままにして風邪を引かせるのを阻止するのが先決のような気が僕にはした。

 幸いにも彼女は僕がドアを開け手招くと、おとなしく家の中へ入ってくれた。









「紅茶、淹れたんだけど飲むかい?」

 黒髪の少女の前に僕はマグカップを置いた。普段使っている砂糖の瓶も、スプーンを付けてその隣へ。ティーカップやソーサー、角砂糖やマドラーなんて洒落たものはないので仕方ない。

「……」

 無言のまま少女は自分の前に置かれたマグカップを見つめていた。

 彼女は今僕のシャツを着て、本来ならば書物机用のものである椅子に座っている。雨でずぶ濡れになってしまったドレスのままでは寒いし不快だろうと着替えさせたのだが、女物の服なんてあるはずもなく、仕方なく僕のものを着せたのだった。

「身体、温めた方がいいかなと思って淹れたんだけど、紅茶は嫌いだったかな?」

 自分のマグカップもテーブルに置き、少女と向い合せになる形で椅子に腰を下ろしながら僕は訊いた。苦いコーヒーよりも紅茶の方が無難かと思ったのだが、失敗しただろうか。

「……別に嫌いじゃないわ。むしろ好き。けれどどうしてわざわざこんなことをするの?」

「どうしてって身体、温めた方がいいんじゃないかって思って。雨で体温が奪われて寒いだろうからさ」

「私は殺して欲しいって頼んでいるのに? これから死ぬ人間の身体をわざわざどうこう心配するのはおかしな話じゃない?」

「そう頼まれても僕は君を殺さないよ。というかそもそも殺せない」

「なぜ?」

「なぜって……。突然そんなことを頼まれても困るよ。僕は殺し屋じゃないんだから」

 紅茶には手を付けず尋ねてくる少女に言う。しかし彼女は腑に落ちないといった表情で向かい側に座る僕をじっと見つめ、言葉を続ける。

「でもあなたは吸血鬼でしょう? 私、聞いたわ。ノーベルハイドの森には吸血鬼がいるって」

「……」

 そこまで知った上で彼女は僕のところへ来たのか。いや、だからこそ僕の元へ訪れたのか。

「僕は人間の血は吸わない」

「吸血鬼は人間の血を吸うものでしょう。それに実際に人間を殺したからこそあなたはここにいるって私、聞いたわ」

 彼女は僕を問い詰めるのをやめない。

「……確かにそれは事実だよ。けど、僕はもう二度と人間の血は吸わない。殺したりはしない。殺したくない。だから君のことは殺せない」

 正直にそしてはっきりと僕は答え告げる。僕が人間の血を吸ったのは七年前に一度きりだったが、もう二度と誰も手に掛けたくなかった。

「吸血鬼にとって人間の血はご馳走でしょう」

 彼女はおもむろに椅子から立ち上がった。

「どうしたんだ……!?」

 僕の方へ近寄ってくると思った次の瞬間、彼女は抱きついてきた。突然のその行動を予測できるはずもなく、僕は椅子から彼女と共に転げ落ちた。

一瞬意識が飛んだ後、視界に天井と、僕を見下ろす彼女の姿が映った。切れ長の大きな茶色の目。花のような可憐さと気品を持ち合わせた意思が強そうなその瞳がまっすぐ僕を見つめていた。

「私は死にたいの。だから吸って。私の血を」

 彼女は上から顔を近づけ、そう口にした。彼女の長く黒い髪が僕の頬を撫でる。馬乗りになられているのか、お腹に押し潰されるような重みも感じた。

 服越しに感じる彼女の――貫きたくなる穴のある女性特有の股の感触。透明感のある綺麗な肌にあどけなさの残る整った顔。白く細いしなやかな、噛みつけば赤い鮮やかな血がたくさん出そうな首筋。

「とりあえず、離れて。落ち着いて、話し合おう」

 ドス黒い感情が溢れ出し波のように自我を飲み込んでいく。その感覚に僕は慌てて彼女の肩を掴み押しのけた。

 彼女が着ているのは僕のシャツ一枚のみでしかも下は何も履いていない。細く長い簡単に折れてしまいそうな足が太腿から丸見えなのだが、僕のズボンはウェストが合わずぶかぶかで履けず、彼女が露わなままでも構わないと主張したため好きなようにさせていたのだ。こんな状況は彼女にとっても、僕にとっても良くない。

「……」

 彼女は無言のままおとなしく僕から退いてくれた。その顔には失望の色が浮かんでいるのがありありとわかったが。

「紅茶、冷めちゃうし椅子に座って話そう」

 そう僕は言い、再び彼女と向かい合わせに席へと着いた。

「君の名前は? 僕はノエル」

 目の前の少女の名前を知らないことに気づき、僕は尋ねる。

「アリシア。アリシア・メイスンよ」

 少女――アリシアは拗ねたかのように憮然とした口調で名乗った。

「君はどうして僕に殺されたいんだい?」

「話せばあなたは私を殺してくれる?」

「それはできないけど」

「じゃあ言わないわ」

 彼女は僕からぷんと顔を背けた。

「家族は? 両親か夫かわからないけれど、誰かと一緒にこの辺りまで来たんだろう?」

 アリシアが着ていたドレスは上質なものだったし、髪もサラサラで手足もあかぎれ一つなくとても綺麗だった。その上気品溢れる彼女はきっとどこかの貴族の娘だ。そして彼女ぐらいの年齢ならば結婚していても不思議ではない。

「……父と、あと婚約者と来たわ」

 アリシアはなぜか声を震わせ、自分の身体を抱きしめるようにしながら答えた。

「彼らはきっと君のことを心配しているんじゃ……」

「私はあの人達の元へは絶対に戻らないわ!!」

 アリシアは大声で怒鳴り、キッと僕を睨みつけた。

「……ごめん」

 僕は謝る。敵意を剥き出しに攻撃的な視線をアリシアは崩さなかったが、僕にはそれがどこか虚勢を張っているように見えた。大体家族や婚約者と円満な関係を築けているのだったら殺してなどと僕の元へ訪れるはずがないのだ。無神経なことをした。

 しかしアリシアが家族と婚約者のところへ戻る気がないとなると問題が出てくる。

「これから君はどうするつもりだい?」

 僕は彼女に訊く。貴族のお嬢様に行く宛があるとは思えない。それにアリシアが戻りたくなくとも彼女の身内は彼女のことを捜すだろう。たとえ彼女と何らかの諍いがあろうとも。貴族というのは体面を最も気にするものだから。

「どうするも何も、私はノエル――あなたに殺してもらうの」

「その頼みは聞けないよ」

 間髪入れず僕は拒否する。

「じゃああなたが私を殺してくれるまでここにいるわ」

「その日は永遠に来ないよ」

「ならその日が来るように努力するまでだわ」

「……」

 しれっとそう口にするアリシアに僕は閉口する。彼女は僕がどんなに拒もうとも食い下がる気のようだ。

 どうしたものか。

 ノーベルハイドに行けば確実にアリシアの情報を入手できるだろうし、おそらく彼女の父親や婚約者は今そこにいるだろう。ノーベルハイドより先の村や町にはこの森を抜け、さらに山を越えなければならないはずだから。

 しかし僕はノーベルハイドには近づけない。七年前――この森の家に隔離されて以来、ノーベルハイドは元より人間に近づくこと自体禁じられていたし、僕自身も町の人達等を怯えさせるような真似はしたくなかった。

 ノーベルハイドの周辺までだったらアリシアのことを送っていけるだろうが、彼女がおとなしく町へ行ってくれるとは到底思えない。

 これから先、アリシアに本気で迫ってこられると困る。煽られるようなことをされれば我を忘れて七年前と同じことを繰り返してしまうかもしれない。実際、さっき彼女に抱きつかれ押し倒された時は危なかった。女である彼女を襲いたくなった。人間である彼女の首に噛みつき血を吸いたくなった。それだけが僕の心を埋め尽くしかけていた。自己が完全に消失しそうになった。

 しかし幾分か弱くなったものの、雨の降る音はまだ聞こえてくる。今アリシアを外に放り出すわけにはいかない。程なくしてやんだとしても、地面がぬかるんでいるだろうし、日も傾きかけているから女の子一人では危険だ。

 今は彼女を家に置いておくしかないだろう。明後日また人間である彼が来る。今度は牛か豚を引き連れて。その時にアリシアのことを頼み、町まで連れていかせ父親や婚約者の元へ返してもらうなりなんなりしてもらえばいい。

「とりあえず今日のところはここにいるかい?」

 僕は内心そう決め、アリシアに尋ねる。

「私はあなたが殺してくれるまでここにいるわよ」

 それに対する彼女の返答は頑固かつ実に尊大なものだった。












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