月に叢雲 花に風



 盲目の市邑の娘

 神眼遣いの市邑のーー視えない方


 本家の端にひっそりと建てられた犬小屋のような家で生きる、市邑の穀潰し。

 真の市邑の娘であり、強大な力を持つ異形、朧と盟約を交わす妹君、志帆里様とは違い、盟約を交わすべき異形を呼び出すどころか、視る事すらできぬ、箸にも棒にもかからぬ姉の紗帆。


 殺そうにもその死体を処理する手間がかかる、ならば離れの小屋で死なぬ程度に飼う方がまだましだろう。それぐらいの程度で、生かされている娘。


 その何の役にも立たないはずの娘が、昨夜の志帆里様の仕事に伴ったという。


 それは一体、ーーー何故?










 朝日が眩しい。

 身体のあちらこちらが軋んでいる。指一本動かしたくないほど疲弊した身体に、乾ききって掠れ果てている喉。

 それが何故なのかが、考えるまでもなく分かってげんなりする。加えて目の前に、いつもと同じように薄い笑みをはいて立つーー原因となった男、空蝉がいる。


 「おはようございます、紗帆」

 いつもと変わらぬ挨拶。熱を感じさせぬ、淡々としたそれ。しかしそのいつもと同じはずの響きが、妙に色を含んでいるように感じるのは、私の気のせいだろうか。

 「おはよう」

 差し出される洋服を受け取りながら、ぐっと手と足に力を込める。起き上がろうとして、ーーけれど思ったように力の入らぬ身体は、起こした分だけまた後ろに傾いてゆく。

 「自力で起き上がるのは、無理でしょう?」

 布団に逆戻りした私の上から覗き込むようにして、空蝉が顔を近づけてくる。


 その距離の近さと、ーー私の顔にかかる髪をそっと払う、その死人のように冷たい指先に、昨晩の事が否応無しに思い出された。








   ※   ※   ※







 ぐちゅ、と粘性の高いオイルか何かが掻き混ぜられるような音がする。

 「・・・・・う・・・」

 その音と合わさって、耳馴染みのある声が、呻いている。


「紗帆」

 聞き慣れた空蝉の声が、驚くほど近くから聞こえる。

 「紗帆、気がつきましたか?」

 いつもは単調な空蝉のそれが、何故だか少し弾んでいるようだ。何か運動でもした後なのだろうか。そんな埒も無いことを考えながら、うっすら目を開く。

 開いた視界を埋め尽くすーー漆黒の髪と、金の目をした・・・・これは、空蝉?

 見慣れぬ色を纏う男。けれど、その気配は間違えようもない。


 「空、せみっ・・・」

 名を呼んだ瞬間、身体の奥からどろりとしたものが溢れ出す。

 生暖かく、どろどろとした液体が、何故か私の胎の奥で溢れかえっているようだ。

 「紗帆、ーーーーーさほ、」

 いつになく近いところにいる空蝉。まるで私の身体を囲うように、覆い被さるその男の私を呼ぶ声が、いつもよりも妙に甘ったるく聞こえる気がする。

 なぜそんな風に呼ばれるのか、そしてまた自分自身に一体何が起こっているのかがうまく飲み込めず、目の前の空蝉をぼんやりと視ることしか出来ない私。その視界に、ぶらぶら揺れる裸足が映り込む。


 揺れる足の爪に塗られた真っ黒のネイル。

 私と同じ色にしましょうね、三日前そう言って、私の足下に跪いて刷毛を走らせた空蝉の塗った、その色と同じ爪色をした生の足。

 空蝉と同じ色なら、白ではないの?そう問うた私に嗤って、これでいいのですよ、と返した空蝉の手の中で黒く染められた、その足先。


 それを肩に乗せて身体を揺する空蝉は、私の視線の先に気づいてか、その足をぐっと折り曲げ、つま先で黒光りする爪に、べろりと舌を這わせる。

 親指全体を舐めた後、こちらに視線を向けたまま、まるで見せつけるようにそこに歯を立てる。


 「い、痛っ・・・・いた、い?」


 あれ、なぜ私に、空蝉の歯の感触が分か、る、





 空蝉の肩に担がれ、揺すられている足。

 身体の奥で掻き混ぜられる、どろどろとした液体。


 生温くて硬い何かが、身体の奥のーー触れられたらおかしくなってしまう、そこを、直接嬲る。


 ぐっと空蝉が身体をこちらに寄せる度、私の喉から勝手に呻くような声が漏れる。



 「気がつきましたか?紗帆」

 ーー待ちきれなかったので、お先にいただいています。


 僅かに乱れる呼吸のまま、空蝉は口元から離した足先に今度は手を添えて、そこからゆったりと付け根に沿って撫で下ろす。


 「分かりますか?」


 そしてたどり着いたそこに、ーーーーー私と空蝉が繋がるそこに指を這わせて、


 「貴方と私が一つになっているのが」


 そう囁き、そして思い切り私に向かって腰を打ち付けた。





 「ひぃあっ!」

 身体の中の奥深くを直接嬲られている。触れられるだけで頭の奥が焼き切れそうになる何かを、滑りを帯びた硬いもので幾度も幾度も嬲られる。

 その度に、あ、とか、う、とか意味の無い言葉ばかりが、だらしなく開いた口から勝手に零れ落ちる。


 「紗帆、貴方は初めてだったので、痛みがあるのではと案じていましたが」

 時に胎を破らんばかりに強く、また時には抜け落ちてしまいそうなほど浅い入り口の方で弱く、空蝉はその形を私に覚え込ませるように押し付ける。

 「ーーーその心配もどうやら無用だったようですね」

 貴方はこんなにも喜んでいる。

 空蝉は知らしめるように、私の奥に潜む箇所にそれがあたるよう腰を押し付けて、乾いた唇を己のそれで湿らせる。

 「な、・・・んで・・・」

 目がちかちか眩んで、頭を搔き毟りたいような、大声で叫びだしたいような、そんな訳の分からぬ感情が、息つく間も無く次から次へと押し寄せる。



 「何故?ーーー嗚呼、貴方が目覚めるのを待たずに始めたことを、怒っているのですね?」


 そうじゃない、そんな事を聞きたいのではない。そう言いたいのに、

 「うぁ・・・・あ・・・・・あぁ・・」

 押し出されるようにして自分の口から漏れ出る音は、一つも意味のある言葉にならない。



 そして私のそんな声を、うっとりと目を細めて聞く空蝉は、


 「けれども、先ほども申したでしょう?」


 待ちきれなかったので、お先にいただいています、と。

 そう言って、恐ろしいほど艶めいた吐息を、私に向かって零す。



 ぐっぐっと押し付けられる腰ーーそこから生まれる得体の知れぬ感覚から逃れようと、身体が勝手に逃げを打つ。

 それを強引に己の方へと引き戻すその手の冷たさに、ーー自分を抱く男が、あの空蝉なのだと、知らしめられる。


 その色がいくら普段と違おうが、

 (一体いつから、黒髪と金の瞳になったのか)


 「ーーーー紗帆、・・・・・さほ」


 この声が、指先が、視線が、ーーー私の知る、空蝉という男だと、痛いくらいに告げてくる。



 紗帆、と私の名を呼び、シーツを掴む指を無理矢理剥がして、その指にまた舌を這わせる。

 一本一本見せつけるように舐めて、そして今度はその指と己のそれを解けぬよう硬く繋ぎ合わせる。


 「まだ、ーーまだ、貴方が足りない」


 ぐちゅりと音を立てる下肢からは、注ぎ込まれた空蝉の種が零れ伝う。

 それを空蝉は、零さないで、と己に塗り付け、再び奥へ押し込める。


 はくはく息を求める私を、ぞっとするほど艶やかな笑みで押さえ込み、

 その唇を己のそれで、ーーーまるで先ほど指を舐めたときと同じように、舌を這わせ湿らせる空蝉は、



 「紗帆、ーーーまだ、始まったばかりですよ、」


 貴方もまだ、胎が空いているでしょう?



 そう言って、また私の中を生温い液体で満たした。







   ※   ※   ※






 「誰のせいで、起き上がれないと、」

 空蝉の指が私の頬を撫で、首筋を辿り、背中に回る。その動きに昨夜の記憶が引きずられるようにして思い出される。

 「そうですね。紗帆、貴方が起き上がれないのは、全てこの私のせいですね」

 そして背中に回した手に力を込めて、己の方へと引き寄せる空蝉の声音の甘さに、その記憶は未だ終わってはいないのだと知らされる。


 「ですから私が全てして差し上げますよ」

 背中を滑る指先が背骨の凹凸を一つ一つ確かめるように撫でてゆく。


 「着替えも、食事も、ーーー煩わしいことの全てを、私が処理して差し上げます」


 だから貴方はただその身を私に委ねるだけで結構ですよ。

 そう言いながら、その手を私の上着のボタンにかけ、一つ一つ外してゆく空蝉。


 「ーーそう言う事ではなくて」

 私の身体を支えたままゆっくり後ろに回り、上着を肩から落とすと、ついでとばかりに後ろから回した手で喉元を、鎖骨を、胸をじんわり撫でてゆく。

 まるで何かを思い出させるようなその手つきに、拒んでも尚溢れるほど注がれた胎の奥がぞわりと蠢く。

 そしてその後もやけにゆったりした手つきでブラをつけられ、肌着とさらっとした素材の上着を着せられ、足を下から撫でるようにして膝下丈のスカートを履かされる。そうして最後に、いいですよ、という空蝉の声が聞こえる頃には、嬲られすぎた身体の主導権は空蝉に移っていた。





 「では食事にしましょうか」

 自力で起き上がれぬために、ダイニングへの移動も空蝉にまるで子供のように抱えられて連れられる。

 今の今まで着替えを手伝っていたというのに、テーブルの上に並ぶ食事からは作り立てのように湯気が立っている。

 空蝉以外の誰かが用意したのだろうかと一瞬頭を過ったけれど、この家に私たち以外の者が立ち入るはずも無いため、その考えもすぐに打ち消される。

 どうぞ、と言って私の横に座り、目の前にある箸をその手に取った空蝉は、何が食べたいかおっしゃってください、と言いながら、その手でおかずの入った小鉢や皿を己の方へと引き寄せる。


 にこりと嗤い、私を真っ直ぐに見据える空蝉。


 「・・・・どういう、」

 まさかそんなはずは無いと思いながらその空蝉を伺い視ると、


 「ーーー私が全てして差し上げますと、申しましたでしょう?」


 そう言いながら空蝉は、近くに寄せた小鉢の中身を手に取り、はい、どうぞ、と箸に挟んでこちらへ差し出す。

 突き出された箸を眺めるだけの私。その私の向こう側で笑む空蝉。その空蝉から視線がそらせず、さらには箸を奪うことも出来ぬ私。

 けれどそのまま食べさせられるわけにもいかず、ひとまずは、結構です、と返すべく開きかけたその瞬間。

 開いた口の中に、差し出されたおかずが押し込まれる。


 甘さ控えめの出し巻き卵は、私の好物であり、また空蝉の得意料理でもある。

 それをおとなしく咀嚼しながら、いつにも増して私の世話を焼きたがる空蝉に、頭の奥がにぶい痛みを訴える。




 まるでーーー昨日の事など何も無かったかのように。けれど以前とは僅かに違う気配と、その見目の色。


 昨晩の途中で途切れた記憶。

 あの異形は、志帆里は、父は、その他の市邑の者たちは一体どうなったのだろうか。


 夜半の狂態を考えると、あの異形は空蝉の手によって伐たれたのであろう。そうでなければ、話が違う。

 「皆はどうなったの」

 隣に腰掛ける空蝉。その唇が歪む。


 「あれが屠られたのですから、どうともなっていないでしょう」

 私は貴方を保護するので精一杯でしたので、後の事は知りません。


 私に視線を合わせぬまま、片手に持つ箸を空いた手ですっと撫でる。



 「ではその姿はどうしたの」

 墨を溶かしたような、黒々とした髪。

 そこへ手を伸ばして、梳きあげるように指を滑らせる。さらりと指の間を抜けるその髪の隙間から、反らされていたはずの金の瞳がこちらを真っ直ぐに射抜く。


 「この色は、お嫌いですか?」

 私の手を取り、己の頬に押し付ける空蝉。

 「嫌いではないわーーーただ、見慣れぬだけ」

 私の言葉を受けて、でしたら今しばらくはこのままでいさせてください、と返すその表情は、昨日の夜からずっと仄暗い熱を帯びている。



 「漸く貴方を得て、どうやら抑えが利かぬようです」


 力が外に溢れてしまう。

 そう言って己の唇を一舐めし、


 「ーーーそれにもう、抑える必要もなくなりましたので」


 そして私の唇にそれをゆっくり重ねて、同じように舌を這わせる。


 ぴちゃり、と音を立てて離された唇。その濡れた感触に慣れず、手の甲を押しつけ拭い去る。

 そしてそのまま口を開かず、開いた手を伸ばして箸を渡すよう要求するも、空蝉は表情一つ変える事無く首を横に振るばかりで、埒が明かない。

 矢張りここは一つはっきり言わねば。

 そう決意して唇を開きかけたその瞬間、


 ーーー普段滅多なことではならぬこの家の、表の呼出し鈴が鳴る音がした。







 「ご当主がお前をお呼びだ」

 すぐに支度をして、椿の間へ向かえ。


 木の枠に磨り(すり)硝子のはめ込まれた扉の向こう側に立つ男は、私と空蝉が近づいたのを察すると、そこを開かずに吐き捨てるように言って立ち去る。

 市邑の人間が私を呼ぶとき、この扉は大抵開かれずに終わる。

 穀潰しの顔など視たくもないと言ったところなのか、向こう側で用件だけ告げると今のようにさっさと踵を返す。


 当主である父に呼ばれたからと言って、特別に何かの支度をすることはない。

 祭事であれば前もって通達がある。さすがにその際はそれなりの格好をするが、今回はその類いではないのでその必要も無い。


 ただ一つ問題があるとするならば、それはこの言う事を聞かない身体であろう。

 今も空蝉に抱えられてようやくこの扉まで辿り着いたというのに、どうやって本邸の椿の間まで行くとしよう。


 どうしたものかと磨り硝子を眺める私に、

 「では行きましょうか」

 空蝉はいつもと変わらぬ声音で声をかけ、そして扉へ向かって足を踏み出す。


 「空蝉も来るつもりなの?」

 私を抱き上げながらも器用に扉を開け、そのまま迷うそぶりもなく椿の間の方へと足を進める空蝉。

 「紗帆が呼ばれているならば、私も行くのが筋でしょう」

 それにもし私が行かぬのならば、どうやってしてあちらまで向かうのです?

 久しぶりに訪れる本邸の廊下は、塵一つ見当たらぬほど、完璧に磨き上げられている。そこを抱き上げられながら運ばれる役立たずの私と、身に纏う色の違う空蝉。どちらも本邸ではあまり見かけぬせいか、遠巻きに幾人かがこちらを眺めている気配がする。

 それらの気配をさらりと無視して、空蝉は答えに詰まる私の顔を覗き込む。

 「まさか私以外の者の手を借りようなどとーーーー」

 そんなことを考えているわけではないでしょうね、

 視線が合った瞬間、その唇は笑みの形に歪み、そして一瞬の後空蝉の気配はがらりと変わる。


 その気配に触れた瞬間、まるで昨晩のあのーー人の首が地に落ちたのを知った時のような、いい知れぬ寒気が背筋を走る。


 「だめですよ、紗帆、貴方の全てはこの私のもの」

 ですから他の誰にも触れさせてはいけません。


 毒のような言葉を、淡々と吐く男。


 「分かりましたね?」


 私を抱くこの空蝉という男。


 ーーーーこの、空蝉という、おとこ?



 この男は、一体、だれ?







   ※   ※   ※







 襖で仕切られた椿の間の前には、男が二人頭を下げて座っている。

 そして空蝉がその前へ立つと、男たちは顔を上げぬままそれを左右に音も無く開く。


 開かれた襖の向こう側に広がっていたのはーーーいつも祭事の際に見る、市邑の面々が並び座るその景色。

 上座に父が、そしてその隣に志帆里が、そしてそこから下座に向かって地位の高いものから順に向かい合って座っている。

 背後にはもちろん彼らが従える異形のものたちが顔を伏せて控えている。


 部屋に入るなり、

 「何とはしたな、い、」

 下座から数えて何番目かの男が、空蝉の腕に抱かれたままの私を見て吐き出しかけたその言葉は、

 ーーー背後で私を抱く、空蝉のその変わり果てた色を見た瞬間、まるで舌でも凍り付いたようにそこで途切れる。


 男の言葉が途切れた途端、部屋の空気がざわりと揺らぐ。部屋の中の視線の全てが空蝉に集まり、誰もが目を奪われたようにそこから視線を外さないままでいる。



 「空蝉、紗帆をそこに下ろして、お前はこちらへ来なさい」


 ざわめく空気の中、父の低い声が部屋に響く。

 父の背後には、昨晩両腕を喪った異形が控える。優秀な市邑の治癒師によって処置されたらしいその腕は、付け根の部分に黒の包帯が巻かれている。どうやらぎりぎりのところで繋がったようだ。父の隣に座る志帆里のその背後に控える朧にも、同じように黒い包帯が巻かれている。


 皆が畳の上に座す中、私を抱える空蝉だけが立つ。

 その腕の中から見る、見慣れぬ景色。

 いつもはこの部屋に入る事すら許されず、奥で言いつけられる細々としたことを片すだけで、この市邑の者たちが並ぶ場からは完全に排されているというのに。


 「ーーーなぜですか?」

 父を前に不遜な態度を崩さない空蝉に、周りに控える者たちが気色ばむ。

 「空蝉、」

 まるで、やめて、と甘えるような声音で志帆里が空蝉を呼ぶ。その声に背後に控える朧の身体がびくりと震える。


 よくよく見やれば、部屋に居る異形たちは皆顔を俯けたままで、誰一人としてこちらを見るものはいない。

 まるで何かに怯えるように、恐れるように、必死で顔を背け目をそらすようにして俯いている。



 ざわつきの収まらぬ部屋。私と空蝉を睨むように視る市邑の者たち。

 その空気を切り裂いて、父が、


 「今日からお前を志帆里の異形とする」


 私と空蝉に向かって、そう言い放つ。





 ーーーきょうからおまえをしほりのいぎょうとする




 その言葉に空蝉に抱きかかえられたままの私の身体が小さくーーーーー震えだす。





 父は昨晩の空蝉の働きを見て、その利用価値を見いだしたのだろう。

 父の異形が、志帆里の異形の朧が、手も足も立たなかったその異形を屠った空蝉。

 役立たずでしかない私の側に置いておくより、次の当主となって市邑を率いる志帆里のものとする方が、よほど有益に使えると判断したのだ。



 (今までこの男の事をーーまともに視れもしなかったくせに。)


 空蝉がどうやってしてあの異形を屠ったのかは知らないが、今まで無いもののように扱っていた男に対する、この手のひら返し。


 (そもそもこの空蝉という男を、異形と識ったのが昨晩であるくせに)





 ーーー七つになっても異形の一つ呼び出せぬ、役立たずの私。


 『神眼遣いの市邑の、視えない方』


 その私の横に立つ男、空蝉。



 (いつから、どこから、どうして)

 要らない人間とされる私の側に立つ、ーーーーー空蝉という男。


 その男こそが『異形』であると、誰一人として、知りもしなかったくせに。







 父も志帆里も、この市邑でも上位の力を持つとする者たちの誰も、

 まともに、この男のことを視れもしなかったくせに。





 そして今も尚ーーーー真にこの空蝉という男を、視れてすらいないというのに。






 震える私の身体を抱く空蝉の腕。その腕の力が僅かに強くなる。

 何も理解していない滑稽な父の言葉に、嗤いの細波に攫われた身体の震えは止まることはない。


 私のその姿を見て空蝉を奪われることに怯えていると勘違いしたのか、志帆里の唇が愉悦に歪む。






 「ご当主!何故です!志帆里様の異形は、朧と決まっているはず!それを何故、こんな男と変えるなどと」

 「こんな何処の馬の骨とも知れぬ者になど!!」

 「朧の力に敵うものなど、おりますまい」


 父のその言葉に、下座に座る者たちは弾かれたように声を上げる。

 その言葉を聞いて、昨夜の件は未だ彼らに明かされていないのだと知る。そうでなければ、朧の方が空蝉より勝るなどと、誰が言えるだろうか。

 さらに父が何も返さぬのを良い事に、彼らの声はどんどん高まってゆく。




 「あのような視えぬ娘に遣われていた異形など、何の役にも立ちますまい!」


 そして、一番下座に座る男が、そう、言った、その瞬間。


 男の周りをーーー暴風が取り囲む。



 男の背後に控えていた異形が彼を庇うように身体を投だし、そうして一瞬の後、その投げ出された四肢はまるで昨晩の再現を見るように、無理矢理力で捩じ切られたように、細切れにされて地に落ち、

 身体と首と胴体のみが残された異形が、畳に落ちる鈍い音が部屋に響く。


 「ーーーひぃっ!!!」

 風の檻に囲われた男の四肢に、細切れにされた彼の異形が降り注ぐ。




 「空蝉!!!」


 先ほどとは打って変わった、酷い焦りを含んだ志帆里の声が、空蝉を呼び立てる。

 そしてその瞬間、今度は志帆里の喉に、黒い痣のような、蔦のようなものが瞬く間に張ってゆく。


 痣がぎりりと音を立てる。その音と共に、志帆里の喉の肉が歪に絞られる。

 「ぐぅあ、」

 ぎりりぎりりと痣が鳴く度、喉を押しつぶされたような苦しげな声が、志帆里の喉から漏れる。

 のたうち苦しむ志帆里と、四肢を異形の肉にまみれさせ身動きの出来ぬ男。




 空蝉の不穏な気配を察してか、父の背後に控える異形が、大規模な父を守る術を編む。




 「私の事は何と言おうと構いませんが、」



 大切な紗帆を傷つけるものは、ーーーー容赦せぬぞ




 一瞬私の周りをそよ風が舞ったと思ったその一瞬の後、


 部屋に居る異形の首のほとんどが、とてつもない血を噴き出しながら、次々ごとりごとりと音を立てて地に落ちる。

 残ったのは、父の後ろで術を編んでいた異形と、志帆里の後ろに控える朧の二体のみだ。




 「ぎゃあああああああ」

 「うわあああ!!!」


 背後に控える異形たちが首を喪い、その身体のバランスを崩して、盟約の主へと倒れ込む。

 その重みに戦いた(おののいた)者たちが、一斉に声を上げ、そしてその声につられて集まった市邑の者たちが、部屋の惨劇を見て今度は一様に声を喪う。


 部屋の壁が、畳が、天井が、そして人の全てが、異形たちの流した赤い血に染まっている。

 その赤く染まった部屋の中で唯一染まらぬ者、ーーこの市邑では盲目と蔑まれる私と、その私を腕に抱く空蝉、その私たち二人の異様な姿に全ての視線が集まる。



 「昨夜を顧み、お前たちは大人しく天分と弁えて地を這っていれば良いものを」


 私を片腕だけで支える抱き方に変え、空蝉は空いた手を父の方へとゆっくり伸ばす。


 「欲をかいてこちらにまで手を出すとは」


 ーーー愚かしいにも程がある。



 「まるで何故自分たちが今ここに生きていられるのかを、一分たりとも分かっていない」


 その愚かさは、死なねばなおるまい


 伸ばした手が術を編む。

 その術が完成する間際ーー伸ばしたそこに指を絡めて無理矢理差し止める。



 「空蝉」


 止められると分かっていたのか、空蝉の術はあっけないほど簡単に霧散する。

 その瞬間苦しげにもがいていた志帆里の身体が、糸の切られた人形のようにその場に音を立てて崩れ落ちる。

 ぜーぜー息を吐いてこちらを見る志帆里も、その志帆里を背後で支える朧の視線も、その全てを無視し、空蝉は私が絡めた指を解けぬ様、強く繋ぎ直し、


 「なんですか?紗帆」


 そう何でも無いように、まるでこの周りの地獄絵図など何も無いかのように、いつもの声音で私に嗤う。



 「もういいでしょう」


 そしてその声音に、この事態の全てを空蝉が計算してやっているのだろうことをーーー識る。

 昨夜、力を遣い父の目に留まることも、その為にこうして呼び出されることも、周りの反発も、ーーそしてその後に行う、この見せしめも、


 「貴方が止めろというのならば、私に否はありませんが」


 (私から)あの者たちを助けるというのならば、


 「ーーー私の望みは分かっていますね、紗帆」



 最後にこうして、私が空蝉に助けを乞う、その全てが、



 きっとこの男の手のうちで計算されたことなのだということを、識る。



 「分かってる」

 ーーー好きにして。



 けれどそれが分かっても、この男を止める手だてが無いため、どうすることも出来ない。



 どうすることも出来ず、その腕の中で大人しく抱かれることしか、出来ない。


 「ではさっそく参りましょうか」

 今度は貴方のために、初めからもう一度始めて差し上げますね。


 にこりと嗤い、私を抱きながら部屋を出る空蝉。

 部屋の外に立ち廊下を塞いでいた市邑の者たちが、悲鳴を飲み、音を立てて私たちの前に道をつくる。


 その道の真ん中を何でも無いように通る空蝉。

 背後から追いすがる視線を、全て奇麗に無視して、空蝉は真っ直ぐに離れの家へと向かって行く。

 着いた先、市邑の者たちが犬小屋と蔑む離れの扉が空蝉の手によって開かれ、ーーーそしてまた音も無く閉じられる。




 そうしてその離れの奥で昨夜の響宴が、またーーーーーー始まる。


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