第15話 春の喜び
料理の世界では季節を先取りする。二月も節分が過ぎればもう季節は暦通りに春となるのだ。
この食堂の常連となった浩二と満代の二人にまさやが出したのは、たらの芽の天麩羅だった。
「たらの芽ですか! もう春なんですね。すぐそこまで来ているんですね。忙しく毎日を過ごしていると、つい季節感なんて感じなくなってしまいますがね」
浩二の言葉に満代も頷いて
「そう、明日も雪が降るなんて天気予報じゃ言ってるけどね」
そう言って箸でタラの芽の天麩羅を摘んで天汁に浸けると「ジュッ」と言って音を立てた。それを口に入れると、熱いのか口をホクホクさせながら
「ああ、美味しい! 口の中が火傷しそうだけど!」
それを見て浩二も同じ事をする。そして
「アツアツ! 僕は火傷しちゃったよ!」
そう言って笑った。
次にまさやが出して来たのは、何やら豆腐の様な感じ固まりに味噌が掛かったものだった。豆腐のような感じとは思ったが、それにしては桃色に染まっているのが不思議だった。
「これ、何ですか?」
浩二が出された小鉢の中を覗き、不思議がるのを見てまさやは
「まあ、食べて見てください」
そう笑っている。その顔を見て浩二はこれはきっと美味しいに違いないと確信した。
添えてあった小さな木杓子ですくって口に運ぶと味噌の甘さの中にほろ苦さを感じた。それが胸のすくような感じで体に入って行く。
「この味噌には蕗の塔が入っていますね」
浩二の言葉を受け継いでまさやが
「そうです。ほろ苦さは蕗の塔です。味噌は九州産の麦味噌を使いました。麦の甘さが丁度ほろ苦さと合うのです。
「でも、この豆腐は……」
「それは、濃い目に作った卵豆腐です。普通のとは違っているのは、春らしくほんの少し食紅を使ったので桜色に仕上げました。
「本当! 春らしくて素敵です」
満代も満足したようだった。
「でも、どうして今日は、このような特別なものを出してくれたのですか?」
浩二の問いかけに今度はさちこが
「お二人は、婚約なさったのでしょう? そのお祝い代わりです」
二人は驚いてしまった。婚約したと言ってもそれは二人の間の事で、それも先日浩二がプロポーズし、満代が返事をしたばかりだったのだ。
「どうして判ったのですか、婚約指輪もしていないのに……」
驚く満代にさちこが嬉しそうな表情で
「だって、入って来る時に浩二さんが引き戸を開けると満代さんを先に入れたでしょう。今までは自分が先に店に入ってから入れてあげていたでしょう。その違いを見てより大事な人になったのだと思いました。席も今日は並んで座りましたしね。それと、先ほどの注文でも今までは同じものを頼んでいましたが、今日は別々のものを頼まれました。これはきっと二人でより多くのものを食べたいという心の現れだったと感じたのです」
さちこの言葉に二人は頷くばかりだった。
「だって、相手と同じものを食べる。それも同じ献立ではなく一つのお皿を分け合って食べると言う言はこれから一緒の人生を過ごす事を誓い合ったと思ったのです」
さちこの言葉を聞いて浩二は
「僕達ぐらいでしょうか。そんな食べ方をするのは」
そう尋ねるとさちこが満代に返事を促した。
「よく女の子同士はそんな頼み方をするけど、私は将来たとえ貧しくなっても浩二さんと一つのお皿の料理を分け合って食べたいと思っています」
「満代ちゃん……」
浩二の口からは驚きの声が漏れた。
「さて、注文の品が出来ましたよ!」
そう言ってまさやが出して来たのは、さよりの刺身と紋合烏賊の刺身。それに菜花に蛍烏賊の酢味噌掛けだった。
「さあ、どうぞ」
最初に浩二は紋合烏賊の刺身に箸を伸ばす。卸し生姜を乗せて醤油に浸して口に運ぶと濃厚なトロっとした感触が口いっぱいに広がる。他の烏賊ではこうは行かない。
満代はさよりの刺身を口に運んだ。油っ気は無いが、締まった白身の淡白さが春を感じさせてくれた。そして二人で同時に菜花に箸を伸ばした。
「春の味って、何処かほろ苦いのね……」
満代の言葉にまさやが
「そうですね。冬を生き抜いて来た植物は、寒さに打ち勝つようにいっぱい生命力を蓄えているんです。それが苦さとなっているんですね」
それを聞いて浩二は何故自分達にまさやが、あの献立を出してくれたのかが理解出来た気がした。
「これから色々あると思いますが、何事も二人で力を合わせて乗り越えます」
浩二がまさやとさちこに返事をすると、隣では満代が浩二の肩にもたれていてテーブルの下ではしっかりと手を握っていた。
「少しお酒頼んでも良いですか? 何だか今日はちょっとだけ呑みたくなりました」
その言葉を聞いてまさやは店の奥からお猪口を四つと徳利を出して来た。中には口いっぱいに酒が入っている。
「この酒は山形の『住吉』という酒です。結構良い酒だと思います。婚約を祝してお祝いしましょう」
そうして四人の猪口に酒が継がれて、まさやが口上を言った。
「浩二さん、満代さん婚約おめどうございます! お二人を祝して乾杯!」
「乾杯!」
四人が一気に飲み干した。
「ああ、これは旨い酒ですね」
「沢山ありますが、飲み過ぎないようにしてくださいね」 そう言ったまさやの目が笑っていた。この夜は何時までも賑やかだったと言う。
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