第10話 あの人の味
満月の夜だけ現れる食堂……店の暖簾には「心の食堂」と書かれている。今夜も月夜の晩に新しいお客がやって来た……。
「あのう、どんなものでも食べさせてくれる食堂というのは、こちらですか?」
歳の頃なら三十を少し出た頃の女性だった。地味な柄のワンピースがこのお客が堅実な生活をして来た事を伺わせた。
「いらっしゃいませ。どんなものとは言えませんが、出来るだけの事はさせて戴きます」
さちこが笑顔を満面にして答えるとその女性は
「実は亡くなった夫が残してくれた味をもう一度味わいたいのです」
奥の調理場で仕事をしていたまさやは、それを聞いて店に出て来た。
「失礼ですが、亡くなった旦那さんは料理人だったのですか?」
夫が残した味、等と言う事はまさやにとってそれ以外に考えられなかったからだ。まさやの問い掛けに女性は向き直して
「はい、小さな店ですが板前をしていました」
そう言って遠い目を見せた。
「板前という事は料理の種類は日本料理でしたか?」
まさやにとってはこの方が大事だった。いくらまさやが料理の事で博識でもロシヤ料理や本格的なフランス料理では形だけは作れても、その人の求めている味までは保証しかねるからだった。
「日本料理と言いたい所ですが、色々な料理を拵えていました。宴会も請け負っていたので、色々な料理を作っていたのです」
宴会料理は殆どが日本料理だが、常連の目先を変える為に中華を出したり、肉料理を出したりする事もある。それらは専門では無いが、それなりの味を提供しているのが常だった。
「ご主人が残された味とはどの様な料理なのですか?」
まさやの問に女性は一枚の紙切れを差し出した。
「この料理なのですが、この通りに私が作っても主人と同じ味にならないのです」
紙に書かれたレシピを見てまさやは、驚いた。それは自分の料理だったからだ。この料理を作る料理人はそうは居ない。自分と、自分が教えた弟子。それに、生前頼まれて教えた料理人だけだった。だが、まさやはこの女性を知らなかった。
「失礼ですが、お名前は?」
「はい、申し遅れました。高田明美と申します」
「それはご主人の苗字ですか?」
「はい、わたしの旧姓は水樹ですから」
高田と聞いてまさやは、昔の事を思い出した。だが、自分が生前居た世界の出来事とは若干違っているのを感じていた。さちこも気がついたみたいで
「少し違っていて、明美さんなら、あなたの事やわたしの事を知ってるはずなのに……」
そう、そっとまさやに打ち明けた。
そうだった。まさやが生前居た世界では明美はまさや夫婦とは昵懇の間柄だったし、それに人が違っていた。外見が別な女性なのだ。確かに彼女は高田由紀夫という板前と恋人関係で、まさやが亡くなった後に一緒になっていた。向こうの世界からだったが、まさやはそれを知り喜んだのだ。
「もしかしてご主人の名は由紀夫さんですか?」
まさやの言葉を聞いて明美が今度は驚いた。
「どうして主人の名をご存知なのですか? 初めてお会いしますよね?」
ここまで来て、まさやは、この女性の世界が自分が過去に居た世界と若干違っている事に気がついた。何かの拍子で狂ってしまったと考えた。
「どうやら、私が居た世界とあなたの世界は若干違う様です。私が居た世界では、あなたと私達夫婦は古くからの知り合いですし。ご主人の高田由紀夫さんには、私がこのレシピを教えました」
そこまで言って明美は納得した顔をした。
「いいえ、もしかしたら間違って世界を飛び越えてしまったのは私の方かも知れません。だって、ここに来る前に自分が居た店の前に行ったらちゃんと営業していました。別な方がご夫婦で仲良くお店をやっていました。店の「調理衛生責任者」のカードに高田由紀夫って書いてあったので、ここが自分の世界では無いと感じたのです。
それを聞いてまさやは納得した。世界が違っていたのは、自分ではなく彼女の方だったのかと……
・西京 味噌2キロ
・砂糖 1キロ
・練りゴマ 400g
・煮切り日本酒 500cc
・米茄子 または 里芋
レシピの内容はそれだけが書かれていた。分量はまさやが生前教えた通りだった。
「ご主人はこれを誰から教わったのですか?」
「はい、私の居た世界での有名な料理人の方です。きっと向こうの世界での、ご主人なのだと思います」
どうして彼女がこちら側の世界に来たのか不審な点は残ったが、まさやの性分として、自分の料理の味を正しく伝えなければと思っていた。
「季節的に里芋で作りましょう。ゆずもありますからね」
そう告げるとまさやは調理場に入って行った。さちこは、不思議な感じだった。この高田明美と名乗った人物は本来なら親友の間柄なのだが、彼女には全く覚えが無かったからだ。だが、ここでそれを言っても仕方ないと考えた。振り向くと調理場のまさやが何かを拵えていた。
「さあ、出来ましたよ」
まさやが深めの器を手にして調理場から出て来た。
「あなたの旦那さんがこのレシピの通りに作っていたなら、この味だと思います」
出された器を見ると、中には里芋が幾つか並んでいて、白味噌ベースの味噌だれが掛かっていて、上には柚子が細かく切ったものが盛り上がるように乗せられていた。
まさやに言われて明美は箸で里芋を掴んだ。柔らかく難なく掴む事が出来る。強すぎると切れてしまいそうな柔らかさだった。そのまま口に持って行く……。
明美の目から涙が流れて行く。目を瞑って食べる明美は呟いていた。
「主人が居ます! そこに居るみたいです。何と言っても美味しい! この味です! 味噌と胡麻の味がバランス良く、芋の柔らかさと合っていてとても美味しいです。柚子もその風味が素晴らしいです」
「どうですか。旦那さんの味でしたか?」
「はい! 目を瞑るとあの人が傍に居てくれる気がしました。ありがとうございます! でもどうして私にはこの味が作れなかったのでしょうか? この分量で作ったのにです」
明美の疑問にまさやは
「それは、熟成の差かも知れません。この味噌は作って三日ぐらい経たないと味が馴染んで来ません。この味噌は私が三日前に作った味噌ですからね。それに酒のに切り方にもコツがあって完全に煮切ってしまうと、熟成過程で味の差が出て来ます。おそよ半分程はアルコール分は残しておいた方が良いのです。それに酒は冷めてから使って下さい。熱は味噌にとっては禁物です」
「あ、そうでしたか、冷めてから……煮切りは主人のを見ていたので何となく感じ得ていましたが、熱までは……」
「でも、これからは何時でも作る事が出来ますね」
さちこの言葉に明美は
「はい、今日は久しぶりに主人と逢う事が出来ました。これからは何時でも逢う事が出来ます。本当にありがとうございました!」
そう言って明美が頭を下げるとその姿が段々薄くなってやがて消えてしまった。
「あ、明美さんて……」
さちこがまさやの方を見ると
「ああ、違う世界からやって来たのだと、推測していたんだ。それに彼女はもうこの世の人では無いのかも知れない」
「じゃあ、亡くなったのは旦那さんじゃ無くて、明美さん……」
「そうなのかも知れないと言う事さ。ここはあの世とこの世の境目にある『心の食堂』さ、何があっても不思議じゃないのさ」
何処かの世界で彼女の幸せを祈るまさやとさちこだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます