第6話 うどんの味
店を開いて間もなくの事だった。歳の頃なら四十を幾らか過ぎたと思われる年頃の男がふらりと店に入って来た。
肩には濃い緑のデイパックを背負っていた。
「いらっしゃいませ」
さちこが愛想よく出迎えると男は意を決したように
「俺は実はうどん職人だ。それも麺を打つ事に今まで命を掛けて来た。自分でうどんの汁も拵えて来たのだが、未だに満足の行く味が出来ないんだ。噂では満月の夜だけ、この街に出没すると言うこの店の主に頼めば、きっと理想の味を出してくれると聞いて今夜やって来たんだ。金はちゃんと払う! だから俺に自分の打った麺で最高のうどんを食べさせて欲しいんだ」
何とも変わった頼みだった。未だかってこのような頼みは受けた事なかった。
「どうしますか?」
さちこが困った表情で厨房の方に声を掛けた。
「まず、その自分が打ったうどんの麺を見せて貰ってからだね」
まさやが、そう返事をすると、男は
「確かにそうだ。でも麺には自信があるんだ」
そう言って胸を張った。まさやが奥から出てきて
「まず、ひとつで良いから見せて貰いたいですね」
そう言って男に促した。すると男はデイパックからラップに丁寧に包まれた白い塊を出してテーブルの上に置いた。
「これで三人前ぐらいある。試して欲しい。駄目で、そんな価値も無いなら、ハッキリ言ってくれ。また修行のやり直しだ」
「では」
まさやは短く言うとその塊を持って奥に消えて行った。
「お客さんはどちらからいらしたのですか?」
あちこの質問に男は
「うどんと言うから判っているかも知れないが、讃岐香川から出て来て、ここを調べたんだ」
「香川ですか。でもうどんの事なら向こうにも名人は居るのでは無いですか」
「それが、俺は従来の讃岐うどんに疑問を持って、違う麺を拵えたんだ。だから従来の讃岐うどんの出汁、いりこ、昆布、鰹節では何か違う感じがして試行錯誤して来たのだが、どれも駄目だった。そこでここの噂を聞いたんだ」
「まあ、どんなです?」
「何でも東京の片隅に、満月の夜だけ現れる不思議な食堂の親父が凄腕で、どんな料理もこなしてしまうと……」
「あらあら、ウチの人も随分評価が高いのですね」
さちこは陽気に笑っていた。そこへまさやが丼を持って出て来た。出来たのかと男が期待して丼を覗き込むとうどんは入って無く汁だけだった。
「これが私が拵えた讃岐うどんの汁です。まずこれを飲んでみてください」
まさやに言われて男は汁を一口飲み込んだ。
「旨い……信じられない程旨い! どうやったらこんな味になるのか……」
「この味では合わないと言うのですね」
「自分では、そう思ってる。でもこの出汁なら、話は別だ。こんな味は讃岐でも味わえない」
男が驚いている間に、まさやは今度は小さめの器に男が打ったと思わせるうどんが入っていた。
「今度はこれを食べて見て下さい」
まさやに言われて男は箸を持ってうどんを啜った。讃岐うどんとしては、やや細めの麺が男の口に消えて行く
「駄目だ。出汁が旨すぎて麺が追いついて行かない。この出汁だったら従来の讃岐うどんがやはり合う」
「そうです。あなたが打った麺は、従来の讃岐うどんよりも若干細目で、腰が一本調子の讃岐うどんでは無く、もっとしなやかで、繊細な味わいがあります。この麺に、いりこが中心の出汁は合わないのです。この麺はどちらかと言うと水沢うどんに近い感じです。あれより太いですが、茹でると半透明で艶やかで、口に簡単に馴染むが呑み込む時に腰を感じる。そんな麺ですね」
まさやの解説を聞いた男は喜びを露わにして
「そうなんだ! やはり、あんたは凄い! 讃岐では誰もそれを判ってくれなかった」
「確かに、讃岐うどんは素晴らしいです。でも日本には色々なうどんがあるんです。それを楽しまないと損ですよ。秋田の稲庭うどんも讃岐とは全く違う価値観を持つうどんです。それも食べると楽しい」
まさやはそう言うと厨房に引っ込み作業を始めた。そして今度は普通の丼を持って出て来て男の前に置いた。
「食べて見て下さい」
まさやは、それだけしか言わない。男は注意深くうどんの出汁を口に含んで見た。その途端男の目が輝いた。
「これだ!」
一言だけ呟くと、うどんを啜り始めた。
「旨い! 昆布と鰹節が使われているのは判るのだが、もう一つコクを出してる旨味がある。それが判らない……」
たちまち平らげてしまうと男はまさやに近寄った。
「これこそ俺が追い求めていた味だ。何の味か教えて欲しい」
男の言葉にまさやは
「まず、最初の出汁から言いましょう。あれは讃岐うどんの普通の出汁です。但し、材料が違います。いりこ、こちらでは煮干しです。これは最上のものを使いました。それも腸を丁寧に取り除いて雑味が出ないようにしてあります。だし昆布は松前産の最上のものを使いました。鰹節は枕崎産の雄節の背の部分だけをこの調理場で削ってすぐに使ったものです。鰹節は鮮度が命ですからね。時間を置けば雑味が出て来ます」
「そうか……だから次元が違ったのか……じゃあ、その次のはいったい……」
「それを言う前にこれを食べて見て下さい」
いつの間にか、まさやの手には丼が持たれていた。みると、かけ蕎麦だった。
「味を見るために、具は入れていません。葱さえも入れませんでした。まず、食べて見てください」
まさやに言われて男は蕎麦を食べ始めた。途端理解したみたいだ。
「この、コクだ。この返し(返しとは味醂と醤油を合わせて寝かせたもの)の味を深めている昆布と鰹節ともう一つ……さっきのうどんの出汁と同じものだ」
「そうです。この蕎麦は如何でしたか?」
「旨かった。やはり蕎麦は東京だよ。上方の蕎麦は食べられたものではないからな」
「蕎麦自体はわたしが打ったものです」
「やはり、麺職人としても一流だと感じる……それで、そのもう一つのは何なのですかな?」
「宗田鰹節、鯖節、鯵節、鰯節」をブレンドしたものを鰹節とは別に使っています。宗田鰹と鯖節はコクを出します。鯵節や鰯節は旨味を出します。これらと鰹節の割合は秘密です。蕎麦の汁を作る時にも配合は違いますが使います。それと、みっつの配合も勘弁して下さい。それにしても旨いうどんの麺でした。これなら、わたしも欲しいですね」
まさやの打ち明けに男は
「そうでしたか、今まで乱暴な口を利いてすいませんでした。田舎者を演じてみたつもりでしたが……」
「あなたの事は噂で聞いていました。讃岐で変わったうどんを作り始めた人物が居るってね」
「そこまで判っていて、応対してくれたんですね」
「それもありますが、うどんが良かったからです。それが全てです」
「帰ったら、その三つの節の割合を突き詰めてみます。それと、満月の夜にこちらに、わたしが打ったうどんを送りますよ」
男の提案にまさやは
「それはありがたい。これでうどんもメニューに加える事が出来ます」
まさやが笑うと
「未だ麺はありますから、今夜はこれを全て置いて行きます」
そう言って男はデイパックから袋を三つ取り出した。
「冷蔵庫に入れておけば多少は持ちます。使ってください」
「じゃあ、妻にも作って食べさせます」
まさやは、その後三人前のうどんを作って三人で食べた。
「ああ、本当に美味しい。これなら年寄りも美味しく食べられるわ」
さちこの言葉に男は
「そうなんです。最初は讃岐は腰と固いのを取り違えているのでは、と思ったのが出発点なのです。東京に自分の理解者が出来て感無量です」
その晩男は遅くまで自分のうどん理論を披露して帰って行った。無論名刺を置いて行ったのは言う間でもない。
それから、「心の食堂」にうどんのメニューが登場した。たちまち人気メニューになったと言う……
※解説……鰹節以外の削り節の種類
鮪節
キハダまぐろの幼魚を原魚に製造されます。関東では「めじ節」、関西では「しび節」 と呼ばれています。節類の中ではもっとも生産量が少なく、特にまぐろの仕上節は稀少です。 主に中部から関西にかけて消費されています。まぐろ節からは、透明感のある、 ほんのりとした甘みのある上品なだしがでます。ですから、吸い物だしにはよく使われます。 まぐろ節はその味の特長から、素材が本来もっている味を生かして料理ができますので、 まぐろ節をベースのだしに用いている料理人が多々います。 また、まぐろ節は口に入れると淡泊な味わいに甘みが加わるので、糸状や細かい削り節に加工され、 食べる鰹節として多数の飲食店様で使われています。
宗田節
主にマル宗田鰹から宗田節は製造されます。「目近節」とも呼ばれ、主な生産地は 高知県の土佐清水です。宗田節は鰹節より血合いが多いので、味、色ともに濃厚な だしがでます。おそばやさんはもりそばのつゆのだしに宗田節をよく使います。 おでんや煮物のように濃い味が求められる料理にも適しています。
鯖節
ゴマサバと呼ばれている脂肪分が少ない鯖を原魚に製造されます。鯖節からの香りは少ないのですが、 甘みのある濃厚なだしがでます。おそば屋さんはかけそばのつゆのだしに鯖節をよく使います。 宗田節同様、濃い味が求められる料理に適しています。
鯵節
ムロアジを原魚に製造された節です。九州が主な産地です。中部地区ではうどんのだしを 中心によく利用されています。あじ節のだしはやや黄色みがかっており、味は 鯖節よりもさっぱりしています。
鰯節
カタクチイワシ、ウルメイワシ、マイワシを原魚にいわし節は製造されます。 いわし節は主に関西で使用されています。くせのない独特な甘みをもっただしがとれ、 主に麺類、煮物、味噌汁に用いられます。
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