第5話 最後の食事

 空には満天の星が輝いていた。その星が何時もより僅かに目立っていないのは、同じ空に満ちた月が浮かんでいて、明るく輝いているからだ。でも本当は、それぞれの星は何時もと同じ輝きを見せてくれているのだ。

 満月の夜にだけ現れるその食堂に今夜も一人の人物がやって来た。歩く足取りもやっとで、杖をつきながら歩いて来たのだ。暖簾をやっと潜り扉もよろけながら開けて老人は

「ここかね。満月の晩だけ現れると言う食堂は?」

「いらっしゃいませ。そうです。『心の食堂』はこちらです」

 さちこが愛想よく答えると老人は

「立ってるのも辛いので、座らせて貰うが……」

 そう言って店に二つあるテーブルのひとつに腰掛けた。

「何でも大層旨いものを食べさせてくれるそうだね。そんな噂を聞いてね、満月の晩に探していたんだよ」

「失礼ですが、お体が悪い感じがしますが、その状態でこの辺りを探していらしたのですか?」

 さちこは今にも倒れそうな老人の体を心配した。

「ワシはこれでも食道楽でな。今まで世界中の美食を味わって来た。だが、そのせいか、体はボロボロでな、もう余命は長くない。現にもうすぐホスピスに入る事になっている。だから、最後にとっておきの美食を味わいたくてここを探していたんじゃ」

 厨房から、まさやが顔を出して

「世界中の美味しいものを食べられたのですね?」

 そう尋ねると老人は懐かしそうに

「ああ、イタリアを始め、フランス、トルコ、中国、仕事の暇を見つけては訪れて、その国の超一流の店に通ったよ。それぞれが、その国の歴史に込められた味があって、とても良かった。日本人の口には合わないと思う料理もあったが、そんな事は気にならなかった。その料理の背後にあるものを感じると、そんな事はどうでも良く思う程だったよ」

 そう言ってさちこが出したグラスの水を口に含んだ

「この水は普通の水ではないな……軟水……それもかなりの軟水だ。今の日本にこのような軟水が湧く場所があるか判らんが、貴重な旨さだ。体に優しく、料理に使うと味が体に馴染むように浸透していく……どうやら噂は本当だったようだ。どうかね、私に最後の食事をさせくれんかな?」

「ホスピスとお訊きしましたが、大分お悪いのですか? その体で今まで通りの味覚が判りますか?」

 まさやが、老人の体の事を問うと老人は苦笑いを浮かべ

「そろそろ駄目になって来たと自覚してきた所だよ。今夜が最後かも知れない。もとよりホスピスに入れば、旨いものなぞ期待出来ないしな。そんな意味でも今夜が最後だと思っているんじゃ」

 そう言い切った顔は嘘を言っている感じはしなかった。

「そうですか、先程のお出しした水の事から言っても、お客さんの言っている事に嘘はなさそうですね。では、あなたにとって、最後のご馳走を出しましょう。但し、今日は体の事もあり一品だけ出させて戴きます。どうやら、客さんは量は余り食べられないと思いました。それで如何ですか?」

 まさやの提案に老人は笑って

「店主は、どうやら普通の人では無い感じですな。こちらの事まで良く判っているみたいですな。そんな、ワシにどんなモノを食べさせてくれるか逆に興味が沸いて来ましたな」

「では作って参りますから、暫しお待ちを……」

 そう言って、まさやは厨房に入って言った。残ったさちこに老人は

「ここを探すのに三月掛かったよ。噂や、実際にここで食事をしたという人に会って話を聞いたりした。それがとうとう叶って、ワシは幸せだ」

「そうだったのですか……でも、ご家族の方は……」

「家族……そんな者は居ない……ワシは美食に命を掛けて来たのじゃ。地球の果てまで行って命を落としそうになった事もあった。そんな者には家族なぞ持つ資格なぞありはしない。だから人生の最後をホスピスで暮らすんじゃよ」

 さちこは、老人の言葉を聞いて、それほどまでに、美食がこの老人を動かしたその動機が知りたかった。

「食べる以外にも、人生には色々な楽しみがあると思うのですが、なぜ美食だったのですか?」

 さちこの言葉に老人は笑いながら

「それは、食べると言う事は命だからじゃ。命イコール食べる事じゃ。だから美食を追求すると言う事は自分の生きて行く目的を追求すると言う事じゃよ。それに比べたら他の楽しみは二次的なものだと思う。神に与えられた命の真実を追求する事が一番楽しいし、人生の目的だと思ったからじゃ」

 たしかに、そんな理屈もあるとは思ったが、さちこは自分は、かって他にも色々な楽しみを持っていたと思った。

「お待ちどう様」

 気がつくとまさやが、老人に料理を出していた。

「松茸の土瓶蒸しです」

 出された土瓶蒸しの猪口をひっくり返すと老人は静かに土瓶蒸しのお汁を口にした。

「うん。堪らないな……松茸の香りにそれを強調させるゆずと三つ葉の香り。また旨味を出す小海老と銀杏。全てにおいてバランスが取れていて見事じゃ。それに、何と言っても水が良いから素材も出汁の旨味も優しく溶け出している。この猪口の中に、この日本の海と地の全ての恵みを感じる事が出来る」

 満足気な老人にまさやは

「松茸と銀杏は丹波産の最高級のものを、小海老は伊勢産の近海物を、ゆずと三つ葉は静岡産です。出汁は焼津産の上節、だし昆布は松前産です。次はすだちを絞ってお楽しみください。勿論徳島産です」

 まさやの通りに老人は二つに割れたすだちを絞って先ほどと同じように猪口に注いで飲んで行く

「味を壊さず、引き立てる、すだちの味……これがかぼすだと若干酸味が強い……この辺りの選択も見事じゃ」

 次に老人は箸で中の具材を摘み出して行く

「ほう……利休か……贅沢じゃな。箸の使いが楽しくなるわい」

 ひとつひとつを、じっくりと味わうように食べて行く。そして、全て食べ終わってしまうと

「噂に違わぬ見事な出来じゃった。昔はさぞ名のある料理人だったのじゃろう。未だ若そうなのになぁ……でも、そのお陰でこうして人生、最後で最高のものを食べさせて貰った。お代は?」

「はい五百円です」

「赤字じゃな」

「良いのです。利益を追求していませんから」

「そうか……そうじゃな……ワシもすぐに行くから、向こうへ行ったら宜しくな」

 老人は満足気な表情をして出て行った。心なしか、来た時より足取りが軽くなって居る気がした。

「土瓶蒸しは小さな一人用の土瓶を型どった入れ物に、松茸、海老、銀杏、三つ葉。それにゆずの皮を少し、中には吸汁といって、吸い物に張る出汁と同じものを入れて、蒸すか、小さな一人用の焜炉等に載せて温めて、火が通ったらすだち等を絞り、中の具を楽しみながら、蓋代わりの猪口で松茸や海老の旨味が出た汁を味わう料理だ。食べ方も決まっていて、最初に具材を食べてしまうのは愚の骨頂。今日みたいな食べ方が良いとされている。あの食べ方であのお客が言っていた事は全て本当だと判ったよ」

 まさやの言葉にさちこは

「あら、わたしは、その前に本当だと判っていましたよ」

 そう言って笑うとまさやが

「その辺りは、昔からお前には叶わないな」

 笑って、さちこの肩を抱いた。

「でも、本当に、あれで、あのお客さんの人生は幸せだったのでしょうか?」

「さあ……それは、俺たちには判らないな。人生の幸福度は人それぞれだからな。俺たちみたいに人に旨いものを食べさせて幸せを感じる輩もいるしな」

「そうですね……」

 その後、何回目かの満月の晩に二人は世界的な美食家が亡くなったと言うニュースを見ていた。

「もうすぐ来ますね。向こうの店に」

「ああ、ま、それは仕方ないがな。忙しくなるな……しっかり頼むな」

「はい、任せて下さいな」

 

 その夜は、輝くような明るい月夜だった。

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