上書きと排除

「ん。何か懐かしい匂いがする」

「あ、俺かな~」

「うん、お前からだな」


 スンスンと、俺の体に鼻を寄せて匂ってみる朝霞クンは、そうそうこれこれと匂いの元がわかって満足気。改めて俺も自分から発せられる甘い匂いを確認してみる。うん、結構がっつり匂ってるかも。


「お客さんから金木犀のポプリっていうのをもらったんだけど~」

「ああ、金木犀か。そんなのくれるような人がいたのか」

「何かね、リラックス効果があるっぽくて。ラベンダーにも似てるんだって。お兄さん夜遅くまで大変でしょ~って。家で服の近くに置いてたから匂い移っちゃったのかも~。朝霞クン、金木犀に何か思い出でもあるの?」

「ここまで出かかってるんだ」


 ここ。そう言って朝霞クンは喉に触れる。

 朝霞クンという人は、記憶がすっぽ抜けることが多々あるのだ。厳密に言えば、ステージに関する情報以外が。余計なメモリをぎゅーっと圧縮してステージのための情報を入れる容量を作り出す、的な?

 だけど、部活を引退してからは少しずつ朝霞クンの記憶も蘇りつつあった。ステージに関わらない、例えば大学進学前のこととか。ただ、朝霞クンの思い出話なんてレアなことには変わりない。基本、朝霞クンは先のことを話したがる人だから。


「高校に金木犀の木があったんだ。多分それに関する記憶だけど。あー、気持ち悪いここまで来てるのに」

「でもさ、金木犀ってことは結構限定的な時期の記憶だね。花が咲いてたんデショ?」

「ああ。咲いてたと思う。誰かの姿がおぼろげにあるんだけど、靄がかかってるみたいだ」


 お前は誰だ。そんなことを言って朝霞クンは頭を掻き毟っている。よほど曖昧な記憶になっている“誰か”のことが気になるのか。男なのか女なのか、先輩なのか後輩なのかもわからない影のことが。


「朝霞クン、思い出せないなら無理するコトないんじゃない?」

「でも気持ち悪いだろ」

「きっと“今”じゃないんだよ」

「そういうモンか」

「飯野クンとか、当時の朝霞クンのコトを知ってる人の顔を見たら思い出すかもしれないし、その時までとっとこうよ。飯野クンとは年末にまた会うんでしょ?」

「それもそうか。アイツが何か知ってるとは思えないけど、高校時代の記憶を呼び起こす引き金にはなるかもしれないな」


 朝霞クンは、将来仕事をするようになってそれに没頭すると、今忘れられているこの影の人のように俺のことも忘れ去ってしまうのだろうか。大丈夫だって信じたいけど、絶対忘れないって言い切れないのが朝霞クンなんだ。

 なんかもう、いっそ金木犀の記憶も全部今から俺の思い出で塗り替えてやろうかなって思っちゃうよね。思い出せなくて気持ち悪いのは影の人が引っかかっているのか、それとも自分の記憶の不甲斐なさか。俺は忘れられたくないなあ。


「シンに今ラインとかで聞いてみるかな」

「それはそれで面白くなくない? それに、何て聞くの? 俺と金木犀で思い浮かぶ光景って何かあるかって? ムリムリそんなの他人のコトなんて出てこないよ」

「それもそうか」

「そうそう! だから今の朝霞クンは、俺に集中しよう」

「はあ? 何でお前に」

「俺だからまだいいけど、目の前にいる人をおざなりにするのはよくないデショ?」

「それもそうか、悪い」

「あ、そうだ。花と言えばさ、おばなの里のイルミネーション行きたいんだよね~。朝霞クン一緒に行かない?」

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