がけっぷちの感興
これは、ファンフェスの打ち合わせのはずだ。だが、この場に現れた千尋の出で立ちは番組の打ち合わせがどうとかじゃなく、夏休みの虫取り少年のそれにしか見えねえ。気合いの入るベクトルが明らかにズレてるじゃねえか。
千尋の出で立ちと気合いの入り方には、俺だけじゃなくてさすがに律もちょっとは呆れているようだ。ちなみにここは向島大学のサークル棟。回りはそれこそ文字通りの山ではある。
「千尋、てめェ何しに来た」
「番組の打ち合わせはサクッと済ませてフィールドワークをしたいのが本音です!」
「フィールドワークだ? 虫取りがか」
「坂井千尋、星港大学生物科学科3年!」
「お前の虫取りは専攻に関係ないっつー話は聞いてんだ。わかったら網とカゴ置け」
「ちぇー」
「やっぱり街の人には虫が珍しいンすかねェー、この辺じゃ虫なんて叩き潰すほど出るンすけど」
まあ、学業とその“フィールドワーク”に関係があれば許したかと言えば、俺が帰った後でなら好きにしろと。ただ、番組の打ち合わせで来ている以上、打ち合わせは打ち合わせ、虫取りは虫取りでメリハリは付けてもらわねえと困る。
「千尋、お前トークはある程度練れたのか」
「いやー、自分的には出来たつもりだけど、高崎にどう映るかはわかんないなー」
「ごたごた言うな」
「極限状態にならないと人間って実力以上のモンが出ないって言うじゃんかー」
「つまり、やってねえんだな」
「だって春だもん! 虫取りが楽しいんだよ!」
「うるせえ、1回虫取りから離れろ。大体な、春だからっつー理由が許されるなら俺だって春だからっつってずっと寝てたいんだ。いいから1回トークしてみろ。律、マイク立てろ」
「へーい」
星大と言や可もなく不可もねえっつー連中がわんさかいる優等生大学のイメージが強いが、ここ数年の例外は似非優等生の某性悪と、この千尋だろう。千尋は星大のサークルの中では一番熱いタイプらしい。
その性悪からファンフェスがどうしたああしたと聞かれて、少しメールでやり取りはした。ついでに千尋について聞いてみたが、千尋に関しては「頑張れ」としかなかったのが一筋縄ではいかないのだと物語っている。
「じゃ、準備出来たンで坂井先輩のタイミングでいースよ」
「――って高崎! そんなに見られたら緊張するんですけど!」
「は? ファンフェスは公開生放送の体だろ。この段階で俺一人くらいどうだっつーんだ」
「だって粗探しする気満々じゃんかー!」
「お前がごたごた言う度に打ち合わせが延びて虫取りの時間がなくなるぞ。あーあ、この調子だとあと何時間かかるかな」
「虫取りはやるよ。……りっちゃん、ゴーだよ」
「へーい」
極限状態にならないと人間って実力以上のモンが出ない、とはよく言ったものだと思う。火事場の馬鹿力とかクソ力とか、そんなようなものが実在するのは何となくわかっていはいたが。
試しにやらせてみたトークは、それなりに形になっている。自分的には出来たつもり、というのが強ち嘘でもなかったのかと。まあ、疑いすぎた俺も俺だが最初のナリで信用しろと言われても難しいだろう。
「ふーん、悪かねえな。意外とやってたんだな」
「よし、虫取りだ」
「まだダブルトークが残ってるぞ」
「えー!?」
「やァー、坂井先輩、座席関係的に見えちまッてんスけど、ネタ帳が限りなく白いスよね。素晴らしい即興トークした」
「ぎゃー! りっちゃん言っちゃダメ!」
「へぇー、それがお前の極限状態の力、なあ」
「この通り! 次回打ち合わせまでにはちゃんとしたネタ帳も作ってくるし! この通り! 今日は虫取りをーっ!」
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