第211話 最も合理的で正確な判断!
リーシュの前に現れたのは――……
『こんにちは、お嬢ちゃん』
長閑な田舎の一日。リーシュが花と戯れていると、ローブを着た男が現れた。ローブ……黒……だ。顔はフードに隠されていて、見ることはできない。
……でも何か、声には聞き覚えがあるような。
『おじさん、だれ?』
リーシュが顔を上げて、男に返答した。ゆったりとした動きで、黒いローブの男はリーシュに近寄る――……声は中年男性だ。それも、どちらかと言えば年老いた方の。一度も聞いた事は無いはずなのに、どういう訳か俺は聞いた事があるような気がして。
優しげで落ち着いていて、芯があるのにどこか柔らかい声。
同時に、戦慄が走った。
この男……空中に、魔法陣を描きながらリーシュに近寄って来ている……!!
『おじさんはね、遠い遠い世界の住人なんだよ』
幼いリーシュは、それが怪しい光景だという事に気付いていない。リーシュの視界は常に目の前の男一人に向けて固定されている。
むしろ、少しだけ興味があるようだ。
……………………まさか。
『じゃあ、ここには遠足で来たの?』
『なるほど、遠足ね。……まあ、そんなところかな』
もう一人いた。
咄嗟に、俺は過去の記憶を思い出していた。
雷雲漂う空中で、ドラゴンに乗った俺と師匠。大雨の日。聖なる光の剣のようなものを飛ばして、俺の母さんを攻撃したリーシュ。
もう一人、いたんだ。
まさか――……いや。母さんを攻撃したのが、リーシュの意志では無いとしたら……? 幼い頃に起こった出来事と、今現在が繋がっているとしたら?
黒いローブの男が遂に、その顔を露わにする……!!
『お嬢ちゃん、行こう』
……………………なっ……!?
『だめだよ。知らない人には付いて行っちゃいけないって、おばあちゃんが言ってた』
み、見えない……!?
黒いローブのフードに隠れた顔が、リーシュのすぐ目の前まで迫る。にもかかわらず、その顔が見えない……!! まるでモザイクのようにぼやけて霞んで、男の顔が潰れてしまったかのように見える……!!
くそ……!! 一体どういうことだ!? やっぱりこれは、俺の夢……なのか……!?
『知らない人じゃないよ。おじさんはね、君のお父さんだ。……リーシュ・クライヌ』
『……お父さん?』
『半分、ね。君にも僕の血が流れているんだ――……この、ロイヤル・アスコットの血が』
待て。……ロイヤル・アスコット。聞いた事があるぞ、この名前は。
確か、スカイガーデンだ。リベット・コフールの誕生祭で、リーシュが現れた時。実の父親、ブレイヴァル・コフールに向かって、リーシュが言った一言だ。
リーシュは、黒いローブの男が差し出した手を握った。そうして立ち上がると、男は魔法陣の内側にリーシュを連れて行く。
紫色の、黒く濁ったような魔法陣だ。まるで見た事のない形。これは――……一体、何の魔法……?
『お父さんが、迎えに来たの?』
『そうだよ、リーシュ。……さあ、行こう』
白い光に包まれる。黒いローブの男とリーシュが、その白い光に吸い込まれていく。
リーシュの視点から物事を見ている俺は、瞬間、眩い光に目を閉じる――……やがて光が治まって行くと、黒いローブの男に手を握られたまま、リーシュは見知らぬ場所にいた。
相変わらず、男の顔は見えない。リーシュは見上げている筈なのに、まるでそこだけ記憶を削り取られたような状況だ。
『さあ、着いたよ。良かったね、リーシュ。ここが君の家だ』
『私の家は、おばあちゃんの所だよ?』
『今日からは、ここで私と一緒に暮らすんだよ』
いや……ちょっと待て。記憶を削り取られた……?
なんか、前にもそんな事を、どこかで聞いたような気がする。いつだっけ……? 記憶を失った奴、居ただろ。何も思い出せない、そこだけぽっかり穴が開いたようだって……。
『私ね、連中に関わっていた記憶が抜けて行ってるの。……だから、完全に忘れる前に、あんたに会えて良かった』
そうだ。
確かそんな事を、ヴィティアが言っていた。
そうか。……リーシュもまた、ヴィティアと同じように、奴と関わっていた当時の記憶が抜けているとしたら。幼い頃にこんな出来事があったんだとしたら、幼少期の記憶を丸ごと失っていてもおかしくはない……かもしれない。
リーシュの視界が黒いローブの男から、前方へと向けられる。……って、うおっ……!? な、なんだ、これは……!!
『これが、『シナプス』だよ』
巨大な……人の、脳だ。少なくとも俺には、そのようにしか見えない……これは……魔物? まるで心臓のように、どくんどくんと脈を打っている。本体は虹色に光り、常にその色を変化させている。もし、魔物だったとしても。少なくとも俺は、こんな魔物を見た事はない。
黒いローブの男はそれをリーシュに見せる。リーシュはその『シナプス』と呼ばれた物体に向かって走り、目の前まで来てまじまじと見ている。
『シナプス……』
『シナプスは、全生物に選ばれし神だ。最も合理的で正確な判断をする、すべての生物の結合部分――……これからはもう、何も悩まなくていいし、何も失敗しなくていいんだ』
『ごうりてき……? せいかく……』
『ああ、気にしなくて良いんだよ。神の啓示を受ける人間は、別に子供でも馬鹿でも構わないんだ』
何だか、黒いローブの男は色々と凄い事を口にしている。神……? つまり、人間が選択を迫られた時の判断材料としてこいつが居る……ってことか……?
あるよな、そういう占いとか、まじないみたいなもの。その、超高性能バージョン……みたいなものか?
『そして、君は――――その啓示の、最初の存在になる』
リーシュが、その巨大な人の脳のようなものに――……触れる。虹色に光る、美しくもグロテスクな存在に。リーシュが指を近付けると、虹色の脳は目まぐるしく色を変えていく。まるで、それ自身がメロディーであるかのように。
視界が、虹色でいっぱいになっていく――――………
『!?』
うおっ……!!
な、なんだ……これは……!? これ、は……幾つもの、人の声。人……? 人ではない、かもしれない。生物の声、か……?
声と表現するのも、少しばかりおかしいような気がする。でも、他に言葉も見当たらない。
『人を殺せ』
やがてその声は、リーシュに『価値』を齎した。
『人を殺せ。そうすれば、君はより自由になれる』
『それはとてもすばらしいことなんだ』
『できるだけ有能な人を殺すんだ。そうすれば、未来に一歩、近付く』
声……止めどなく溢れる声。そして、言葉。それらの単語では表現し切れない程の何か、巨大な『価値』――或いは、『うねり』のようなものが、リーシュの中にねじ込むように入って行く……!!
同時に、リーシュの視界を見ている俺もまた、同じようにその現象を感じる事ができていた。
何か、己の内部にある常識の範疇というのか、『定義』が書き換わって行くような感覚がある……!! 俺は外で見ているだけだが、この年齢のリーシュはどうなってしまうんだ……!?
リーシュはすっかり、指を『シナプス』とやらに触れたままの状態で固まってしまっている。動く事はない……いや、もしかすると動けないのかもしれない。
まるで上の空であるかのように、リーシュは呟いた。
『殺す……ひと、を……?』
あまりの出来事に、悪寒がする。
なんだ、この意味不明な物体は……占い? まじない? ……そんなもの、比較にもならない。
『そうだよ。……これから、有能な人に会いに行くよ。リーシュも、一緒に来るかい?』
最も近い感度で言うなら、それは『洗脳』だ。または、『催眠』と呼ばれるようなものだ。
ものの数秒で、リーシュの中の価値観が変わってしまった。『人を殺す』ことが――……素晴らしい事であると、そういった風に。自分の中の何が抗える訳でもない……リーシュの中身がその時、書き換わってしまったんだ。
……そうか。最も合理的で、正確な判断をする、すべての生物の結合部分。つまり……これを使えば、全ての人がまるで同じように、同じ価値観を持って行動する事が可能になる……ってことか……!!
『行く!!』
満面の笑みで、リーシュは言った。まるでそれが大変すばらしい事であるかのように。それを行えば、誰もが誉めてくれると信じて疑わない様子で。
黒いローブの男はリーシュの言葉に満足したようで、再びリーシュに向かって手を伸ばした。
『あのね、私ね、すっごく魔力が強いんだって!! だから、きっとすごいことができるよ!!』
『そうだよ。……君は、天才なんだからね』
胸騒ぎがした。
この先に、待っているものを――……俺は、知っている気がする。或いは、過去に見た気がする。幼心にずっと抱えて来た疑問の、核心に触れているような気配がある。
再び、紫色の魔法陣に二人は吸い込まれていく。俺は、どうする事もできず――……ただ、その出来事の『傍観者』になる他、無かった。
*
トムディ・ディーンが見るからには、ほんの一瞬だった。
凄まじい、龍と魔物の頂上決戦。開始当初はマックランド優勢であるかのように思えた。相手の魔物は相当な数がいたが、こちらも負けてはいない。両手の指で数え切れない程の龍が召喚され、マックランドと共に戦っていた。人類の命運を賭けた、しかしながら人類を含まない戦いの結果は、人類の勝利で終わるかのように感じられた。
だが、これは――――…………どういう事だろうか。
「言っただろう。マックランド、君は絶対に……私に勝てない、って」
黒いローブの男の言葉に、マックランドは笑った。
身体を中心から貫く、巨大な氷の剣に――……口から、血を吐きながら。
「……なるほど。これは……周到に組んだ罠だな。さすがに私も、まるで予想できなかった」
マックランドは、何かを見た。そのように、トムディには感じられた。
戦闘は、マックランド不利ではなかった。途中までは、あの氷の剣を操る黒い翼の人間とも、互角に戦っているようだった――……マックランドは氷の剣を避けつつ、深紅の龍と共に炎の魔法で対抗する。炎を放てば氷は溶ける。だから、どちらかと言えば黒い翼の人間の方が、苦戦しているようにトムディの目には見えていた。
しかし、勝敗が決したのはほんの一瞬だった。
……一体、何を見たのだろうか。マックランドが黒い翼の人間の『何か』を見た途端、まるで身動きを取らなくなり、結果として深紅の龍に乗っているだけのマックランドは、黒い翼の人間に串刺しにされていた。
「レッドウール」
マックランドは、深紅の龍に向かって何かを呟いた。
その声はかすれていて、トムディの耳には入って来なかった。
程なくして、マックランドの相棒と思わしき、深紅の龍――……レッドウールが、忽然とその場から姿を消した。
その他様々な龍も、同時に元の場所へと還って行く。どうやら、マックランドは召喚魔法を使っていたようだ。
「トムディ……!! ど、どうしよう……!!」
魔法が解かれ、マックランドはその場に倒れた。辺りに血の海ができる――……マックランドは自分自身に対して回復魔法を使っているようだったが、症状を食い止めるのがやっとだろう。……あの状況で、すぐに治るとはとても思えない。
何より、マックランドは魔導士。回復魔法を軸にするタイプではない。
「……どうする……!? どうすれば……」
グレンは居ない。この場で、この無数の魔物とも張り合える冒険者は……治安保護隊員位のものだろう。……だが、どういう訳だろうか。マックランドが戦っている最中も、治安保護隊員が現れる様子はまるでなかった。
クラン・ヴィ・エンシェントは一体、何をやっているのだろう。治安保護隊員を除いての、大して実力のない冒険者の集団に、この戦況が逆転できるとはとても思えない。
ならば――――…………逃げるべきか?
「さあ。……まずは、この崇高な物語の目撃者を隔離しよう」
そう言うと、黒いローブの男は両手を広げた。トムディやヴィティア、その他様々な冒険者の足下を覆い尽くす程の巨大な魔法陣が現れ、光を放った。
「君達は既に、誰に助けを求める事もできない……!!」
「きゃあっ……!!」
ヴィティアが頭を抱えて、その場にうずくまった。
男がそう言った瞬間、トムディ達の身に変化が……訪れなかった。
呆気に取られて、他の冒険者達は辺りを見回している。咄嗟に身を屈めたヴィティアが、何も起きていない事を確認すると、恐る恐る顔を上げた。
「ト、トムディ……何がどうなってるの……!?」
――――違う。
「ヴィティア!! 影響が起きているのは、魔法陣の『中』じゃない……!!」
トムディの額に、冷や汗が流れた。
魔法陣の外側だけ、あたかも正常のように見えるが――……雲が、動いていない。魔法陣の境目で雲はぱっくりと割れて、内側だけが動いている。
つまり――……、この現象は。
「魔法陣の外側と内側に、境界線を作ったんだ!!」
「きょ、境界線!?」
「つまり今、僕達は――……この魔法陣の外に、一歩も出られなくなったって事だよ!!」
周囲の冒険者が、トムディの言葉を聞いて驚いた。或いは、悲鳴を上げている者もいた。
そして、トムディの言葉に黒いローブの男が反応する……。
「おや……? 見覚えのある子が……いるね」
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