第195話 ノックドゥの未来に
俺とチェリィはそれぞれ、グラスを手に持った。
すぐ隣にはリーシュと、毒見をしたノックドゥの人間がいる。皆、俺達に微笑みを送っている……それは、ステージの上だけの出来事ではない。観客として眺める国民達も、特別席に座ったギルドメンバー、ノックドゥの城の人達も。遂に就任式の盛り上がりはピークを迎えていた。
ギルドメンバー用に並んだ、特別席。そこにはヴィティアと、遅れて登場したキャメロンとミューの姿があった。
……そこに、トムディの姿はない。
苦笑して、俺はチェリィに向き直った。
「チェリィ。……もしかしてまだ、国王になるのが認められないのか」
俺がそう問い掛けると、チェリィは俺から視線を逸らした。
「いいえ。まさか、そんな事はありませんよ」
チェリィ本人は、そう思っているかもしれない。本人が気付いていないという事も、あるのかもしれない。……でも、チェリィは明らかに抵抗を示していた。それは就任式が始まる前までもそうだったし、今でもそうだ。
当たり前だ。何のために今まで、名前を変えてまで逃げていたのか。……こうなりたくなかったからだ。チェリィは本当は、国王をやる気は無いんだ。
それに対して、俺が言える事は何もない。家庭の事情はあるだろうし、『女性国王』なんていう、特徴的な国の息子に産まれれば尚更だろう。身体の事もある。
今この場に、こうした立場でチェリィが居るということは、良い事とも考えられるし、悪い事とも考えられる。
だからそれには、俺は口を出さない事にした。
「チェリィ。……俺さ、乾杯の前に、チェリィに言っておきたい事があるんだ」
俺がそう言うと、少し俯きがちにしていたチェリィが顔を上げて、俺を見た。
まん丸い、大きくてつぶらな瞳。それを見ていると、やっぱり俺は、こいつが本当は男なんだとは、どうしても思う事ができない。
でも、こいつは男だ。チェリィ・ノックドゥは、チェリア・ノッカンドーと名前を変えて、セントラル・シティの冒険者をやっていた。
きっと、国王になって暫くして、時が経った時。ソロとして活動していたチェリアの事を覚えているのは、俺達だけになるだろう。
特に、他に仲の良い冒険者も作らなかったと聞いた。チェリィの立場で冒険者の仲間を作るということは、それだけノックドゥに見つかり易くなるという事でもあったからだ。
でも、友達は作りたい。そういう、不安定で左右のはっきりしない道を前にして、チェリィは俺達と共にいるという選択を取ってくれた。
ならば、彼もまた『あまりもの』だった。
それは、変わらないから。
「ありがとう」
俺は、チェリィに素直な気持ちを伝えた。
チェリィは一瞬、眉をひそめた。少し頬を赤らめて、俺の言葉を受け止めているように見えた。
「俺、お前には感謝しているんだ。……感謝しても、し足りない事ばかりだよ。もしもお前がノックドゥを逃げ出して、冒険者をやっていてくれなければ、多分俺達は集まらなかった。ヒューマン・カジノ・コロシアムで生き抜く事なんて出来なかっただろうし、きっとヴィティアは救う事ができていなかった。……それに俺は、お前が居なかったら『カブキ』で死んでいたかもしれないしな」
「いいえ、そんな。……僕が居なくても、グレンさんは一人でもきっと、どうにかしましたよ」
俺は苦笑して、首を横に振った。
「今だから、はっきりと思うよ。これまでチェリィが仲間で居てくれて、本当に良かった、って」
そう言うと、チェリィは少しばかり、泣きそうな顔になった。きっと、勘違いをしているんだろう。俺がギルドメンバーとしてのチェリィに別れを告げて、これから先は俺達だけで頑張ってやっていくんだと、そういう事を伝えようとしているのだと思っているのだろう。
俺が伝えたい事は、そうではないと知らずに。
「回復魔法は、お前に頼ってばかりだった。多分、一番負担が大きかっただろうと思う。陰でばかり頑張らせちまって、本当に悪かったな」
「……そんな事、言わないでください。……僕は、グレンさんと、皆さんといられて……僕だって、救われていたんですよ」
「こんな、行方知れずの根無し草を相手に、よく付いて来てくれたと思うよ、ほんとに」
チェリィの頬から、一筋の涙がこぼれた。
俺はそんなチェリィを見て。
やっぱりチェリィも、俺がこれから護って行かなければならない、大切な仲間の一人なんだと。
「そしてこれからは、ノックドゥの国王として、俺達のギルドに参加してくれるんだよな」
そう、思った。
チェリィは驚いて、俺の顔を見詰めた。俺は苦笑して、酒の入ったグラスに視線を落とした。きらきらと光りながら、俺の動きに合わせて液体が揺れる。
こう話す事に、きっと意味はあるはずだ。
「俺、さ。チェリィがノックドゥの国王で、確かに驚いたけど……それ以上に、嬉しかったよ。まさか俺の、こんなによく知る人間が……『国王』っていう、一番近い位置に居てくれるなんて。お前は国王でいる事に躊躇があるかもしれないけど、俺は嬉しい」
チェリィは、大きな瞳いっぱいに、涙をためていた。
「……そう、ですか?」
「そうさ。お前の決断は、英断だったよ。……そういう事に、しようぜ。別に一度城を飛び出したからって、間違いじゃない。お前はちっとも、おかしな行動なんて取っていないよ。誰だって考えるし悩むだろ、実の母親が調子悪くなったら」
どうやら、俺の予想は当たっていたらしい。
チェリィが躊躇していたのは、本当は母親の事でも、兄の事でも無かったんじゃないか。チェリィ自身も気付いていなかった理由が、心の奥底にもう一つ、あったんじゃないかと思った。
城を抜け出した人間が、城に舞い戻る。
何を今更、とチェリィは心のどこかで、思っていたんじゃないだろうか。
家族はとうに裏切った。見捨てて逃げ出した自分が、今更戻るなんて、と。そう、思っていたんじゃないだろうか。
例え、本人は気付いていなかったとしても。
「別に、離れる訳じゃない。立場は違えど、俺達はこれから、ノックドゥを護って行く人間になるんだ」
「……はい。……そう、ですね」
「チェリィ。……これからもずっと、俺の――俺達の仲間で、いてくれないか」
チェリィは、俯いた。下を向くと、涙が数滴、ステージに向かって落ちた。
次に顔を上げた時、そこには――本当は男であることを忘れさせてしまうほどに魅力的な――どきりとする笑顔を、チェリィは見せた。
「――――よろこんで!!」
思わず、俺は吹き出してしまった。
「酒場のねーちゃんか?」
「違いますよっ!! 茶化さないでください!!」
俺とチェリィは、笑った。その様子につられて、隣で見ていたリーシュと城の男も笑った。
希望に満ちた、世界。俺とチェリィは遂に、グラスを掲げた。国民達が拍手をしようと、両手を上に持ち上げる。
俺は自信を持って。嘗て無い程に、喜びを押さえられずに、言った。
「ノックドゥの、未来に!!」
続いて、チェリィもグラスを見ながら、はっきりとした口調で言った。
「未来に!!」
見ているか、母さん。
これは、第一歩だ。本当の意味で俺達が先へと、未来へと進み出すための、第一歩。
上等な酒を俺は、口に――――…………。
……なんだ? 国民の叫び声や拍手の音、黄色い声に混ざって。何か、尋常ではない焦りを含んだ声が、聞こえる。
「やめろおおおぉぉぉぉ――――――――!!」
誰――――…………いや。
ラグナス……?
瞬間。
俺のすぐ近くで、グラスの割れる音が聞こえた。咄嗟の事で、俺は視線を向けるだけでやっと――……の、出来事で。俺と向かい合って、俺と同じように酒を口に含んで、飲み干した筈のチェリィ。
全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
――――――――えっ?
「きゃあああぁぁぁぁぁぁ!!」
「なっ……!? な、なんだ!? どうした!?」
黄色い声は一転、焦燥と騒ぎに変わった。俺のすぐそばで倒れたチェリィは、目を開いたまま、その場に仰向けに倒れていた。
膝が曲がり、そのあまりに不自然な体勢で転がっている様子から、意識が無い事が分かった。
時折、僅かに痙攣している。真っ青になった顔が、尋常ではない事態だと告げている。
口から、飲んだ筈の酒の余りがだらしなく垂れ、それは地面に水溜まりを作っていく。
「誰か、医者を呼べ……!! 国王が、国王が倒れた!!」
国民は騒ぎ、走り回る。
「静かにっ!! 国民は動かず、治安保護隊員の命令に従ってください!!」
治安保護隊員は、パニックを起こした民衆をどうにか落ち着かせようと、必死で声を掛け始めた。
どうしてだ? ……何が、起こった? どこからも攻撃される様子は無かったし……。まさか、酒に毒……いや。事前に毒見をしているんだぞ。何より、俺が無事なのはどういう理由だ。
……駄目だ。頭が真っ白になって、何も考えられない。
「チェリィ!!」
ウシュク・ノックドゥが、チェリィのそばに駆け寄る。焦り、涙を流しながら、チェリィの手を取る。
「チェリィ!! しっかりしろ、チェリィ!!」
どうして、こんな事が起こった?
……誰のせいで。
返事が無い事に、ウシュクは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「くそ……!! 一体、何が起こったって言うんだよ……!!」
頭の中で、まとまらない思考がループする。地面は覚束なくなり、目の前で倒れているチェリィと、その手を握って声を掛けるウシュクが、まるで遠い世界の住人のように思えた。
何も予測できなかった。こんな事になるとは、とても――……俺は、目の前の事で精一杯で。今日、就任式をどうやって乗り切るか。そんな事ばかりを、考えていて。
「ウシュク様!! 治安保護隊員です、私が見ます……!! 下がってください!!」
「チェリィは!? チェリィは無事なのか!!」
「今、確認しますので!!」
……いや。……本当に、予測できなかったのか?
考えられる事は、沢山あっただろう。逃げ出したチェリィが改めてノックドゥに戻って来る事を、良く思わない人間だって居たかもしれない。
冒険者をやっている内に敵を作って、本当は今この場に至るまで、誰かに狙われていたのかもしれない。
今となっては、手段も動機も分からない。……でも、もっとちゃんと追い掛けていたら。俺がチェリィの周辺事情に至るまで、きちんと配慮する事ができていれば。
もしかしたら、こうはならなかったのかもしれない。
治安保護隊員が、チェリィを見ている。頬を叩いて、何度か声を掛ける。
「エドラ様……!! エドラ様!!」
チェリィの母親が、あまりの出来事に卒倒した。
その様子を漠然と眺めながら、俺は。何も手に付かない真っ白な頭の中で、ただ漠然と、永遠に解答の見付からない問いを、自分自身に投げ掛けていた。
誰のせいで、こんな事が起こった?
――――――――俺がもっと、ちゃんと見ていれば。
「リーシュ・クライヌだ……!!」
どこからだろうか。パニックを起こした国民の中から、不意にそんな声が聞こえた。俺は顔を上げ、その言葉を発した人物を視線で追い掛けた。
国民の真ん中で、やや地味な恰好をした男が、リーシュに向かって指をさしていた。焦りのあまり怒気をはらんだ声色で、叫ぶように言った。
「グレンオードは倒れていない!! 毒見もしている!! この状況で国王に毒を仕込む事が出来るのは、リーシュ・クライヌだけだっ!!」
ぴくんと、跳ねるように動いた。真っ青になって、リーシュが一言、呟くように口にした。
「……………………えっ」
俺は、リーシュに振り返った。
「そ、そうか……!! 確かにそうだ!!」
「やっぱり、あいつが……!!」
頭の中で、警鐘が鳴り響いた。血の気が引いて冷や汗をかいているのが、自分でも分かる程に。
どうにかしなければならない。動かなければいけないと思う中で、どうして良いのか分からず、動く事ができない。パニックを起こした国民達の怒りの矛先が、徐々にリーシュへと向かって行く。
「お前か…………!!」
ウシュクが、猛然とリーシュに詰め寄った。リーシュは俺と同じように、ただ現状に付いて行く事ができずに、狼狽えていた。
治安保護隊員の一人が、背中からウシュクを拘束した。
「止めて下さい、ウシュク様!! 危険です!!」
「うるさい、離せっ!! そいつは俺が殺す!!」
まずい。
このままじゃ、暴動が、始まる。
俺は咄嗟に、リーシュを背中に隠した。両手を広げて、庇うように。背中のリーシュが震えているのが、否応無しに分かる。
「ち、違う……!! リーシュはそんな事をしない……!!」
そうだ。リーシュじゃない。
そうじゃなきゃ、誰だ。
こんな事、メリットも無しに、誰かがやるとは思えない。
誰。
「そこまでだ。――――グレン」
国民の中から登場し、ステージに登って来る人物がいた。
その表情は冷静で残酷だった。背後で青い炎が燃えているかのような――……手の甲に描いた魔法陣を光らせ、指の皮を薄く噛み千切った。
間もなく巨大な龍が――――俺が以前召喚した事のある真紅の獰猛な龍が、付き従うように背中へ登場する。
「リーシュ・クライヌを、拘束する」
師匠……………………!!
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