第128話 グレン、サンオイル塗って

『当ホテルは喫煙室と禁煙室に分かれております。煙草を吸いたい方は喫煙室をお選びになるか、二階に喫煙所がありますので、そちらでお願いいたします。それと、夜間の海は視界が悪く大変危険なため、当ホテルでは夜間、海側には出られないよう、警備を整えております。海には出ないようにお願いいたします。……それでは、ごゆるりとお楽しみください』


 さて、受付の男に案内されて、無事にチェックインを終えた俺達であるが。

 俺は今、嘗て無いほどの危機に直面している。

 海パン一枚、装備も何もない状況。まあ仮に攻撃を受けたとしても、普段の格好だって大して変わりないと思うかもしれないが、精神的にはものすごく問題である。

 ホテルから借りてきたビーチパラソルと幾つかのビーチチェア。チェアを並べて、砂浜にパラソルを刺す俺。丸テーブルに、人数分のトロピカルジュースを買っておく事を忘れない。

 どうやら、一番乗りだったらしいな。招待券で得られた部屋はツインベッドの二部屋だったので、男、女に分かれる事になった。更衣室で水着に着替え、ここに来た、という訳なのだが。


「先に行った筈のラグナスはどこにいるんだ?」

「ナンパじゃないっスか?」

「相変わらず行動が音速だな……」


 スケゾーと雑談を交わしながら、俺はビーチパラソルの下でビーチチェアに座って休憩する。一応レジャーシートも借りて来たので引いたけど、一体どこまで使うのか。

 しかし本当に、海に入るのなんて久し振りだ。ノーブルヴィレッジの時も、何だかんだで海に入る事は無かったからな。

 俺が泳げない事を、誰も知らない。

 ……一体いつ、カミングアウトすれば良いんだ。


「グレン様――――――――!!」


 声がして、俺は振り返った。


「おおお…………!!」


 思わず、胸が締め付けられるような想いに駆られた。

 黄緑色の、肩紐の無いバンドゥビキニ。何の躊躇もなく走って来るので、その……豊満な胸が、余す所なく揺れている。海なんだから水着姿の女性は多いけど、大声を出した事もあって、周囲の視線を独占していた。主に男。

 俺は思わず、リーシュから視線を逸らした。


「……何度も言いますけど、普段ビキニアーマーじゃないっスか」

「黙れ!! これはさすがにちょっと違うだろ!!」


 戦闘用装備じゃない。そして、肌の露出が多過ぎる。やばい。……やばい以外の言葉が出て来なくて、語彙力がどうにかなりそうだ。

 リーシュは俺のそばまで走って来ると、隣のビーチチェアに座った。


「あの、ヴィティアさんと一緒に水着を買ったんですよ。……どうですか?」

「あっ、あー、ああ。……可愛いんじゃないか」


 それ以外に言える事が見付からない。気の利かない俺である。

 ……ん? ……返事が無いので、俺はリーシュの顔を見た。

 頬を赤く染めて、嬉しそうにしている。

 ……まずい。静まれ、俺。


「グレン様? ……大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。問題ない」


 やっとの所で、そう答える俺。既にリーシュを直視できないが、何事も無かったかのように、テーブルに置かれたトロピカルジュースを飲んだ。

 平静を保つんだ。落ち着いていれば、そのうち慣れるはずだ。


「実は私、水着があんまり得意じゃなくて。背中で紐が上手く結べないんですよね……大丈夫かな」

「ブボォッ!!」


 俺は盛大にジュースを吹いた。


「グレン様っ!? だ、大丈夫ですかっ!?」

「げっふ……えっふんっ……」


 やめろよリーシュ……!! ポロリなんかされたら俺は多分、出血多量で死ぬぞ……!!

 ったく、海なんて冗談じゃないぜ。男も女も布地は少ないし、すぐそこに水の恐怖はあるし。俺の苦手なモノが勢揃いじゃないか。

 リーシュの方を向かないようにしながら、俺は予め買っておいたジュースをリーシュに手渡した。


「ほれ。お前の分」

「わあ、ありがとうございます!! 買っておいてくれたんですかっ?」

「……まあ、一応な。一人で飲んでるのも感じ悪いだろ」

「えへへ……グレン様が優しいです」


 くそ。いつも居なくてほっとする筈のラグナスが、今はとても必要だ。なんだこれは。まるで、その……デートみたいじゃないか。

 待て、落ち着け。別に俺はリーシュから、告白めいた言葉を貰った訳じゃない。信頼はしてくれていると思うが……俺は絶対に思い上がらない。勘違いしないぞ。

 俺がまだ一人で冒険者をやっていた時は、何も言っていないのに勘違いされたりしたからな。警戒の上にも警戒だ。

 同時に、リーシュの水着姿にも見惚れない。


「海なんて、久し振りですね。ノーブルヴィレッジの皆、元気かな……」


 不意に俺は、リーシュを見てしまった。

 どこか儚げな顔をして、遠い水平線を眺めていた。海風に、銀色の髪の毛が揺らめいている。

 ばっちり見惚れる俺であるが。


「あの時、グレン様が助けてくれなかったら、私はここに居ませんでした。スカイガーデンの時も……グレン様とノーブルヴィレッジを出た時は私、すごく嬉しかったんですよ」

「……そ、そうか」


 おい。何を緊張しているんだ、俺は。何のことはない、ただの会話じゃないか。

 相手は、あのリーシュだぞ。落ち着け、俺。

 リーシュは俺に、満面の笑みを見せた。


「あの日の事を思うと、今でもどきどきして……夢見が悪くなります」

「寝付けないって言おうな?」


 俺は完全に、我に返った。


「あ、こんな所にいた」


 俺とリーシュが振り返ると、ホテルの方からヴィティアが歩いて来た。こっちは布地を前で交差させる、クロスホルタービキニだ。胸の形や大きさを選ばず、可愛く見せるタイプ。考えたな、ヴィティア……何で俺がそんな事を知っているのかって? ホテルで流血沙汰を起こさないために、事前に調べたに決まっているだろうが。

 一体誰に説明しているんだ、俺よ。


「良かった、あいつは居ないのね……」

「ラグナスは早速、どっかに消えたよ」


 俺の知らない何処かへ。

 ヴィティアは俺とリーシュの座っているビーチチェアを無視して、レジャーシートの方にうつ伏せに寝そべった。……なんだ、ビーチチェアだけで十分かと思ったけれど、使う奴は使うんだな。

 俺はヴィティアに、先程買って来たトロピカルジュースを渡す。


「ヴィティア、ジュース買っておいたぞ」

「あ、ありがとう。でも、後で良いわ……ねえグレン、サンオイル塗って」

「ぐふっ!?」


 ヴィティアは背中の紐を解いて、俺に謎のボトルを手渡した。


「な……なんだそれは……!? サンオイ……!? なんかもう言葉の響きだけでいやらしい!!」

「ただの油よ!!」


 紐を解いているから、ヴィティアは俺と視線を合わせる事が出来ないようだったが。それでも、俺に怒っていた。


「これは、可愛く日焼けするために必要なものなの。背中は一人じゃ塗れないから、手伝ってよ」

「リ、リーシュに頼めば良いだろうがっ……!!」


 ヴィティアは顔だけ上げて、遂に俺と目を合わせた。……やめろ。無い胸が見える。


「……グレンは、手伝ってくれないの?」


 うぐっ……!? ……な、なんという破壊力だ……!! 俺の反論を全て一度に抹殺する、容赦無き言葉のデンプシーロール……!!

 ど、どうすればいいんだ。その、サンオイなんとかをヴィティアの背中に塗ってやらなきゃいけないのか。俺は喉を鳴らして、恐る恐る、ヴィティアに近付いた。


「……仕方ねえな。分かったよ」

「えへへ……やった」


 サンオイルを手に取る。

 ん? ……ただの、液体だぞ。

 なんだ、サンオイなんとかじゃなくて、サンのためのオイルという事か。海で遊んだ事なんて無いから、よく分からなかった。そういえばたった今、ヴィティアが油だと言っていたな。俺の気が動転しているのか。

 良かった、ただの油か。俺は少し、安心した。


「塗りムラがあると綺麗に焼けないから、丁寧に塗ってね」

「おう、そういうものなのか。任せろ」


 両手に、サンオイルとやらを伸ばす。……ヌルヌルする。油なんだから当たり前だ。

 それを、ヴィティアの背中に――……ん?

 油……あ、油だと……!? ちょっと待て……!!


「ん、ちょっとひんやりする」


 ま、まずいぞこれは……!! 予想以上というか、想像以上になんというか、こう、エロい……!!

 落ち着け、俺。これは海で遊ぶ人間にとって、平然と行われるえげつない行為なんだ。むしろ俺がエロい目で見ているからエロいのであって、滅びの山に登る修道士のように清く美しいノーエロ・マインドを持っていれば、決して迸るエロス――……邪な感情が現れたりはしない。

 どうでもいいけど俺、エロって思い浮かべすぎだろ。

 無心になれ、俺……!! そう、無心になるんだ……!!


「ノーエロス……ノートラブル……ノーゴーイングウデスベリ……!!」

「何!? なんの呪文!?」


 あまりの動揺に、つい奇怪な言葉が漏れてしまった。

 しかし、これで……終わりだろう!! たった一度の儀式だ。日焼けするためという事であれば、今日二度塗ることはあるまい……!!


「こ、ここ、これで良いよなっ!? もういいかっ!?」


 素早く離れると、ヴィティアが苦笑していた。


「もう……ありがと」


 身体が硬直してしまう自分が恨めしい。しかし、大丈夫だ。必要以上に接触する機会も、もう無いはずだ。


「わあ、良いですね……グレン様、私にも塗って貰えますかっ?」


 俺は、心臓が凍り付くようだった。

 二人目は、もう耐えられる自信が無い。楽しい海で、早くも流血沙汰になってしまう。


「あんたはさっき、日焼け止め塗ったじゃない」

「あ、そっか。二つは駄目ですよね」


 セエエエェェェ――――――――フ!!

 い、生き残った……!! 首の皮一枚繋がって生き残ったぞ……!!

 ヴィティアが水着を直して座り、俺の腕に自身の腕を絡めた。


「ねえ、グレン。この後、もし良かったら――……」


 ふと、俺の身体が陰に隠れた。



「おお、グレンオード。サンオイルを塗っているのか。俺にも塗ってくれ」



 ゴーイング・キケンナアイノカオリ!?



「ン何でだアアァァァ――――!! てめえは自分で塗れ!!」


 直後、叫ぶ。既に海に入って来たのか、若干身体の濡れたラグナスが、俺の背後に立っていた。気持ち悪い。


「貴様、背中に手が届くと思うのか?」

「知るかよ!! 何で俺がお前の背中に油なんぞ塗らなきゃいけないんだ!! 好きな女の子でもナンパして塗ってもらえよ!!」


 ついでに言うと、頑張れば普通に背中に手は届くと思うぞ。それはヴィティアもだが。


「何を言っているんだ貴様は!! ビーチバレーとカップルジュース以外で女性の手を煩わせるなど、紳士の風上にも置けん奴だな!!」

「お前の紳士の基準が全く理解できねえ!!」


 はっ!? この展開は……!!


「なんだなんだ? 喧嘩か?」

「良いぞ、殴れー!!」


 ラグナスと絡むとよくある、いつものアレじゃないか……!! しまった、今日は警戒しているつもりだったのに……!! こいつは見た目が良くて声が大きいから、一度騒ぐと周囲に人が集まって来るのだ。

 思わず、青くなってしまった。ラグナスは丸テーブルに勢い良くサンオイルのボトルを叩き付け、俺を睨み付けて言った。


「良いからお前は、俺の背中に優しくサンオイルを塗れば良いんだ!!」


 周囲に集まった人集りが、一メートルくらい引いた。

 やばい、どうしよう。このままではまたしても、俺が変態だという認識が広まってしまう。

 次々と、周囲の野次馬からの声が聞こえてくる。


「え、何……? そういうアレ?」

「痴話喧嘩か」

「これは美味しいベーコンレタスバーガー……」


 誰だ最後に喋った奴。

 ラグナスは自身の両肘を擦る奇怪なポーズで、うねりを伴いながら俺に近付いて来る……!!


「第一この俺の、大理石のような肌に触れる事が出来るんだぞ。少しはありがたいと思え。職人が丹精込めて研磨した、暗闇の中でも淡く輝く大理石のような肌に……!!」

「警備員さ――――ん!! 変態が!! 変態がここにいまアァァァ――――す!!」


 一瞬にして、背を向けてラグナスは走り出した。その後ろを、マリンブリッジ・ホテルの警備員が全力で追い掛けていた。



 *



 野次馬が去り、ラグナスが戻って来る頃には、奴は馬に追い掛けられた時のように酷く乱れた呼吸をしていた。

 俺は、海でビーチボールを使って遊ぶリーシュとヴィティアを眺めながら、二杯目のジュースを買って来ていた。


「遅かったな」

「貴様……警備員を呼ぶとは、大した度胸じゃないか」


 呼ぶしか無かっただろ、あの状況では。

 俺は二人が危険な目に遭わないように監視をしながら、ラグナスに声だけで話し掛けた。


「俺にサンオイなんとかを塗らせようとしたお前の失態だ。肝に銘じろ」


 ラグナスはビーチパラソルの下で自分自身にサンオイルを塗り付けているようだったが。……結局、自分で塗ってるしな、サンオイル。さっきの騒動は一体何だったんだ。


「……ん? サンオイなんとかだと?」


 そう言って、ラグナスは品のない笑顔を浮かべ……しまった!!

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