想喰

 喰わずには生きていけない。


祈禱きとう


 老婆は、山道を歩いていた。歳のわりに腰は真っ直ぐで足取りのしっかりしているところから旅慣れを感じさせる。

 老婆は村々を回っては雨乞い、占い、口寄せ、呪術。当たった時は村総出で御礼を振る舞ってくれるが、そうでなければ厄介扱い。それでも手間賃を施す村はありがたいもので、石投げ、鎌鍬持って追い払う村さえ少なくはなかった。それゆえ祈禱師はその日の食にありつけるかどうかすべてがその祈禱に掛かっている。が、長年続けてきた職はすっかり人職に落ち、親から教えられた聖職の色はとうに失われていた。

 豊かな世ならまだ人心にも神の住むところあり、貧しくば悪鬼の巣窟となる。これを沈むるは神の詞にあらず、虚言こそ救いなり。


老夫


「こいつァでけェ虎だ」

 猟銃を持った老夫は、生まれてはじめてだと言った。それは言葉の通りで、老夫は生まれて初めての獲物を撃取ったのだ。それまでは?

 その日も老夫は山へ向かう途中であった。山に行き空の鉄砲を数発撃つ。それを合図に獲物を持った男が現れる。獲物を受け取ると同時に老夫は持ってきた酒や食料を渡し二、三言何か言い交すと獲物を持って山を下りる。

 もっとも山には山賊が出るという噂から里の人々は近寄ることはなかった。その中で老夫だけは山へ鉄砲を担いでは出掛けていくのだった。

「さすが、里一番の猟師の腕は違ェな」

 朝から鉄砲の鳴るのを聞いた者たちが集まってくると、そこには女と大きな虎が一頭倒れており火薬の匂いのまだ残る中老夫は立っていたそうな。里では腕の立つ猟師として知られる老夫だからか、虎の倒れているのに誰一人疑わずにいた。ただ、里に虎が出た。それだけが人々にとって衝撃だったのは間違いないことであった。

 老夫の手の小さく震えていることには誰も気付かなかった。



 女には想う男がいた。

 女はその朝も山菜を取りに山へ出掛けていた。山といっても入ってそれほど行かぬほどのところまでであったが、そこを偶然にも狩りを終えたところらしい男たちが通り掛かると女に気付き、女はすっかり取り囲まれてしまった。そして乱暴まではされずも半ば引きずられる形のまま山中をどう行ったのか小屋へと着くとすぐ荒縄でぐるぐる巻きにされてしまったのだった。

 ひとしきり抵抗し、手足を動かし押し込められた汚い手ぬぐいを吐きだそうと舌を動かすもどうにもならないとわかって、はじめて私は山賊に捕まったのだと頭で理解しめそめそ涙した。小悪党面が様子を見に来る度女は身を強張らせた。中には衣服に手を掛けようとする者、脚を撫でていく者もあり女はいつこの恐怖が終わるかと二、三十分も経たぬ間を永遠の時間と感じていた。

 どれくらい経っただろうか、涙涸れ嗚咽だけになった頃。今までの男とは違った、顔立ちの整った男が入ってきた。

「うちのが手荒な真似してしまってすまなかったね」

 山賊の頭領だと名乗った男は縄を解いた。女は逃げることも叫ぶことも忘れたように呆っと男を眺める。

「お詫びといってはなんだが、腹も空いているだろう。飯でも食べていきなさい」

 木戸を開け、来るように促す。先からガヤガヤと男共の声が聞こえてきた。従う他にない女は男に黙ってついて行く。大部屋には二十人ほどだろう男共が好き放題声を立てていたが、一人が頭領に気付くとすっかり静まり返ってしまった。

 女は頭領の横に座らされたためその顔は窺えぬも何か気配のようなものを感じとった。

「てめェらはいつから人さらいなんてするようになったんだ」

 俯く山賊たち。この様子からすると、この頭領が命令して連れ去られたのではないようだ。そう考えて女は先の謝罪に納得がいった。私は不運にも山賊に目を付けられたまたまここまでさらわれてしまったのか。と同時に隣の男は信用してもいいのかもしれないと少しだけ思うもすぐ相手は山賊の頭領だと考えを打ち消す。

 その間も頭領の話は続いていたが、気付くとその内容は私を嫁にしたいというものに変わっているではないか。

「私は彼女を嫁に迎えたいと思うのだがどうだ」

 鴉のように一斉にめでたい、めでたいとそろえて男達は言う。そして私の想うところと無関係に祝杯の音頭を一人が取ると酒盛りが始められてしまった。

「私、家に帰りたいのだけれど」と女は隣の男にそっと告げた。

 すると男は女に向き直り少しきょとんとした顔をする。

「ああ、そうだったか。済まない済まない。暗くに帰っては家の者も心配するだろう」

 男は断るだろう、と思いつつ聞いたものをあっさり送ると言ってきたから今度は女の方がきょとんとしてしまった。


 道中、男は今まで狩ってきた獲物の話をしていた。

「そうだ。祝いの証に今度大物を贈ろう」

 大鹿か熊か猪かとあれこれと並べる。

「虎、大きなこの国一番の虎をください」

 女は帰れる安堵からか頭の働くままに喋っていた。

「虎か、あれとは数度死闘をしたことがあるが熊と違ってなかなかの勇猛さ。国一番となるとすぐにとはいかぬが。お前の望みならばいいだろう。約束した」

 断るだろうと思えば、女の頼みを受け入れてしまうこの男に女は些か申し訳ない想いになってきていた。それでもやはり虎より強い男であっても山賊の嫁だけは避けたかった。女にも、生活という自尊心があった。

「せめて、真っ当に暮らせるなら――」

 つもりのなかった言葉がぽろりと漏れてしまっていた。


山賊


 木々の間にぽっかりと円い空が見える。その下には雌鹿と子鹿が一頭ずつ横たわっている。

「それにしてもお頭が女とはねえ」

 山賊の一人が仕留めた鹿の角を持ち引く。

 遠くから発砲が聞こえた。男たちは音の方へと向かう。

 向かった方角で出会ったのは猟銃を担いだ老夫であった。山賊は老夫に鹿を、老夫は山賊に袋包みと酒瓶を渡す。

「変わったことはないかね」と老夫。

「お頭が虎を狩りに数日出てるくらいかな」

「虎とはまた大物だな」

「何、惚れた女への贈り物だとよ」

 そう言って山賊が下卑た笑いをする。

 女ねぇ、老夫はそれだけ言うとまた明後日と去っていく。

 山賊たちも己らの小屋へと戻っていった。


 頭領


 男は死物狂いであった。虎から逃れることとそれを狩ることでは雲泥の差である。男は丸一日考えた。虎を狩る手段ではない。己が死んでしまったらということについて。そして至った結論は、女は己の死を望んでいるのであって虎でも国一番の男でもないのだという疑心であった。疑心と恐怖は波長が合うらしくすぐに共振をはじめると男の頭はそれしか考えられなくなっていった。それでも時折、女は本当に虎もしくは己を望んでいるのではなかろうかと正気に戻ることもあり、それが男をまったくらしからぬ行動へと駆り立てたに違いなかった。

 それは喰うという表現ほど合うものはなかった。衣服を剥ぎ取り柔肌に喰らいつく。相手の顔など気に懸けない。それは命を懸ける男の性のようで、至極当然と牙を突き立てる。

 気が付いたときには、女は、虚空を見つめており、どんな感情よりも、恐怖めいたものが込み上がってくると木々の間をただひたすら、ひたすらに走り抜けていた。

 走るうちに頭は冷静さを取り戻すと起こったことへの悔悟に襲われる。放って逃げたこと、犯したこと。これ以上の悪事をしたことのない男には悲歎とも憤懣ともつかぬものであったので、小屋へ戻るや唸ったり叫んだりを繰り返してばかりであった。

 みんなが戻ってくる前にけじめをつけねばとあぐねた結果、とにかくここを出て虎を狩ってでも詫びねばならないと思うと鼓舞するように大きく咆哮し小屋を駆け出した。

 虎に喰われるなら罰と甘んじよう。喰われなければさだめと受け入れよう。

 罪の意識が死に纏わる苦悩を上回ると行動は早く不思議と力が湧いてきた。この罪と向き合った時現れるものこそが真の人間性なのだろうか。

 男はもう一度咆哮すると飛び跳ねるようにして森の奥へと消えていった。


役人


 男には想う女がいた。

 男はその朝も書物に向かい昼は警備へ出掛けた。警備といっても山間の里それほど大事も起こらない毎日であった。この日偶然にも警備をしているところ男たちの通りかかるに役人が気付くと、すがりつくように彼らに取り囲まれてしまった。そして涙ながらにお頭がお頭がと口々に言うところを荒縄でぐるぐる巻きにしてしまったのだった。

 ここらを荒らす山賊故に油断ならぬとはじめは思っていたが、聞くにどうも事情が違った。彼らのお頭が虎に喰われたというのだ。何でも婚礼の契りに大虎を狩ることになったが昼頃小屋へ戻ろうとした者が中から大きな咆哮を聞いたそうな。それきり頭領は未だ戻らず山中を探したもののそれも未だ見つからず途方に暮れていたというのであった。

 男は山賊の話の中で虎という言葉が気になった。そこでひとまず彼らを保護する形で置いておくことにし、事実を確かめに里へと向かおうとした、まさにその時だった。里の者が役所に飛び込んでくるなり虎が出たと言うではないか。

 詳しく聞くに虎はすでに腕利きの老夫に撃ち殺されたそうであったが、虎に襲われかけた村娘が一人いると聞き、顔も蒼くなるほどに焦りを感じた。なぜなら男には想う女がいたからだ。里にいる年頃の女といえば片手ばかりの数である。

 男は女の身も心配であったが、里が虎騒ぎに混乱していると聞き、急いで仲間へ連絡を取ると山狩りの準備に取り掛かった。伝えに来た者には、里の人に大事無いよう家にいることを託けると皆重々たる装いで山へ向かった。


「出たら俺は逃げるぞ」

 男が言う。来月には式を挙げることになっていた。

「なら俺も逃げる。どちらが喰われても恨むなよ」

 枝を払い草を踏み進むと山賊たちの言う通りの場所に小屋がぽつねん建っていた。入ると山賊らの生活臭と今朝まで使われていたのだろう痕跡があるのみであった。肉塊どころか骨一本すら落ちておらず、もちろん虎の姿もない。となると頭領が生きている可能性は十分にあるとも考えられる。もしくは虎から逃げたためにここにいないだけなのかもしれない。男たちはまだ生存の可能性のある頭領を探すことにした。

 虎でなく人を、悪人を探すとなると彼らの本分である。

 その日は夕刻まで辺りを探したが頭領は見つからず、虎がいるのかどうかも解らずじまいとなった。

 捜索が終わると男は女の家にすっ飛んで行った。が、女の言伝を頼まれた家の者からは会えないとだけ言われ門中にすら入れてもらえずであった。


 翌日、里は虎が出るらしいという噂によって全然静まり返っていた。日中仕事に出る者があったとしても夕暮れには通りに人影などなくなっているほどであった。


祈禱師


 里に着いた老婆は、村人の人相からすぐ不安を察すると占いを買って出た。

「虎などおらぬ」

 この一言が村人の心にどれだけの安泰をもたらしたことか。言わずもがな、老婆はこれまでにないほどの御礼を振る舞われた。


 老夫


 老夫はその日も山へ入っては空砲を鳴らしてみた。子分らはあの日から捕まったまま、頭領は行方知れずである。空砲は虚しくこだまするばかりで、誰も獲物を持ってくる者はなかった。



 人を喰うことを覚えた獣は、幾度となく人を喰うという。

 さりとて、喰わずには生きていけないこともまた事実なのである。

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