想喰
狐夏
虎
喰わずには生きていけない。
一
私は恐らく人を喰ろうたことがある。味も食感も覚えてはおらぬが、喰い散らかした跡があった。思う故に後付された記憶かもしれぬが夢中で追いかけたようにも覚えがある。ただ、どうにも胸焼けというものがしているらしく、以来食欲が湧かずにいた。胸がもやもやする感覚がすっかり私から食欲を奪い取ってしまったようだ。
一日、二日は平気で過ごしていたが三日目からいよいよ空腹を感じ始め、四日目には木々が回りはじめて見えた。かく状態と秤に掛けてなお、この胸焼けは食事を受け付けたり得るものではないようであった。
どこをどう歩いたのかも覚束ず、人家の付近を浪々としていると、物陰から人が現れ私を見るなり小さく息の詰まった悲鳴を上げ一目散に駆出す。それを追う私。空腹のせいだろう俊敏な動きを命令しても四肢は大地を蹴り出す力なく歩くよりは幾分速い程度であった。
恐らく人を喰ろうたときは一息に飛び掛りあの喉に喰い付いていたに違いあるまい。が、今はどうだ。空腹と胸焼けに襲われながらなお肉食獣としての本然が喰えと狩れと駆り立てるではないか。今なら確信をもって言える。私は人を喰ったことがあると。
二
「こいつァでけェ虎だ」
猟銃を持った老夫は、生まれてはじめてだと言った。熊でも鹿でも撃ち殺せる腕の老夫は日がな山へ行っては猟をして暮らしていた。そこへ向かう途中、女が慌てた様子で縋って来て何事と尋ねぬ間に虎が姿を見せあれまと思わず撃ったのだそうだ。女は先刻、安堵のせいか気を失い今は奥の間で眠っている。
まだ朝霧の残る早い時分のことであった。
その日の昼前、まったくの別件ではあるが知らせが耳に入った。この頃、近山でたかりをしていた山賊どもが捕まったという知らせだ。例の老夫も一度出くわしたことがあったそうだが、そのときは持っていた猟銃で返り討ちにしてしまったというのだから時代が時代ならば名のある武人になっていたに違いない。さて、山賊どもが捕まったというのも頭領が虎に喰われたからだという話であった。子分共がひと仕事終え、隠れ家へ戻ると虎の大咆哮が聞こえたそうな。皆震え上がり誰も中を確めぬままに山を転がり降りてきたそうな。今は親鴨を亡くした雛のようで役人が同情してしまうほどだという。そこへ今朝の虎話が役人の耳に入り事が繋がったということだ。
虎が山を降りてくるようなことは今まで聞かぬことだったので、役人たちも重々な山狩りの装いをしてその隠れ家へと出向くこととなった。
「出たら俺は逃げるぞ」
役人の一人が言う。彼は来月式を挙げる。
「なら俺も逃げる。どちらが喰われても恨むなよ」
各々覚悟と細心の注意でもって山へ踏み入る。低い笹がささらささらとさせ、時折り足元から鳥が飛び立つ度猟銃を一斉に向けては安堵する。そんな繰り返しであった。
緑光の中、木立の合間から小屋が見えてくる。辺りは静寂の色濃く、パノラマはぐるりと同じ景色にしてただ一点のみを強調する。砲口が梢にかかりパキリといった。森の空気すら腰を屈めているように、静かに近づいていく――、戸を押す――、開く――。中は獣臭く、といっても人間の男共の生活臭であるが――で満ち満ちていた。人骨も血肉もなく、ただ人間らしい生活の跡が散乱しているのみで虎などなかった。
では頭領は、まだこの辺りにいるのではないだろうか。束の間の安堵を新たな緊張が飲み込んでいく。それは恐怖によるものではなく仕事としてのものであったからだろう、どの顔も役人らしいものに戻っていた。死んでいる者を探すことは難しいが生きている者ならばどこかに痕跡が残るものである。夕刻まで探索は続けられその日は引き上げとなった。子分が捕まったとなっては山賊の頭とてそう悪さもできぬだろうと翌日も際立った捜索は行われず、虎への警戒に従事していた。
この一件により里は生活をまったく変えてしまった。山へ近づく者はなくなり、日が沈めば家から出る者はいなかった。
ただ一人、老夫だけは今日も山に猟へと向う。
後に
今日も山に空砲がこだましている。
三
私は空腹であった。今朝、危うくまた人を喰うところであったのだ。
あの女が、堪らなくうまそうでならない。
了
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