第三章:コマドリはどこに潜む
――麗しい海 感傷を呼び起こす
居間では、パパがいつもの曲を掛け始めた。
ふっと息を吐くと、取り上げた洗濯物のタオルを広げる。
青空の下、冷えた空気が手の甲に触れた。
そろそろ季節は「涼しい」から「肌寒い」に移ろおうとしている。
この二階のベランダからは黄葉した山の木々とその向こうに広がる藍色の海までがよく見える。
――君の優しい囁き 夢の中に誘い込む
パサッと乾いた音を立てて、黄色い絨毯じみた木々の葉の一角から、二羽のコマドリが飛び立った。
深い青の海を目指して飛び去るかと思いきや、二つの影は再び黄金色の波に紛れ込む。
風に揺れる鮮やかな黄色の葉の中に溶け込むと、もうどこに隠れているのか分からない。
ただ、湿った土と木の葉のどこか甘い匂いだけがそよ風と共に漂ってくる。
柔らかだが、もう温もりを持たない風だ。
――軽やかな風は オレンジの香りを運び
あれから半月経つが、麓のスーパーに行っても、ディーノと顔を合わせることはない。
もう半月か、まだ半月か。
どちらにせよ、彼は行ってしまった。
――その芳しさが 恋する心に沁みる
多分、二度と逢うことはないだろうし、恐らくそれがどちらにとってもいいのだろう。
パパには、ディーノともう一度出くわした話はしていない。
むろん、彼がギタを婚約者と語っていたことも。
パパと私の間では、ディーノはお父さんを亡くして遠くミラノに去った、気の毒な坊やのままなのだ。
――“私は行くわ、さようなら” 君は言ったね
別れの言葉すら告げずに姿を消した白シャツの彼も、そのまま真珠色に輝く車に乗ってミラノに向かったのだろうか。
光り輝く藍色の海に、節くれだった長い指でハンドルを静かに握り、ハイウェイを遠ざかっていく真っ直ぐな黒髪の後姿が重なって見えるような気がした。
振り向かない白いシャツの肩にはきっと水色の影が落ちているのだ。
――僕の恋する心を見捨て 僕の気持ちを置き去りにしていった
そういえば、あの人は、私の名前すら知らずに行ってしまった。
真っ白なタオルを竿に干したところで思い出す。
だが、ギタでないのに伝える必要があるだろうか。
うっすらと水気を孕んだ白い布が鼻先でゆらゆら揺れる。
彼にしても探し求める婚約者でなければもはや何の興味も執着も覚えないから、そのまま去ってしまったのだろう。
そして、もう現れることもない。
季節外れのローズの香りが干したタオルの生地からうっすら立ち上っては消え入っていく。
これはいつも使う洗濯用洗剤の匂いだ。
パパが好むのはそんな柔らかな香りなのだ。
ミントのような鋭い匂いが嫌いだとはっきり口にしたことはない。
でも、パパが身に着けるのにそうした香りのものは一つもないのだと改めて思い当たった。
ククッとどこかで鳥の喉を鳴らす音が耳を通り過ぎる。
この鳴き声を聴く度に、人間のクスクス笑いに似ていると思う。
土と木の葉の混ざり合った、甘くてひやりと冷たい香りが辺りで濃くなってきた。
――行かないでくれ これ以上僕を苦しめないでくれ
このくだりを耳にすると、恋しい相手が戻ってきても互いに苦しむのではないかといつも感じる。
だからこそ、一方が姿を消してしまったのではないのか。
洗濯籠から新たにクリーム色の枕カバーを手に取って広げると、またローズが淡く匂った。
この香りが好きなのは、本当はパパではなくママだったのかもしれない。
一度も会ったことはないし、実際のところママと呼んでいいのかも分からないが、パパの妻で、そして私の原型であるギタの母に当たる女性だ。
名前はマレーアという。
毎年、七月二十日になると、パパはこの枕カバーみたいな淡いクリーム色の薔薇をリビングに飾る。
マレーアは真紅よりこういう優しい色が好きだったから、とのことだ。
実際、アルバムの写真でパパの隣に立っているその人は、どの写真でもクリーム色やベージュ、薄紫など、ふんわりした色彩の服を纏って柔らかに微笑んでいる。
ギタも一緒の写真を見ると、この一人娘が母親からは琥珀じみた栗色の髪とエメラルドの瞳を、父親からはやや陰鬱な彫り深い目鼻立ちをそれぞれ受け継いだと知れる。
それはそれとして、パパが今は隣にいない妻に贈る薔薇は、年々一本ずつ増えて今年は五十四本だった。
ギタの人生が二十二歳で止まったように、ママことマレーア・ヴィットーリも四十七歳から年を取らないのだけれど。
パパだけが老いていくのだ。
優しく清い香りの薔薇を部屋に飾り、漂う匂いが次第に熟し、花の姿は萎れていくのを眺めるパパ一人が。
――ソレントへ帰って来てくれ
呼びかけられている女性は、一体、どこに消えてしまったのだろう。
彼女の気さえ向けば帰れる場所にいるのか。
それとも、望んでも、もう戻れないのか。
バサリと音がして、すぐ近くの黄金色の木立からクロウタドリが一羽飛び立った。
カラスに似て真っ黒ではあるけれど、もっと小さく丸みを帯びた体つきの鳥だ。
眺める内にも、小さな鳥の姿は黒そのもののような一点と化して空の水色と海の藍色のあわいに紛れて消えていく。
あんなにも迷いなく真っ直ぐ飛んでいくのは、確固たる行き先があるからだろう。
鳥はきっと、人が憧れるほど自由気ままに飛び回ってはいない。
屈んで洗濯籠からもう一枚の枕カバーを取り上げたところで、またパサッと鳥の飛び立つ音がした。
今度もまたコマドリだろうか。
黄金色の木々を見渡したところで、黒光りする車体がちらりと目に入った。
次の瞬間、山の車道を進むピアノの黒鍵盤さながらつやつやと光るその高級車は、黄葉の絨毯の下に姿を隠した。
だが、サーッと切り裂くような音はこちらに近づいてくる。
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