第二章:海の産む石、海に漂う石

「もしもし、ママ?」

 晴れ渡る秋の青空の下、遠目にも冴え冴えと白いシャツの背中が微妙に屈んで、携帯電話に語り掛けた。

 やっぱり、ディーノではないかもしれない。

 写真の男の子は、ギタと比べてももう少し小柄で華奢な体つきをしていた。

 この人はスーパーの駐車場を通り抜けていく他の買い物客より頭半分は大きいし、肩幅も広い。

 その割に頭自体は小さいので、何だか周囲の人間とは骨格全体の作りが違って見える。

「大丈夫だってば」

 広い背中を震わせてカラカラと笑う。

 蜻蛉トンボが一匹、さっとその背中すれすれの空を横切った。

「昔、パパもこの辺に連れてきてくれたしね」

 パパ、の部分が乾いた空気の中では妙に飛び出て聞こえる。

 携帯電話で話す声は、本人が意識している以上に大きくなるものなのだろうか。

 立ち止まって眺めている私の背後を車がまた一台走り抜けていく。

「丘の上で肩車してくれた」

 自分の声が大き過ぎると感付いたのか、男は打って変わって落とした調子で語った。

 その肩に、新たに飛んできた蜻蛉がそっと止まる。

 空を切る時は透き通って見えた翅が、白いシャツの上では黒いレースじみて映った。

 真っ白なはずの布地にも淡い水色の影が落ちる。

 どちらが本来の色なのだろうか。

「向日葵畑の向こうに真っ青な海が見えたから覚えてる」

 すっと風に溶け込むようにして、蜻蛉は彼の肩を離れた。

 飛び去る瞬間、透明な翅がきらりと陽の光を返す。

「あんまり一緒にいられなかったからさ」

 そこで初めて気付いたらしく、男は浅黒い中高なかだかの横顔を見せて、寂しく微笑んだ目で遠ざかっていく一匹を追った。

 小さなレース作りの飛行機のような虫が私のすぐ手前を通り抜けていく。

 細めていた黒の瞳が潤んだ光はそのままに大きく見開かれた。

「だからこそ、余計に覚えてるんだよ」

 携帯電話を右耳に当てたまま、彼が向き直る。

 正面から臨むと、太く長いくびが際立って、やや威圧的なまでに大きく見えた。

 父親と歩いてきた小さな女の子がすれ違いざま目を奪われた風にこの白シャツの男に見入る。

 パパに手を引かれながら、まるで絵本の王子様でも眺めるかのように幼い顔を振り向けたまま、帰っていく。

「じゃあね、ママ」

 変わらず人懐こい語調で告げながら、黒曜石じみた円らな目は、どこか挑むようにこちらを捉えている。

 素知らぬていで通り過ぎるにはもう遅過ぎた。

 サーッと背後で自動車がまた一台走り去る。

 車の駆け抜ける音は鋭い刃で紙を切り裂く音に似ていると思う。

「また、後で掛けるよ」

 電話の向こうはまだ返事をしていないであろうタイミングで男は胸ポケットに携帯電話を滑り込ませた。

 最新型の機種らしい携帯電話は、キラリと周囲からの光を反射させて白い布地に隠れる。

 胸元に置かれた男の手は、顔と同様、滑らかな浅黒い皮膚に覆われていた。

 大きな手は、しかし、長いけれど節くれ立った手指の感じが、パパの手に似ている。

 もしかすると、この人も機械をいじる仕事をしているのだろうか。

 立ち尽くす私のすぐ横を、老夫婦が通り過ぎていく。

 いつも、お昼の買い物で見掛けるけれど、言葉を交わしたことはない人たちだ。

 男が緩やかに一歩踏み出した。

「君、昨日も……」

「すみませんが、どなたでしょうか?」

 口に出すと、思いの外、冷ややかな声になった。

 スーパーに入っていく老夫婦も、こちらを振り向いている。

 と、思う内に、二人はまた向き直って店の奥に姿を消した。

「すまない」

 目の前の相手も急速に儀礼的な堅さを帯びる。

 そうなると、白シャツの広い肩や抜き出た太く長い頸ばかりでなく、艶やかな黒髪も、太く真っ直ぐな眉も、ゆったりと歩み寄る調子も、全てがどこか尊大に映った。

 秋風に混ざって流れてきたミントの香りが鼻を刺す。

 見下ろす瞳に宿る光は何かを見透かすように冷徹だった。

「僕はアルフレード・スフォルツァだ」

 アルフレードなら、ディーノと呼ばれても不思議はない。

 だが、高慢なまでに迷うことなくこちらを見据える面持ちは、何故かアルバムの写真で人懐こく笑っていた男の子とは良く似た別人に思えた。

「ギタ……いや、マルゲリータ・ヴィットーリという女性を探している」

 マルゲリータ・ヴィットーリ。

 これは、確かに七年前に亡くなったパパの一人娘、「ギタ」の本名だ。

 しかし、彼の口を通すと、私という複製品の原型オリジナルではなく、全く無関係な場所で今もなお生きている女性に思えた。

 つと、こちらを見詰める漆黒の瞳に、ガラスが一度に割れるような震えが走る。

 それでも、彼の声は確固として言い切った。

「婚約者なんだ」

「婚約者……」

 鸚鵡おうむ返しにすると、その言葉が空恐ろしく浮かび上がってくる。

 さっと透明な翼を閃かせて、私と彼との間を蜻蛉がまた一匹通り抜けた。

「君は彼女にそっくりだ」

 高く上った陽の光が男の顔を照らし出す。

 大きな瞳が実は黒ではなく深い焦げ茶だとそこで初めて気付いた。

 パパの腕バンドに付いているあの琥珀をもっと深く暗くしたみたいな色だ。

「というより、ギタとしか思えないよ」

 多分、この人は写真に映っていたディーノなのだろう。

 私にはおぼろげにしか察せられない。

「ずっと、ここにいたのかい?」

 まるで恐ろしいものに出くわしたかのように掠れた声だ。

 冴え冴えと青い空の下、のどかに蜻蛉の飛び交うスーパーの駐車場に立っているのに。

「ええ」

 取り敢えず、問い掛けに対しては頷いた。

 パパに作られてから、もう五年近くもこの近くの山に住んでいる。

 正確には山の中腹に建てられた家の一つで暮らしているのだ。

 本来なら小金持ちの別荘として一年の内ワンシーズンだけ使われる類の家だ。

「誰が……」

 言い掛けてから、男はふと思い直した風に切り出した。

「ピエトロ・ヴィットーリ博士を知ってるかい?」

 濃い琥珀色の瞳が、また、固い仮面を纏い始める。

 この人が冷淡に見えるのは、本心を隠す時なのかもしれない。

「いえ」

 パパの今の名は「ピエトロ・オルシーニ」だ。

 外では「ヴィットーリ博士ドットール・ヴィットーリ」について尋ねられても「知らない」と答えるように言い含められている。

「わあ、おっきい車止まってるよ!」

 出し抜けに背後で声が上がった。

 振り向くと、中年の母親と小さな男の子がスーパーの出口から歩いてくるところだった。

 小さな手が指差す先には、ディーノの白銀しろがね色の車が陣取っている。

 改めて見直すと、巨大な真珠を車型に掘り込んだ置物みたいだ。

「ママ、あのお兄さんの車……」

「やめなさい」

 黙して向き合う私たちの横を母子が通り過ぎていく。

「もう、いいですか」

 返事を待たずに私は男に背を向けた。

――おかしなことを言ってくる人間からはさっさと逃げて帰ってくるんだ。

 パパはそうも話していた。

「私、買い物があるんで」

 次の瞬間、ミントの香りがさっと広がって、右の手首を捕まれた。

「口止めされてるんだね」

 低く刺すような声だ。

 浅黒い顔は仮面さながら無表情だが、こちらの手首を握り締める手は強い。

 今しがたすれ違ったばかりの母子が歩きながら、訝しげ、というより、むしろ不安げな顔つきでこちらを眺めている。

 と、今度は左の二の腕を捉えられて、男と向き合わされた。

 相手は勝ち誇った風な笑いを浮かべて告げる。

「君が嘘を吐く時の癖は知ってる」

 言い終えると、彼の笑いはどこか哀しくなった。

 私のプログラムってどうなってるんだろう。

「博士も一緒なんだろ?」

 極力表情を消し、黙って男を見上げる。

 彼の視野では、これも嘘を吐く行動パターンに当てはまっているのだろうか。

 相手はまるで重い罪を告白するかのように円らな目をじっと凝らすと囁いた。

「ギタ、本当のことを話してくれ」

 音もなく冷ややかな秋の風が流れてくる。

 漂い去るのではなく、肌に浸み込んでいくような冷たさだ。

「人違いです」

 そもそも、私は「人」ですらない。

 頭の中でそこまでの真実を付け加えた。

 こちらを見詰めるディーノの瞳が、凝らされたまま凍り付いていく。

「私はあなたの探している人じゃない」

 首を穏やかに横に振っただけなのに、こちらを捉えていた手が離れた。

 意思を持って離れたというより、力を失って外れたといった方が正しいかもしれない。

「失礼します」

 返事を待たずに踵を返す。

 目と鼻の先にあるスーパーのひなびた屋号が妙に空々しく映った。

 私も彼もこんな所で何をしているんだろう。

 ちっとも愁嘆場に相応しい場所じゃないのに。

 田舎暮らしする人たちがどうってことないものを買って帰るだけの所なのに。

 まだディーノがこちらを見詰めている気配がしたが、振り向いたら負けだ。

 自動ドアが背後で閉じ、野菜や果物の匂いに包まれる。

 とにかく、買い物のことだけを考えよう。


 *****


 自動ドアが開いて、外に一歩踏み出すと、さっと冷たく乾いた空気が押し寄せた。

 日差しは白々としているのに、季節は確実に冷めてきている。

 目の前の駐車場には、普段も目にする小ぢんまりした自家用車がばらけて停まっているだけだ。

 あの巨大な真珠色の車も、その持ち主も、嘘のように姿を消していた。

 アルフレード・スフォルツァは行方不明の婚約者マルゲリータ・ヴィットーリを探してまた別な街へ去ったのだろうか。

 彼が見当たらない以上、そう結論付けるよりほかはなかった。

 どのみち、ここにギタはいないのだから。

「もう、逢わない」

 歩きながら一人ごちると、つがいの蜻蛉がシャッと鼻先を横切っていった。

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