アンブラの翼

吾妻栄子

第一章:琥珀の中の虫

「アンブラ、お帰り」

 木漏れ日の差し込む窓際で、ソファに腰掛けていたパパはパソコンの画面から灰色の目を上げる。

 と、顔中に刻まれた皺をいっそう深くして続けた。

「スーパー、混んでたのかい?」

 壁の時計は確かにいつも帰ってくる時刻を二十分ばかり過ぎている。

「ううん」

 買い物籠から野菜を取り出し、キッチンの流しに置きながら、私は首を横に振った。

「事故があったから、ふもとまでは遠回りしてきたの」

 極力どうということもない口調で説明しながら、流しに置いた野菜の中からトマトを一つ手に取る。

 急いで持って来たので、籠の中で少しだけ凹んでしまったみたいだ。

 バーミリオンの皮が一部だけあざのように色濃くなっている。

 血のような、本物の赤だ。

「事故?」

 トマトから目を移すと、パパは訝しそうに片眉を吊り上げていた。

 そういう表情をすると、ますます皺が目立っておじいさん臭い顔つきになる。

 ここ半年で、特にそれが目立ってきた。

「車同士の追突事故よ」

 蛇口を捻り、トマトの表面を軽くすすいでから、ナイフを取り出して切る。

 刻んで料理してしまえば、凹んで出来た痣など紛れてしまう。

「ほら、スーパーの駐車場の入り口から車道に出てすぐの所」

 説明しながら、パパの灰色の瞳から再び自分の手元に落とす。

 トン、トン、トン、トン……。

 俎板の上がたちまち切り刻まれた欠片と滲み出た汁で真っ赤になった。

「ああ」

 カタ、カタ、カタ、カタ……。

 パパの合点した声にパソコンのキーを叩く音が続く。

 私の遠回りして帰るのが遅れた原因は、もう追求すべき事項ではなくなったらしい。

「あそこは見通しが悪いからな」

 プラスチックのキーを叩く音に混じって、半ば独り言のような呟きが届いた。

 カタ、カタ、カタ、カタ……。

 トン、トン、トン、トン……。

 近頃の私たちは言葉を交わすより、こんな風に互いの作業する音を聞き合う時間の方が長い。


 *****


「ねえ、パパ」

 鍋から湯気立つスープを皿に装いながら、ふと尋ねてみる。

「ずっと昔、バーリでお隣に住んでたディーノって、どこに行ったの?」

 問い掛けと共にふわりと温かなトマトの香りが広がった。

 パパはバーリの街中で暮らしていた頃のことを単に「昔」としか言わないが、私にとっては自分がまだ生まれていなかったという意味で「ずっと昔」のことだ。

 バーリの街も、そこでパパたちが住んでいた家も、直接には目にしたことがない。

 ガチャリ。

 音に驚いて見やると、パパは静止ボタンを押された映像さながら、皿の上の肉をフォークで突き刺した格好のまま、虚ろな灰色の瞳を皿の向こうにプリントされたテーブルクロスの向日葵の辺りに注いでいた。

 先月、グラスを落として赤ワインをこぼし、黄色い花の半分がバーミリオンに変わってしまった箇所だ。

 その時と同じく、今、フォークを握るパパの手は微かに震えている。

「どうしてそんなことを」

 こちらに向き直った顔はいつも通り穏やかに微笑んでいた。

 でも、こんな風に質問に質問を返すのは、こちらの問い掛けが本当は望ましくないからだ。

「似た人に逢ったの」

――ギタ!

 アルバムの写真で笑っていた男の子そっくりな、大きな黒い目に太い眉、真っ直ぐな黒い髪を持つ男は、車窓から半ば身を乗り出すようにしてそう叫んだ。

 買い物籠を提げ、歩道を一人帰っていく私に向かって、だ。

「もう彼も三十歳くらいでしょ」

 田舎町にはやや不似合いな高級車に乗り、日に焼けた浅黒い肌に仕立ての良い白いシャツを着ていたが、あの男は、しかし、年齢としてはまだ三十前といったところだった。

 ギタも生きていれば、今年二十九歳なのだから、幼馴染のディーノもそのくらいのはずだ。

 私は二十二歳の彼女の姿を借りているけれど。

――待ってくれ!

 悲鳴じみた叫び声から極力離れた場所に行こうとして、結果として必要以上に遠回りになった。

「あの坊やなら、ミラノに行ったさ」

 パパはどうということもない調子でそう告げると、グイと水を飲み干す。

 喉仏が大きく上下した。

 首全体は萎んできているのに、そこだけは逆に突き出てきたように見える。

 まるで「まだ生きている」と主張しているみたいだ。

 ふっと息を吐くと、喉仏がまた忙しく揺れ動いた。

「あのアルバムの写真を撮った後すぐ、あの子のお父さんが亡くなってバーリを引き払ったんだよ」

 そこまで語ると、パパは痛ましげに目を伏せた。

 いつの間にか、睫毛にまで白いものが混ざり出していたことに改めて気付く。

 あの男は大きな目も、豊かな髪も、太い眉も、黒そのものだった。

 少し離れていたから、睫毛までは確かめられなかったけれど、まだ、体全体が鮮やかな色を纏っている年配だ。

「もともと一家で、あちらの人だったからね」

 これでおしまい、という風に、パパはまたスープを啜り出した。

 ディーノは写真で笑っていた十歳の坊やのまま遠い街に去り、今に至るまで二度とパパやギタの前に現れなかったのだろうか。

 それならば、あの男は一体、誰なのだろう。

 ガラス戸から差し込んでくる陽の光がふと翳って、ザワザワと木々の葉のざわめく音が聞こえてきた。

 これは、一雨来る。

「アンブラ」

 二階に干した洗濯物を取り込もうと立ち上がったところで、パパの声が飛んだ。

「キスしておくれ」

 黒とグレーのタータンチェックの長袖シャツを着た両腕を既に開いている。

 近づいていって背を屈めると、こちらがパパの額にキスする前に、右の頬に熱く濡れたものを押し当てられた。

 と、思う内に、左の頬にも口付けられ、キスを返す前に肩を抱きすくめられる。

「私の宝物テゾーロ・ミオ

 囁く声と共に、大きな手が緑色に染め上げた私の髪を撫ぜる。

 骨ばったパパの肩からは、トマトのスープとオレンジの柔軟剤の入り混じった香りがした。

 サーッと雨の降り出す気配が背後のガラス戸から押し寄せてくる。

「もうお前しかいない」

 それは雨音に紛れるほどの声だったが、なぜか、先ほど耳にした「待ってくれ」というあの男の叫びと似通った響きを持っているように思えた。

「私もよ、パパ」

 囁き返して、パパの左腕のバンドに付いた飾りをそっと撫でる。

 触れればひやりと滑らかな、カボションカットの琥珀だ。

 オレンジが勝った褐色の石の中には、小さな蜂が一匹封じ込められている。

 甘く透き通った樹液に丸ごと飲み込まれた虫は、半ばはねを開いた格好のまま、もう永久に動くことはない。


 *筆者注1:アンブラはイタリア語で「琥珀」、ギタは「真珠」を意味します。

 *筆者注2:バーリはイタリア南部の港湾都市、ミラノは北部の代表的な都市です。

 イタリアは南北の差異が大きいので、バーリ出身のパパがディーノ一家について「ミラノの人」と強調する行為には排他的な意識も込められています。

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