彫像の二人
桜井 莉子
第1話 立方体の監獄
夜半、隣人の情事を耳にする。
元々壁が薄いことは承知で入居したこのアパートにもいい加減嫌気が差し始めた頃のことだ。各階に三部屋ずつの三階建て。正面から見れば真四角に近いような灰色の立方体のど真ん中に私は居を構えていた。
取り柄と言えば家賃の安さだけで、近隣の相場よりも数割の低さは築年数の古さと先述の通り壁の薄さに基づいたものだ。最低限の防音は役目を全うせず、壁に耳ありと言わんばかりに会話を右から左へ渡してしまう。
右から左へ、左から右へ。下から湧き出してくる笑い声も上から流れ落ちる足音も、ずぶ濡れになるほど浴びながらよく二年近くも我慢したものだと笑いさえ込み上げてくる。
下は春先に進学を機に上京した若い男で、ご丁寧にも挨拶に来てくれた。純朴そうな、いかにも野山を駆け回ってのびのびと育ったような彼は、当初の穏やかさとは裏腹に最近はやんちゃそうな友人を連れ込んでは朝まで宴会を催している。
上は慌ただしい男。朝は六時半にセットしたアラームを一度止めて、五分おきのアラームがしつこく鳴り続けた後結局起床は七時を回る。どたばたと部屋を駆け、きっちり七時半に外の階段にがんがん足を打ち付けて仕事に向かう。私は職場近くに住んでいるので、八時半の始業に間に合うには七時に起きれば充分すぎるのだが、いつしか彼の六時起床のライフサイクルに巻き込まれてしまった。
部屋から窓に向かって右側は、おそらく夜の世界の住人で、基本的に静かな人物である。生活音もさして気にはならないのだが、時たま客とトラブルを起こすらしく、携帯電話相手に大声で怒鳴りだすことがある。大抵それは彼の夜の早いうちで、その度私は仕事が下手くそなんだよ、と毒づいてそちらの壁に背を向けるのだった。
背を向けた先、左手の壁。
私が入居してすぐに空き部屋になった。もう少し早ければ隣人を永久に一人減らすことが出来たというのに。あまりにすぐだったので、どんな人間だったか知らないまま終わった。
じっ、と中央の黒ずんだ染みを見つめる。酷く濁った曇天のような壁は不気味に黙したまま私を見つめていた。その不気味さの向こう側に、その根源たる男が越してきたのはつい先月のことだった。
―――契約の更新はやめておこうか。でも引っ越す金なんてどこにもありはしないし。
不気味さに寝返りを打ちながらぼんやりと思った。背中越しで色めき立った嬌声が六畳間に響く。こんな場所に暮らすような人間でも女に不自由しない人間はいるものだ。歳を重ねるうちにいつの間にかかさついた唇の皮をつい捲っていた。
いつの間に引っ越してきたんだか。まるで幽霊のようにすうっと壁をすり抜けて、もしかしたら空き部屋にちょうどいいと憑りついたのではなかろうか。隣人に足はあるのだろうか、二本。
たとえ足はなくとも性器があって、ならば当然に性欲もあるというのか。女の高まる声が耳に届けど私の性器はぴくりとも反応しない。初めは情欲をそそられたりもしたのだが、いうなれば、慣れだ。人の行為を強制的に覗かされるのはどうも気分のいいものではない。
隣人は闇を具現化したような男だった。
路地裏に意志を持たせるとこんな形になるのではなかろうか。澱んだ排水のどろりとした鼻をつく匂いに、汚れと混じった泥、野良猫の交尾の甲高い声―――おおよそ大通りを堂々と光を浴びて歩く人間達が嫌う、四六時中薄暗い灰色の、この世の「見てはいけないもの」を掻き集めて潰したような、廃棄場とも呼べるその場所。ほんの僅かの窪みに溜まった雨水の、澱んだ輝きの水面から生まれたような、決して高貴とは呼べぬような存在。
少なくとも、私の目には彼の姿がそのように映った。
そんな彼の姿を認識したのはつい数週間ほど前の話だ。春には似つかわしくない黒の薄手のコートに身を隠して、近年マナー違反と名高い咥え煙草の赤色と、その先から流れる紫煙に身を縛られたような出で立ちで、階段を降りる私とすれ違ったのが第一の邂逅となった。
私は数段惰性で下って、ふと闇に魅せられたかのように振り返ると、彼は空き部屋だったはずの扉の鍵を易々と外した。闇は一瞬にして深淵に吸い込まれるかのように扉の向こうへ溶けて消えた。ちょうど梅雨みたいに酷い雨が地面を抉る日曜の夕方のことだった。
それから彼とは数度の遭遇があった。そのどれもが日常の一場面が交差したに過ぎないのだが、まるでポリゴンの背景に美しいポラロイドの人物を合成したかのように、似つかわしくない不協和音の世界を私の中に響かせた。
よく覚えているのは先週の、路地裏手前のパチンコ屋で大負けした日の不協和音だ。
不快な記憶だ。風にはためく新台入荷の登りに踊らされたのが運の尽きだった。新台だから出してやるだなんて誰が言いましたか? と言わんばかりに諭吉を吸い取られ、そこまでは良くある話なのだが問題はその先だ。短気に任せて投げつけたビール缶が跳ね返り、運悪く隣の堅気っぷりの一切なさそうなスキンヘッドの顔に直撃した。
そこからは想像通りの悲惨な展開で、胸倉を掴まれて、鶏ガラのように薄っぺらい身体を寝台の列に投げつけられて背中をしこたま打ち付けた。咳き込んだ私にお構いなく、往年のレスラーによく似た彼は二度三度と靴底で腹を踏み付ける。
何処かで若い女の店員が悲鳴を上げた。やめてくれ、と声にならない懇願をするが男は聞く耳を持たない。周囲の客達はちらりと一瞥しただけで、すぐに視線をリーチのかかった台へ戻していた。
ああ、このまま殺されてしまうのだろうか。もしかすると、朝刊の地方面程度に記事が載るかもしれない。四十代高校教諭、パチンコ店にてトラブルの末殺害される ―――女生徒の嘲笑の目が突き刺さる。す、と息を止めてその目の主を探る。ふと中央列の最後尾の女生徒の視線と絡まり合った。ああ、君か、私を責め、嘲るのは。
私は哀れみの視線を彼女に向ける。ふと眦がぐにゃりと歪んで見えた。捉えたはずの視線が、突き刺さる。彼女と私を繋ぐ糸の外から。幾重にも、幾重にも。ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。錆と同じ味がした。
三十を超える少女らの嘲りの視線が、糸繰人形のように私の体のあちらこちらに繋がれていた。
ねえ、ヤマセン、ヤクザに喧嘩売って殺されちゃったらしいよ。だっせえの。
きゃはははは。
人形の糸が関節に食い込み、肉を断つ。命をきりきりと確かに削っていく。いっそのこと断ち切ってしまいたいというのに、指先の一本に至るまで絡み付いて僅かな行動の自由でさえも許しちゃくれない。
額から脂汗がじんわりと滲み出て、不快感が顔面に広がっていく。その姿はさらなる嘲りを生んで、私の体にまきつく糸を増やしていくのだ。
死して尚嘲笑の的となる。非難の海に投げ出される。そのような不本意な航海はまっぴら御免だった。自由になりたい。支配からの解放を望む。ただそれだけである。
やがて支配人らしきスーツを着込んだ三十路過ぎの男が出て、男を二、三言で宥めてしまった。さすが、暴れ馬の手綱取りが上手い。助かった、と息を吐いたのも束の間、支配人とバイトらしき若い店員に二人がかりで抱えられた私は、無慈悲にも自動ドアの向こうに投げ捨てられた。
助かった、のか。こんな尊厳の欠片も無いような形で。くそ、この店に幾ら払ってやってると思ってるんだ!のそりと半身を起こして手近にあったアルミ缶を自動ドアめがけて投げつけるが届かず、通行人の足元にからんと乾いた音を立てて転がった。
外気に多量に含まれた、汚染を揉み込んだ濁った雨の匂い。いつかの階段ですれ違った紫煙の香り。野良猫の威嚇―――路地裏の闇から湧き出た隣人が、ぬるりとした気色の悪い視線をこちらに落としていた。
隣人の姿は、私達を隔てる壁と、その中央に落とされた一点の染みに似ていた。
結局隣人はみすぼらしい私の姿を一瞥しただけで表情一つ変えず、咥えた煙草を火の付いたまま店の前に投げ捨てて立ち去った。闇を映した漆黒の瞳はもちろん、おそらく帰路に着いたろう背中にも嘲りの文字は見えなかった。
古い、モノクロのポラロイドを透かして、現代に貼り付けたような男だ。
そんな男がどんな女に執着しているのか、気にならないと言えば嘘になる。路地裏の闇に似た男が愛したのは、その淀みに住み着いた猫か、それともひび割れたコンクリートの隙間から見える光か。
ついでに言うと傍目から見れば端正な顔をした男だ。表情筋が仕事をする姿を見たことはないが、笑えば大人の男らしい艶があってさぞかし女性の目には魅力的に映るだろう。微笑んだだけで不審者扱いされる私とは雲泥の差だ。
そんな隣人が抱く女なら、女神と見まがうほどの美しい存在かもしれない。
布団にくるまり直して目を閉じる。女はついに達したようだった。
僅かに掠れたハスキーな、澄み切った美しい声をしていた。その美しさは隣人に似つかわしくなかった。
夜半から続く雨は明け方を超えても容赦なく続き、曇天の向こう側に太陽を隠している。まるで白日の下に真実を曝け出すことを恐れるように。
慌ただしい上階の住人は休みのようだというのに、私の体にはすっかり彼のライフサイクルが根付いているようで、今日も今日とて六時にはすっかり目が冴えてしまった。
初めの一時間をだらだらと布団にくるまり過ごし、七時ちょうどのアラームを合図にのそりと這い出して出勤準備を始める。
件の隣人は七時を少し過ぎた頃に起き出して、ごそごそと準備をしているようだった。時折くすくすと笑い声が響いてくるということは、例の女も一緒なのだろう。同伴出勤とはご苦労なことだ。別段羨ましくはないが。
ここから職場までは徒歩で十五分ほどだ。携帯の眩しすぎる液晶時計が八時を回ったのを確認して私は部屋を出た。
施錠に手間取っていると、隣人の話し声が一際大きくなった。がたごとと壁にぶつかり、布の擦れる耳触りな音がこちらまで届く。ああ、出くわしてしまうか。嫌だな。
がちゃりと音を立てて開いた向こう側、この世の淀みを凝縮したような無反射の闇の底から、酷く似つかわしくない純白の光が漏れだして思わず息を飲んだ。
絹糸のような薄茶の髪に、風景に透け入りそうな程白い肌。ドアノブを掴む華奢な指先は人魚のようで、ほんの少し影を落として憂いを帯びた横顔によく似合っていた。ふわふわとした白の厚手のパーカーは少しサイズが大きいようで、もしかしたら隣人のものを借りているのかもしれない。
ふと、人魚の横顔が此方を向いた。どくんと心臓が大きく脈打つ。丘に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を動かした。息が止まるような想いだった。
―――美しい。
人魚はそんな私の様子を不審に思った様子もなく、憂いをほんの少し残したまま、だけれど屈託のなさそうな純白の笑みで、「おはようございます」と挨拶をしてくれた。
ああ、女神か。少しどもりながらもおはようございます、と微笑み返してみる。恐らく私の姿は交番に前に貼られた不審者の古い写真によく似ているのだろう。女生徒達が私のことを『ヤマセン』と並んで『犯人』と呼んでいるのを知っている。何の犯人と想定されているのかは、知らないが。
「どうした?」
闇の中から闇が顔を出した。相変わらずの咥え煙草からじりじりと滲む紫煙が女神の顔を汚している。おい、消せよ。受動喫煙くらい聞いたことあるだろ。
「お隣さん」
女神は慈悲の笑みを闇に向ける。隣人はちらりとこちらを一瞥しただけで、興味無さそうに「ああ」とだけ呟くと女神の髪をそっと梳いた。
「今日は何時まであるんだ?」
「夕方までみっちり。六時には帰って来るから」
「そう。じゃあ、待ってる」
「ん」
隣人は女神の額に口付けを落とした。見せ付けやがって。零れた髪の間から覗く首筋には赤い花が散っている。こんな清純そうな女でも、はしたない情欲の片鱗を巻き散らかしたい衝動に駆られることもあるのだろうか。
女神の堕落なんて、見れたもんじゃないな。
私は今にも睦言を紡ぎそうな二人の横を擦り抜け、簡素な鉄階段に不快な音を打ちつけた。どうぞご勝手に。女がくすくすと笑う声は掠れていた。
不意に背中を闇で貫かれた。悪寒に振り返ると、白と黒の恋人たちはマーブル上に交わりながら口付けを交わしていた。舌を絡ませ合うぴちゃりとした水音が耳元で卑猥に響く。
純白は一点の染みも許さない。マーブルはゆるりと混ざりあっていつしか白の気配を消して、そこには汚泥にも似た黒が広がっているだけだった。
やっぱり女は女だ。どんな成りをしてても、野良猫のように甲高い声で情欲を欲するはしたない女。売女だ。娼婦だ。
―――女。
首筋の花畑の横に、それこそ似つかわしくない林檎の欠片を飲み込み損ねたような突起物があったことに気付くのは、女生徒の嘲笑と共に校門を潜った瞬間だった。
女神が堕ちた日は、最低の一日となった。
どうも女生徒たちの間で私は通勤ラッシュに現れる『痴漢』の常習犯らしい。馬鹿言え出勤は徒歩十五分だぞ。往復しておよそ三十分弱。黙々と歩き続けてそれだ。いつどこの隙間で電車に乗って女の尻を追いかけるというのか。
あまりに痴漢痴漢と馬鹿どもが騒ぎ立てるので、ついには校長室に呼び出されてみっちりと話を聞かれる羽目になった。先述の説明を一通り述べれば誤解であり無責任な噂だと納得はした様子だったが、「疑われるような行動は慎むように」などと誤りもせずのうのうと説教を垂れやがった。
この件、完全に俺は被害者だというのに、職員室に戻れば戻ったで女性職員たちが遠巻きに私を囲み、軽蔑の視線を容赦なく突き刺して来るのだ。
女生徒の嘲りに自由を奪われる。女性職員の軽蔑に尊厳まで奪われる。私には人間としての権利が、誇りが、あとどれだけ残っているというのだ。
そのほんの少しの人間の抵抗として近所のパチンコ店に打ちに行ったが、ただ借り金が増えただけだった。リーチをことごとく棒に振って思わず手にしていた缶を投げつけそうになったが、ふと別の店で起こした騒ぎを思い返して、やめた。
道端の空き缶と野良猫を蹴り飛ばしながら帰宅した私を待ち構えていたのは、いかにもアウトロー然とした三人の男だった。扉の前に二人。思わず階段を登る足が止まる。私の顔を確認すると下衆な笑いを浮かべて待ってましたよ、山崎さん、とゆらりと距離を詰めてきた。
―――逃げよう。殺されてしまう。踵を返したところで何かにぶつかって両肩を掴まれた。下品な笑いがもう一つ、そこに落ちていた。
そこからは安い漫画にありがちな展開だった。薄いコンビニ雑誌にでも載っていそうなチープさだ。
アパートの裏側の、誰も見付けられないような路地裏に放り込まれる。誰が何のために置いているのかも分からないようなポリバケツがぶつかって転がった。みゃあ、と慌てた野良猫達は光の方へと消えて行った。
倒れ込んだ私に男たちは容赦ない罵倒と暴力を繰り返す。先日パチンコ屋で輩に蹴られた脇腹に追撃を喰らい、意識が遠のきそうになる。
自業自得なのは解っているんだ。安易に借金まで手を出すギャンブルジャンキー。嫁と子供は二年前に逃げて行った。当たり前だ。俺のせいだ。
明け方に借金取りが来るような家の子だからと、子供は小学校で苛められていつしか部屋に引き籠るようになった。学校から逃げたって、部屋にいれば借金取りの罵詈雑言からは逃げられない。
気丈だった嫁はノイローゼの様相で、記入済みの緑の紙と、この子を守るためという大義名分と、幾つかの捨て台詞を残して実家へと舞い戻った。緑の紙は私がいそいそと提出する羽目になった。
しばらくして義父から電話を貰い、受話器越しに輩を超える罵詈雑言の嵐に身を打ち付けることとなる。貴様がそんなにクズだとは思わなかった―――二度と娘と孫に会えると思うな。反論の隙間も与えられず、一方的に電話は切られた。
そんなこと言われなくとも、会いに行くつもりなんて毛頭ねえよ。どの面下げて会いに行けって言うんだ。
嵐はどのくらい続いていただろうか。長い航海に出ていた気がする。意識を取り戻した頃には風は止み、空を負い尽くす鈍色からぽつりぽつりと銀の糸が垂らされていた。やっと丘に打ち上げられた遭難者の私は、それでも全身を覆う痛みに体を動かせず、黙って恵みの雨に打たれるしかなかった。
だって、仕方ないじゃないか。こんなの。
私は弱者なのだ。みんなお前が弱いのがいけないのだと指を刺すが、誰が望んで弱くなるというのだ。元来の性分が、環境が、私を弱者へと追い込んだのだ。強い者に石を投げられ、中傷され、弁論の余地もないまま更なる深みへと突き落とされる。
何故誰も助けてくれないのだ。何故私のせいにするのだ。どうして世間のスケープゴートとして生きて行かねばならないのか。何故、私には救いの女神が現れないのか。何故。
―――瞬間、曇天が涙を止めた。
「大丈夫ですか?」
私の顔を覗き込んだのは、純白を纏った堕落の女神だった。
いや、女神、ではないのか。所有の証を見せつけてくる首筋の芯の部分には、やはり食べかけの林檎の欠片が残っていた。とうに陽は沈んだ頃合いだというのに茶色の髪は光を透かしている。人の鮮血を紅代わりにしたような唇は、ぞくりと粟立つほどに色香を振り撒いていた。
なんて、眩しい。なのに、目を背けることが出来ない。彼は眉根を寄せて「大丈夫ですか」と再び問う。その僅かな間にも、光は彼に吸い寄せられて夜の様相を醸していく。
夜というのは、彼のために訪れるのかもしれない。
「……ああ、何とか……」
どうにか体を起こそうとするが、痛みに耐えられず再び地面に吸い寄せられた。彼は屈んで私に手を貸してくれた。華奢な手に頼るのは申し訳なかったが、肩まで借りてどうにか立ち上がることが出来た。
「はは、悪いね、ほんと……」
こんなみっともない姿を救われるだなんて。情けなさに涙が溢れそうだ。私の心境を悟ったのか彼は小さく首を横に振って微笑んだ。
「いえ。歩けそうですか? ……えっと、山崎さん、で、いいんですよね」
「え。何で」
名前を知ってるんですか、と続けて聞けなかった。私達は立方体の監獄に向けてよたよたと歩き出す。彼は、しまった、と言いたげな顔で私を覗き込んだ。
「今日、行きがけにポストの名前を見たんです。何か、ストーカーみたいで気持ち悪いですよね。ごめんなさい」
しまった。見るからに落ち込んでしまった。あんな男の相手ならそれなりの性格をしていそうだと思っていたが、見た目通り繊細で美しい心の作りをしているのかもしれない。
「いや、そんなことは……ちょっと驚いただけで。えっと」
「あ、僕、久々井っていいます。よろしくお願いしますね」
小鳥の囀りのような声だなあ、とぼんやり思った。
確かに華奢であるが、触ってみれば確かに男性らしい体格をしていた。骨ばった肩、細くて硬い腰、女性だとすれば病的なまでに細く真っ直ぐな脚―――男性にしては、確かに酷く華奢なのだ。私でなくとも、女と見紛うのも無理はない程に。
「あの部屋に……二人で住んでるの?」
女生徒が聞いたら「きもーい!」と指を刺して笑われそうだ。だがしかし、実のところ気にかかっていたのだ。黴臭い畳の敷き詰められたくすんだ六畳間と、時代遅れも甚だしい古臭いダイニングキッチン。男同士だろうか女同士だろうがそのどちらでもなかろうが、二人で暮らすには少々手狭で、ほろ苦すぎるのではなかろうか。
あの男がどんな生計の立て方をしているのかは知らないが、おそらくまっとうな金策は出来ないような男だろう。あんな場所にしか居を構えられないような男と、闇にも輝きを放つような彼は釣り合わない。
「んー、半分くらいは。僕の部屋もちゃんとあるんですけど、いざ一人になってしまうと寂しくて……だからもう半分は、僕の部屋で一緒に暮らしてます」
まあ、本当にお互い別々に帰る時もあるんですけどね。そう言って彼は笑う。稀に黙り込んでいると思ったらそもそも不在だったのか。
壁の染みから湧き出たような、闇色をした男に寄り添う光。いつか彼までが鈍色に光を濁らせる時が来てしまうのではないかというのは、私の勝手な杞憂だろうか。ちらりと首筋を盗み見る。赤い花は命尽きたように紫に染まり、彼の美しい白を汚していた。
「やっぱり、目立ちます?」
「え」
我ながら情けない声だ。彼は横目でバツの悪そうに笑う。
「朝も見られてたから。よっぽど目立つんだろうなあって思って」
まるで初夜明けの生娘のような羞恥と喜びの入り混じった表情で、百戦錬磨の女郎のような言葉を口にする。奇妙なアンバランスさは絶妙な背徳感を醸し出した。
「あ、ああ、まあ……その、彼は、そういうの、好きなの」
背徳感につられて、普段なら訴えられそうな、実際女性相手だと裁判沙汰になりそうな内容を聞いてみる。どうやら女生徒達の噂である『犯人』の罪状はどうやらよくあるただのセクハラのようだ。
「ええ。吸うわ噛むわ何でも有りなんです。何なら脱いで見せましょうか。もっとすごいもの、出て来ちゃうから」
「い、いや! いい! そこまでしなくて」
「そうですか、残念」
慌てて痛む首を振ると、彼は悪戯っぽく笑って見せた。どこまでが冗談なのだろうか。少なくとも男の噛み癖と吸い癖は本当なのだろう。ごつごつと男臭い指が絹のような柔肌を弄り、紫煙の染みついた唇で優しく時に強く食み、それ自体が意志を持ったような舌で撫で回し、吸い上げ、その度に嬌声を上げながら女神は天から堕ちて行く。
冷静になれば男同士などと気持ちの悪い、と嫌悪感が先に来るはずだ。喉元までせり上がったそれを林檎の欠片が押し留めて、ああ認めよう。彼の美しさの前には常識も倫理も全てが無力なのだ。
肩を抱いている。肩を抱かれているという事実に異様な昂りを覚えるなどと、この状況下で不謹慎にも甚だしい。ましてや今日昨日ようやく知り合ったような、隣人に組み敷かれて女に変貌するような、年端もいかないだろう少年相手に。
そこから私達に会話らしい会話はなく、気付けば立方体の階段がすぐそこに見えた。一階の角に設置された集合ポストの中央には私の名前があった。両脇は空白になっていた。
「登れますか?」
「うん、大丈夫」
引き攣る足をようやくの思いで段差に乗せる。彼の肩と手すりをぐっと握りしめてどうにか身体を進めて行くが、一歩踏み出す度に針のむしろになった気分だった。
「病院、行った方がいいですよ」
一瞬どきりとした。病院などと行くつもりはなかったのだ。確かに身体中突き刺さるような痛みは走るし、恐らく衣服の下の素肌は一面赤黒く染まっているのだろう。だが骨は折れていないし内臓に違和感もない。どうせ薬を塗られて包帯を巻かれて終わりなのが目に見えている。なら面倒だし、金の無駄だというものだ。
「面倒だから、とかそういうのだめですからね」
「はは、そうだね……」
まるで心を見透かされているようだ。適当に笑って取り繕っている間にも、川のせせらぎのような声でさらさらとお小言を流している。ど固化冗談半分で、楽しげに聞こえたのは気のせいではないのだろう。恐らく彼は、人の世話を必要以上に焼くのが好きなタイプなのだろう。
あの男ともその性質の為に一緒にいるのかもしれない。
不意に彼は足を止めた。階段を丁度登りきった瞬間だった。俯いた瞳は長い前髪に隠されて窺えない。ついさっきまでぱくぱくと開閉していた口は真一文字に結ばれて、
「死なれたら、困りますから」
と、酷く深い、震えるほど小さな声で、そう言い放った。
「死なれたら、って、そんな大げさな」
「大げさでも、何でもないですよ。死なれたら、困るんです」
表情を覗き込もうとして、止めた。結ばれた唇から澱んだ溜息が漏れている。首筋に張り付いた毛束の先から透明な露が伝って、落ちた。
黙り込んだ私達の代わりに、雨が酷くお喋りになった。頬に伝わる空気が冷たさを増して、夏の遠さを私達に呼びかける。寒さが堪えたのか彼の顔からは血の気が引いて、唇の妖艶な赤だけが一際異様な存在を主張していた。
「……何で」
「え?」
「何で、俺のこと、助けたの」
聞かずにはいられなかった。耐えられず落とした視線の先で、コンクリートの罅の隙間に雨粒が飲み込まれていく。
多分、気紛れとか、見ていられなかったとか、先に考察した彼の性質の問題なのだろう。あの路地裏で無残に転がされていたのが私でなくとも彼はこの華奢な手を差し伸べていたことは容易に想像が付く。ただそこに私は特別な名前を付けたくなってしまったのだ。
雨足は一層強くなっていく。言いようのない気まずさを感じて顔を上げると、彼は驚いたような、それでいてどこか泣きそうな表情でこちらをじっと見つめていた。
その頬はまるで大理石の彫像のようにつるりとした滑らかな白だった。天から垂らされた糸のような前髪の隙間から、憐れみを湛えたような暗い光の色をした瞳が、確かに私の揺らぐ瞳を捉えていた。
「山崎さん、それは―――」
人を食べたような口元が、私の喉元を狙った、瞬間。
きい、と古い蝶番の軋む音が響いた。反射的にそちらに眼をやると、すぐ目の前の扉の中に潜んだ闇から、隣人がぬらりとその身を覗かせていた。相変わらずの咥え煙草と、まるでコートの代わりと言わんばかりに熱く火の付いた先端から湧き出る紫煙を纏っている。
隣人はじろりと私の足元から頭の天辺までを一瞥し、すぐに興味の失せたように、
「―――おかえり、キリ」
と、恋人に甘い声を聞かせた。
「ただいま、
恋人は私になど微塵も出さなかった猫のような声でそれに答えた。
隣人は咥えていた煙草を大きく吸うと、指で軽く挟んで先端をこちらに向けてきた。
「どうかしたのか、それ」
それ扱いかよ。彼の喋るのに合わせて紫煙が口からもくもくと吐き出される。
「怪我してたみたいだったから。放っとけなくて」
「そうか」
煙草を再び口元にあてがうと、顎で闇の中を指して彼に入室を促した。
「夕飯が出来てる。早く入れ」
「うん」
私のことには深く追求しないまま、隣人は再び闇の中へとその身を溶かした。その恋人の方は返事をしたものの私のことをどうしたものかと困っていたようだったが、あとは一人で大丈夫だからというと、心配と安堵の入り混じったような顔で破顔した。
私の体を頼りない錆びた手すりに預け、彼は開いたままの扉に片足を踏み入れたが、ふと思い出したように踵を返したかと思うと私の元へと再び駆け寄ってきた。
「病院、ちゃんと行ってくださいね。約束です」
耳元で囁くような、悪戯っぽい声だった。思わず呆然と立ち尽くす私の手を取ると、太く不格好な小指に彼の細い絹糸に似たそれを絡めて、ね? と首を傾げて見せる。私はああ、とだけ返事をするのがやっとだったが、彼はそれに満足したように聖母の笑みを湛えて、扉の向こうへと走って飛び込んで、その姿を消した。
深い闇はぱたりと錆びた鉄扉によって蓋をされ、後には蝶番の悲鳴と、未だアスファルトに打ち付ける冷たい雨と、酷く熱を持つ小指のやり場に迷った私だけが残された。
彫像の二人 桜井 莉子 @tukinowaguma331
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。彫像の二人の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます