第94話「見越し入道 -つかさと名無しのフルディアと古生代フロア-」
『エーギロカシスロボ三度目の進水、これでまた飼育の実現に近付くのでしょうか』
タブレットから流れる動画の音声は仰々しい名前を呼んでいるが、要はあのアノマロカリスの親戚だ。
カンブリア紀の捕食者アノマロカリスから見てやや未来の、アノマロカリスよりはるかに大きい親戚。
青いプールの中に白い舟のようなものが沈んでいた。それが古生物エーギロカシスを模したロボットだ。
付き添いのダイバーと比べると二メートルくらいあるのが分かった。舟としては小さいが……、「虫」としてはどうだろう。
機体は半透明のプラスチックで出来ていた。中に黒い小さな箱がいくつも、それと白い発泡スチロールが入っているのが透けて見えた。背中からは黒や白のコードの束が真上に出ていた。
機体の前半の背はなめらかな一枚のプレートに覆われているが、後半は節に分かれ脇腹には上下二段の小さな鰭が並んでいた。
映像はプレートの後ろ側左右にある、透明な半球に寄っていった。中にカメラが入っているらしかった。
『今回はついにロボ自身の目から届く映像だけを見て操縦します』
そのナレーションとともに、三つのモニターに向き合いゲームのコントローラーみたいなものを持った人が映った。
モニターのうち二つの中がプールと同じ色をしているのに気付くと、映像はまた切り替わってその青一色になった。
その中にロボの白い機体が浮かんでいた。横から見ると平たく、目より前の横顔は楕円のプレートで覆われている。その前にすだれのようなものが立っていて泳ぐには邪魔そうに見えたが、これがエーギロカシスだというなら付けないと仕方ない部品だった。
後半身の鰭のうち下の列だけが前から順に波打ち、機体はするすると動き出した。
そうしていると、ある程度生き物のように見える瞬間もありはした。中で黄緑のLEDが光っていない間は。
プールの壁がうっすら見えるな、と思ったらその壁がだんだん近付いてきて、ロボは左に曲がり切れず鼻先をぶつけてしまった。
そのまま数度壁をつつきながら向きを変える間、
『現実的な大きさの水槽でエーギロカシスがぶつかって傷付かずに暮らせるかを検証するのがこのロボの役目のひとつです。うまく旋回できるかどうかが重要になるのですが……』
と解説が流れた。いくら化石から生き物を蘇らせることができるといっても、この分だとこれだけ大きな水槽でも実際に飼育するのは厳しい、というわけだ。
私はぜひエーギロカシスを、とか別に思っていないので、気楽に眺めているだけだった。
ロボはプールを一周しようと泳ぎ続け、また次の壁に近付いていった。そして今度は止まらず曲がれたように見えたが、上からの映像によると鼻先の右側をこするようにぶつけたのだっだ。
さらに進んで三度目のカーブでは、曲がり切れたと思ったら向きを変え過ぎて尾の先のほうがぶつかった。
三度目の正直ならず……そして四度目。
今度こそどこもぶつけずに曲がり切れた。プールサイドはスタッフの歓声に包まれる。
しかしロボは直進に戻れず大きく左に傾き、水底に激突してしまった。
そして、いくら鰭を動かしてもその場で回転するだけになってしまい、潜水試験はそこで終了した。
ロボの引き揚げ作業とともに今の失敗についての解説が流れていた。
『水深の管理ができていなかったため思ったより沈んでしまっていたのと、急旋回によって甲皮や付属肢のパーツにかかった力で機体がねじれてしまうことが原因だったようです』
あの部品は本物では水を濾過して小さな餌を捕らえる大事な部分だが、やはりロボにとっては邪魔だったようだ。
『これらを改修し思いどおり旋回できるようになったら、次はカメラからの映像をオペレーターが見るのではなく、コンピューターにつないで自立遊泳することを目指します』
失敗した割に前向きなことを言って動画は終わった。
小回りが利かなさすぎてエーギロカシスを飼育するのは難しそうだという結果に見えるのに、ロボが上手く泳ぐようにという挑戦自体を面白く映していた。
動画のコメントに、「往年のアノマロカリスへの熱狂を思い出します」とあるのが見えた。
年配の人にとっては大きければそういうもんかなあ、と思う。
私はタブレットを置き、座った姿勢のまま、さっきのプールと比べればひとすくいにしかならない自分の水槽ににじり寄った。
そこにいるのはエーギロカシスとほぼ変わらないものだ。
頭から突き出た甲皮、その後ろの黒い目。頭の下の付属肢。節に分かれた平たい胴、その脇に鰭が二段になって並ぶ。
ただし、指ほどの全長しかない。
頭を覆う甲皮は短くて、玉ネギを思わせ可愛らしい。元々アノマロカリスに見下ろされる側だからか、甲皮と櫛状の鰓が並ぶ背中……鰓はロボにはなかったな……は砂のような濃い灰色のまだらをしている。
エーギロカシスに近い小型種、フルディア・トライアングラタだ。
アノマロカリスを原動力としてその仲間達、ラディオドンタ類の再生と飼育の研究が進み、私のような派遣社員でもこんなものが飼えるほど普及するに至った。
名前は付けていない。
臨場感を削ぐことが分かったからだ
私は顔の左右に手を立てて、余計な視界を遮った。そして水槽の下寄りに張り付き、水槽の中のフルディアだけを見た。
すると目の前の世界はセンチメートル規模の、カンブリア紀の基準になる。
八センチもある巨大な生き物が鰭を波打たせて現れる。まるで魔法帝国の飛空艇だ。
それは幅広い甲皮で海底に影を落とし、その端から覗く黒い複眼で辺りを冷たく睨み据える。
甲皮の下から突き出ているのは、砂の中に潜む獲物を決して逃さない悪魔の熊手だ。捕まったら最後、円く開く地獄の蓋に吸い込まれるしかないのだ。
私は深呼吸すると、一旦手を離して後ろ手にタブレットを探り、カメラを起動してみた。
さっきの視線と同じように、フルディアの威容を仰ぎ見る角度で……、
しかしいくら傾きを調節しようが、その威容とやらは画面の中でにじんでしまって全然現れないのだった。
ちゃんと映ったかなと思ってもそこにいるのは小さなかわいい面白ペットだ。自分の見て感じたものにタブレットの性能が追い付かない。
まあいいか。フォロワーには面白ペットの姿でも見せとけ。私はただくっきり写るようにシャッターボタンを押した。
私くらいだろうな。こんな小さな生き物よりさらに小さくなったつもりで見上げてるのは。
その感じを同じ生き物好きに伝える方法すらないのだ。
翌日。
健康診断の都合で有給を取らされて午後が暇になったので、年間パスポートを持っている近くの水族館を平日に見に行くという贅沢ができた。
ただの水族館なら年パスを取ったりしない。
入館してすぐ波の立つ大水槽に向かい合うが、そこは大きなサメが通り過ぎるのを見届けるだけにしておいた。
平日で人気のない順路をほとんどショートカットする。壁が濃紺から灰色に変わる門をくぐり、目当てのフロアへ。
カイメンやサンゴ、クラゲと特にシンプルな「動物」の水槽が続く。その先の大型水槽に、我々カンブリアファンにとってのヒーローがいる。
白く透ける体。黒く丸い複眼。二本の長い腕から、目の間の小さな甲皮、背中の鰓にかけては紫がかっている。胴体両脇の鰭を優雅に波打たせる。尾の三対の鰭からなる三角の大きな尾鰭はV字に跳ね上がり、そこだけほんのり薄紅色に染まっている。
三頭のアノマロカリスだ。
二頭は浮いたままその場にとどまり、一頭は泳いでいる。カンブリア紀の海で多くの生き物を圧倒したその巨体は、三十センチをゆうに超える。
……以前思われていたよりだいぶ小さいのだという。
なんでそうなるのかよく分からないが全長一メートルにもなると言われていた頃があったという。エーギロカシスの動画にあったコメントも当時を懐かしんでいたのだろう。
化石から古生物が再生されるようになったものの、図鑑の中と違って目の前に現れるようになったら結局大きいものばかりが注目されるようになって、目立たなくなってしまったもののひとつだ。
しかし多少小さかったって問題ではない。アノマロカリスこそがラディオドンタ類の花形であり、当時特に活発だった捕食者なのだ。
平日とはいえ他の来館者が少しはいる。
「なんかわけわかんなくてすごいねー」
と、女性二人組がアノマロカリスを目にして感心している。それでよいのだ。
全体的に白い半透明だが鰭には脈が走り、エーギロカシスロボのプラスチックの質感とは全然違う。
光が柔らかく透けるおかげで影がうまくぼやける。アノマロカリスより下にいたはずの獲物から警戒されずに済んだだろう。
水中に浮かんでとどまっている二頭は、腕と尾鰭でバランスを取るようにしながら、複眼を支える柄を小刻みに動かしている。お互いや泳いでいる個体との距離を測っているように見えた。
目を動かすことにより、周りを広く見渡すことと両目で獲物までの距離を測ることの両方ができるのだ。
泳いでいる一頭は、両腕を正面に真っ直ぐ突き出し、鰭の動きもただ波打っているというよりまるで羽ばたくようだ。フルディアやエーギロカシスにない大きな尾鰭のおかげで真っ直ぐ進む。
こうやって当時の小さな生き物に忍び寄っては、棘の生えた長い腕でからめ取っていたに違いない。間違いなく洗練されたハンターだ
カンブリア紀の生き物でも何でもない私まで、アノマロカリスに睨まれていると思うと気を張ってしまう。
アノマロカリスの元から退くと、いわゆる汽車窓式の水槽が順路に続く。
次の水槽にいるのはフルディアだが、私のフルディア・トライアングラタとは別種のフルディア・ヴィクトリアだ。大きさはアノマロカリスとあまり変わらないくらいある。
頭の甲皮も前に長く伸びて、こっちのほうがエーギロカシスを思い浮かべるのに向いているんじゃないだろうか。
いやいや、エーギロカシスの代わりにトライアングラタを飼っているわけじゃない。
ヴィクトリアも底の砂を長い棘の生えた付属肢で探って餌を採るのはトライアングラタと同じだ。泳ぎ続けて水を濾過したらしいエーギロカシスとは違う。海底の生き物を襲う捕食者だ。
ご丁寧に次の水槽はフルディア・ヴィクトリアに襲われることもありそうな、海底の小さな生き物なのだった。
ハルキゲニア。長い脚と棘が何本も櫛のように生えた細長い虫だ。長い首の根元から触手が何本も伸びている。
何匹も砂の上に佇んだり石の側面にとり付いたりしているが、一番大きいものでも五センチがやっとだ。
アノマロカリスが大きく育たないことがはっきりしたように、これも体の前後や上下の向きさえ化石から蘇らせてみて初めて分かったのだという。そういう見切り発車は本当は良くないのだが、恐竜やエーギロカシスみたいな大きな動物の場合ほど問題にならない。
私もそれでありがたく見せてもらっている立場だ。
ケリグマケラも、ハルキゲニアと同じく小さくて柔らかい虫だ。ただしその姿は、長い棘の付いた腕や脇腹に並んだ鰭が少しだけアノマロカリスを思わせる。
尾鰭の代わりに長い尾があって、アノマロカリスと比べればわたわたしているが、けっこう身軽に泳ぐことができる。
ハルキゲニア、ケリグマケラ、そしてラディオドンタ類。これらは「虫」と呼ばれることもあるものの本物の「虫」、節足動物にはなりきっていない。
ここから進むと節足動物そのものが現れ、ちょっと「普通」な感じになってしまう。
次の水槽では半透明のものがきらめきながら漂い、飴色の楕円が底を這っていた。
泳いでいるのは複雑な形のマルレラ。
百円玉に乗りそうな体をよく見れば、フォークの頭を後ろ向きに乗せたような、角の生えた頭をしている。腕を素早く前後に振って進む。
マルレラの透明感のある角が虹色にきらめくという人もいるが、輝いてはいても虹色ということはあまりない。ここの水槽が条件を満たしていないのかもしれないが、構造色があるというのはただの噂ではないか。
這っているのは三葉虫のエルラシア。
かなり平べったい以外は特徴のない三葉虫らしい三葉虫だ。当時すでにたくさんの三葉虫が、エルラシアよりはるかに巨大なものもたくさん暮らしていた。
そう、すでに節足動物の世界なのだが、節足動物になっていない虫とどっちが優れているとか劣っているとかではない。当時の生き物が多様化した結果だ。
多様化していたのは「虫」だけではないことを次の水槽で思い出した。
ピカイアだ。薄い色をした海藻か何かの切れ端に見えるが、自分の力で体をくねらせて砂の上を進んでいる。
動きといい、頭らしきほうにある短い触角といい、こういうものも「虫」と呼ばれそうに見えるが……、首に並んだ赤い鰓は、魚に通じる特徴だ。
これも以前はだいぶ違う姿に推定されていたのだという。
ピカイアが出てきたら、ここからはもう魚だ。私にとっては人間に近すぎるので、混んでいる普段はあまりじっくり見ない。今回もそうしようかと思ったが。
ふと、魚と目が合った、と感じた。
単に魚と目が合うだけなら普通にあることだ。片目だけの横顔とか、左右を向いた両目を正面から見たとか、ヒラメを上から覗き込んだとか。
そうではなく、魚の顔面と真正面から向き合ったのだ。水槽に人面魚でもいるのか。
アノマロカリスのように目が横を向いたり前を向いたりする魚を想像してしまうが、いくらなんでも……。
果たしてその魚の顔面には両目と口が顔文字のように綺麗に正面を向いて揃っていた。
サカバンバスピス。オタマジャクシを前後に伸ばしたような魚だ。
口を開けたまま、体を揺らして泳いでいる。口を閉じる顎も、尾を振る反動を止める鰭もないのだ。
こんな魚が、なんで獲物を両目で捉えるハンターみたいに両目を前に向けているんだろう。水や泥を吸い込んで濾過しているだけだろうに。
ああいういかにも捕食者という魚でもそうはなっていないのに、と、順路の先にあるものと見比べた。
大きなガラスケースの中に、これまた高さ・長さとも一メートルはある、異様に大きくいかつい魚の頭の化石がある。ダンクルオステウスだ。
骨の板が組み合わさった顔は丸く、その裂け目である口に顎の骨から出っ張りが突き出て、それが牙になっている。ハロウィンのジャック・オ・ランタンとよく似た構造だ。
近寄って見てもやっぱり目の骨……眼球を支える輪のような骨……は左右を向いているのだった。
床から天井までの大きな水槽から漏れる光に青白く照らされて、ジャックどころか魔神のような凄みがある。
その水槽の中にいるのはダンクルオステウスではなく、その子供のようなイーストマノステウスが四匹。がっしりとした体付きと立派な尾鰭を持った捕食者だ。
前半身は固そうで、皮膚の下にダンクルオステウスの化石と同じような骨の板が埋まっていることが分かる。紺の背中と白い脇腹がマグロやカジキを思わせてまぶしい。
水槽も生き物もここまでの中で一番大きいが、それでも水槽の中はちょっと寂しく見える。どうも今の一メートルよりもう少し大きく育つ見積もりだったらしい。
ダンクルオステウスはこれをそのまま大きくしたような姿で全長四メートル程度なのか、それとも昔から言われているようにもっと後半身が長いのか?
それを明らかにしたとしても、ダンクルオステウスの飼育の実現は遠い。
イーストマノステウスは、エーギロカシスに対するロボやフルディア・ヴィクトリアのようなものなのだろうか。
いや、イーストマノステウスはイーストマノステウスのはずだ。
ならうちのフルディア・トライアングラタのように。
私は同じ水槽を見ているお客さんが近くにいないことを確かめ、顔の両側に手を立て、水槽に張り付いた。
私はイーストマノステウス達と同じ水中に立っていた。
真正面で一匹が奥から左へ進み、大きく旋回してこちらに近付いてきた。あれはこの海の最上位の捕食者に違いない。
そいつがすぐそこを横切り、右目に睨まれたとき、そこには確かに巨大な鬼面魚がいた。
それ以上水中にいる気になって目で追い続けることはできなかった。水槽がうちのより広すぎるし、日の光を受けた水の塊があまりにこちらに迫ってくるようだった。
やはり私には汽車窓式水槽だ。
振り向くと小さな水槽の中、流木のかたわらにイーストマノステウスのさらに小型版みたいな魚が寝そべっていた。頭は小さく、尾鰭は低く傾いている。コッコステウスだ。
こっちだって固い前半身を持った力強い魚ではある。それが力を蓄えて横たわっているところを、私はじっくり眺めることができた。
順路を飛ばしてしまっていたので一つ戻ると、またそちらにも固そうな魚が寝そべっているのだった。
ビート板に尾鰭を生やしたような形で、前の縁に横長の口があるが、この口はサカバンバスピスと同じで閉まらない。その左右に上向きの目がある。
覗き込むと「普通に」目が合う。魚と目が合うって元々こういう感じだ。
その表面はまるでタイルと砂利を組み合わせた石畳に見える。砂や砂利に隠れるのは大得意だろう。
小さくなってこの石畳の上を歩いてみたい。あの水槽の覗きかたならそれができた気分になれる。
さすがにこんな小さな水槽にへばりついたら、周りの人に迷惑だろうな。でも今は他のお客さんは少ない。念のため、辺りを見回してみると……、
まさにそれをやっている人が隣の水槽にいた。
「あっ」
つい声を出してしまい、その女の人が水槽から飛び退いた。
「あ、す、すいませ」
「あーっ大丈夫です大丈夫ですマジで。それより」
私はどうしてもその人を引き留めたかった。
「どんなのに夢中になってたのか教えてほしいなって」
「えっと」
その人は水槽の前を空け、手で示した。
「クリマティウスっていって、棘魚類っていうんですけど」
ただの小魚だと思っていた種類だった。実際、パッと見はカタクチイワシに似ている。
奇しくもフルディア・トライアングラタと同じくらいの大きさだ。きちんと目を凝らして見てみよう……。
「すごいトゲトゲですね」
なんと、小型のサメに似た尾鰭以外全部の鰭が棘になっているのだ。それだけじゃなく、棘の背鰭は二つもあるし、腹に棘がずらりと並んでいる。
「あの、大きい古生物って色々いるじゃないですか。魚竜とか、モササウルス類とか」
「この先にもいますね」
私はあんまりじっくり見ないが。
「でもクリマティウスって、そういうのにないかっこよさがあると思うんです」
「かっこよさ!」
そう聞いて私はもう一度クリマティウスの水槽を覗き込んだ。
今度は両手を顔の横に立てて。
そこには、ぎらついた鱗をまとい無数の刃を突き出した、恐るべきモンスターが突き進んでいた。
魚竜のなめらかな肌やモササウルス類の細かな鱗など切り裂いてしまいそうだ。
「ホントですね。トゲトゲの魚竜なんていないですもんね」
「よかったです。分かっていただけて」
「私もよかったです」
水槽の中の小さな世界に飛び込む人が他にもいて。小さな世界の新たな驚きを見付けることができて。
その人は笑顔を見せてからクリマティウスの水槽に向き直った。無事その人の世界に戻れたのだ。
さらにその一つ向こうはサカバンバスピスなので、結局魚もだいたい見ていたのだった。順路どおりに進み直し、まだ見ていない魚のところへ。
そこにはスマートな体付きの、だいぶ現代的に見える魚がしなやかに体をくねらせて泳いでいた。クリマティウスよりはずっと大きいが、だいたいアノマロカリスと同じくらいだ。
アカントデス。クリマティウスと同じ棘魚類だというが、あんな棘はないように見える……、いや、鰭の前の縁が細長い棘になっている。
クリマティウスが棘の刃を満載した鋼鉄の戦艦なら、アカントデスは棘のマストでいくつも帆を立てた優雅な帆船だ。
大きさを忘れれば生き物の姿はものすごい特徴を満載した特別なものに見える。ありきたりな生き物だと思っていた魚でもそうだと分かった。
アノマロカリスの、視野を広げることも集中することもできる目……。あれに少し近付いたのかもしれない。
[ラディオドンタ類 Radiodonta]
ラディオドンタ類とは、アノマロカリス(後述)に代表される基盤的な節足動物のグループである。単にアノマロカリス類と呼ばれることもあったが、アノマロカリス科以外のグループもあるという多様性を踏まえてラディオドンタ類またはラディオドンタを訳して放射歯類(恐蟹綱放射歯目)と呼ぶようになった。
ラディオドンタ類のメンバーは下記のような特徴を備える。
・頭部から前方に伸びる、関節のある1対の付属肢(前部付属肢)がある。
・頭部の前寄りに甲皮が、背面1つ(H-エレメント)と左右1対(P-エレメント)ある。
・Pエレメントの後ろに複眼を持つ。多くのものではこの複眼は眼柄によって胴体とつながる。
・頭部の腹側に放射状に並んだ歯からなる口器を持つ。
・胴体は節に分かれている。ただし丈夫な外骨格があるわけではなく柔らかい。
・頭のすぐ後ろの胴体の数節は前後に短く、首と呼ばれるものになっている。
・胴体の節ごとに1対または背側と腹側で2対の鰭を持つ。この鰭は鰓と対になってはいない。
・胴体(もっぱら背側)の節ごとにsetal bladesと呼ばれる櫛状の構造を持つ。これが鰓であると考えられている。
これらの特徴にさらにグループごと・種ごとの特徴を持つことで、多様なラディオドンタ類が存在した。また消化系や神経系についても痕跡から研究が行われている。
一時期は歩脚があったとも考えられていたが、これはパラペイトイアParapeytoiaという節足動物がラディオドンタ類であると考えられていたことによる。パラペイトイアが実際にはより派生的な節足動物であるメガケイラ類に属しラディオドンタ類にはそれほど近縁でないことが分かると、ラディオドンタ類に歩脚があったと考える根拠は失われた。
ラディオドンタ類は真の節足動物に特に近縁な動物と考えられているが、ラディオドンタ類が現れた時期にはすでに真の節足動物が現れていて、これらがどのように分岐したかは不明である。
カンブリア紀の動物の多くが数cm程度しかない中、ラディオドンタ類には10cm程度かそれ以上になるものも多く、カンブリア紀の海の主要な捕食者であったと考えられる(ただし、口器の強度からして、かつて考えられていたように三葉虫の鉱物化した外骨格を噛み砕けたとは考えられない)。
カンブリア紀が終わるとラディオドンタ類は大きく多様性を減じたが、後述のエーギロカシスはオルドビス紀、シンダーハンネスSchinderhannesはデボン紀に生存した。
[エーギロカシス・ベンモウライ Aegirocassis benmoulai]
学名の意味:化石収集家モハメッド・ベン・モウラ氏が発見した海神エーギルの兜
時代と地域:オルドビス紀前期(約4億8000万年前)のモロッコ
成体の全長:2m
分類:汎節足動物類 恐蟹綱 ラディオドンタ目 フルディア科 エーギロカシス亜科
エーギロカシスはラディオドンタ類としてはかなり遅いオルドビス紀に生息した、最大のラディオドンタ類である。全身が保存された化石で全長1.3m以上、H-エレメントのみの化石で推定全長2mに達した。これは節足動物としても史上最大級である。
サーフボードのような形をした長大なH-エレメントは全長の半分に達し、その半分ほどの長さの楕円形のP-エレメントが頭部の側面全体を覆っていた。
P-エレメントの内側から前方に前部付属肢が突き出ていたが、前部付属肢自体は12cm程度しかないものの、その倍以上の長さの内突起が6本生えていて、さらに内突起の一つひとつから分岐がブラシのように内向きに生え揃い、まるでP-エレメントの前に2列のフィルターが立っているようになっていた。H-エレメント及びP-エレメントによって導かれた水流から細かい物質を濾過する働きがあったようだ。
複眼は発見されていないが、P-エレメントの後ろに小さく突き出ていたと考えられる。
胴体はやや偏平で10節からなり、各節には背側と腹側で2対の鰭があった。この鰭は前後のものと重ならず、体に対して比較的小さかった。泳ぐときは腹側の鰭のみ動かし、背側の鰭には姿勢を安定させる働きがあったようだ。
胴体の端(尾部)に他のラディオドンタ類に見られる尾鰭のような鰭や紐状のものがあったかどうかは不明である。何もないように復元されることが多い。
一定の速度でゆっくりと真っ直ぐに泳ぎ続け、前からの水流を甲皮で誘導して前部付属肢で濾過し、プランクトンを食べていたと考えられる。
[フルディア・トライアングラタ Hurdia triangulata]
学名の意味:ハード山の三角形のもの
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億1000万年前)の北米(カナダ・ブリティッシュコロンビア州、アメリカ・ユタ州)
成体の全長:8cm
分類:汎節足動物類 恐蟹綱 ラディオドンタ目 フルディア科
[フルディア・ヴィクトリア Hurdia victoria]
学名の意味:ハード山とヴィクトリア山のもの
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億1000万年前)の北米(カナダ・ブリティッシュコロンビア州、アメリカ・ユタ州)
成体の全長:最大30cm
分類:汎節足動物類 恐蟹綱 ラディオドンタ目 フルディア科
フルディアはエーギロカシスと近縁で、エーギロカシスに似た特徴を多く備えていたが、ずっと小型のラディオドンタ類である。
甲皮のH-エレメントは先端が尖った涙滴形で、トライアングラタ種では全長の1/4程度で幅のほうが長さより大きく、ヴィクトリア種では全長の4割ほどあり長さが幅の倍以上あった(H-エレメントのHはフルディアのHである)。P-エレメントは形に個体差があったが、おおむねH-エレメントの幅を増すような形をしていた。H-エレメントの先端の後ろで、左右のP-エレメントの前方に突出した部分が接していた。
前部付属肢はP-エレメントの前方から突き出て、口器はその根元にあったようだ。前部付属肢は短くて太く、棘状の分岐のある長い内突起が並んで熊手状になっていた。口器は十字放射状で、並んだ歯のうち特に大きな歯が前後と左右に十字状に並んでいた。
胴体はエーギロカシスと同じくやや偏平で、1つの節ごとに背側と腹側の2対の鰭を持っていた。エーギロカシスが発見されるまではフルディアの鰭は水平ではなく垂直にドレスのフリルのように生えていたと考えられていたが、エーギロカシスの研究により改められた。
基本的に底生で、海底の砂を甲皮で押さえ、熊手状の前部付属肢で小さな生き物をより分けて捕えていたと考えられる。トライアングラタ種とヴィクトリア種の甲皮の形態の違いが生息環境や採餌方法の違いを示していると考えられることもあるが、前部付属肢の形態に違いがないため、甲皮の形態の違いは他の要因によるようだ。
[アノマロカリス・カナデンシス Anomalocaris canadensis]
学名の意味:カナダ産の奇妙なエビ
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億1000万年前)の主に北米(カナダ・ブリティッシュコロンビア州)
成体の体長:約40cm(前部付属肢を除く)
分類:汎節足動物類 恐蟹綱 ラディオドンタ目 アノマロカリス科
アノマロカリスは代表的なラディオドンタ類で、ラディオドンタ類の中では特に研究が進んでいる。
最大の体長が1mを超えるのではと言われたこともあったが、これは不正確な推定や誤認に基づくもので、実際にはそれよりかなり小さいものの、依然として特に大型のラディオドンタ類であることには変わりない。
ラディオドンタ類の中での特徴としては、体長の半分ほどある長い前部付属肢、頭部からはみ出ない小さな甲皮、発達した複眼、放射状に並んだ歯のうち3つが大きくなっている口、小さな鰭のある3節の首、胴体の各節の鰭は1対で長いこと、尾部の3対の鰭が重なってできた三角形の尾鰭(尾扇)などがある。
優れた視力と遊泳力、長く可動範囲の広い前部付属肢により、遊泳性の比較的小さく柔らかい動物を活発に捕食したと考えられている。前部付属肢に破損がないことから固い動物や障害物の多い海底の動物は捕食しなかったようだ。
[ハルキゲニア・スパルサ Hallucigenia sparsa]
学名の意味:稀に夢から生まれるもの
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億1000万年前)の北米(カナダ・ブリティッシュコロンビア州)
成体の全長:5cm
分類:汎節足動物類 "葉足動物" "クセヌシア綱" ハルキゲニア科
ハルキゲニアやアイシェアイアAysheaiaのような「足のある蠕虫」の姿をした古生物をまとめて葉足動物lobopodianといい、汎節足動物(有爪動物、緩歩動物、節足動物)に含まれる動物の起源に関連があるとされる。この中でシベリオン類のような分化した付属肢を持たない特にシンプルな姿のものをクセヌシア類というが、これはまとまったグループではなく様々な段階のものを含む側系統群である。クセヌシア類、大きな前部付属肢を持ち鰭がなく歩くシベリオン類、前部付属肢と鰓があり泳ぐ後述のケリグマケラ等、そしてラディオドンタ類の順に節足動物に近付いていく。
ハルキゲニアは細身の葉足動物で、10対の細長い脚と7対の背の棘を持っていた。脚のうち前方の3対は接地せず細い触手状で、他の7対の脚の先端には1つまたは2つの爪があった。
また首のような部分の先は丸みを帯びた頭部になっていて、1対の目と先端に開いた口があった。
こうした体制は比較的近年になって判明したもので、かつては体の上下や前後が逆に解釈されていた。
固いものの表面を含む海底を爪を使って歩き、カイメンや腐肉などを食べていたと考えられている。細い触手状の脚で餌を口に運ぶこともあったようだ。
[ケリグマケラ・キェルケゴーリ Kerygmachela kierkegaardi]
学名の意味:哲学者セーレン・キェルケゴールの宣教の鋏
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億1800万年前)のグリーンランド
成体の体長:6cm
分類:汎節足動物類 恐蟹綱 ケリグマケラ科
ケリグマケラは「鰓のある葉足動物gilled lobopodian」と呼ばれるものの一つで、ラディオドンタ類と同じく恐蟹綱に含まれるとおり、ラディオドンタ類に似た特徴を備えた、真の節足動物に近縁な動物である。
体長とほぼ同じ長さの、細長い棘の生えた前部付属肢、同様に細長い1本の尾、胴体の両側に並んだ11対の鰭を持つ。複眼は前部付属肢の根元の腹側にあって前後に細長い。口は前部付属肢の間の突出した部分の腹側にあって、ラディオドンタ類と違って発達した歯はなかった。
鰭を遊泳と呼吸の両方に役立て、前部付属肢を主に感覚器官として使用しつつ、小さな獲物を捕食したと考えられる。
[マルレラ・スプレンデンス Marrella splendens]
学名の意味:ジョン・エドムント・マー博士の小さく輝かしい生き物
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億1000万年前)の北米(カナダ・ブリティッシュコロンビア州)
成体の全長:最大25mm
分類:節足動物門 マルレロモルフ綱 マルレラ目 マルレラ科
カンブリア紀には前述のような真の節足動物に近縁な様々な動物だけでなく、真の節足動物そのものもすでに多様化し反映していた。そのうちのひとつがマルレロモルフ類というグループのマルレラであり、アノマロカリスやハルキゲニアを産出するバージェス頁岩から最も多く産出される。
マルレロモルフ類は円筒形の体と、鰓と脚に枝分かれした二肢型の付属肢を持つ節足動物で、種ごとに特徴的な頭部の装飾を持っていた。他の節足動物との関係ははっきりしない。
マルレラは頭部から2対の長い突起が生えていた。前方の1対は横に伸びてから大きく後方に湾曲し、後方の1対は頭部の最後方からフォーク状に後方に伸びていた。
この突起の表面に微細な溝があって光を回折することで構造色を呈したという説があるが、同じ研究で構造色があるとされたウィワクシアWiwaxiaとカナディアCanadiaでは、この溝は棘の内部にあって構造色を発揮しない可能性が高いことが分かり、マルレラでも構造色があった可能性は低い。
長い触角を持っていたが目はなかったようだ。
後方の突起の下あたりから、長い偏平なブラシ状の付属肢が1対伸びていた。ひねって断面を立てた状態で後方に向かって振り、寝かせた状態で前方に振ることで、水を後ろに押し出して推進力を得ることができたと考えられている。
胴体に並んだ脚はゆるく曲げることで水ごとプランクトンや有機物などの餌を受け止めることに役立てたと考えられる。
よって、もっぱら遊泳しながら餌を集めて暮らしていたと考えられる。頭部の突起は遊泳中に姿勢を安定させる働きがあったようだ。
[エルラシア・キンギイ Elrathia kingii]
学名の意味:クラレンス・キング氏が収集したアラバマ州チェロキー郡エルラスのもの
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億年前)の北米(主にユタ州)
成体の全長:約4cm以下
分類:節足動物門 三葉虫綱 プティコパリア目 アロキストカレ科
いわゆるバージェス動物群の多様性について詳しく知られるまで、カンブリア紀の節足動物のうち主に知られていたのは三葉虫であった。カンブリア紀には後のオルドビス紀の三葉虫と比べて棘や突起の少ないシンプルな姿の三葉虫が繁栄していた。
エルラシアは北米の三葉虫の中でとび抜けて多産するもので、三葉虫化石の中で最も安価に販売され科学教材にもなっている。
多くの三葉虫にもある短い頬棘以外に装飾がない平たい体をしていて、尾部はやや小さかった。
脇腹がW字に欠けていることがあり、かつてはアノマロカリスの口器にかじられたものの逃げのびた個体であると考えられていたが、アノマロカリスの口器にはエルラシアの外骨格を噛み砕くような強度や力はないことが分かっている。
典型的な三葉虫として海底を這って生活していたと考えられる。
[ピカイア・グラキレンス Pikaia gracilens]
学名の意味:ほっそりしたピカ山のもの
時代と地域:カンブリア紀中期(約5億500万年前)の北米(カナダ・ブリティッシュコロンビア州)
成体の全長:5cm
分類:ステム脊索動物 ピカイア科
カンブリア紀にはすでに後の脊椎動物につながる脊索動物が多様化していた。中でもピカイアは早いうちから知られていたが、当初は多毛類と考えられていたのを経て脊椎動物の直接の祖先と考えられ、より古い年代の脊索動物が知られるようになるとあくまで当時の脊索動物のうちのひとつであると考えられるようになった。
現生のナメクジウオ類に似た笹の葉状の姿をした動物である。ただし頭部の先端に1対の触手があった。目や顎はなかった。
頭の下にも触手のようなものが並んでいたと考えられたことや体内の構造に不可解な点があったことから他の脊索動物との関係が不明だった。しかし2024年に発表された研究で、従来の復元では上下が逆であり、他の脊索動物と同じく背側に脊索、腹側に消化管を持つことや、並んだ触手のようなものは他の脊索動物のように並んだ鰓であったとされている。
また同じ研究で、古虫類と呼ばれる樽型の胴体を持つグループや、より古い脊索動物のひとつであるユンナノゾーンYunnanozoonと比べると派生的で、ナメクジウオ類よりは基盤的であると位置付けられた。
遊泳しながら海底に堆積した有機物を食べていたと考えられる。
[サカバンバスピス・ジャンヴィエリ Sacabambaspis janvieri]
学名の意味:古生物学者フィリップ・ジャンヴィエのサカバンバ村の盾
時代と地域:オルドビス紀後期(約4億6000万年前)の南米(ボリビア)
成体の全長:約30cm
分類:脊索動物門 "無顎類" 翼甲形綱 アランダスピス目 アランダスピス科
脊索動物の中から魚類と呼べるものが現れた当初はミロクンミンギアMyllokunmingiaなどピカイアに目が付いたような姿のものであり、それから顎がない段階のものも多様化した。
顎のない魚類をまとめて無顎類といい、現在も生息している円口類(ヌタウナギとヤツメウナギ)の他は、前半身の骨格が背側と腹側の大きなプレートからなっていたものが多かった。甲冑魚と呼ばれるものの2大グループのひとつである。(後半身の骨格は軟骨からなり、あまり化石に残らない。)
サカバンバスピスは典型的な初期の甲冑魚で、やや平たい流線型の体の前半をプレート状の骨格の鎧、後半を細長い固い鱗で覆われていて(ただし生きていたときはこの鎧は皮膚で覆われていた可能性が高い)、尾鰭以外の鰭はなかった。前端のプレートの間にスリット状の口が開いていた。
サカバンバスピスの場合、このスリット状の口の下はとても細長いプレートが60本放射状に集まってシャッターのようになっていて、顎がないとはいえ口の開き具合をある程度調節できるようになっていた。
また、サカバンバスピスに似た体形の各種の甲冑魚ではこのスリット状の口の近くに目があったが、サカバンバスピスの場合は目が口の両脇ではなくすぐ上にあり、真正面を向いていた。他の動物なら立体視ができると考えるような特徴だが、海底に堆積している有機物を吸い込んで食べていたであろうサカバンバスピスにとってどのような適応的意義があったかは不明である。感覚器官としては他に鼻孔と思われるものと側線(脇腹に並んだ水流を感知する器官の列)の痕跡が見付かっている。
尾鰭は単純な形をしていると考えられていたが、細長い尾の根元の背側と腹側から突き出た鰭と、尾の先端の小さな鰭の組み合わせからなっていたことが分かっている。以前考えられていたよりは泳ぎが上手かったようだが、やはり胸鰭や背鰭など体を安定させる鰭がなかったので、長く安定して泳ぎ続けるのには向いていなかったと考えられる。
[ドレパナスピス・ゲムエンデネンシス Drepanaspis gemuendenensis]
学名の意味:ゲムエンデンで発見された鎌状の盾
時代と地域:デボン紀前期(約4億年前)のドイツ
成体の全長:30cm
分類:脊索動物門 "無顎類" 翼甲形綱 異甲目 プサンモステウス科
無顎類の甲冑魚の中でも、サカバンバスピスと違って平たい体を持ったもののひとつである。後半身も固い鱗で覆われていて、鱗が並んだままの化石が多く残っているために全身の体形が明らかになっている。
前半身は半小判形で、後半身には前後に長い三角の尾鰭があった。背面と腹面に大きなプレートがあり、また脇腹や口の上下、眼の周りにもプレートがあって、それぞれの間を鱗が埋めていた。脇腹のプレートの後端は後ろに向かって開き鰓穴となっていた。
口は体の前縁に長いスリット状に開き、眼はその左右に並んでいた。
もっぱら海底に横たわり、海底の堆積物を吸い込んで食べていたと考えられる。尾鰭以外の姿勢を安定させる鰭がないこと自体はサカバンバスピスと同様だが、より海底に接して生活し、また平たい体が左右に傾くことを防いでいたと考えられることから、海底を泳ぐ分には安定していたのかもしれない。
[板皮類]
甲冑魚と呼ばれる魚類の2つの大きなグループのもう一つは、板皮類と呼ばれる顎のある魚類である。前半身の骨格が骨のプレートの組み合わせからなるのは無顎類の甲冑魚と同様だが、顎に当たる部分のプレートが(または頭部に当たる部分も)動かせるようになっていて、これが顎の役目を果たした。
以前は硬骨魚類か軟骨魚類どちらかの祖先に当たるグループであると考えられていたが、近年の解析では、顎のある脊椎動物全体の基盤的な段階にある側系統群であるとされている。
[ダンクルオステウス・テレリ Dunkleosteus telleri]
学名の意味:ジェイ・テレルとデイヴィッド・ダンクルの骨
時代と地域:デボン紀後期(約3億7000万年前)の北米とヨーロッパ
成体の全長:不明(推定3~8m)
分類:脊索動物門 顎口上綱 "板皮綱"(ステム有顎脊椎動物) 節頸目 ブラキトラキ亜目 ダンクルオステウス科
ダンクルオステウスは史上最大級の板皮類である。頭部と肩帯の骨格全体で1.5mほどの長さになった。
頭部は高さがあって顎とともに動かすことができ、また顎は頑丈で、噛む力は非常に大きかったと推定されている。加えて、上下の顎には牙状の突起と刃状の部分があり、これらが食物を噛みちぎる歯の役割をしたと考えられる。
このことから、ダンクルオステウスが当時の海の生態系における頂点捕食者であったこと自体は確実視されている。
頭部と肩帯以外の後半身については直接知られていることはほとんどない。このため、後述のコッコステウスをはじめとした後半身の骨格や痕跡が残った小型の板皮類や、サメなど生態が近いと考えられる魚類から全体の姿が推定されてきた。
このグループの板皮類で全身の姿が判明しているのはほぼ後述のコッコステウスのみであるため、単純にコッコステウスの外形にダンクルオステウスの前半身の骨格を当てはめ、全長6~8m、場合によっては10mに達するとも言われてきた。
しかしダンクルオステウスが遊泳性と考えられるいっぽうコッコステウスは底生と考えられるため、形態はかなり異なっていた可能性が高い。そこでより生態が近いと考えられるサメや、コッコステウスの他に体形の痕跡が残っていて遊泳性であると考えられるアマジクティスAmazichthysも参考にされた。
そのいっぽうで、2023年に発表された研究では、魚類全体の頭骨と全長の検討から、頭骨の中で全長と精度よく相関する寸法は眼窩の前端から鰓蓋の後端までの長さであることが明らかになり、この相関に当てはめるとダンクルオステウスの全長は3~4m程度にしかならないとされた。
この推定に従ったダンクルオステウスの復元図はかなり寸詰まりに見えるのだが、これは肩帯まで頭骨の一部であると誤認してしまってそう見えるのかもしれない。また全長がそれより大きかったらあまりにも細長い体型になってしまうとも指摘されている。実際、古い復元画の中にはダンクルオステウス(当時はディニクチスDinichthysに分類されていた)をウナギのような体形に描いたものもある。過大な推定全長に実際の化石を当てはめて描いたのかもしれない。
[イーストマノステウス・カリアスピス Eastmanosteus calliaspis]
学名の意味:チャールズ・ロチェスター・イーストマンの美しい盾状の骨
時代と地域:デボン紀後期(約3億8000万年前)のオーストラリア北部
成体の全長:不明(1m?)
分類:脊索動物門 顎口上綱 "板皮綱"(ステム有顎脊椎動物) 節頸目 ブラキトラキ亜目 ダンクルオステウス科
ダンクルオステウスと近縁で、上下の顎に牙状の突起を備えていたなどダンクルオステウスと似た姿だがカリアスピス種の最大の標本でも約27cmと小型で、ややスリムだった。筋繊維や神経の痕跡が発見されている。
小型といっても発掘地であるオーストラリア北部のゴーゴー層群の中では最大の魚類化石である。全長1.5mに達するとされているが、ダンクルオステウスと同じように眼窩から鰓蓋までの長さと全長の相関から全長を推定するともっと小さくなるようだ。
[コッコステウス・クスピダトゥス Coccosteus cuspidatus]
学名の意味:尖った先端のある顆粒状の骨
時代と地域:デボン紀前期(約3億9000万年前)のヨーロッパ(スコットランド)
成体の全長:最大40cm
分類:脊索動物門 顎口上綱 "板皮綱"(ステム有顎脊椎動物) 節頸目 ブラキトラキ亜目 コッコステウス科
コッコステウスはダンクルオステウスやイーストマノステウスと同じ板皮類で、それらと比較的近縁ではあるがかなり小型だった。
頭部および肩帯の骨のプレートでできた骨格はダンクルオステウスやイーストマノステウスと基本的によく似た構造だったが、頭がやや低く、歯のような突起は小さかった。
全身の骨格および痕跡が保存されている化石が多く発見されていて、底生のサメに似た浅い角度で立った尾鰭を持っていたことが分かっている。先述のとおりダンクルオステウスの復元の手がかりとされてきたが、近年はコッコステウスとダンクルオステウスではかなり異なった形態に復元されることが増えた。
主に淡水で堆積した地層から発見されているため、ダンクルオステウスやイーストマノステウスと違って淡水に生息していたと考えられる。水底近くで多くの時間を過ごし、底生生物を捕らえるかもしくは水中の小さな生物を濾過して食べていたようだ。
[棘魚類]
棘魚類は、鰭の間に並ぶ、または鰭自体と関連する棘を持っていた、顎を持つようになった初期の魚類である。板皮類の骨のプレートからなる顎と比べると現生魚類の顎にやや近い構造の顎を持っていたが、初期のものの顎は簡単な造りであった。
板皮類と同様、棘魚類も軟骨魚類か硬骨魚類どちらかの祖先に当たるグループであるとされていたが、近年の解析では軟骨魚類につながる系統の基盤的な段階にある側系統群であるとされている。つまり軟骨魚類に近縁なことになるが、軟骨魚類と硬骨魚類両方に似た特徴を持っていた。
[クリマティウス・レティクラトゥス Climatius reticulatus]
学名の意味:細かい網目状で傾斜した尾を持つもの
時代と地域:デボン紀前期(約4億1500万年前)のヨーロッパ(スコットランド)
成体の全長:75mm
分類:脊索動物門 顎口上綱 "棘魚綱"(ステム軟骨魚類) クリマティウス目 クリマティウス科
クリマティウスは初期の代表的な棘魚類である。
全体は細長くイワシに似ていた。カタクチイワシEngraulis japonicusやハダカイワシ類のように目が上顎の前端に近く、頭部の下端にある顎が目よりかなり後ろまで続いていたが、口は単純な造りの下顎しか動かなかった。
尾鰭以外の鰭は(2つある背鰭も両方)全て棘になっていた。さらに胸鰭と尻鰭の間に低い棘が5対並び、胸鰭の基部にも小さな棘が5本あった。これらの棘の基部は幅広く、体内に浅く食い込んでいた。
鰓蓋は複雑な造りで、硬骨魚類のような半円形の幅広い鰓蓋(舌鰓蓋)があり、その背側に板鰓類(サメとエイ)のような5つのスリット状の鰓蓋(副鰓蓋)があった。
尾鰭は上葉に脊椎が通ったもので、延長された尾の下に長く続いていた。
主な発掘地であるスコットランドのティリーワンドランドの地層は湖の底に堆積したもので、クリマティウス自体の発掘される数は少ない。淡水の中でも湖は周囲から栄養塩が流れ込んで植物プランクトンが発生しやすく、またそれとそれを食べる動物プランクトンがとどまりやすい。クリマティウスは湖でそうしたものの中から顎で捕らえられるサイズの甲殻類などを食べていたと考えられる。
[アカントデス・ブロンニ Acanthodes bronni]
学名の意味:ハインリッヒ・ゲオルク・ブロン氏が発見した棘のあるもの
時代と地域:ペルム紀前期のヨーロッパ(ドイツ)
成体の全長:40cm
分類:脊索動物門 顎口上綱 "棘魚綱"(ステム軟骨魚類) アカントデス目 アカントデス科
アカントデスはクリマティウスと比べるとかなり後に現れた新しいタイプの棘魚類である。
細長い体をした魚の姿であることや顔付きはクリマティウスと同様だが、クリマティウスと違って各鰭の前縁だけが細長い棘になっていて、他に棘はなかった。棘の基部は狭く、体への食いこみかたが深かった。
背鰭は1つだけでかなり後方にあった。腹鰭が対ではなく1枚しかないことも特徴である。尾鰭はクリマティウス同様延長した尾の下側にあったが、発達していた。脊椎はほぼ骨化しておらず、サメのような泳ぎかたをしていたようだ。
鰓は現在の硬骨魚類に似ていて、舌鰓蓋のみで副鰓蓋はなかった。
顎は大きかったがやはり下顎しか動かなかった。歯はなく、鰓に鰓耙、つまり鰓から出ていく水を濾過する構造があった。
ドイツの湖で堆積した地層から発掘され、湖で遊泳しプランクトンを濾過して生活していたと考えられる。アルケゴサウルスArchegosaurusやケリデルペトンCheliderpetonといった両生類(分椎類)がアカントデスを食べ、さらにトリオドゥスTriodusという初期の淡水性のサメがそれらの両生類を食べるという食物連鎖があったことが分かっている。
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