第93話「武蔵野フォッシリウム編その7 イソヤンケクルとヨナタマ -炎と武蔵野フォッシリウム-」
二年生になり、再び迎えた文化祭。
今度は映像技術部とは別に、同じ上映時間をもらっていた。
ただナレーションは七生さん、いや、ひのてりあだ。いつもの学生服姿ではなくコートを着込んだアカデミックな装いで、プラネタリウム操作盤の位置に置かれたパネルに投影されている。
『今回は皆さんを、今よりずっと大きかった東京湾が多摩地域の大部分を覆っていた百八十万年前の世界にご案内いたします』
普段と違ってとても落ち着いた声。拍手を浴びながら静かな所作も完璧だ。
矢川さんが用意してくれた衣装も含めて、やはり映像技術部の協力は欠かせなかった。
ドームは一面の青に変わる。
白と黒の横長なものがかすめ通り、タイトルが出る。
「武蔵野フォッシリウム ―ある旅の終わり―」。
通り過ぎた物体が再び、今度はずっと小さくなって通り過ぎる。
『外洋に生息するアホウドリが、現在の日野市のあたりを通過し、岸のほうに向かっています』
カメラは海面を上空から見下ろしていたのだ。
右下に日野と昭島の位置を示した関東の地図が出るが、今の陸地は輪郭線のみで表されている。水色の海は黄土色の陸に対して、茨城の南半分と千葉の北半分から西に向かって大きく三角に入り込んで昭島まで達している。
地図は消え、海面は何箇所も白く割れ続ける。
『海獣達が先に獲物を追っているようです』
カメラは海面を近くから斜めに見下ろす。アシカやイルカが群れをなし、かわるがわる水面を跳ねて進んでいる。激しい水音が絶え間なく起こる。
実のところ背中の一部分しかないような簡単なモデルを遠くから映しているのだが、水の動きや音のおかげで観客は感心して見ている。大きく映るもの以外はこうして省略されている。
その先をはるかに大きく細長い影が行く。アシカの五倍以上、イルカの四倍はあり、十メートルをゆうに超えることが察せられる。
クジラではあるものの、まだはっきりと姿を現さない。
大小の海獣の大群は何かにぶつかる。彼ら全体よりさらに広大な範囲の水面がうっすら暗くなっていて、ところどころ光ったりさざ波を立てたりする。
[小型のニシン類(いわゆるイワシ)]と字幕が出る。
カメラは一瞬水中に映り、一匹のイワシが必死に尾鰭を震わせ進む姿が映る。しかし彼らの懸命の泳ぎも空しく、イワシの群れはクジラにえぐり取られ真っ二つにされる。
今度は[ナガスクジラ属の一種]と字幕。
上空から見下ろす群れはさらにアシカやイルカに切り崩され、海面上からアホウドリまでかすめ取っていく。
観客までもがこの命の騒ぎにざわついている。
しかし視点はそこからずれていく。
先程のクジラとほぼ同じ長さを誇る大物の陰がそこにあった。
しかももっとずんぐりとして、明らかに体重では勝っている。鼻筋だけは高く尖ってスマートに見える。
『この来訪者は、遠く北の海からの旅の途中です』
こちらにこそ[アキシマクジラ]と表示される。
がっしりした無骨な灰色の身体には、白いまだらや、六角形のフジツボ、小判型の虫が散りばめられている。緩やかに曲がった口は頭を上下に等分し、顎に縞はなく深いしわが一対刻まれているだけだ。胸鰭や尾鰭は幅広く、背鰭の代わりに低いこぶが尾の上に並んでいる。
『イワシの群れを追うのに熱心ではありません。先程のクジラとは姿だけでなく生態も異なっているのです』
アキシマクジラは頭をわずかに横に振り、口角のすぐ上の小さな目で後ろを見ると、イワシの群れから離れていく。
『イワシの群れよりもずっと注意を払うべきものがいました』
それはかなりの速さで近付いてきている。
長く先の丸い胸鰭や背鰭。スマートな褐色の体を左右にくねらせて高い尾鰭を打ち振るう。
字幕は[ヨゴレ(メジロザメ類の一種)に類似したサメ]。
『アキシマクジラのほうがずっと大柄ですが、あのサメの食事に巻き込まれれば危険でしょう』
水中に赤い染みができるのを遠く置き去りにして、アキシマクジラは泳いでいく。
暗く落ち込んでいた海の底が、細かな砂泥の斜面に変わる。岸に近付いたのだ。
そこでカメラは浮上し、淡青の水面が映る。その向こうに見える陸地には、赤銅色の山々が連なるだけだ。
その水面に突然黒い水柱が立つ。飛び出したアキシマクジラだ。
全身に水しぶきをまとって煌めくアキシマクジラはやがて倒れ、轟音とともに白く海面を割る。
『陸ではメタセコイアの大森林が紅葉しているばかりで、この辺りが安全な場所であることが確かめられました』
観客の驚きと歓声にも、ひのてりあのナレーションは淡々と続く。
『この何もないように見える静かな泥の斜面で……』
そこでカメラは水面から一転してその砂泥に降り立ち、潜ってくるアキシマクジラを見上げる。
アキシマクジラの大きな影が急激に近付き、口の右側面を振り下ろした。ボフという音が砂泥の細かさを伝える。
『……アキシマクジラの食事が行われます』
再び上から映ったアキシマクジラの口の中から砂煙が湧き上がる。
その砂煙の下からエビに似た生き物が這い出してきた。スコップのようなハサミ、太い肩。平たい尾。周りに開いた穴の中にも同じものが潜んでいる。[アナジャコの一種]と字幕。
『アキシマクジラとそっくりな現在のコククジラもこのような暮らしをしています。他のヒゲクジラが水を濾過するのに対して、アキシマクジラやコククジラは泥を濾過して、中に潜んでいる生き物を食べるのです』
そうしてアキシマクジラは砂泥をさらい続け、くぼみを水底に並べていった。
やがて満足して体を水面に浮かべると、より深みにアキシマクジラ自身と同じくらいの影が見えた。それはゆっくりとこちらに近付いてきて輪郭をはっきりさせる。
またしてもクジラだが、なにより四角く大きな鼻先がひときわ目を引いた。
もちろん[ヒノクジラ(マッコウクジラの近縁種)]と字幕が出る。
『ヒノクジラが狩りをしていたのは、今のマッコウクジラと同じく深海のようです。こんなに浅いところに現れたのは体を休めるためでしょう』
アキシマクジラは特に警戒することはなく、ヒノクジラも同じように平静にアキシマクジラを見た。
しかしそちらに気を取られていてはいけないことがすぐに分かった。
ヒノクジラより向こうに、再びサメが現れたのだ。
今度はヨゴレよりはるかに大きい。
『これでもまだアキシマクジラやヒノクジラのほうがずっと大きいですが、危険であることは言うまでもありません』
そう言っている間にもサメはこちらに迫り、重厚な体、灰色の鼻、白い顔、黒い穴のような目が見える。
[ホホジロザメ]という字幕にその脅威が裏付けられ、観客から声が漏れる。
『巨大なメガロドンはとっくに絶滅し、当時日本近海にシャチがいた証拠はなく、ホホジロザメこそがクジラ達にとって最大の天敵でした』
アキシマクジラは砂泥の斜面を横切るように浅いところを選んで逃げだした。ヒノクジラは全く別の、水深の増す方向に急ぐ。
カメラはアキシマクジラを追ったので、別々に逃げられて判断が遅れたホホジロザメはすぐに見えなくなり、その後ヒノクジラが逃げ切れたかは分からなかった。
そのうち日が暮れていく中、岸の反対側も浅くなり島のようなものが現れた。
『砂が堆積してできた砂州(さす)という地形です。この先は現在の昭島市、砂州に波が遮られた穏やかなラグーンです』
海面は波一つなく夕焼けの紅と夕闇の紺のグラデーションになり、それから一旦暗転した。
すると、ドームのほぼ全体にうっすらと光が灯る。
雲がまばらに浮かぶ夜空だ。濃く青黒い夜空には、ここが本来プラネタリウムであるとおりに星々が浮かぶ。
ドームの下のほうには真っ黒い海面が横たわる。
ザンッという音とともに、その海に再び黒い柱が立った。アキシマクジラの頭だった。
『この静かなラグーンには外敵の姿はないようです。アキシマクジラは星空の下でゆっくりと眠ることができます』
だが星々の光は本来の鋭さではない。
中央の投影装置は沈黙し、見慣れた星座はひとつもない。
[百八十万年前の星空(ごく大まかな推定)]という絶対に必要な字幕。
『百八十万年という年月はこのプラネタリウムの扱える範囲を超えていて、ごく大まかに推定したものを映像として投影するしかないのです』
恐竜絶滅よりはるかに近い時代だが、途方もない太古であると感じられる。
また暗転してそれが明けると、薄黄色い朝日が海面を広く光らせていた。
アキシマクジラは砂泥の斜面に沿ってさらに移動していく。
すると、まるで地上の草のような縦長の植物が生い茂っている一角に行き当たった。
『海藻ではなく陸上植物の仲間であるアマモです』
その合間にはちらちらと動くものがいくつも見えたが、中でも目を引いたのは黒と黄色の縞模様がうねうねと蠢く塊だった。
それはひとつの生き物ではなく、やや細長い体の魚が何十と身を寄せ合っているのだ。[ゴンズイの近縁種]。
アキシマクジラはすぐに方向転換しアマモ場から離れていく。
『毒針があるというゴンズイの警告色をアキシマクジラは正しく読み取りました』
そうして向かった先に、今度はやたらと大きく直線的な何かが飛び出してきた。
それはなんと木であった。樹皮は縦長の筋で、根がまだ付いていて、濃い橙色の羽のような葉もいくらか残っている。
[メタセコイア(紅葉)]という海の中らしからぬ字幕。
『鉄砲水でもあったのでしょうか。陸上の木がこんなところまで流されています』
よく見るとメタセコイアの丸い実と一緒にオオバタグルミのしわだらけの実も周りにいくつか漂っていたが、対応しきれないので字幕は出ない。
大きな見慣れない物体をアキシマクジラは遠巻きに眺め、それからそわそわと辺りを見回した。もう同じようなものは見当たらない。
しかし、アキシマクジラは浅いなりにできるだけ身を沈め、それから尾を打ち振るって、頭を高く水面に飛び出させた。
ラグーンの中にはもう何もなく、そも向こうはやはり、紅葉したメタセコイアが繁茂しオオバタグルミやナラガシワなどが入り混じる山々が横たわるばかりであった。
『陸もとても静かで、今アキシマクジラが気を付けるべき出来事は起こっていないようです』
アキシマクジラの頭は真っ直ぐ沈んでいくが、カメラはむしろ森のほうに急に近付いていく。
『当時、後に昭島の西側や八王子になる土地には今の日本にいない様々な動植物の世界がありました』
橙に染まった森の中、メタセコイアの幹の向こうからずんぐりとしたゾウが顔を出す。[アケボノゾウ]。
せせらぎが聞こえる中、落ち着いているように見える目で、川向こうの戦いを見張っているのだった。
大きな角のシカがオオカミの群れに角を突き付けて対峙しているが……、ニホンジカや、動物園のニホンオオカミよりはるかに頑強な体格をしている。
[シカマシフゾウ]と[ファルコネリオオカミ]。
『現在シフゾウは中国に生息し、またファルコネリオオカミはアフリカのリカオンに近縁とされています。百八十万年という歳月は動植物の分布を大きく変えるのです』
海の様子に戻ると、アキシマクジラは何事もなかったように海底の砂泥に近付いていた。
そして右顎を思い切り砂泥にこすりつける。
『もう落ち着いて食事をすることができるようです』
アキシマクジラは口から砂煙を吐き出し、かろうじてすくい取られずに済んだアナジャコがまた逃げ出す。
もう一度アキシマクジラの右顎が振り下ろされた位置に、偶然、二つの二枚貝がいた。
分厚いほうはその場から飛び跳ね、薄い円盤のほうは滑るように離れていった。
『アキシマクジラは貝を狙ったつもりはなかったのですが、別々の種類の貝はそれぞれの方法で逃げ出しました』
いきなり貝が動いた上にその様子が詳しく映り、観客がおかしな驚きの声を漏らした。
分厚い貝は二度三度とピンクの脚を突き出して飛び跳ね、なんとかアキシマクジラから離れた。というよりあちらが次の位置に泳いでいったのだが。もちろん[ブラウンスイシカゲガイ]だ。
薄く円い貝はそのまましばらく、殻が開くほうに向かって泳いでいった。これも当然[ホタテガイ]。
降りた場所には、先程の場所より多くの貝が見られた。生きているホタテガイやブラウンスイシカゲガイだけではなく、少しずつ違う貝殻がいくつも落ちている。
青地に赤いまだらのイトマキヒトデや、緑色の殻が鮮やかなミドリシャミセンガイ、棘というか毛のようなものに覆われた楕円の生き物……字幕は出ないが、ウニの仲間……の姿もある。
『大型動物ばかりではなく、貝などの小さな生き物もひしめき合う、冷たく豊かな海でした』
どんどん砂泥を掘って食事を進めるアキシマクジラの手前をヒラメが横切った。何か大きな魚の影もある。
『アキシマクジラにとって、長い旅の途中でたっぷりと栄養を蓄えられるとても良い中継地点となるはずでした』
アキシマクジラは腹が満ちたのか、浮かび上がって潮を一つ吹き、休み始めた。
『捕食者とも有毒生物とも違う危険が迫っていることに、気付いていなかったのです』
アキシマクジラのまだらの背中に夕闇が落ち、アキシマクジラは再びこのラグーンで眠った。
『翌朝はアキシマクジラにとってあまりにも慌ただしい寝覚めとなりました』
ナレーションの後に暗転が明けると同時に、大きく口を開いたホホジロザメが現れた。
ただアキシマクジラはあっさり捕らわれることなく全力で逃げ出す。
『苦手なはずの浅場まで探索しに来たのは捕食者としては勤勉なのかもしれません』
進んでいくにつれ水底は明るくなっていく。さらに浅いほうに向かっている。
するとホホジロザメの動きは次第に鈍っていく。浅すぎてホホジロザメにとっては思うように動けないのだ。
アキシマクジラの逃走にも少しは余裕が出たと思われた、そのとき。
いきなりホホジロザメが加速し突進してきた。
そこに、アキシマクジラが咄嗟に左顎をぶつける。
鈍い音とともにうまくホホジロザメの鼻先にぶつかり、ホホジロザメは身を大きくよじる。
『サメの鼻先には感覚器官が集中しデリケートになっています。いっぽう、アキシマクジラの近縁のコククジラは、体に付いた硬いフジツボを敵にぶつけて反撃すると言われています』
ホホジロザメは体を引きずるようにして振り返り、退散していく。
アキシマクジラも戻ろうと向きを変えるが、尾鰭が海底に当たって砂煙が起こる。
『こんなにアキシマクジラにとって有利に事が運んだのは、引き潮のためだったのです。今やそれは、アキシマクジラ自身をも脅かしつつありました』
もはや水深は尾鰭を振って体を進めることにさえ不充分になっていた。
胸鰭で砂泥をかいても、尾で水底を叩いても、体の向きを変えることすらままならない。
『一昨日からよく食べてはいましたが、まだ旅の疲れは癒えていませんでした』
そのうちアキシマクジラの身体は右に傾き、すっかり海底に横たわっていった。
どんどん水が引いて、その体は完全に砂浜の上に晒され、アキシマクジラを重力から守るものさえ何もなくなった。
やがてまた水が戻ってくるが、
『再び体が沈む頃にはもはや完全に手遅れでした』
そこに、またしてもホホジロザメやヨゴレまでもが現れた。今度はサメにも満足に身動きが取れる。
『これまで出会ってきたのと同じ個体かは分かりませんが、結局、アキシマクジラの肉は彼らの口にするところとなりました』
しかしバラバラに解体される前にまた潮が引き、サメ達はほぼ内臓だけ食べたところで素直に撤退した。
カメラはアキシマクジラの亡骸を真上から見下ろし、映像はタイムラプスとなった。
アキシマクジラの周りに砂が溜まっていくと同時に、砂の中の小さな生き物が姿を現す。
『自分が食べるはずだったものによって片付けられていきます』
アキシマクジラを守ったのとはまた別のフジツボが骨に取りつきながらも、やがて骨は完全に砂に埋まった。
『このような経緯だったという確証はないものの、アキシマクジラは、旅の終着点の名を冠しているのです』
カメラは夜空からアキシマクジラが埋まった砂浜を俯瞰した。手前から奥へ海岸線が走り、左が陸、右が海。
しかしすぐに水位が上がって海岸線が西に退いていき、また今度は東に進んで全体が陸となる。星々の位置も変わる。
『気候や地殻の変動により、海岸線の位置は変化しました』
川が一筋流れ始めるが、[かつての相模川]という字幕とともに南に流路を変えて消えていく。
全体が二度三度と赤褐色に霞み、森は赤い大地に姿を変える。[関東ローム層]。
次に現れた川は、その関東ローム層を雛壇上に削りながら南下していく。
川はアキシマクジラが埋まっているはずの位置で止まった。手前は削り残され山になってしまった。
[多摩川]の字幕とともに、暗転。
汽車の蒸気と車輪の音。
『川があの位置で止まらなければ。鉄橋があの位置にかからなければ。あの出会いはなかったでしょう』
次に映ったのは白黒写真だった。
汽車が走る鉄橋のそばで、石の転がる川べりにたくさんの人が集まって何かしている。
『千九百六十一年、アキシマクジラは再び姿を現しました』
写真はカラー写真に移り変わる。建物のホールで、白い骨格が壁一面の窓の外の青空を背景に浮かんでいる。アキシマエンシスだ。
『アキシマクジラがここにたどり着いてからの歳月と比べれば、私達はまだアキシマクジラと出会ったばかりなのです』
去年よりずっと大きな拍手にいつまでも包まれていたかったが、私と成瀬はこの閉じた空間から飛び出さないといけなかった。
アキシマクジラに関して本当に何かしたと言えるようになるためだ。
文化祭で華やかに賑わう校内を、私と成瀬は紙の束を手に真っ直ぐ部室へと急ぐ。
部室の扉は開け放たれていて、中ではモリーや和泉、それに数人の一年生が、見学者にパネル展示の説明をしていた。
「あ、おかえりなさい」
「ウケてた?」
「ああ。すごい拍手だったよ」
「残念ながらもはやそれどころではなかったがな」
この紙は映像のストーリーに赤ペンが入れられたもの。赤ペンを入れたのは、アキシマエンシスの学芸員さんだ。
私達は会場の反応を見ると同時に、先に相談して指摘を受けた内容も検討していたのだ。
「終わらない戦いって感じ?」
和泉が軽く言うが、成瀬は重々しく首を振る。
「始まったばかりだ。映像の最後に言わせたとおりだ」
十二月二十四日、アキシマエンシス。
郷土資料室からつながっているシアターに、「武蔵野フォッシリウム」の完全版が映し出されている。
椅子を並べて集まっているのは、アキシマエンシスの職員のかたがたや、一年生を含む私達郷土古生物部の部員や、映像研究部を代表して七生さん、他にも多くの協力者や関係者だ。
監修を受けたことによって、公共の郷土博物館であるアキシマエンシスにふさわしい内容になった映像をお披露目するためだ。
これで今後この映像はここで上映されるようになる。
成瀬が表現の限りを尽くして描いたアキシマクジラが躍動し、昭島で旅を終える姿を、開かれた場で見せて知らしめることができる。
もう映像は一巡して、今はモリーが再生と停止を繰り返しながら細部を説明していた。
内容が高度すぎるところは横にいる和泉が噛み砕いて言い直し、一年生や七生さん、天文部員などがうなずいていた。
モリーは高幡学園に来てからすっかりいいほうに変わった。
市内の若者が作ってくれたものだから……と気楽に考えていた大人達は、緻密な出来栄えに圧倒され、もしくは思っていたのと違うものが出てきて戸惑っている。
内容をすっかり知っている成瀬と私は、それを一番後ろから見渡していた。
「成瀬。お前が作った光景だ」
「うむ」
スクリーンの中のアキシマクジラはラグーンで最初の朝を迎えたところだった。
「これはもう完成しちゃったけど、この先はどうする?何を作る?」
もしかしたら、ステラーカイギュウを作ると言わないだろうか。
そんなはずはないと分かっていた。
「私は、」
成瀬は珍しく言葉を詰まらせた。
「作っている間、苦しかった」
「何?」
「こんなに海のことが分からないのだということをずっと突き付けられていた」
前のスクリーンではイワシの群れを取り囲む海の生き物達が躍動していた。
あんなに苦もなくパソコンに向かい続けていたように見えたのに。
「自信がないのか?」
「全力を尽くしたという自負はあるがそれではどうしても埋められない穴があるのもまたよく分かっている」
こいつがそんな思いでいたことに気付けなかった。
「私は海のことをもっと知るべきだ。本物の海やクジラに接して知るための行動を取るべきだ。それができるようになって今本当に安心している」
成瀬は、躊躇なく動こうとしている。
「そうか」
今私は、CGの腕前とは違うところで、新たに成瀬をまぶしく感じていた。
「そんなお前にクリスマスプレゼントだ」
「ふむ?」
私は足元の鞄を引き上げ、その中からとてもクリスマスにはふさわしくないただの段ボールの小箱を取り出し、成瀬に渡した。
成瀬がエアキャップに包まれた中身を引きずり出し、それを開くと、一瞬クジラに見えなくもない形の塊が三つ並んで現れた。
紡錘形の身体と半円の尾鰭はクジラに似ているが、体には輪状のしわが刻まれている。それに、クジラにしてはあまりにも頭が小さい。顎も小さく、口はふっくりとした肉に覆われている。前足は鰭というより短いへらのようになっている。一頭は口に海藻をくわえている。
ひとつの台座に三つ並んで支柱によって立てられた、3Dプリント製のフィギュアだ。
「全てステラーカイギュウに見えたが少しずつ違うようだな。どういう作り分けだろうか」
「こっちから、北海道のタキカワカイギュウ、狛江の世界最古のステラーカイギュウ、人類時代のステラーカイギュウだ」
タキカワカイギュウは、北海道の滝川市で五百万年前の地層から発見されたステラーカイギュウの近縁種だ。狛江のステラーカイギュウはそれと人類時代のステラーカイギュウをつなぐのだという。
見付かった化石や骨の大きさに合わせてあるから、狛江のが一番小さく人類時代のが一番大きい。
「動画の作業と別に何かしているとは思っていたが今回扱えなかったステラーカイギュウを別途作っていたのか」
「学校のプリンターを借りて出力してみた。あんまり細かいところは技術も時間もなかったけどな」
「前肢の先が少しずつ違うようだが」
「一応、見付かった部分に合わせたつもりなんだ」
指はどれもなく、タキカワカイギュウには短い手の甲だけがあるが狛江のはそれもさらに小さく、人類時代のには手首そのものがない。
成瀬は台座の部分を持ったままそれを角度を変えてしげしげと見つめた。成瀬から見たら稚拙なモデリングだっただろうか。
「モデルがあっても動かして映像とはしないのだな」
「あ、ああ。海牛類はあんまり動かないからな。動画にするよりこういうフィギュアを置いたほうが存在感があると思って」
「なるほど」
成瀬は納得したようにうなずいたが、こちらに向いて聞いてきた。
「どこかに置こうとして作ったということだろうか」
そう聞いてきている本人が、こうして本当にアキシマエンシスに置かれるような映像を作ったのだから答えづらい。
しかしこいつに隠しても仕方がない。私は頭をかきながらも答えた。
「狛江の、市役所だか図書館だかにでも置いてもらえたらと思ったんだよな。市外の素人の私が、今すぐとは思えないけど」
成瀬は真っ直ぐこちらを見たまま、
「良い案だ」
と答えた。そしてフィギュアをまたエアキャップで丁寧に包み直し、箱に戻した。
「これ自体はクリスマスプレゼントだと言ったな」
「うん。またプリントできるし」
「ではありがたく自室の棚に並べさせてもらおう。私からのお返しも用意せねば」
成瀬の声はかなり嬉しそうに聞こえたが、
『アキシマクジラがここにたどり着いてからの歳月と比べれば、私達はまだアキシマクジラと出会ったばかりなのです』
最後のナレーションとともにまた大きな拍手が起こってうやむやになった。
モリーの解説が終わったようだ。最後まで堂々と説明していた。もうアキシマエンシスで私の後ろに隠れる必要はないのだ。
「これはお前が灯した明りだ。赤星炎」
成瀬がつぶやいた。
私は二人のことが放っておけずに進んできた。
しかし、アキシマクジラ。ブラウンスイシカゲガイ。ミドリシャミセンガイ。ヒノクジラ。メタセコイア。
それに、ステラーカイギュウ。今の多摩川。コククジラ。
放っておけないものだらけだ。昭島の中にも外にも。
ただ静かにきらめいて何も言わないそれらを取りこぼさないためには、手足を動かし続けなくては。
[エラフルス・シカマイまたはエラフルス・ビフルカテス・シカマイ(シカマシフゾウ) Elaphurus shikamai or Elaphurus bifurcates shikamai]
学名の意味:鹿間時夫博士のシフゾウ、または鹿間時夫博士の角が二又に分かれるシフゾウ
時代と地域:前期更新世(約180~80万年前)の日本
成体の肩高:約130cm
分類:北方獣類 鯨偶蹄目 反芻亜目 シカ科 シカ亜科 シフゾウ属
シフゾウはやや大型のシカ類である。シカらしからぬ名前は四つの動物に似たところがあるがそのうちのどれでもないという意味の「四不像」から来ている(実態はニホンジカと比較的近縁なシカそのものである。また現生種の本来の生息地である中国では四不像と呼ぶことは少ないようだ)。
シフゾウ属の現生種E. davidianusは現在中国のみに生息していたものの野生絶滅した。ニホンジカCervus nipponと比べるとがっしりとした体型で蹄が大きく顔が長い。また角の形状も異なる。本来の生息地は湿原であったとされる。
シフゾウ属はかつてはアジアのより広範囲に多数の種が生息していた。
シカマシフゾウは日本に生息していたシフゾウ属の一つである。ビフルカテス種E. bifrucatesの亜種なのか独立種なのか意見が分かれるが、他のビフルカテス種とは角の後方の枝にある粗い彫刻で区別される。
タイプ標本が発見されたのは兵庫県にある大阪層という地層だが、多摩地域や千葉県からも発見されている。多摩地域の昭島市や八王子市などのものが古く、千葉県のものは新しい。
[ヒドロダマリス・スピッサまたはヒドロダマリス・クエスタエ(タキカワカイギュウ) Hydrodamalis spissa or Hydrodamalis cuestae]
学名の意味:分厚い海のウシ、またはクェスタ大学の海のウシ
時代と地域:前期鮮新世(約500万年前)の太平洋北西部沿岸(北海道)
成体の全長:7m
分類:アフリカ獣類 海牛目 ジュゴン科 ステラーカイギュウ亜科
タキカワカイギュウはステラーカイギュウとごく近縁な海牛類である。ヒドロダマリス属の中の独立種H. spissaであると考えられてきたが、クエスタエ種H. cuestaeに分類されるという説も有力視されている。ただし一般的なクエスタエ種と比べると後の年代のステラーカイギュウに近い特徴があるようだ。
北海道滝川市の空知川河床から1980年に発見された。滝川市の市民も参加できる体制で発掘が進められていた当初は鯨類と考えられていたが、次第に海牛類の特徴が認められていった。全身の骨の大半が保存され、頸椎から胸椎の大部分と肋骨の左半分は関節していた。ステラーカイギュウと同じく歯がなかったため、歯の生えかたからは年齢が推定できないものの、骨の成長の度合いからは成体であると判断できる。性別は不明である。
ステラーカイギュウと非常によく似た特徴を備えていた。ただし、ステラーカイギュウでは発見されていない手根骨が発見されている。より以前のヒドロダマリス属の手根骨よりは減少していた。中手骨から先の手や指があったかどうかは不明である。
頭骨の翼状突起が発達している、後頭骨が厚い、棘突起が低く胸郭が広い、上腕骨が退化し独特な形態をしている、といったステラーカイギュウとは異なる特徴があった。
タキカワカイギュウが発掘された地層は滝川累層のうち幌倉砂岩泥岩部層という地層である。やや沖で堆積した地層で、タキカワカイギュウはより海岸近くから流されてきたと考えられている。スギ科やブナ科という現在は北海道よりむしろ東北地方に多い植物の花粉化石が含まれ、陸地は現在より温暖だったと考えられる。いっぽうで貝化石は浅く冷たい海であったことを示し、寒流の影響を強く受けていたようだ。大型の動物としては鯨類やサメ類も発見されている。
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