第92話「武蔵野フォッシリウム編その6 ヒッポカンポスとトモカヅキ」

 一年半ぶりの品川の水族館、今度はあのときの倍くらいの人数で来ていた。

 夏の強い日差しが差し込む水の中で、おかしな動物が動き回っている。

 丸々とした胴体、トドをゴツくしたような頭は海獣らしいが、四肢は鰭になりきっていない。手足に水かきはあるものの指先には小さな蹄があり、腕や脚ははっきりした肘や膝のあるしっかりしたものだ。

「えー変ー。こんなんで海でやってけたのかな」

「やってけないから絶滅したんじゃないんだよね?」

「そうだね。化石に残ってるものってちゃんと生きて骨を残したものだから」

「あそっか」

 以前私にステラーカイギュウのことを聞いた和泉ら、面白がって郷土古生物部に集まった同級生が、モリーの説明を受ける。

 アキシマエンシスに行くにも同級生がいるかもしれないと、モリーが私の後ろに隠れていた頃とは大違いだ。

「名前がもうすごいな。パレオパラドキシアだって」

 そう言って解説板を指差すのは真田だ。

「パレ……パラ……何?」

「パレオパラドキシアだ。パレオは太古でパラドキシアはパラドックスなのでつなげると「太古の矛盾」を意味する」

 成瀬は相変わらず、和泉みたいなのんびりした奴にまで早口で話す。

「てか真田めっちゃいるじゃん。何?兼部してる?」

「スケベがよぉ」

「え?いや、」

 なんか郷土古生物部は女子が多いが、真田はよく集まりに混ざっている。

「私が呼んでるんだよ。映像技術部に私達がやってることが伝わるのはいいと思って」

「ああー」

「さすがほのほのプロデューサー」

 モリーからの「ほのちゃん」というあだ名と普段やっていることが合わさって、ゆるいような責任が重いような呼び名が爆誕していた。

「で、パレオパラドキシアを作るわけじゃないんだけど」

「一応多摩地域の古生物だから見ておこうと思って」

「あ、作らないんだ?」

「これはもう、多摩が海だったどころか本州がバラバラだった頃のもんだから」

「バラバラだった!?」

「フォッサマグナっていってね」

 またモリーの解説が始まり、和泉達は元々興味があったわけでもないだろうにしっかり聞き入っていた。それから、パレオパラドキシアがカバでもトドでもなく独自のグループの動物であることも。

 成瀬は水槽に張り付いているかと思えばそうではなく、モリーが先生と呼ばれる様子と水槽の両方を眺められる位置でメモを取っていた。

「今は?」

「和泉らが何を見て何を感じるかを確かめている。古生物に初めて接したときにどのように感じられるのか知っておくと映像の演出に効果的だということが最近分かってきた」

 成瀬にとって、ここまで人とのつながりの中で活動する時期は他になかった。

 自分の作ったものや自分が見たものを人がどう見るかを意識し始めたのだ。水を濁らせたときに厳しい大自然に見えると言われたのが効いたのかもしれない。

 水底は緩やかに傾いていて、灰色の砂地に見えるようにしてある。パレオパラドキシアは分厚い水かきの先にある小さな蹄で水底を蹴るようにして、または水をかいて進む。

 たまに幅広い口を水底に付け、柔らかそうに膨らんだ口の周りのひげを水底にこすりつける。

「匂い嗅いでんのかな」

「水中だから鼻で匂いは嗅げないんじゃないかなあ」

「あそっか」

「本当はあのひげで砂の中に埋まってるものが分かるんだと思う」

 水底は本当に砂が敷かれているのではなく、ざらついたコンクリートか何かなのだ。

「餌の時間は……、すぐ後か」

 スケジュールとともに与えている餌のメニューが掲示されていた。

「生息していた当時に何を食べていたかの手がかりとしては弱いな」

 成瀬が指摘するとおり、メニューに並んでいるのは魚やイカの切り身、殻をむいた貝、サニーレタスやニンジンと、いかにも人の手がかかっているものばかりだった。

「こういう餌にしてる根拠って」

「どこか別の場所や資料で分かるかもしれないな」

「じゃあ、この水槽の深さとか、歩いて陸に揚れそうになってる理由はどうだろう」

「むう」

 個別の水槽の設計についてまでどこかで説明しているとは限らない。していたとして、今ここで見ている和泉のような来館者はそこまでの道のりに向かうこともなく、こういうところで暮らしていたんだと納得するだろう。

「ここでは飼育下にあることが明らかだが私はアキシマクジラの野生の姿を描こうとしている。なおさら描こうとしているものをなぜそのように描くのか一つひとつ説明できるようでなければならないな」

 食事の時間だというアナウンス音声が場内に流れた。

 ロープで吊り下げられたプラスチックのコンテナが水中に降りてきた。中には砂が詰まっているらしく砂煙をまとっている。

 パレオパラドキシアはふわりと身軽に動いてコンテナに取りつき、顔をコンテナの中に突っ込んで動かし始めた。

「砂食べてんじゃないよね?」

「こっちのほうがよく見えるよ」

 モリーは箱の中が見やすそうな位置にいたが、和泉らにあっさり譲った。

「あー歯がある」

「なんつったっけこういう道具」

「熊手かな」

 パレオパラドキシアは平たく伸びた前歯で砂をかき分けている。

「今見えた」

「餌が埋まってる!」

 餌をより分け、いらない砂をどかしたり吐き出したりしているのだ。それで気付いた。

「アキシマクジラも」

「砂の中に埋まっている餌を食べていたはずだ。砂が舞う様子に気を付ける必要がある」

 パレオパラドキシアが頭を動かし、口を開閉するのにつられて渦が起こり、細かな砂粒の群れも湧き上がったりくるくる回ったりと複雑な動きを見せる。生き物の行動によって生まれる動き。

 そうは言っても。

「昔もこうやって餌食べてたのかな」

「うーん、そう見えるけどちょっと違うかも」

 モリーも気付いていた。

「ここだと箱があるから箱に合わせた動きになるし、箱にだけ餌があるって分かってるからあんまり真剣に餌を探すところが見れないよね」

「ほえー」

 和泉はあまり気にしていないようだったが、それを聞いていた真田がこっちに振り返ったので、そうだぞ、とうなずいてみせた。

 そのうちパレオパラドキシアはコンテナから離れて餌の時間が終わり、私達は一年半前と同じく東京の化石のコーナーに向かった。

 相変わらず窓の向こうに小さな水槽がずらりと並んでいて、ホタテの仲間を中心にたくさんの貝が飼われている。味見した記録の掲示が増えているような気がする。

「ブラウンさんじゃん」

「ほんとだブラウンさんだ」

 和泉らがそんなことを言い合い始めた。成瀬が作った動画により、ブラウンスイシカゲガイの名前は呼びづらくても存在は馴染んでいるのだ。

「すでに作った甲斐があったようだな」

 成瀬の作ったもののおかげで昭島の古生物に光が当たった光景がすでにある。


 夏休みの間はそうやって、部内外の集まりをたくさん開いた。

 天文部に混じって太陽の黒点を観たり、パレオパラドキシアについて上野の博物館で復習したり。

 映像技術部を日野市内の化石がある資料館に案内し、ついでに河原の化石発掘地にも行ったが川の水が多すぎて地層が見えなかったので、モリーがメタセコイアの解説をした。

 成瀬は、作業から手が離せないことがあって参加したりしなかったりだった。映像研究部の矢川さんから紹介された軽音部の作曲担当と動画に劇伴を付けて遊んだときは、そもそも音楽が必要なのか成瀬を迷わせてしまった。ただ音響の重要性は明らかになった。

 その間にも、郷土古生物部の存在は徐々に外部に認められていった。


 二学期。

 二週に一度部室で開かれる定期上映の日になり、部室は特に賑わっていたが、

「あれ、巨匠は?」

「あそこで作業してる」

 当の作者を置いて私とモリーが操作や解説をすることになったのだった。

 集まっている人数が部員全員の倍近い。部員以外がけっこう出入りしているのは水族館に始まったことではないが、今回は理由がある。

「学園祭には間に合いそう?」

 映像技術部から真田だけでなく、「ひのてりあ」の演者の七生さんも来ていた。

「それはぶっちゃけ成瀬よりも別のところ次第ですね」

 まだ一年目だが、すでに天文部や映像技術部と共同で学園祭に映像を出すことが決まっていたのだ。映像技術部の持ち時間を数分間分けてもらうだけではあったが。

「星空の部分をどうするか固まってなくて」

 学園祭で投影を行うのはもちろんプラネタリウムドームだ。それで今回は天文部の部員も来ている。

 上映する予定の動画はまだドームに投影するために変形させる段階にはなく、今回のように平面のスクリーンに投影できる。


 濃紺の丘と淡青の盆地が一定のリズムで入れ替わる海面。

 その向こう側に赤銅色の山並みが見える。

 カメラは陸に寄り、山肌が風にそよぎ垂直な木の幹が覗いた。山の色がメタセコイアの紅葉した細かな葉の重なりによることが分かった。

 その視界を、白煙が遮った。

 そして海面を黒い塊が割った。それは灰色の雲や六角形の星の集まりになめらかにつながっている。

 再び煙、いや、潮が吹き上がり、塊の片側が持ち上がった。クチバシのような頭が浮かび上がり、裂けた口の間にはクリーム色のクジラひげ、その口角には小さく光る目が見えた。下顎までつるりと黒く、クジラ然とした縞模様はない。

 昭島も日野も全て海底に隠したままの古東京湾に北から訪れたクジラ、アキシマクジラだ。

 その頭が斜めに沈み、その場から姿を消したかと思われたとき。

 突然水面に白と黒の柱が現れた。

 アキシマクジラが水面から真上に向かって大きく伸び上がったのだ。

 アキシマクジラの体はほぼ全て水上に出ながら横倒しになり、表面に無数の水しぶきの筋を走らせ、水面に横たわって波を立て隠れていく。

 カメラも水中に入り、画面は白みがかった青緑に変わった。

 水の向こうに黒い葉巻型の影が躍っていた。カメラはそれに近付き、体を支える胸鰭や上下にはためく尾鰭が見えた。

 水は濁っていたがアキシマクジラの姿は徐々にはっきりしていき、体の白いまだらや、六角形のフジツボが見分けられた。

 アキシマクジラの目がカメラと合い、長い口がうっすらと開いた。


 この動画が完成した状態を制作メンバー以外が見るのは初めてだったので、かなりの歓声や驚きの声が上がった。

「クジラってあんな跳ねるんだ」

「ザトウクジラとかもっと全身出るくらい跳ねるけど、コククジラもこれくらいやるから」

「コククジラは岸に近いところで暮らすから、陸の様子に気を付けてるみたい」

 アキシマクジラがコククジラに近いというのは普通に通じるようになっていた。

「すごい紅葉してたね」

「うん、メタセコイアっていう木の紅葉なの!」

 モリーが嬉しそうに言う。ついにメタセコイアが当時の陸地に繁茂し紅葉している風景が出来て、モリーが一番喜んでいるのだ。

 地上に生えている紅葉したメタセコイアのモデルを作ったのは成瀬だが、それはよく見える位置に使っただけで、それを空間に植える作業をしたのはモリーだった。

 後方の省略されたメタセコイア林や山の形を作ったのは私だ。私達も少しはCGの扱いができるようになってきたのだ。

「水しぶきめっちゃリアルだったー」

「最後口開けるとこ、なんかビビッた」

 感想や意見が次々出てくる中、七生さんはしきりに後ろを気にしているようだった。

 そちらでは成瀬が作業している。

「七生さん?成瀬に話ですか?」

「あっ、ううん。いいの。映像、すごかったって伝えておいてもらえれば」

 七生さんは片手で口を隠しもう片方の手を激しく振った。

 すると成瀬が一瞬振り向いてうなずき、またすぐに作業に戻った。声出しゃいいのに。

「聞こえてたみたいす」

「えっ!?あっ、よ、よかった」

 「ひのてりあ」でないときの七生さんはなんだかあわあわしている。

「私、成瀬さんのことすっごい尊敬してるんだ。うちの部の矢川君もそうなんだけど、私が動いたり喋ったりしても、モデルとかシステムとか、ものを作れる人がいないと活動できないから」

 聞こえてよかったと言う割には声をひそめている。

「それに、プロデューサーみたいに人に声をかけたり調整のために動いたりできる人も」

「そりゃどうも」

 プロデューサーと呼んでくれてはいるが、私がまだ自力でものを作れないと見抜かれているということである。

 ……今、私は「まだ」と思った。

 私は自力でものを作れるようになりたいのだろうか。確かに、紅葉した山を作ったときはものすごく手ごたえがあったが。

 いや、今は成瀬が作っているものの話をしよう。

「ちなみにあれ今やってるのは夜のシーンですね」

「あー、プラネタリウムで映すから」

「星空のシーンは入れようって前からずっと話してたんですよ」

「すいません、そのことでお話があって」

 天文部から来た男子がすまなそうに、しかし大きく手を挙げた。

「百八十万年前の星空が必要ってことで」

「そうっす。あ、もしかして」

「ええ、はい。せっかくなんですけどちょっと百八十万年は、遡れる範囲っていうものを、越えちゃってて」

 それを聞いて私とモリーは顔を見合わせた。モリーは眉をひそめ悲しそうな顔をしている。不安そうな顔なら何度も見たが、私と同じ問題でこんな顔をすることはあまりなかった。

 成瀬もさすがに席を立ちこちらにやってきた。

「詳しい話を聞いたほうがいいと思うのだが」

「ああもちろん。私とモリーが聞くよ」

「成瀬さんは心配しないで作業を進めててね」

「分かった。代案について相談が必要になるまでは任せよう」

 神妙な顔はしつつも成瀬は作業机に戻っていった。

「じゃあ、天文部に行ったほうがいいかな」

「そうしましょう。専門的な話になるかもしれないので、ごめんなさいなんですけど、こちらの用意ができる日に」


 それから二日ほどモリーの浮かない顔を見て過ごすことになった。

「ごめんね、知ったかぶりしてできるなんて言っちゃって」

「気にすんなって。とにかく天文部との話次第だから」

「当時の星空を再現することは本題ではない。適切な表現や解説ができればそれで問題ない」

 成瀬が人を慰めたり励ましたりする珍しいところが見られたが、そんなに効果はなかった。なんとかしろとも聞こえるもんな。

 そして天文部の部室に呼ばれて。

「ほらここ、西暦何年かっていう数字なんだけど」

 天文部部長がパソコンのモニターに映ったプラネタリウムを操作するソフトを指差す。

「マイナス五十万より前は断られちゃう」

 マイナス百八十万を入力しても警告が表示され、値は勝手にBC五十万に変更される。

「ああーホントだ。どうしてもダメすね」

 シンプルな限界を示されてしまった。

「このソフト以外に動かす方法ないんですよね」

「多分他のソフトもこの限界は似たり寄ったり。高いソフトでもできて百万かな」

 それを聞いてモリーがすごく久しぶりに私の結んだ髪を掴んだ。何とかしたいがその方法があるのかどうか。

「ところで未来にはどのくらい」

「未来も五十万年」

 プラス百八十万も同じ警告とともにプラス五十万に変更された。

「うーん、ということは」

「原理的な問題、ですか」

 モリーが小声で漏らした。

 だから突破できない、というつもりだったのかもしれないが、むしろそこを詰めればもしかしたら。

「そもそも、どうやって過去や未来の星空を投影するようになってるんすかね」

 部長は先日の上映会に来た部員のほうに振り返ったが、部員は把握していないらしく首を横に振ったので、部長は彼も手招きして聞かせた。

「夜空の星の位置を知るには地上か人工衛星から観測するしかないわけだけど……、」

 部長はすらすらと話し始めた。その内容は大体こうだ。


 天体観測には長い歴史があり、星々の位置を正確に記録している時代だけでも何百年分かある。

 すると、なんと同じ星の位置が次第にずれていっていることが分かる。

 これは地球側が太陽の周りを回ったり自転の軸がぶれたりしているせいももちろんある。そこで短期間の変化を元にそういう地球の動きの分を取り除くと、長期にわたって恒星自身が動いていることが分かる。

 こうして、ある程度は過去や未来の恒星の位置が割り出せる。

 ただし、これには恒星が宇宙空間を真っ直ぐ動いているという仮定が含まれている。実はそんなことはなく、恒星は……我々の太陽も含めて……銀河系の中心の周りを回転しているから、本当はカーブして動いているのだ。

 そのせいで、真っ直ぐ動くという仮定のまま遠い過去や未来の恒星の位置を計算すると、実際の位置からずれていってしまう。

 恒星が宇宙空間の中で本当はどのように運動しているのかを把握するには、さらに詳しい観測と計算が必要になるのだ。


 部長が棚から取り出したやや年季の入った専門書には、どこかで見覚えのあるような雰囲気の図や数式が並んでいた。

「モリー、これってメタセコイアの高さを測ったときの計算と……」

「同じ原理を複数組み合わせてる」

 あの原理そのものは、私には未だにきちんと理解できていない。

 が、どうせ同じ原理なら。

「真っ直ぐ動くっていう仮定でやってるせいで……」

「このソフトでは五十万年しかできない。それ以上やるとずれるから。科学館で使ってるもっと高級なソフトなら宇宙空間の中での恒星の動きを計算して映せるけど」

「なるほど」

 ずれると分かっているのをお出しすることはできませんよというメーカーの良心。

 そういうのには一旦引っ込んでもらおう。

「ずれてもいいからゴリ押しするのはどうすかね」

「へ?いや、ゴリ押すっていってもこのソフトは」

「そのソフトは使わないっす。っていうか、プラネタリウムじゃなくなるかもしれないんですけど」

 昔のモリーにできて今の私達にできなかったら、悔しい。

「ずれてるの覚悟で自力で計算したら、ずれてるけど必要なシーンの背景だけは作れるかなっていう」

「あっ!」

 モリーの目に輝きが戻った。自分が数学の天才だったことを思い出したか。

「ひ、非現実的じゃあ……、星空としてそこそこ見られるような数に限るとしても」

 天文部の部員が戸惑うが、部長はさっき専門書を取った本棚からまたさらにいくつか資料を取り出した。

「この部室にこういうものが置いてあるのが、宝の持ち腐れにならずに済むときが来たのかもしれない」

 部長が机に積んだその資料には、たくさんの星のデータが収まっているらしい。

「どうやって実際に計算するのか、我々には心当たりがないんだけど」

「できます!」

 そう言い切ったのはモリーだった。

「Excelで数式を作ったらあとはデータを打ち込むだけです」

「そりゃすごい」

 部長が感心しているところに私も続けた。

「完成したら天文部で使えるようになるわけですよね。私達は百八十万年前の星空が作れればそれでいいんですけど」

「いいの?」

「むしろ天文部で使いやすいように作っちゃいましょう」

「年数を一ヶ所に入れればその年の星空のデータが出せるようにできます」

 部長が部員のほうに振り返ると、部員はやや考えてからうなずいた。

「改めてうちの中でも相談するけど、反対されても僕だけでも手を貸すよ。星空を見るだけじゃなく作れるなんて思ってなかった」

 そう言って天文部部長はモリーに計算式の載った本を手渡した。


 その三日後にはもう計算式をExcelに入れ込む作業が終わって、数人がかりでただただひたすらデータを打ち込んでいく日々が始まった。

 成瀬が普段パソコンに張り付いて離れないのが改めて信じられなくなるほど根気のいる作業だった。

 計算結果を基に星空を描いても、年数の欄に今年を入力しているのに現在の星空とずれるところがあるのが見付かったときは床を転げ回り、手伝いに来ていた真田にブチ当たってしまった。

 修正を重ねて、未来過去五十万年を入力した程度ではプラネタリウムの操作ソフトの結果と違いがないことが確認されて。

 ついに、百八十万年前のある秋の星空が描き出された。

 こうなると勢いは止まらず、とっさにカーテンを全て閉めてプロジェクターを真上に向け、その星空を映し出した。

 梁や蛍光灯でデコボコの天井でも、モリーは夢中で見上げた。

 この学園を知ったあの日、モリーが言ったことを有言実行に導けた。

 まだ一年生なのに、何かが片付いたような気がした。


「あれ?百三十万年前の星空もある」

 フォルダに自分の好きに作ったものが置いてあったのをモリーに気付かれてしまった。

「狛江のステラーカイギュウの時代だね。ほのちゃんが作ったの?」

「あ、ああ」

 そもそもモリーが調べたことだから、何に合わせた年数なのかもあっさり見抜かれた。

「気になるならそっちも調べよっか」

「あ、いや」

 つい首を横に振ってしまった。

「これは本筋と関係ないから……」

「そう?」

 無邪気に言ってくれていたモリーの顔が、やや寂しそうになる。

 なんなら成瀬がステラーカイギュウも作ってくれればと思ってしまうが、ステラーカイギュウのことを聞いてきた和泉すらそれほど興味なさげなので、もう本当に自分が気になっているだけに過ぎないのだ。

 思えば小四からずっと色々勝手に決めてきた。

 もうモリーを私の独断に付き合わせたくはなかった。


 星空のデータは成瀬の動画にきちんと組み合わさり、ドームに投影するための変換も上手くいった。

 つまり、無事に一年の学園祭を迎えることができた。


 ドームの中は海原に変わり、「百八十万年前 当時海だった多摩地域」と字幕が出る。

 岸の向こうに見えるのはもちろん紅葉したメタセコイアの山だ。これが今とは全く異なる世界であることを伝える。

 海面にクジラが現れ、潮を噴き上げる。

 「アキシマクジラ 投影サイズはほぼ実物大」という字幕。

 灰色の体が頭上まで伸び上がり、海面を割った。

 観客から歓声が上がる。部室ではここまでの声にはならなかった。

 カメラは水底まで潜り、ドームは頂点の白から青緑、周囲の群青へのグラデーションとなり、アキシマクジラが頭上を悠然と通り過ぎた。

 そして、暗転とともにカメラは再び海面へと浮上する。

 青黒い海面に浮かんでいるアキシマクジラの背中には六角の星が散りばめられている。当時すでにコククジラ属に取りついていたであろうハイザラフジツボだ。

 カメラは空を見上げる。

 「百八十万年前の星空(ごく大まかな推定)」という、必ず出さなくてはならない字幕とともに、あらゆる星座がまだ生まれていない星空がドームを覆う。

 プラネタリウム投影装置を通じていないのでややぼやけているが、薄い雲がいくつも横切って、不自然でなくしてくれる上に、夜風に吹かれて見上げているような臨場感が出る。

 アキシマクジラの背に並ぶフジツボの星々と、夜空に煌めく星々がつながり、アキシマクジラはそこで眠った。


 今度こそ完全に暗転したドームに快い拍手が響き渡り、三分間の映像は終わって「ひのてりあ」の声と映像に切り替わった。

 私と成瀬はそれをドームの壁際に控えて見ていた。

「大成功だ。あの拍手聞いたか成瀬」

「もちろん。我々の作品はこれまでにない規模で受け入れられ楽しまれた。しかしまだブラウンスイシカゲガイもヒノクジラもホホジロザメも登場していない」

 今はただクジラの見事な映像として喜ばれたにすぎないのかもしれない。

「是非アキシマクジラの生態と運命を表す長時間の作品を完成させよう」

「ああ」

 そこに、モリーや和泉らが声をひそめつつも表情や仕草だけ賑やかにやってきた。

「よかったあーーーーっ」

 モリーが成瀬の、次いで私の手を両手で握って上下に振る。

「てか出よ、一旦出よ」

「ここ巨匠胴上げできないし」

「体を鍛えていない人間が胴上げを行うのは危険なので謹んで辞退する」

「じゃビールかけ」

「サイダーにしとくか」

「ビールを使うのは糖分が含まれておらずベタつかないからではないだろうか」

 ぞろぞろと出て学園祭の喧騒の中へ進んでいく途中、

「悪い、四時半に体育館裏で待ってる」

 真田が耳打ちした。


「赤星のことが好きなんだ」

 まあこの状況はそういうことであった。

「赤星っていつもみんなのために走り回ってるっていうか、本当にプロデューサーとして頑張ってるだろ」

「あ、そんなふうに見えてたか」

 あだ名を真に受けているような気もするが。

「そういうの、すごくかっこいいと思うんだ」

「それは……、光栄だな」

 本心ではあった。

 しかし、私はその光栄さに対して、明らかに違和感を持っていた。

「嬉しいのは確かなんだよな。でも」

「うん」

「自分ではそんなふうに言ってもらえるような何かがあると思えないんだよ」

 真田のおかげで今ようやく言葉にすることができた。

「例の、アキシマクジラの映像が本当に完成したらさ。自分に何が残るのか分かんないんだよ。真田がかっこいいと思ってくれてる部分もなくなっちゃうかもしんないんだよ」

「そんな……、感じなのか」

 真田は私の言い分を否定しようとして、そのとっかかりがなくて諦めた。

「自分ではな。だからまあ、実際どうなるか分かるのは一年後なんだけど、そんなに待てないならしょうがないかなって」

「それなら、待ってみる」

 そうは言っても真田は肩をすっかり落としていた。

 校舎のほうに戻る途中で、すでにモリーが駆け寄ってくるのが見えた。私が真田に呼ばれていったことに気付いたらしい。

 顔には博物館や水族館にいるときに勝るとも劣らないほど好奇心があらわになっていたが、私が

「成瀬は?」

 とだけ聞いたので、察したようでモリーまで肩を落とした。

「サイダーかけられそうだったんだけど、もう作業してる。色々気付いたことがあるんだって」

「そうか」

 あいつは迷わない。進み続けている。

 しかし、進み続けてこれが終わったとき、私には何が残るのだろうか。


 数日経った夕方、私は一人で多摩川にいた。

 グラウンドに響く声をよそに、枯れ色になりつつある草と八高線の鉄橋の間を、川べりに近付いていく。

 川の水には白っぽい砂利が接しているが、その手前はベージュの柔らかい岩だ。

 ここはアキシマクジラが死んだ場所だ。

 そのことを、成瀬は描こうとしている。

 右を向いて八高線の鉄橋の下を見ると、多摩川のずっと上流の山が見える。あきる野にはアキシマクジラよりはるかに前のパレオパラドキシア、奥多摩にはさらに気が遠くなるほど前の貝やサンゴやよく分からないもの。

 古い化石ほど「そこで死んだ」というより「そこで生きていた」という証拠に思える。

 左側、下流には、より新しいステラーカイギュウの狛江がある。

 川面は金色の光と黒い闇に分かれている。

 動画の中の季節は今と同じ秋に決めてある。私達はアキシマクジラが北からもっと南への旅の途中だったことにした。

 もし春だったらその逆だが、どちらにしろ、コククジラと同じなら今八高線鉄橋が通っている向きのどちらか、ずっと遠くからここに来たはずだ。

 ステラーカイギュウは当時どのくらい泳ぎ回っていたか分からないが、最後にはベーリング海だけにいた。

 アキシマクジラは百八十万年前、ステラーカイギュウは……、狛江にいたのは百三十万年前だが、本当に絶滅したのはたったの二百五十年前。アキシマクジラのほんの五千分の一もない時間で私達の時代に届かなかった。

 知られていなくて悔しい。

 知ってしまったからには戻れない。

 アキシマクジラを放っておけなかったからこそ、いつの間にかステラーカイギュウもそうなっていた。




[パレオパラドキシア・タバタイ Paleoparadoxia tabatai]

学名の意味:田畑氏が発見した太古の矛盾

時代と地域:前期~中期中新世(約1700万年前)の北太平洋沿岸(日本、アメリカ)

成体の全長:2~3m

分類:アフリカ獣類 束柱目 パレオパラドキシア科

 束柱類は円柱を束ねたような形の臼歯を基に名付けられた、現在は絶滅している水生もしくは半水生の大型哺乳類である。パレオパラドキシアはデスモスチルスDesmostylusと並び束柱類を代表する属とされるが、束柱類の中でもっとも後に現れた。

 束柱類はカバに近い大きさがあり、胴体と四肢のスタイルやバランスも一見カバに似ていたが、頭骨の形状はかなり異なっていた。また四肢の関節を中心に難解な特徴が多く、比較すべき他の動物もいないため、長い間復元像が定まっていなかった。

 80年代以降、他の動物に似せるアプローチではなく筋肉の付き方や関節の可動範囲などを検討するアプローチにより、束柱類の姿勢が推定されるようになってきている。

 現在主流となっている復元像は二通りである。

 「犬塚復元」では、前肢をワニのように左右に這いつくばらせ、波打ち際で波に倒されないよう踏ん張って暮らしていたと考える。

 「甲能(こうの)復元」では、前肢を水かきとして真下に伸ばし、もっぱら遊泳していたと考える。

 いずれの復元像でも、後肢はカエルのように左右に引き縮めるようになっているが後足の指は前を向いている。

 以前はカバのように陸上を歩くとされていたが、復元像の確立とともに水生傾向が強かったとみられるようになっている。

 さらに、骨組織の検討では、パレオパラドキシアは半水生の動物のように骨密度が特に高く、デスモスチルスは遊泳性の動物のように骨密度が低かったことが分かった。また肋骨の形態はパレオパラドキシアのほうがデスモスチルスより前肢に体重を伝えるのに適していた。これらのことから、パレオパラドキシアはデスモスチルスと比べるとやや陸生傾向が強く、沖ではなく沿岸部に生息していたと思われる。

 頭部はカバのような大きなものではなく、鰭脚類のような流線型に近かった。眼窩や鼻孔が上寄りであることも水生傾向を示している。しかし吻部の先端は平たく、牙は前を向いていた。吻部の先端は幅広く、上下とも平たい短冊形の切歯が生え揃い、その横から犬歯が突き出ていた。口先にはセイウチと同じような感覚毛があったとされる。

 前述のとおり円柱を束ねたような形の臼歯があり、近縁のゾウやジュゴンと同じく、下からではなく後ろから新しい歯が生えてきた。パレオパラドキシアの臼歯はデスモスチルスのものと比べると低くて小さかった。

 この臼歯の用途も長らく不明で、何を食べていたのかははっきりしないが、炭素同位体や顎の形態からはデスモスチルスより植物食傾向が強かったようだ。海藻や海草、ときにはゴカイなどを切歯で砂地から掘って取り込み、臼歯ですり潰したと考えられる。

 束柱類は北太平洋沿岸で化石が発見されている。パレオパラドキシアは特に日本での発掘例が多く、断片的なものを含めると北海道と本州の各地で50点ほど発見されている。まとまった骨格は少なく、頭骨を含む骨格は(パレオパラドキシア科には含まれるが属は明らかでないものの前肢以外の全身が揃った岐阜県瑞浪市の標本を含めて)5体となる。東京都内でもあきる野市の留原で頭骨(下顎はなくやや破損した状態)が発見されている。

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