第91話「武蔵野フォッシリウム編その5 摩伽羅(マカラ)再び、およびフォルネウス」
初めて高幡学園のプラネタリウムドームで見ることになった生き物は、フタバスズキリュウだった。
入学後の部活説明会だ。それぞれの部の活動場所で説明が行われる中でも、もう念願のプラネタリウムに入れるというから三人で直行した。
天文部の解説付きで今夜の夜空が投影され、それから天文部の具体的な活動の紹介が終わった後、映像が突然切り替わったのである。
『はーい!ここからは映像技術部の説明でーす!』
アニメ調の高い声とともに、一面に青白い光の濃淡が揺れた。
真っ直ぐな棒の形をした影が隅から進んでくる。すぐに、その後ろ側が少し膨らんでいるのが見え、包丁のような四つの鰭が水を切る。
「なんと」
「すごい」
今まで黙って見ていた成瀬とモリーも思わず声を漏らした。
なんだかんだいって、大きな海の動物が泳ぐのを見るのは修学旅行のときのイサナケトゥス以来だったのだ。アキシマクジラほど大きくはなく、クジラとは縁遠くても、その威容は私達三人の目を奪うのに充分だった……。
『ここは福島のひさのはま海竜館!私は今フタバスズキリュウと一緒に泳がせてもらってまーす!』
アニメ声がそう話すとおり、フタバスズキリュウのすぐ横に人影が見えた。
ダイビングスーツをぴったり着込んでいるが、犬の耳と尻尾が生えている。CGのキャラクターだ。
『なーんて、本当は海竜館が撮影した映像に後から入らせてもらっちゃいました』
そうは言っているが、本当にフタバスズキリュウと並んで泳いだように見える自然な動きだった。
しかし今、海竜館が録ったと言った。ドームの根元近くには水槽を貫くトンネルらしきものが映っている。なるほど、映像技術部が自力で水槽の中を撮影できることはないだろう。とはいえ、
「これと同じくらい良い映像が作れないと、ここが借りれないかもな」
「じゃあ映像技術部に?」
「いや」
モリーの向こうの成瀬は私達をよそにノートにペンを走らせ続けていた。説明会より観察が第一という感じだ。
私はフタバスズキリュウの頭のすぐ横にいる犬耳を指差した。
『歯がギザギザでちょっと怖いんですけど、大人しいから大丈夫だそうです!』
そのキャラクターはずっと簡単な解説をしながらフタバスズキリュウとともに泳いでいる。
「あの泳ぎ」
「うん」
「あれが映像技術部の活動の成果ってわけだ。フタバスズキリュウのほうじゃなくて」
人間が泳いでいるにしてはやけに軽く素早いが、フタバスズキリュウとぴったり並んで離れない。同じ水中に存在しているかのようで、噛み付かれる心配をしても何もおかしくなかった。
フタバスズキリュウだってアキシマクジラと同じ大昔の海の大きな動物には違いない。CGの身体なら隣に並んで泳げるのか。
「そこ代わってくれって言いたくなるな」
「ふふ、そうだね」
フタバスズキリュウは水中トンネルの向こうに潜り、そこでまた映像が切り替わった。
『ご挨拶が遅れました。私は「ひのてりあ」!映像技術部のバーチャル部員です!』
やはり映像技術部が作ったものだった。今度は青空の下、芝生の上で引き続き犬耳のキャラクターが飛び跳ねるように走っていた。
オレンジ色のフレアスカートと紺のニットベストの学生服姿だが、この学校自体は私服だ。
成瀬などは他に特に着る服もないからと中学のブレザーを着続けているが、傍目には紛らわしいのでやめてほしい。
「なんで最後、ちょっと狭そうなところに潜ったのかな」
「隠れる必要や習性はなさそうだが」
海や生き物と関係ないと分かると、モリーと成瀬は早速ひそひそ話を始めた。
「水槽の底に何かあるんじゃないかな」
「なるほど。確認したほうがよさそうだ」
成瀬は話しながらノートにメモを取っている。
「さっきは絵を描いてたの?」
「むしろ水面や水中の光のきらめきかたについて図を交えてメモしていた。フタバスズキリュウ自身はアキシマクジラなどと動作が違いすぎるが光の効果は大差ないはずだからな」
「さすがだな」
ドームの中には「ひのてりあ」の声が引き続き流れている。
『映像技術部では動画の配信を行っています!この学校で頑張っている皆さんのことを紹介したり、学校の近くのことをお話したり、それから歌ったり踊ったり!』
芝生の風景はCGではなく本物で、動きも明らかに本物の人間のものだ。それが綺麗にCGのキャラクターに置き換わっている。
見事な作品に違いないのだが、成瀬がさして興味を示さないとおり、やはり作りたい映像には関わらなさそうな技術だ。
関係あるとしたら。
「海竜館が録った映像でも自分達で録った映像でも、どっちもドームに映せるみたいだな」
「そうだね」
「水中の映像に気を取られていたが確かに重要なことだ」
成瀬も気付いたようだ。
「先程天文部が投影した予定表や部室の案内などはドームの曲面で歪んでいた。曲面に合わせた投影を行う技術が必要だ」
「その技術がこの部にあるってことだよな」
『皆さんが映像技術部にお越しくださるのを、お待ちしてまーす!あっ、もちろん動画をご覧くださるのも!』
映像も映像技術部の説明も終わり、ドームの中は明るくなって、大半の観客は出口へ向かっていった。
プラネタリウムの操作盤のところにいた映像技術部員に質問しようと、私達の他に三人並んでいた。映像技術部員は前髪が眼鏡の上の縁にぴったりとかかった男性で、ちょっともっさりとした印象だった。
一応私達が聞きたい内容があるかと思って前の質問と答えにも耳をそばだててみたが、だいたい「ひのてりあ」に関することだった。
前の質問者が全員はけると、部員は三人で横並びになって出てきた私達に少し驚くようなそぶりを見せた。
「あのー、上映してた映像をどうやって作ったかについて」
「あっ、ああ。あれはね」
部員は驚くような喜ぶような忙しい声色を発し、一度息をついて声のトーンを落とした。
「部室にモーションキャプチャースタジオを作ったんですよ。でも外で撮影しても演者の体にマーカーになるものを付けてあれば、映像からちゃんと演者の動きを拾える。さっきの原っぱのはそれです」
ちょっと聞いただけですらすらと話し始めた。技術の話がしたかったんだろうなと思う。こっちも助かる。
「前半のフタバスズキリュウと泳いでたのは?」
「元は配布されて自由に利用できる教育用の映像なんですよ。その中からすでに映ってるものの動きを抽出して、人物モデルのほうもそれに合わせて動かしてやれば自然に並んで泳いでるように見えるってわけです」
「なるほど」
そうやって作った映像を、
「どっちもドームに映せるようにできるわけですね」
「それはもう、映像さえ用意できれば後はそれ用のソフトでドームの曲面に合わせてやればいいわけで」
そこに成瀬が食いついた。
「つまり今後も様々な映像をこのドームに投影する機会がありうると?」
「期待しててください」
部員はやや戸惑いながらも誇らしげな笑みを浮かべた。
しかしそこでモリーがそっと耳打ちしてきた。
「フタバスズキリュウのことはどうしよっか」
部員にここで聞いても答えられないだろう。
「後で調べよう」
フタバスズキリュウについては海竜館自身が解説しているはずだ。
内容面でこだわる上では映像技術部はちょっと違う気もする。が、あの投影技術は欲しい……。
いっそ私だけ入って教わってもいいか。
「じゃあ連絡先なんてもらえたら」
「おお!どうぞどうぞ」
部員がそう言って差し出した名刺サイズのカードには二次元コードが載っていた。
授業が始まってから数日で、休み時間や放課後に成瀬のタブレットを数人が覗き込む状況になった。
「おおー、すっげー」
「こんなん作れるの尊敬するわ」
同級生がしみじみと声を漏らす。
中学の頃、学校に来るようになった成瀬に興味を持って話しかけた奴が結局噛み合わずに離れていったのとは全く違っていた。
ここにはものを作ることや知識を得ることに関心がある学生が集まっているからだ。技術や知識の成果に対してリスペクトがある。
「このクジラ種類決まってんの?」
「アキシマクジラっていう百八十万年前のクジラ」
だいたいこういう簡単な質問には私が答えていた。横ではもっと興味を持った奴にモリーが詳しく説明している。
「わ、ホントに貝がジャンプした」
「っはは、すげーリアルなんだけどこれ」
ブラウンスイシカゲガイが跳ねる映像ですら、技術への驚きと動きへの笑いで迎えられている。
何日かしてクラスみんな見たかなという頃、
「なんでヒノクジラじゃなくてアキシマクジラなんだろう」
と言い出す男子が現れた。こいつの名前は確か、真田だ。
む、と声を漏らす成瀬のほうに軽く手の平を向けながら対応した。
「どういうこと?」
「や、ここは日野市だし、同じ日野市のヒノクジラのほうが合ってると思って」
そういえば「ひのてりあ」の「ひの」って日野だな。
「そっか。私達は昭島だからさ、アキシマクジラに馴染みがあったんだ。でもデカいクジラだから化石から生き返らせたりできないのが寂しくてさ」
そう答えると真田は頭をかいた。
「俺もずっと日野に住んでて、ヒノクジラを先に知ったんだ」
そっちがヒノクジラを選んでほしい本当の理由か。
「昭島には立派な展示場所も骨格もあるけど、ヒノクジラって骨が一個あるだけで」
「そういえば他の場所でもアキシマクジラの名前しか出てこないような」
「アキシマクジラって恵まれてたんだね」
化石から再生されたフタバスズキリュウは教育用の映像にまで使われている。アキシマクジラはそういうものの陰に隠れていると思っていたが、さらにその陰か。
「だが」
成瀬が口を開いた。
「その一個の骨も大したものだ。その一個でマッコウクジラに非常に近い種類だということが充分分かる。そうだったな」
「うん。ああいう形と組織の骨はマッコウクジラの上顎だけだって」
モリーが同意したが、ヒノクジラを持ち出した当の真田が驚いた。
「えっ、待って。マッコウクジラ?」
「どした」
「いや、アキシマクジラに近い種類だって聞かされてたんだけど……、マッコウクジラってアキシマクジラに近い種類じゃ」
「ないなあ」
「アキシマクジラはコククジラというクジラの近縁種でマッコウクジラとはかなり異なる」
「何年か前に調べ直して分かったみたい」
真田にはその情報が仕入れられていなかったらしい。
「そっか……。アキシマクジラと近いならヒノクジラって言ってくれてもと思ったんだけど、間違いだったみたいだ」
「ふむ」
力が抜けた真田に、成瀬はタブレットの画面を向けた。
「マッコウクジラのモデルなら以前練習のため作ったものがあるからこれをヒノクジラの化石に合わせて手直しすればヒノクジラとして扱える」
真田は目を見開いて画面を見つめた。
「それって、ヒノクジラを作れるってこと?」
「詳しい姿は不明だがそれはマッコウクジラとの違いを付ける理由がないということなのでかえって作業の負担は小さい。時代が近いからアキシマクジラの映像に登場させることもできるしその意義があるようだ」
「そうだね。このあたりに色んなクジラがいたんだって言えるようになるよ」
モリーも賛成すると、真田はまた頭をかいて下げた。
「あ……、ありがとう。よく知らずに勝手なこと言ったのに、そこまでしてくれるなんて」
「あー、いーいー。より良いもんになりそうだから」
「それにしても」
成瀬はタブレットを手でいじるようにしながらつぶやいた。
「これだけ人に見せられるようになるとこのタブレットでは窮屈だな。より大きい画面のモデルを入手して持ち運ぶわけにもいかない」
「あ、じゃあ」
その辺にすでに心当たりがあった。
「映像技術部の部室にプロジェクターがあるはずだから、借りれるかも」
「入部したのか」
「いやあ、まだ様子見てる。部活の中で活動するのはちょっと難しいかも」
するとまだ横にいた真田が言った。
「もう部活っぽいように見えたけど」
「そうかな」
この三人でやってることは部活にできるんだろうか。いっそ自分達で……?
とにかく今はプロジェクターだ。
プロジェクターを借りられることになった頃にはヒノクジラ、と言ってもよいマッコウクジラのモデルがもう出来上がっていた。
しかも成瀬はそれをプロジェクターを借りる礼にと、映像技術部が受け取れるようにしたのである。
「面白いものが手に入っちゃった。ありがとう赤星さん」
説明会にも出ていた部員、矢川さんは、画面に見入りながら嬉しそうにしている。
「いやいや、成瀬がすごいんすよ」
画面の中でほんの少し色が薄いマッコウクジラ、つまりヒノクジラに見立てたものが動く。
成瀬が元々作ってあったのは十八メートルと十四メートルの大きなオスとメスだが、ヒノクジラの化石に合わせてメスを十二メートルに縮小してある。あとは特に変える根拠もないので変えていないという。
「ひのてりあと一緒に動かしたいな」
矢川さんは画面から振り返り、部屋の七割を占めるスペースに目をやる。
床に白いシートが敷かれていて、四隅にカメラや照明が鈴生りになった支柱が立っていた。
その中心では、すらっとした体つきの女子が身軽な格好をして、手を振ったり飛び跳ねたり、大袈裟に陽気な身振りをしていた。
よく見れば何か小さな機械が手首や足首などに付いていた。
視線の先には縦置きにしたモニターがあり、その中でひのてりあが、彼女と同じ動きをしていた。
「あの人が演ってるんすね」
「うちにはもったいないくらいの演者だよ」
バーチャルの姿で動画投稿・配信サイトのユースクリーンで活動する、いわゆるVスクリーナーだ。
私はモリーが前に見付けてきたサメの人しかVスクリーナーを知らないので、良し悪しまでは分からないが、デザインや動きからは子供番組のような印象を受ける。高校でやっているならそれがいいか。
説明会のときみたいに、ひのてりあが解説してもいいかもしれない。
「できれば赤星さんにも成瀬さんにも入部してほしいけど……、うちのメインはあれだからさ」
「ですよね」
この部屋を見れば、ここがVスクリーナーの活動でやっていくつもりなのは明らかだ。
「ここで成瀬さんに作業してもらうのは難しいかな」
机の上は機材でいっぱいだし、演者は汗も目も光らせながら全力で演じている。
「クジラとか海とかの資料をいっぱい持ち込むわけにもいかないすからね」
「まあ、お互い協力し合っていこうか」
ひとまずタブレットとプロジェクターを無線接続できるようになった。
放課後の教室、後ろの真っ白い壁に青白い海中の映像が映る。
暗い水の向こうから、鈍く尖った陰がうっすらと浮かび上がる。
それはうねりながらこちらに近付き、存在感を増していく。ゆるいアーチ状の口、細い鼻面に付いたフジツボ、口角の上の小さな目が見える。
アキシマクジラが目の前を横切り、尾鰭を打ち振るって離れていく。
水流が鼻をかすめたような気がした。
「おお」
「すごい……」
モリーは拍手までしている。
「うまくいったな。これで一番近付いた瞬間に実物の二分の一ほどだがこの臨場感は液晶画面とは段違いだ。では動画ではなくモデルの表示として目の前に静止させてみよう」
背景は白くなり、アキシマクジラの横向きの前半身が現れた。
細かい凹凸や灰の濃淡のまだらの描き込みがよく見えた。細部が省略されているフジツボもかなり自然だ。
成瀬が作ったと分かっているのに、今私は、アキシマクジラを観察している、という気持ちになっていた。
「すごいな。こんなに細かく作ってあったんだ」
「ドームに投影して離れて観賞するなら充分以上だろう」
「縮小して全身も映してみようよ!」
そうやって盛り上がっていると、背後で教室のドアを開ける音がした。
「ん?」
「あっ、すんません」「邪魔しちゃって」
同級生が三人ほどドアの外に詰まっていた。
「あー、私達も勝手にやってただけだから」
「じゃあ、見せてもらっても?」
映像に興味を持って覗き込んでいたようだ。
「もちろんもちろん」
「椅子出して座って」
モリーもこの学校に入ったとたんずいぶん普通に話せるようになったなと思う。
「では海中を泳いでいる動画をもう一度」
最初に投影したアキシマクジラが泳いでくる動画を流すと、三人はさっきのモリーと同じように見とれて拍手した。
その三人が話を広めていたようで、翌日、またその翌日も放課後に上映することになった。
見てくれる人数もやや多くなり、口々に誉めてはくれたのだが。
「これだけ人数が集まったなら聞いてみるとよさそうだな」
動画をループさせながら成瀬が皆に聞こえる大きめの声を出した。
「評価してくれたところ申し訳ないが私自身はどうすれば海の中らしくなるかに迷っているところだ。海中の描写に自信が持てなければこの場面だけでもかなり不完全だと思っている」
成瀬のこだわりを聞いて同級生達はあっけに取られ、えーっとかはーっとか声を上げた。
フタバスズキリュウのときに光についてメモしていたのはそのためか。三人で博物館や科学館に行って調べてもどうにもならなさそうだ。
私からも改めて聞いてみた。
「誰か海の中の様子を知ってる人っていないかな」
一旦皆顔を見合わせるが、
「家庭科の先生がこの前ダイビングが趣味だって言ってた」
との声。
「あっそうか。同じ授業でそれ聞いたじゃん」
「そのときは詳しく聞いて参考にするという考えがなかった。本人に話を聞いてみなければ」
「放課後だからどこにいるか分かんないね」
思わぬ手がかりの出現に私達はつい浮足立ってしまったが。
「帰ったっぽい」
「明後日家庭科あるじゃん」
集まってくれた同級生からも情報が出た。
「よっしじゃあ明後日だ。ありがとう!」
それで翌々日の昼休み、家庭科室。
「だからね、ホント、普通に水中だっていって想像するのと全然違うのよ、光が。みんな一生に一度は体験したほうがいいと思うの。あっ一度やったら一度じゃ足りなくなっちゃうかも。サンゴも魚もみんなすっごく鮮やかな色してて」
「なるほど」
家庭科の神崎先生が話す分量に対して成瀬のメモがかなり短い気がしたが、気のせいではないだろう。
「こんなちっちゃいウミウシも見せてもらったんだけど、そんな小さいのまで綺ッ麗ーーな青なのよ。そんな小さいのがちゃんと見えるくらい透明ってことなんだけど」
「それだけ透明度が高く細かな生き物が見えるのが石垣の海であると」
「うん!」
成瀬は最後に、石垣、と書いたらしい。それから顔を上げる。
「潜ったことがあるのは石垣島であり例えば北のほうの海に潜ったことはないということでよろしいですか」
そう成瀬に聞かれて神崎先生は目をしばたかせた。
「北の海なんて気になるの?」
「北から流れてくる親潮の影響下にある海の様子も知りたいのです」
昭島が海だった頃は親潮が流れ込んで冷たい海だったというのがこれまで調べた結果だ。
すると神崎先生は腕を組んで首を傾げた。
「そういうところにはよっぽど渋い趣味の人しか潜らないと思うなあ」
「渋いんですか?」
どういう違いがあるか分からなくて横から聞いてみた。
「濁ってるし、生き物もあんまり綺麗じゃないし。お魚は美味しいんだけどねー」
「あっ、それって」
さらにモリーが言葉を挟んだ。
「親潮のほうが栄養があるからですか?」
「そう……、だったかな?親潮が栄養を運んでくるから、親潮と黒潮がぶつかるところがいい漁場になるって言うし」
そこで成瀬が急に立ち上がって頭を下げた。
「これで何に気を付ければ良いか気付くことができました。ありがとうございました」
「え?うん。これでよかったの?最後微妙な話になっちゃったんだけど」
成瀬が何を思ったか察して、私とモリーも続けて席を立った。
「いや今のでいいんだと思います。ホントありがとうございました」
「ありがとうございました」
「う、うん。またよろしくね」
話を打ち切るようにお礼を言った成瀬の考えを、家庭科室から離れながら確認した。
「話のとおりにキラキラにするんじゃないんだろ?」
「そのような見栄えの良い南の海の資料は避ける必要があるということが分かった」
「昭島の海は親潮が運んできた栄養でプランクトンが増えて、濁ってたはずなんだね」
貝の化石がたくさん出るのも、アキシマクジラが昭島にやってきたのも、食料が豊富だったからか。
「フタバスズキリュウの水槽も透明という点では南の海と同様だな。改めて他の資料を探さなくては」
五月の終わりには動画の海は冷たく濁った水となった。
「わ、なんか怖そうな感じになった」
「厳しい大自然って感じ」
見通しの悪さがかえって迫力をもたらしたようで、見てくれる同級生からの感想も一味違うものになった。
「ここの動きがちょっとふわっとしてる気がする」
「うちの郷土資料館に化石があったけどあれも関係ある?」
成瀬から意見を求めたのがきっかけで、見てくれた人からも意見や情報がもらえるようになった。
「昭島と同じ武蔵野台地だから化石は出るみたいだけどさ、似たようなもんではあるよな」
「それでも他の人が見たものだから切り口が違うよ」
情報をまとめるモリーはありがたそうにしている。
「どこまでが陸でどこからが海だったか、実感がわくよね」
「なるほど」
こうして成瀬の作る映像の出来は少しずつ向上していった。
いっぽうでは、逆に質問を受けることもあった。
「国立の、立川との境目近くに「貝殻坂」っていうのがあるんだけど」
小林という小柄な男子だ。この学校のパンフレットにあった縄文土器をさっそく見せてもらって嬉しそうにしているのが印象に残っていた。
「貝がたくさん出てくるから貝塚だっていう人が多いんだけど、それにしてはおかしいと思って」
「どんなふうに?」
「東京の他の貝塚って二十三区内ばっかりでこっちには他に貝塚なんてないし、そもそも縄文時代の海岸線は国立からは遠いはずで」
海から遠かったのに、貝塚ができるほど海の貝を食べていたはずがないということだ。
「縄文時代に自分が住んでたところがどうなってたかに関わるから、気になってるんだ」
「うーん、百何十万年も前なら国立も海の底なんだけど……」
「その後どうなったかよく分かんないな」
その件はモリーの宿題となったが、
「これは責任重大だね」
と言って嬉しそうにしていた。
また別の、和泉という女子からの質問はこうだった。
「私の住んでるところ、狛江からなんかすごい化石が出てきたっていうのだけは聞いたことがあるんだけど、一瞬聞いただけでその後何にもないから、夢かなんかだったのかなって引っかかってて」
これはモリーに調べてもらうまでもなく覚えていた。
「ステラーカイギュウだ」
と聞かされても和泉は首を傾げる。
「それってどんなの?」
「一言でいうとすごくデカいジュゴン」
「すごくデカいジュゴン……」
分からないわけではない程度のようだ。ステラーカイギュウの悲しい歴史の話はやめておくか。
「それって成瀬さんの動画に出せる?」
「何十万年も後のやつだから難しいかな。それでも世界最古のステラーカイギュウだっていうから誤魔化せないと思う」
「んー、そっか」
少し残念そうにするが、すぐ明るい顔になった。
「赤星さんも詳しいんだね」
「元々モリーが調べた内容だけどね」
「三人は何部っていうの?」
「ん?」
成瀬とモリーと私がやっていることが和泉にも部活に見えていたということだと、一瞬分からなかった。
「まだ部活じゃないよ」
つい、まだと付けてしまった。
梅雨に入った頃、映像技術部の矢川さんから普段のプロジェクターの貸し借りなどとは違う連絡があった。
ヒノクジラに関して見せたいものがあるという。
作った本人である成瀬にも見せるべきかと思ったが、作業がいいところで手が離せず、モリーはモリーで小林からの宿題に決着を付けるところだというから連れて行くことができなかった。
それで、ヒノクジラに関して言い出しっぺである真田を呼びつけてみた。
「じゃあこっちのスタジオスペースで、これを被ったら調整してみて!」
矢川さんは嬉々としてVRゴーグルを差し出し、調整の手順を教えてくれた。ひのてりあの演者、七生さんもいる。
ゴーグルを被ってみると、床にグリッドが引かれただけの白い空間だった。
やはり七生さんの姿はひのてりあに変わっていた。遠近感がちょっとおかしいのでレンズをずらす。
横にいる真田の姿は四角や三角の単純なロボットになり、顔面には「さ」と書かれていた。私の手も同じだから顔面には「あ」と書いてあるんだろう。
ひのてりあが、虚空に向かって手招きをしてみせた。
するとそちらから、すっと、マッコウクジラ、いや、ヒノクジラの姿が現れた。
「わっ」
真田の声だ。
ヒノクジラはやや大袈裟に尾鰭を振ってこちらに近付き、ひのてりあが高く掲げた手の平に、大きな頭の先を向けて止まった。
そしてひのてりあが全身を動かすようにして手の先で円を描くと、ヒノクジラはそれに合わせて体をよじって横倒しになり、さらに逆さまになり、くるりと一周横転した。
さらにひのてりあはその手を優雅に右に薙ぎ払うと、ヒノクジラも軽快に右へと泳ぎ出した。
「この動きって」
「水族館のイルカみたいに、サインに従ってるな」
ヒノクジラはそのまま私達のまわりを一周して戻ってきた。
最後に、ひのてりあはヒノクジラに向かって手を大きく開いて見せ、それをそのままゆっくりと私のほうに向けた。
するとやはりヒノクジラもそれに合わせてひのてりあの元を離れ、私のほうにその巨大で縦長な鼻先を向けてきた。
「おんなじように動かせますよ!」
説明会のときと同じ元気の良い解説。
私が右手……ロボットの棒のような右腕を右に振れば、ヒノクジラも向かって右に向く。左に振ればそちらに。
十二メートルのクジラが、私のいうことを聞いて遊んでくれている。
試しに上に振ると、ヒノクジラは強く尾鰭を振って上昇した。
そしてその体の大きさと美しさと、軽やかに動くことを見せつけるように、宙返りして戻ってきた。
「すっげえ!楽しい!」
真田が無邪気に喜ぶ。
その声を聞いて私は思った。
あっ、これはまずいな、と。
このヒノクジラは外部から矢川さんによって操作されているのではなく、ひのてりあや私の手の動き……というより多分、七生さんや私のバーチャル空間上の体を動かすための信号を読み取ることで、その中からサインになるものを判別して動いている。
つまり本当に私のいうことを聞いているのだ。
それで半ば咄嗟に、ひのてりあがさっき私にヒノクジラを渡してくれた動きを真似して、今度は真田にヒノクジラを、いや、ヒノクジラのオブジェクトの操作権を渡した。
「わっ、こっちきた!いいの!?」
「ああ。真田がやってみて。見てるから」
真田は単純なロボットの姿でも分かるくらい嬉しそうに、ヒノクジラにサインを伝え動かして遊んだ。
野生のクジラが人の言うことを聞くはずはない。
だからこそ、このヒノクジラの動作が嬉しくなってしまう。
あのフタバスズキリュウの泰然とした態度とは大違いだ。
説明会の映像を見た後、ひさのはま海竜館の公式ブログを中心にフタバスズキリュウの行動についてモリーと調べた。
フタバスズキリュウがトンネルの脇に潜ったのは、飼育員が潜ってきて底砂に餌を埋めようとしていたからだ。その様子の映像も気前のいいことに見やすく公開されていた。
飼われていてさえ、フタバスズキリュウは人間のことなど餌を埋めるときしか気にしない。あの冷たい態度。
だからこのヒノクジラの動きはまずい。
自分達が描きたい世界、人間がまだいなかった頃の昭島の住人ではない。メルヘンの存在だ。
それで、嬉しそうにこれを見せに呼んできた矢川さんや元気に案内してくれた七生さん、今全力で楽しんでいる真田の前で、私はゴーグルを取った後どうしようかと、真田とヒノクジラを眺めながら考えた。
こうやってヒノクジラを操っている動画をユースクリーンに公開するんだろうが……。
やがて真田も疲れたのか操作を止め、体験会みたいなものは終了となって皆ゴーグルを外した。
「すごかったーー!!」
真田がはしゃいでいるのにうなずきながら、矢川さんは私にも感想を求める目線を投げかけていた。
「そっすね、素直にすごい技術っす。自分達の方針とは、まあ、違うんですけどね」
矢川さんの表情がわずかに曇った。待て待て、クジラの前に自分の話を制御せんと。
「なので、そう、ガンガン自慢してください。この技術を。映像技術部の成果として」
成果と聞いて、矢川さんの目が再び輝いた。
「モデルは成瀬が作ったもんですけど、動きは皆さんの技術なんで。これに関してすごいのは皆さんですよ。な、真田」
「すごく楽しいっていうか嬉しかったです!」
そこは認めないといけないだろうな。これは人に嬉しい体験をさせる技術だ。クジラはなつくものという誤解を招かないよう配慮されていれば。
「そっか。面白がってくれるものだって自信が持てた。二人に見せてよかったよ」
二人というのは本当にそのとおりで、真田抜きで私だけだったらどうなっていたか。
「じゃあ、今後も成瀬のモデルを動かして公開するときは」
「モーションだとかの取り扱いはこっちのやってることだと明記するっていうことで」
私はばれないようにそっと息をついた。
クジラに対してこれだけ方針の違いがあると、別の団体としてやっていくしかないんだろう。
映像技術部の見せたものがどういう内容だったかはその日のうちにグループチャットに送ってあったので、翌朝にはすでに全員納得した状態で集まっていた。
「ほのちゃん、昨日はお疲れ様」
「ああ、ありがと。成瀬は本当にいいんだよな?」
「モーションの責任が明記されるのであればこれまでモデルを販売していたのとなんら変わりない」
「そうだったわ」
とっくに色々な場所で面白おかしく使われていたんだろうな。かなり気が楽になった。
「モリーはなんか、小林からの宿題が片付いたって」
「国立の貝殻坂は貝塚なのか化石産地なのかということだったな」
「うん。やっぱり化石だったよ。百万年前だから昭島と比べるとだいぶ新しいみたい」
結局縄文時代にはすでに海岸から遠かったという小林の認識どおりになった。
「小林には残念だったんじゃないかな。縄文時代のほうが興味あったみたいだから」
「でも小林君はすっきりしたって」
「そうか?」
「他に何にも縄文時代に海だった証拠がないから。これで安心して縄文時代の国立は森だったんだって思えるって」
それを聞いて私まで何か晴れやかな気分になった。
本当のことが知りたいと思っているのは私達だけではない。ステラーカイギュウはアキシマクジラとは関わっていなさそうだという判断も同じことだ。
「ところで成瀬がやってた作業って」
「アキシマクジラのモデルをアキシマエンシスに展示されている骨格に合うような顔付きに改変するための検討だ。これまでは現生コククジラの頭骨も見ていたがその中にアキシマクジラとは異なる個体差を持っているものが含まれていた」
「なるほど」
すでに完成したと思っていたものも前に進んでいる。
一週間ほどすると、映像技術部があの技術を使った動画を二つも出していた。
ひとつは、「バーチャルなら大昔のクジラも手なずけられる!?」というもの。タイトルの時点ですでにあの技術がヒノクジラの実態と異なることが示されていて、内容もそのとおりだった。
そしてもうひとつは、ぬいぐるみのような小さくて丸っこいドラゴンが、ひのてりあのまわりを小さな羽でパタパタと飛び回ったり、揃えた両手の上に着地したり、なでられて眠ってしまったりするものだった。
このただただかわいい動画によって、人の手振りに従う動きは野生のクジラから切り離された。
真田はなぜか映像技術部に入ったらしい。よっぽどあれに感激したんだろうか。そのほうが話が通しやすくなるからいいかもしれないが。
そして私達もちょうど、「郷土古生物部」の設立申請書類を提出するところだった。
[フタバサウルス・スズキイ(フタバスズキリュウ) Futabasaurus suzukii]
学名の意味:鈴木氏が双葉層群で発見したトカゲ
時代と地域:白亜紀後期(約8500万年前)のアジア(日本)東岸
成体の全長:推定7m
分類:双弓亜綱 鱗竜類 鰭竜類 首長竜目 プレシオサウルス類 エラスモサウルス科
首長竜類は中生代を通じて海で繁栄した爬虫類である。胴体は丸みを帯びた流線形で、前肢、後肢は細長い鰭となっていた。首長竜という名前に反して、首の長さは種類により様々だった。しかしその中でもフタバスズキリュウが属するエラスモサウルス類は、白亜紀に現れた特に首の長いものが多いグループだった。
エラスモサウルス類の多くは首が全長の半分以上、ときに2/3を占め、頸椎は60個以上あった(フタバスズキリュウ自身の化石には首は一部しか残っていなかった)。首の根元より先のほうがよく曲がるようになっていたが、全体としてあまり曲がらなかった。
頭は小さく、平たい楕円形をしていた。顎には細長く尖った歯が上下で噛み合うように生え揃っていた。尾は鰭と同じくらいの長さで、安定のための尾鰭として復元することも多い。
フタバスズキリュウはエラスモサウルス類の中では小柄なほうで、日本国内で初めて発見された首長竜として知られている。
1960年代、当時10代の鈴木直氏は福島県いわき市の双葉層群で化石の採集を行うのを趣味としていた。見つかるのは主に二枚貝やサメの歯であったが、1968年、かねてから確信していたとおり大型爬虫類の化石を発見することができた。そして当時国立科学博物館の研究員であった長谷川善光氏らが連絡を受け、発掘を進めた。
ほぼ全身が残った化石で、とても良好な保存状態であった。またそれ以外にも同種と見られる化石が同じ地層から発掘されている。しかし、独自の特徴が整理され学名が付けられたのは2006年のことだった。
タラソメドンThalassomedonのような他のエラスモサウルス類と比べると鼻孔がやや前方の低い位置にあった。また前肢は後肢より長く、鎖骨及び間鎖骨が独特な形状をしていた。胸部から摩耗して角のなくなった複数の石が発見され、食物をすりつぶすため、または錘として潜水のために使われたと思われる。
他のエラスモサウルス類で推定されているのと同じく、鰭を上下に羽ばたかせてゆっくりと泳ぎ、小さな魚や頭足類、海底の生き物を食べたとされる。長い首は海底や狭い場所から餌をつまみ取ったり、魚の群れにそっと近付くのに使われたと考えられる。
国内では他にも、北海道からモレノサウルスの一種Morenosaurus sp.、鹿児島からサツマウツノミヤリュウなどいくつかエラスモサウルス類が発掘されている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます