第90話「武蔵野フォッシリウム編その4 椒図とクリーピングコイン」
翌朝の通学路。
「受験先が決まったのはいいんだけどさ、そもそもあいつ出席日数足りるのかな」
「うーん、成瀬さんのお父さんも分かって勧めたんじゃないかなって、思いたいけど……」
私とモリーは、あのちょっとふわっとした父親を思い浮かべた。やっぱ分かってないかもしんない。
「三年生の出席日数しか見ないっていうこともあるから、ちゃんと調べてみよっか」
「三年だけでもあいつがちゃんと来るのか怪しいけどな……」
そんな話を続けながら校門をくぐり教室に入ると。
「いるじゃん」
先に成瀬が席についているではないか。
「いるとも」
「まあ、今までもたまにはいたか」
「登校することに慣れた上で学校での作業環境も構築する必要があるのでたまにではなくなる」
「ふーん」
「作業はするんだね」
成瀬の手元にあるノートに何かのスケッチが見えた。ブラウンスイシカゲガイだろうか。
たまにではなくなると言ったとおり、翌日も、そのまた翌日も成瀬は来ていた。
「珍しいじゃん」
などと言って話しかける奴も何人かいたが、成瀬は生返事を返すか例の早口で何か説明しようとするかどちらかだった。アキシマクジラの話ならまだいいが、何度かブラウンスイシカゲガイとかオオバタグルミとか聞こえた気がする。
そして、成瀬は話している間もやたら大きなタブレットを手放さず、相手はそっと離れていくのだった。
「作業環境ってタブレット持ち込むってことかよ」
「Wi-Fiはおろかマウスもキーボードもないここではやはり思いどおりとはいかないな」
「でも教室でも作業ができてよかったね」
「うむ」
返事しながら成瀬は鞄から何か取り出した。透明なプラスチックの小箱だ。
中にはキッチンペーパーに包まって見覚えのある大きめの貝殻が収まっている。
「あれ?ブラウンスイシカゲガイじゃん」
「食用に売られてるんだっけ」
「そのとおりだ。殻だけでなく身もじっくりと観察することができた」
「ようやるわ」
成瀬はケースを机に置いてタブレットで写真を見せてきた。まな板の上で貝がさばかれる様子だから一見料理中に見えるが……、その身は執拗なまでにバラバラに解体、いや解剖されていく。
「こんなバラバラにするとあんまり美味しく食べれなさそうだな」
「そういえば味は覚えていないが記録しておけば何か参考になったかもしれない」
「いやあ……」
どこぞのマンガ家がそんなことを言っていたような。
「ともかく本物を入手した甲斐あってブラウンスイシカゲガイのモデルはもうできている」
「何っ」
タブレットの表示が素早く切り替わり、あのふっくらとして、角張ったうねがいくつも走った二枚貝のCGモデルが現れた。
やはり本物と何も違わないように見える。殻の間からわずかにはみ出している柔らかいひだまで生きている貝そのものだ。
こういう天才が、わざわざ我慢して学校に来ているのか。
「現物があるだけにかえって色や細部に迷ってしまうのだがどうだろうか。大きさはこの標本ではなくアキシマエンシスの化石に合わせてある」
「作ったものに意見を求めるなんて珍しいな」
「今までスムーズに聞けなかっただけで今後は積極的に聞こうかと思う」
一言成瀬に断ってブラウンスイシカゲガイのケースを手に取り、両方とも角度を変えながら画面の中のモデルと見比べてみた。
本物のほうは縁のあたりや出っ張りの端の色が薄い。単純に色が薄いのではなく、
「本物はなんか透けてるというか……」
「あっ、私にもそう見える」
「確かにそういう質感は見落としていたな」
成瀬は何かをメモした。
「登校するようにした甲斐があった」
口元が今までになく柔らかいような気がした。
休み時間が終わって自分の席に戻ろうと振り返ると、慌ててこちらから顔をそらし机の上に広げたノートのほうを向く女子がいた。
黒田という奴だ。割と目立つほうで成績もよかったはずだ。
果たして成瀬は週が明けても登校し続けていて、ちょっとの間だけ教室がざわついた。
成瀬のほうはとっくに慣れたもので、休み時間になって話しかけられてもタブレットや資料から目を離さず平然と、というか面倒くさそうに対応するばかりだった。たまに私が間に入ることもあったが。
担任もそんな成瀬について、
「登校してくれるだけでありがたいと思うんですよね。授業態度はいいし」
などと言っていた。ノートに絵ばっか描いてるけどなこいつ。
そのうち皆慣れてしまい、成瀬が何か作業しているのは教室の当たり前の風景の一部になった。
しかしやはり黒田と、そのそばによくいる吉沢……小四のときにモリーと自由研究の評価でもめたあの吉沢だ……その二人からだけは、何か尖った視線を感じることがあった。
一週間と言わず一か月と言わず、冬を丸ごと乗り越えて。
三月になってようやく成瀬は一度だけ遅刻した。前日の夜に作業に没頭していたのだそうだ。
その日ついに成瀬のタブレットの中でブラウンスイシカゲガイが飛び跳ねた。
あの貝らしからぬ足を殻の間から伸ばし、身の入った殻を持ち上げ、水の抵抗を押しのけて水底から離れ、重力に従ってごとりと落ちる。
そんな風にきちんと色々な力がかかっているように見える動きだった。
「これでこの貝がいる空間は百八十万年前の昭島の海だと最低限言い張れる」
元々アキシマクジラをアキシマクジラらしく見せるために作っていたのだ。
「でも、これだけじゃないんだよね」
モリーも先を見たがっているようだ。海の先にあるメタセコイアの森をだろうか。
「本当に昭島の海に見えるようにするにはまだ作るべきものはいくらでもあるというわけだ」
実際、高幡学園の受験にあたっては三年生のときの出席日数しか数えられないのだった。
成瀬が休む心配は全くしなくてよくなっていた。学校でもできる範囲の作業は完全にできるようになっていたからだ。
作るべきものはいくらでもあると言っていたとおり、また新たな生き物に手を付けていたのだ。
三年生になったばかりの四月、成瀬はさっそく何か新しい標本を机に載せたまま作業していた。
ケースの中には貝殻のようなそうではないようなものがあった。くすんだ緑色で、小判型だが片方が尖っている。
「なんだこれ……、ミドリシャミセンガイ?」
ラベルには名前とともに「産地:有明」と書かれている。
「これもアキシマクジラと同じ層から発掘されている生物であり環境の指標になる上に独特な特徴が多いため入手しておいた」
二枚貝のようだがよく見ると殻がとても薄く、うっすらと中が透けるようだった。貝殻というより虫の甲羅みたいな質感にも見える。
「なんか変な貝だな」
「あっ、貝じゃなくて何か別の生き物だったような気がする。何だっけなあ」
「モリーも知らないかあ」
そう言っているうちに成瀬はタブレットに資料を表示していた。
「確かに貝の属する軟体動物ではなく腕足動物というあまり名前を聞かないグループだ」
生きているミドリシャミセンガイの写真もあった。細かい泥砂の上に横たわっていて……、標本と同じ緑色の殻の尖った端から、殻の何倍も長い尻尾みたいなものが生えている。
「うわ、生きてるときのほうが変だ」
「貝っていうより、甲羅があるミミズみたい」
「特徴的な生物だから手を付けてはみたが正直どう活かしたらいいかは決まっていないな」
そんな話をしていてふと、黒田と吉沢が目の端に映って、私はすぐに目を反らす。
どうもあの二人の視線が前以上に尖っている気がするのだ。
「モリーはともかく成瀬が私より全然頭いいのこの世のバグだろ……」
「そういうこと言っちゃだめだよ」
放課後遅く、アキシマエンシス二階の学習スペースから離れながら、私は勉強会の結果を引きずっていた。
「理数系に関してはおおむね必要に迫られてと好奇心から覚えたことで文系は成績のバランスが悪いと落ち着かないせいだ」
つまり登校せずに作業をしながらも独力で成績を保っていたのである。なんて奴だ。
しかし成瀬がそうやって過ごしてきた理由はすぐそこにあった。
階段を下りる間も成瀬の視線は吹き抜けに吊り下げられたアキシマクジラの骨格に注がれていたのだ。
日が暮れて薄暗くなった館内の天井に白く大きな骨が浮かぶ。
こいつの生きた姿、といってもいいであろうものが、私達の歩みの先に待っている……。
「ちょっとだけ、化石見ていこうか」
私達はうなずき合い、階段から真っ直ぐ出ずに化石の展示があるほうに向かった。
そこでふと、モリーが足を止める。展示室の向かいの本棚の前だった。
「この有孔虫っていうのも化石なんだね」
「ん」
その本棚の中にも少し、化石や火山灰、アキシマクジラグッズなどの展示がある。こっちは今まであまり見ていなかった。
そのうちのひとつに「有孔虫とは?」と掲げてある。
指でつまむ程度の台紙のそばに虫眼鏡が固定されていて、これまた砂粒ほどの何かが点々と並んでいるのが見えた。
「あそっか、こういう微生物みたいのが化石になっちゃダメってことないよな」
成瀬が私とモリーの間から本棚の前に出て、モリーは当たり前に話し続けた。
「この有孔虫って、星の砂の仲間だったと思う」
「沖縄土産の?あれ生き物だったのか」
「殻がある単細胞生物なんだね」
成瀬は黙々とメモを取り写真を撮っていた。いやしかし。
「これはさすがに作らないよな?」
「あまりにも小さくてアキシマクジラと同時には描きようもないが海の環境を再現するからには丸っきり無視もできない」
説明文には当時の環境を知るのに重要とあった。
「今はこういうものがいたということだけ覚えておこう」
そうやって、少しだけ昭島で化石になった生き物のことを気にかけながら春と梅雨が過ぎていった。
塾の夏期講習を受けないといけないなと思いながら、教室でもモリーや成瀬に勉強を見てもらう機会が増えていた。
その間にも成瀬は少しだけ作業していた。
よく晴れて、教室の中の影が濃く感じる、ある日。
「例えばこの問題はまずこの式を変形してこの式のcに代入するだけだろう」
「へ?」
「そうすれば余計な記号はこのようにして消えaが求められる」
成瀬が手際良く記号を消し数式を変形していくと、複雑怪奇な式が嘘のように単純になった。
「ええーそんなん気付かん」
「なぜだ。練習量が足りないのではないのか」
後から思うとこの一言がよくなかったのだろう。
人間の脳は他人が言われたことと自分が言われたことを区別できないんだとか。つまり、私達の声が聞こえていた黒田にとって。
ガタンと大きな音が鳴ったと思ったら黒田がこっちに向かってきていた。
そして手を成瀬の机に叩き付ける。
「なんなのあんたマジで!?前まで全然来なかったくせにやりたいこと見付かってるからって余裕見せ付けに来てんの!?」
別にこんなふうにキレてばかりいるような奴ではない。だからこそ教室が静まり返る。
ええー何言ってんだこいつ、と私も思ってはいたが、成瀬は露骨に首をかしげてみせた。
「やりたいことくらいあるものだろう」
こんなことまで平然と言ってのける。
それで黒田がまた机を叩いて音を鳴らす。
「なんなの昭島昭島って、こんな東京のはずれにずっと引きこもってるつもり!?」
黒田はますます声を荒げていくのに、成瀬は顔を黒田からこっちに向けてしまった。本当に何を言っているのか分からないから無視する気だ。
それで分かった。こいつらは実際に言葉が通じていない。
「あーーーー黒田黒田黒田!!ちょっと、ちょーーっといいかな!?な!?黒田!!な!?」
私は喉を開き腹から声を出しながら立ち上がるとともに、腕を大きく振り上げて手を指の先までめいっぱい広げてみせた。
「は!?え!?……何?」
よし、黒田が自分を上回る勢いにひるんだ。こいつは度胸がないから逆にキレたのだ。
「やりたいことって、なりたい職業って意味っしょ?」
「……他にないでしょ」
「そかそか」
黒田は「進路のことを話す言葉」で話している。
いっぽう、これを聞いた成瀬が眉間にしわを寄せ「何だと?」という顔でこっちを見た。
そうだろう。お前が「やりたいこと」という言葉を文字どおり「実行したい事柄」と捉えないわけがない。
だって、すでに中学生という職業を忘れて、作りたいものをずっと作っていた奴だ。
「黒田は、昭島の中学生じゃないものになりたいんだな」
「だってみんなそうなんじゃないの」
私もどちらかというとそうかもしれない。中学生のままでできることは少ない。
「黒田は正しいよ。いたくないところから自分の力で抜け出そうとするのは偉いよ。ただ、こいつな」
私はまだすっきりしない顔の成瀬を指差した。
「こいつはもう自力で、黒田が思ってる昭島の中学生っていうものじゃなくなってるのかもしれない。だから黒田にはわけわかんないんだよ」
「ええ……?」
黒田も納得していない。分からなくて普通だと思う。
「同じ日本語でも必ず通じるわけじゃないっていうか、たまたま教室に宇宙人がいたと思って見逃してくれや」
私がそう言っているうちに後ろでモリーの気配がして、私の結んだ髪を掴んだ。
その手も声も震わせながら、モリーが絞り出す。
「ごめんなさい、今黒田さんのほうが、勉強するには賑やかだったと思うの」
ああ、モリーはモリーで怒ってたんだな。
気付けば教室の中、他の連中もだいたいモリーと同じ意見だったようだ。黒田だけがなんともいえない視線を集めている。
黒田はうつむいたまま、
「図書室に行く」
そう言って教室を出ていった。
皆それをただ見送るだけだったが、ただ一人、吉沢だけは黒田を追った。教室を出るときにこちらをにらみつけながら。
ああ、仲間がいてよかったじゃん、そこまで不安がることないじゃん。黒田に対してそう思った。
終わったなという空気が満ち、教室が普段どおりに戻っていった。
「はーやれやれ」
「怖かった……」
「うん、モリーもお疲れ様」
私とモリーも腰を下ろすが、
「私は異星人ではないが」
成瀬は若干不機嫌そうなままだ。
「わりわり。そうだよな、宇宙生まれにしちゃあ武蔵野台地に根ざしすぎてるよな」
しかもそれでいて、「昭島に引きこもっている」という意識はないのだ。
成瀬は眉間のしわを解きつつ、再び首を傾げた。
「ところで東京のはずれとは奥多摩あたりのことではないのか」
「それ黒田に言うなよ……」
偉そうなことを言っておいて勉強漬けの夏が訪れた。
モリーや成瀬と比べて私は高幡学園の合格ラインぎりぎりにいた。特にモリーなど推薦を取れることになっていた。
夜、部屋でひとり夏期講習の内容を見返し始めた。
理数系はふたりの助けもあってあとは練習のみという気になれるが、文系はふたりも上手く教えられず、自分が覚えられなければ仕方がなかった。
ため息をつきながらプリントをめくっていると、スマホにモリーからメッセージが届いた。
『勉強の邪魔になっちゃうかもしれないんだけど 見付けたのが嬉しくって ごめんね』
腕足動物について分かりやすい動画をユースクリーンで二つ見付けたという。成瀬が標本を持ってきていたあの変な生き物、ミドリシャミセンガイの仲間のことだ。
成瀬がすぐに、見たことのないキャラクターが感謝を述べる画像で反応した。
ふたりとも高幡学園に行けるのを、そこで活動できるようになることを本当に望んでいる。成瀬にとっては最高の環境だろうし、モリーも調べることを楽しんでいて自分の知識を活かす気満々だ。
私はどうなんだろうか。
ふたりが作るものを見たい……そんな望みまで、ふたりより一歩下がったところにあるような気がしてしまう。
東京のはずれに引きこもっているつもりか。黒田の言葉がふと頭をよぎった。
もしかしたら、私のアキシマクジラに対する想いはそんなものではないだろうか。
つい、動画のリンクをタップしてしまった。
一つ目はある高校の生物部が作った生態の動画だ。イチョウの葉を膨らませたような殻を持った生き物が、水槽の水底に敷かれた砂の上に佇んでいる。
これが腕足動物だという。ミドリシャミセンガイとはだいぶ違って見える。
部員がスポイトで粉末状の餌を流してやると、煙のようになった餌は動かない殻の間にするすると吸い込まれていく。
次に殻の中身の標本が映り、中身はほぼ空洞で渦巻き状の触手が空間に浮かんでいることが分かる。
この触手を動かさなくても殻の造りのおかげで餌を含んだ水流が勝手に殻の中に入ってくるのだという。貝柱の力で水を出し入れして濾過する二枚貝とはだいぶ異なる、ということも説明される。
飛び跳ねるブラウンスイシカゲガイのことを変な貝だと思っていたが、そもそも貝のことをよく知らなかったな……ということが、腕足動物の説明でかえって実感された。比べる相手が出てきたおかげで貝のことが分かったのである。
そんなふうに、殻も動かさず向きもゆっくりとしか変えず、めったに動かずに生きているのが腕足動物だという。
二つ目の動画はサメを思わせる格好をしたバーチャルユースクリーナーが解説するものだった。
「やー、宿題出されちゃって今回はサメ全然関係ない腕足動物なんだけどー」
などと自信なさげに始まる割に、プレゼンは見事の一言だった。
まず貝と違う構造やそこから来る暮らしは前の動画のとても良い復習になった。
じゃあひっそりと生きているマイナーな生き物なのかと思ったら、
「こいつはスカチネラ、片方の殻が筒でもう片方が蓋になってる……こいつはネオスピリファー、形がシャープでかっこいい……こいつはワーゲノコンカ、椅子みたいな形してる……こいつはレプトドゥス、殻が片方だけスカスカで意味分かんない……こいつはギガントプロダクトゥス、クソデカい……」
何億年も前にいたというすごくたくさんの種類が次々と出てきて、勝手に抱いていたイメージが壊された。
その後の時代の化石もある程度見付かっていて、今もちゃんと何種類も生きているのだという。
深海にもいるし、浅いところにもいて、ミドリシャミセンガイもそのひとつだ。
生きているミドリシャミセンガイに続いて出てきたのは、もやし炒めそっくりになって小鉢に盛られている姿だった。
そんなまさかと思ったが、地域によっては食べるのだという。
「いるところには取って食うほどたくさんいるんだけどなー、そのたくさんいる干潟自体がなー……」
ミドリシャミセンガイの暮らせる環境はどんどん減っているのだという。
腕足動物の歴史が閉じてほしくないということを語って、その動画は終わった。
私もそう思う。昭島にいたものの歴史が続いていてほしい。
自分達が興味を持った生き物について、別の人達が別の取り組みをやって想いを込めているのだった。
モリーからまた新しくメッセージが届いた。
『一覧も更新したよ』
すると成瀬から信じられない早さで長文の返事が来た。
『これだけ後の時代のものを反映することは実際にはないだろうが同じ多摩川からこんなものまで出ていること自体は興味深いな』
成瀬め、気になる言いかたをしやがって。面接もあるんだから早口直せって言ってるだろうが。
モリーが最近調べたことをファイルにまとめて、クラウドストレージに保管してあるのだ。今まで我慢して見ないようにしていたが……。
いいか、見るか。今夜くらいは。
生き物の名前とデータの一覧表が表示された。昭島近辺で発掘された化石のデータだ。
アキシマクジラとぴったり同じ地層か、その地層の上下の地層か。今同じ種類が生き残っているか。いなければ何の仲間か。そういったデータの集積だ。
例えばアカガイは今も生き残っているし、ブラウンスイシカゲガイは絶滅して今一番近い仲間は遠く離れたカリフォルニアにいる。アケボノゾウは実は今のゾウと同じ科ではなく近い仲間まで絶滅してしまった。そんな情報が一目で分かるようにまとまっていた。
メタセコイアは野生では絶滅危惧種だという。つまり、生き残っている種類が絶滅危惧種かどうかということまで載せてあった。
よくここまで調べたものだ。モリーにとってはこれをやることが推薦試験に当たっての自信につながるかもしれないが。
とにかく貝の種類が多い上に、絶滅している種類はわずかだ。
ずらずらと下にスクロールして貝類の区間を抜けたと思ったら、腕足動物だから貝とは分けてあるミドリシャミセンガイが出てきた。
「干潟の環境が失われ、いくつかの県で絶滅危惧、または絶滅。危機的な状況」。備考にそう書き込まれていた。
やはりあと少しで絶滅したものの仲間入りをしそうになっている。そんな際どいものが、かつては昭島にもいたのだ。
今なら絶滅しそうなものが生きていけるくらい豊かな環境だったのだろう。何しろ環境を壊す人間がいない。
一覧表の中から、絶滅危惧種を他にも探してみた。
まず、そもそもアキシマクジラ。今いるごく近い種類のコククジラは西太平洋、つまり日本も含む海では絶滅危惧種だ。
シフゾウ。今いる種類も野生では一度絶滅している。
アケボノゾウ。今のゾウは三種とも危険な状況。
ファルコネリオオカミ。ニホンオオカミとすごく近いというわけではないが、ともかく日本では絶滅している。今まで触れていなかったアシカも同じく。
ホホジロザメ。これもれっきとした絶滅危惧種だ。
貝のアズマニシキ、アカガイ、ミルクイ。東京湾では激減してしまった。
日野市ではアホウドリや、ヒノクジラという化石クジラが見付かっている。そしてアホウドリも、ヒノクジラに近いマッコウクジラも絶滅危惧種だ。
とにかく今では珍しくなってしまったものが次から次へと出てくる。
思ったよりとんでもない世界に関わってしまっているのではないか。
これを引きこもっていると言えるだろうか。いや、この世界を描くことは今の生き物の現実につながっている。昭島がもう陸になってしまってクジラがいないというだけではない。
一覧の一番最後には、ステラーカイギュウという名前があった。今回追加したのはこれらしい。
今でいうジュゴンやマナティーの仲間だという。哺乳類は上のほうにまとめてあったのになぜこれだけ外してあるのか。
発掘地は狛江市、昭島から多摩川をだいぶ下ったところだ。地層も全然違うのか、時代はアキシマクジラより数十万年も後だ。
備考には「大航海時代に狩り尽くされて絶滅 世界最古のステラーカイギュウ化石」とある。
なるほど、アキシマクジラより数十万年も後の化石が世界最古ならアキシマクジラと一緒にいたはずはない。それで外してあったのだ。
これも多摩川が武蔵野台地を削って掘り出した化石の世界の一部だ。アキシマクジラの世界は別の世界へと続いていく。
成瀬は、私達は、洞窟に閉じこもっているのではない。進みたい方向に向けてトンネルを掘り進んでいるのだ。
私もその世界に向けて掘り進まなければ。
結論から言うと三人とも無事合格した。もちろんモリーは推薦だ。
桜ではなく梅が咲いているのを見ながら、私達は西東京市の科学館にやってきた。乗り換え二回で片道一時間半のささやかな卒業旅行だ。
物理や宇宙、人体の展示はまあ置いておいて、生き物の展示も林と川の生き物が中心なのでさらっと見て、目当ては最後のフロアだ。
「多摩地域の地質をこんなに展示しているのか」
成瀬が静かに感じ入る。
武蔵野台地を覆う関東ローム層の詳細、その下や外の地層がどうなっているか、河原の石の観察方法と川ごとの特徴、崖から湧き水が出る理由……。
「上野の博物館だと日本全体の展示ばっかりで東京の展示が詳しくないから、ここのほうがいいと思って」
「国立だとそうなるのか」
「でもそっちもいつか行こうね」
「うん」
話しながら私達は武蔵野台地の地形を表した大きな立体地図の周りを回っていた。
東京の大部分が青梅を中心として東に開いた扇形の斜面になっていることが分かる。その中で昭島はどこにあるのか……、
「あっ、あった」
拝島駅の位置が示されていて、昭島が扇形の南の縁にあることが分かる。
「台地の縁になってるのって、多摩川か」
「多摩川を渡るとすぐ山なんだね」
「川の働きで昭島までは削られて平らになっているということか」
私は川の線を辿って、八高線の線路と交差するところを見付けた。
「ここが発掘地点だ」
「ああ」
北側の緩く傾いた台地と南側の丘陵に挟まれて、多摩川の流れているところは谷間になっている。
「多摩川が掘り返してくれたんだね」
「もし川の位置がずれていたらアキシマクジラは山か台地のどちらかに埋まったままになっていたところだ」
また別の、多摩地域の化石の展示では、ちょうど昭島の位置が当時の海岸線だったことが図に示されていた。
過去の海岸線にアキシマクジラが打ち上がった位置と、今の多摩川が重ならなければ、アキシマクジラは姿を現さなかったのだ。
アキシマクジラに近い時代の化石は、昭島のものもあれば近隣の日野や八王子のものもあった。陸のものはアケボノゾウの足跡やメタセコイア、海のものはホタテやウバガイと、
「昭島と同じような化石が見付かってるんだね」
「同じような風景が広がってたのかな」
今や珍しくなってしまったもの達の世界か。
成瀬はなにか一つの化石に注目していた。きめ細かな岩の表面に丸い痕跡がいくつもある。それはカニの巣穴の跡だった。
「今の干潟のように何匹ものカニが巣穴を掘って生息していたという風景を如実に表す標本だ」
多摩地域の化石はもっと前、もっと西のものへと移り変わっていった。
そして日本や世界の他の地域の化石と一緒に、化石から蘇らされた生き物の水槽が並んでいた。真四角のシャープな、机の上に置けるような水槽だ。
腕足動物もいれば二枚貝もいる。見ているうちに動かないのはどちらも同じだった。ダンゴムシのような虫がいると思ったが、小型の三葉虫だった。
「なんだか化石のまんまみたいなのが多いね」
「魚などは少ないようだな」
「この辺なんか、何がいるんだか分かんないんだけど」
一見何も入っていないように見えるのにきちんと管理されていそうな水槽が三つもあった。
「あ、有孔虫って書いてある」
「あのアキシマエンシスにあった顕微鏡で見るようなやつ?」
「ルーペを使えば砂と見分けがつくようだ」
成瀬は備え付けの虫眼鏡越しに水槽の底砂を凝視していた。ちょうどあと二つあるので使ってみると、他とは全然違う砂粒があるのが見えた。
「なんか、星型になってるやつがある……?」
「こちらのものは米粒型をしている。まれに動くようだ」
単に動くだけでも驚きなのだが、そこでモリーが何かに気付いた。
「あっ、そっか。動けるから……」
「ん?」
「ほらここ」
モリーは水槽の正面に見えている底砂の断面を指差した。
虫眼鏡越しによく見れば縦長の筋みたいなものがいくつか見えた。筋のところは砂が排除されたようになった縦穴だった。
その一番下まで見てみれば、そこには砂粒と変わらない大きさにもかかわらず渦巻き型をしているものが潜んでいた。
「こんな小さいのが自力で巣穴掘ったのか」
「なんか、すごいね。見たこともない世界だよ」
「実にそのとおりだ」
成瀬が低い背を活かして机の下から覗き込んできた。
「アキシマクジラの触れていた砂泥はこうしたごく小さな生き物の暮らす場であったということは意識したいな。砂も生きているというわけだ」
そう言いながら写真を撮りメモしている。制作の展望が見えて活き活きしてきた感じがする。
「ところでこちらの水槽はルーペを使っても何がいるのか見付からないのだが」
空きに見えていた三つの水槽の最後の一つだった。成瀬はルーペ越しに砂を凝視するが、
「このポテチみたいなやつじゃね?」
「何だと」
砂の上にはうっすらと緑がかった薄い円盤状のものがいくつも並んでいた。
よく見ればそれは強いライトに照らされて透けるような質感で、年輪をさらに放射状に区切ったような模様があった。明らかにこいつがこの水槽の生き物だ。
「はは、砂ばっかり見てたから」
「かえって大きいものに気付かなかったんだね」
間抜けなことだと思い私もモリーも軽く笑ったが、成瀬はわざとらしく頭をかいてから、
「だが待ってほしい。砂粒ほどのものの並びになぜこれが」
と言い出した。
「そりゃこれが関係ない隣のやつだからじゃ……あ、違うな」
「これも有孔虫みたい」
解説の文中には「有孔虫という単細胞の原生生物」とあった。タイトルは「お金の化石?」となっている。
この生き物は「貨幣石」というらしい。
「こんなデカい単細胞生物が……」
「あっ、これも一応東京の化石だよ」
添えられている化石の産地に母島と書いてある。
「母島って小笠原?どこだっけ」
「ここ」
モリーはスマホで地図を表示して見せてきた。
函館から東京までと同じくらい東京から南下したところに島がある。これを見るまで伊豆諸島と大して変わらない位置だと勘違いしていた。
「東京って広いんだな……」
これを見れば昭島どころか奥多摩でも東京のど真ん中だと感じられた。
「時代も場所も離れすぎているのでアキシマクジラとは無関係か」
貨幣石自体はそうなのだが、
「小笠原ってアホウドリがいなかったっけ」
モリーが作った一覧に載っていたアホウドリの名前が浮かんだ。
「そうだね。あれっ?私そのこと書いたっけ」
「分からん、自分でなんか見たかも」
貨幣石が東京の化石だというなら。
「じゃあアホウドリも東京の生き物ってことじゃん」
「アホウドリも出したほうがいいかな。どう?」
モリーが成瀬にたずねる。
「海の広さや海中の生物と異なった動きが見せられて表現の幅が広がるだろう。登場させる甲斐がある」
展示とは関係ない大事なことが決まってしまった。
地質のフロア以外にも目当てがあった。プラネタリウムだ。
高幡学園のものと比べてだいぶ大きいみたいだが、とにかく高幡学園にもプラネタリウムがある。
入場して三人並んで席に着くと、背もたれは傾いていて、視線は自然にドームに向いた。ここにアキシマクジラが映し出されたらどんな感じがするんだろうか……。
「あのさ」
「うん」
モリーの返事だけ聞こえた。
「私は二人と比べると特に何もないと思うんだよ。面接で話すネタがあったのはどう考えても二人のおかげだよ」
両隣にいる二人の顔が見えていない今だから言えることだった。
モリーが何か言いかけたところで解説員の声が流れ始め、返事は聞けなかった。
残照の中に今日の月が映り、さらに暗くなって夜空一面に星が浮かび上がる。
これと一緒にアキシマクジラを映すのだ。
[腕足動物]
腕足動物は一見二枚貝に似た殻を持っているものが多いが、内部の構造は大きく異なる。二枚貝の殻の中は太い筋肉(貝柱)や大きな鰓、肉厚の足などが詰まっているのに対して、腕足動物の殻の中はほとんど空洞で、触手冠というばね状またはブラシ状の器官が空洞の中に収まっている。
水の中から餌になるものを濾し取って摂取するのは二枚貝も腕足動物も同じだが、二枚貝が筋肉の力で能動的に水を吸い込むことができるのに対して、腕足動物は自分から水流を起こす能力に乏しい。触手冠に生えた繊毛で水流を起こすことができるとされるが、中には外部の水流を誘導して受動的に内部の水を入れ替えると考えられるものもいる。触手冠の形態と殻の形態は、殻の内部に起こる水流により密接に関係しているようだ。
肉茎という結合組織でできた器官を利用し、海底にへばりつく。
現生種にはおおむね涙滴型の殻を持つシャミセンガイ類、平たい円錐形の殻を持つカサシャミセン類、分厚い楕円形の殻を持つチョウチンガイ類がいる。
[リンギュラ・アナティナ(ミドリシャミセンガイ) Lingula anatina]
学名の意味:アヒルのクチバシのような小さな舌
時代と地域:現世の東アジア沿岸
成体の殻長:約3cm
分類:腕足動物門 舌殻綱 舌殻目 シャミセンガイ科
シャミセンガイ類はカンブリア紀に起源を持つ。カンブリア紀のものもすでにミドリシャミセンガイと同じリンギュラ属に分類されると考えられてきたが、実際には化石種と現生種では殻の内部の形態に違いがあり、それほど古い「生きた化石」であるとはいえないのではないかとも言われている。
ミドリシャミセンガイは日本国内の干潟に生息するシャミセンガイ類である。有明海では食用とされているが、干潟の環境そのものが激減していて絶滅が危惧されている。
緑色をした殻は多くの二枚貝と比べると薄くて柔らかく、半透明である。殻の尖った後端からはとても長い肉茎が伸びている。砂地に穴を開けて肉茎を深く刺し先端を膨らませることで体を固定し、殻の幅広い前端だけを穴から出して暮らしている。刺激を受けると肉茎を収縮させ、殻に入った体を穴の奥に引っ込めて身を守る。
ミドリシャミセンガイと同じリンギュラ属の殻の化石が、アキシマクジラの産出した小宮層から密集して発見されている。これは当時小宮層の堆積した環境が干潟であったことを示し、砂泥が幅広く堆積する静かな環境であり、ひいては島または砂州によって外海からの波が遮断されたラグーンが広がっていたのではないかとも言われる。
[キルトスピリファー・ヴェルネウイリ Cyrtospirifer verneuili]
腕足動物にはペルム紀末までは現生種よりずっと多くの種類がいた。キルトスピリファーはスピリファー類に属する腕足動物の代表的なものの一つである。
スピリファー類は古生代の中頃に繁栄した腕足動物のグループである。翼形と呼ばれる、左右に翼を広げたような殻を特徴とする。このことから石燕という古名を持つ。
キルトスピリファーはデボン紀後期のスピリファー類で、翼状の部分が特に長く発達し、イチョウの葉に似た左右に長い扇形をしていた。殻の中央部分は片方で膨らみ、もう片方では凹んでいる。殻の先端で凹凸が噛み合う部分をサルカスという。2枚の殻はわずかなすき間を開けていた。
新潟大学の椎野勇太氏は、キルトスピリファーを含めた腕足動物の殻に関する流体的な実験と解析を行っている。
この研究により、スピリファー類の場合は周囲の流れがサルカスの開口部から流入し、翼状部の中で触手冠を取り巻く渦となりつつ外側に向かい、翼状部の開口部から流出することが分かった。
どちらからの流れでも内部に取り込めるが、流速に関わらず適度に弱い安定した渦を内部に作り出せる向きは決まっていた。また秒速1cmというごく弱い流れでも内部に渦を作ることができた。
キルトスピリファーはこのような殻の機能を利用して、海底の砂の上に立って水流から餌を濾し取っていた。古生代の中頃には陸上で森林が広がり有機物の産生量が増したため、河川から海に栄養豊富な水が流入し、受動的に餌を捕えるスピリファー類の繁栄を促したのではないかとも言われている。
[スカチネラ・ギガンテア Scacchinella gigantea]
スカチネラが属するプロダクトゥス類の腕足動物はペルム紀に特に大繁栄して殻の形態も非常に多様化していた。
スカチネラ自身は片方の殻が長い円錐形、もう片方の殻が蓋状になっていた。ペルム紀後期の地層である岐阜県の金生山の下部層から、ウミユリと一緒に密集して発掘される。
[ワーゲノコンカ・インペルフェクタ Waagenoconcha imperfecta]
腕足動物の殻の形態は様々だが、ワーゲノコンカの殻は背もたれと座面が一体化した椅子のように、2つの殻がともに同じ方向に曲がった形をしている。
新潟大学の椎野勇太氏が行った実験と解析によると、ワーゲノコンカの周囲の水流により殻の周囲に圧力差が生まれ、効率的に殻の中に水流を生み出し餌を濾過することができたという。この研究には宮城県気仙沼市の上八瀬から発掘されたワーゲノコンカが用いられた。
[ネオスピリファー・ファスキゲル Neospirifer fasciger]
ワーゲノコンカと同じく上八瀬で発見される腕足動物だが、パラスピリファーと同じくイチョウの葉に似た形態のスピリファー類に属する。
[レプトドゥス・ノビリス Leptodus nobilis]
特に変わった形態をした腕足動物である。
殻はおおむね楕円状の輪郭をしているが、片方の殻には左右の縁から中央に向かうスリットが多数平行に並んでいた。このため全体がシダの葉のように見える。これもワーゲノコンカやスピリファー類の場合と同じく、なんらかの形で水流を利用して内部に水を導入することのできる形態であると思われる。
レプトドゥスの化石は上八瀬やその周辺、金生山など各地のペルム紀の地層で発掘されている。また上八瀬からは他にも様々な腕足動物が発見されている。
[ギガントプロダクトゥス・ギガンテウス Gigantoproductus giganteus]
ギガントプロダクトゥスは史上最大とされる石炭紀の腕足動物である。他の腕足動物が数cmか大きくても10cm程度なのに対し、ギガントプロダクトゥスの殻は30cmを超えることもあった。殻全体は中央が膨らみ両端が細く、クロワッサンのような形をしていた。
[有孔虫]
有孔虫は、炭酸カルシウムの殻を持つ単細胞生物である。カンブリア紀から現世に渡って海洋性のプランクトンもしくはベントス(底生生物)として生活している。浮遊生活を送るものを浮遊性有孔虫、底生生活を送るものを底生有孔虫という。底生有孔虫のほうが種類が多い。
有孔虫の殻はチェンバーと呼ばれる部屋がつながった構造をしていて、その中に1つの細胞が収まっている。数十μm程度から数mm、ごく一部は数cmほどになる。浮遊性有孔虫の殻は球形のチェンバーが規則的に集まったものが多いが、底生有孔虫の殻はアンモナイトに似た螺旋状や、フズリナ類のような紡錘形、ホシズナBaculogypsina sphaerulataのような棘の生えた球状などである。
またチェンバーの表面には無数の孔が開いていて、これが有孔虫という名前の由来となっている。殻の表面は細胞質で薄く覆われていて、この細胞質の一部を放射状に細長く伸ばす。これを仮足といって、周囲の海水と物質の交換を行う。
小さなプランクトンや有機物の粒子、バクテリアなどを食料とする。
底生有孔虫は単に海底にいるというだけでなく、海藻に付着するものや底砂に巣穴を掘って暮らすものなど、生活の場が種類ごとに決まっている。有孔虫の掘った巣穴が海底堆積物の酸素分布とバクテリアの多様性に影響を与えるともいわれている。
細胞の寿命は長くて数ヶ月程度だが殻は頑丈で、堆積物中に化石として保存されやすい。有孔虫の殻化石のようなごく微小な化石を微化石という。
示準化石(地層の年代を推定する根拠となる化石)としても利用されているが、示相化石(地層が堆積した当時の環境を推定する根拠となる化石)としてより重要視されている。
環境によって生息している種類が異なるため、産出する種類から堆積した環境が推定できることに加え、化石の殻そのものに海水の成分や温度、塩分等の濃度といった化学的な情報が保存されているため、化石の殻を分析することにより当時の海洋環境を知ることができる。
[ノニオン属の一種 Nonion sp.]
掘削性の底生有孔虫である。底生有孔虫によく見られる、へその小さいアンモナイトのような平面渦巻き状の殻を持っている。
現生属ではあるが化石としても発見される。小宮層からもボーリング調査によって発見されていて、アキシマクジラ生息当時の海洋環境の手がかりとなることが期待される。
[ヌンムリテス・ボニネンシス Nummulites boninensis]
ヌンムリテス属は主に新生代古第三紀に繁栄した特に大型の有孔虫である。直径10cmかそれ以上にもなり有孔虫としては非常に大きい、薄くてややゆがんだ円盤状の殻を持っていた。この形状と大きさから貨幣石とも呼ばれる。
この殻の形状はノニオン属のような渦巻き型にチェンバーが並んだものがさらに何十周も巻いたものである。ヌンムリテス属の中でもヴェノスス種N. venosusは現生しているが、貨幣石と呼ばれるような姿ではなく渦巻き型をしているのが分かりやすい通常の有孔虫の姿をしている。
全てのヌンムリテスの個体がとても大きかったわけではなく、ガモントという1mm程度で生まれ5mm程度まで成長し有性生殖を行う世代が、アガモントという世代をより小さな直径で生み、アガモントは大きく成長して無性生殖でガモントを生むという生活環を持っていた。
さほど近縁ではないがゼニイシMarginopora vertebralisという現生の有孔虫も、1cmほどになる大きな円盤状の殻を持つ。ゼニイシのような現生で大型の有孔虫は体内に藻類を共生させることで光合成により栄養を得ていて、ヌンムリテスも同様だったと考えられる。
ボニネンシス種は小笠原諸島の母島にある始新世の地層から発掘される。
[カニス・クセノキオン・ファルコネリ(ファルコネリオオカミ) Canis(Xenocyon)falconeri]
学名の意味:ファルコナー氏の奇妙なイヌ
時代と地域:鮮新世(約250万年前)から前期更新世(約180万年前)のユーラシア(日本を含む)からアフリカ
成体の肩高:約70cm
分類:北方獣類 食肉目 イヌ科 イヌ属 クセノキオン亜属
高度に肉食に適応した大型のオオカミで、同じクセノキオン亜属のリカオノイデス種C. (X.) lycaonoides等とともにリカオンLycaon pictusとの類似性が指摘されていて、リカオン属に含める説もある。ニホンオオカミC. lupus hodophilaxとの類縁関係はイヌ属であるということ以上にはない。
ファルコネリオオカミは中国北部、パキスタン北部、イタリア、スペイン、アフリカなどから発見されているが、国内では昭島市の拝島水道橋付近で加住層から発見された。ファルコネリオオカミが日本に到達していたことや、当時の日本の上位捕食者の様子が分かる標本である。頭骨・頸椎・前肢の大部分と腰椎を含んでいる。
[ザロフス・ヤポニクス(ニホンアシカ) Zalophus japonicus]
学名の意味:日本産の目立つトサカがあるもの
時代と地域:20世紀までの東アジア(カムチャツカ半島、九州以北の日本、朝鮮半島)沿岸
成体の体長:オス240cm、メス180cm
分類:北方獣類 食肉目 アシカ科 カリフォルニアアシカ属
カリフォルニアアシカZ. californianusとごく近縁なアシカである。かつては同種の別亜種と考えられていた。カリフォルニアアシカよりも大型で歯が多く、オスの頭頂部の隆起(属名のとおりトサカに例えられる頭骨の矢状稜に支えられる)が大きかった。
カリフォルニアアシカと同様、沿岸部で魚や頭足類を捕食していた。
生息当時はヒトにとって身近な海獣であり、東京湾までも含め(横須賀市の海獺島)全国各地にニホンアシカが由来の地名がある。いっぽうで油や毛皮を得ること、漁場からの排除などを目的とした乱獲が行われ、生息環境の変化と並んで絶滅の原因の一端であると考えられる。第二次世界大戦の前までは動物園で飼育されることもあったが、戦後はカリフォルニアアシカに置き換えられた。最後の目撃例は1970年代で、事実上絶滅したと宣言されたのは1991年のことである。
昭島市内では小宮層の後の福島層からアシカ科の断片的な化石が発見されているが、当時にはニホンアシカにつながる系統はすでにカリフォルニアアシカから分岐していたと考えられるものの、福島層の化石がカリフォルニアアシカ属(ひいてはニホンアシカの系統)であるとは限らない。
[フォエバストリア・アルバトルス(アホウドリ) Phoebastria albatrus]
学名の意味:預言者であるアホウドリ
時代と地域:前期更新世(約180万年前)から現世の北太平洋
成体の翼開張:約2m
分類:ミズナギドリ目 アホウドリ科 キタアホウドリ属
開けた海面上に生息し、ダイナミックソアリングという風速の遅い低高度と風速の速い高高度をうまく行き来することで羽ばたくことなく長距離を飛び続ける技術を使い、海面で得られる魚、頭足類、甲殻類、海獣の死体を探して食べる。
繁殖期にしか上陸することはなく、陸上ではうまく行動できないこともあって主に羽毛を目的として乱獲されたことと、堆積した糞が肥料等に利用できるため繁殖地が破壊されたことにより生息数が大幅に減少した。現在小笠原諸島などの繁殖地では保護活動が行われている。
日野市の浅川・滝合橋右岸上流で平山層から発掘された約180万年前の上腕骨の化石がアホウドリ(P. albatrus種そのもの)の世界最古の記録であるとされる。長さは30cmほどで、翼開帳は2m以上になったと考えられる。ウバガイ、ホタテ、エゾマテガイなど寒流系の貝が共産する。
[マッコウクジラ属の一種とされる鯨類(ヒノクジラ) Physeter sp.]
属名の意味:クジラらしく潮を吹く者
時代と地域:前期更新世(約180万年前)の東アジア(日本)沿岸
成体の全長:不明(12m程度?)
分類:北方獣類 鯨偶蹄目 鯨河馬亜目 ハクジラ下目 マッコウクジラ科 マッコウクジラ属
ヒノクジラは日野市の多摩川河床で福島層から発見されたクジラ化石である。長さ1.5mほどの、いくつかの断片に分かれた左上顎骨の一部である。
当初はアキシマクジラと同種か、同様のヒゲクジラ類と思われていた。この大きさと、先細りで細長い板状の形状は、一見ヒゲクジラ類(ナガスクジラ類)の平板な上顎骨のようにも見える。
しかし、この化石は表面が全体的に削れていて、骨の正確な外形は不明である。表面的な形状から判断するのは難しいといえる。
そこで「多摩川中上流域上総層群調査研究プロジェクト」の一部として詳細な調査が行われた。
化石の厚みは端から中央部へと大きく変化する。ヒゲクジラ類の上顎骨は厚みがより一定で、一番厚い部分でもより薄い。
また、組織は多孔質で、一つひとつの空洞が大きい。これに対してヒゲクジラ類の頭骨はより密な組織である。
こうした特徴から、ヒノクジラはマッコウクジラP. macrocephalusに近縁であると考えるのが妥当であるということが分かった。ヒゲクジラ類を除くとそれほど長大で扁平な上顎骨を持つのはマッコウクジラに限られ、また厚みや断面形状、多孔質の組織の様子がマッコウクジラによく一致するためである。
ヒノクジラは国内の更新世のマッコウクジラ類として唯一の化石であるということになる。
なお、マッコウクジラではこの扁平な上顎骨は脳油という角張った頭のほとんどを占める器官を支えている。
脳油は鼻道で発生させた音波を前方に集中させ、エコーロケーションのための音波を獲物に当てるのに役立つとされている。これは光が届かず視覚では獲物を捉えられない深海で狩りをするのに有利な特徴である。
マッコウクジラによく似た上顎骨を持っていたヒノクジラにも、深海で優れたエコーロケーション能力を発揮するのに有効な発達した脳油があった可能性がある。
アキシマクジラに近縁なコククジラは沿岸性で浅いところで採餌行動をするが、ヒノクジラに近縁なマッコウクジラは休息目的以外では浅いところに現れない。福島層の年代には小宮層の年代より水深が深かったと考えられることと噛み合っている。
[ヒドロダマリス・ギガス(ステラーカイギュウ) Hydrodamalis gigas]
学名の意味:巨大な海のウシ
時代と地域:前期更新世(約130万年前)から18世紀の北西太平洋
成体の全長:9m
分類:アフリカ獣類 海牛目 ジュゴン科 ステラーカイギュウ亜科
ステラーカイギュウはジュゴンDugong dugonやマナティーTrichechusと同じ海牛類で、1768年の記録を最後に絶滅した。
絶滅する前に博物学的な記録を採っていたのが発見者の一人である医師で博物学者のゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラーのみなため、生前の姿や生態に関する記録はごく少ない。
ジュゴンやマナティーが温暖な海や川で水草や海草(海に生える被子植物)を食べるのに対して、ステラーカイギュウは寒冷なベーリング海で海藻、主にコンブを食べていた。
ジュゴンやマナティーと比べてはるかに大型だったことも大きな特徴で、冷たい海の中で体温を保ちやすくなる適応だったと思われる。
マナティーよりジュゴンに近縁だが、顎は下向きになっているジュゴンと違ってマナティーのように前向きになっていた。食物を海底ではなく海面で採っていたと考えられる。深層性の海藻は動物に食いちぎられると防御物質を出してそれ以上食べられるのを食い止めるいっぽう、表層性の海藻は波でちぎれることが多いため、ステラーカイギュウがちぎり取ったときも波でちぎれたときと同じで防御物質を出さなかったと考えられる。海が流氷で覆われる冬には採食することができなくなり、肋骨が浮き出るほどやせたと記録されている。
歯はなく、上下の顎に角質の板があり、これによって海藻をくわえ取った。
一般的に手の骨はなく前肢は棒状だったと考えられている。少なくともシュテラーの記録では指は確認されていない。
肺が大きく、体が浮きやすかったとされている。また潜ることがなかったためか背中がざらついていたと記録されている。
尾鰭はジュゴンのように左右に分かれていた。クジラのように遊泳によく適応していたように見えるが、主な敵であるサメやシャチからは密生した海藻に隠れるだけで身を守れたようだ。密生した海藻の中ではサメは行動できず、またシャチも他の獲物となる海獣と違って浮きやすいステラーカイギュウに乗りかかっても窒息させることはできなかったと考えられる。
しかしこの方法は船の上から刃物で刺してくるヒトへの対抗手段とはならず、1742年頃にシュテラーを含む遭難中の第2次カムチャツカ探検隊に発見されて以来、極寒の海で飢えた航海者に肉を求められて乱獲され、発見から27年という短期間で絶滅した。
生体はベーリング海でのみ発見されたが、化石は東日本各地を含む北太平洋沿いの地域で発見されている。シュテラーらに発見された時点でステラーカイギュウの生息地はかなり狭まっていたようだ。
ステラーカイギュウそのものの化石は国内では北海道北広島市、千葉県君津市などから発見されている。狛江市の多摩川河床で上総層群飯室層から発掘されたものは世界最古のステラーカイギュウの化石である。
この地層は約130万年前のものとされる。アシカ科、イルカ、鳥類、ワニ、貝、エンコウガニ、アマモ印象化石が共産している。
このステラーカイギュウは100点ほどの化石からなり体の大部分が保存されていて、推定体長5mほどとされる。ホホジロザメの歯が肋骨に刺さり、また鯨類の骨が分解されるときに現れる生物の痕跡があった。
不完全ながら手根骨(手首の骨)や中手骨(手の甲の骨)が含まれていた。これまでのステラーカイギュウの標本からは知られていなかった部位であり、前肢の形態に再考を迫るものである。
国内からは北海道滝川市のタキカワカイギュウ(H. spissaまたはH. cuestae)という、ステラーカイギュウと同属別種でより古い年代の海牛類も発見されていて、狛江市の標本はそのようなものとステラーカイギュウの生息年代のギャップを埋める。
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