第88話「武蔵野フォッシリウム編その2 唐傘と魚石」
成瀬とアキシマエンシスで出くわした、まさにその翌日。
午後の授業中、前の奴の背の陰で、スマホの画面に成瀬麻由の名が表示された。
口の形だけで「は?」と言いながら確認する。
グループチャットを修学旅行のときに作ったが、その後は放っておいていた。それが今急に使われたのだ。
『昨日のことに倣って人に聞くということをもう少ししようと思ったので聞くが奥多摩駅から品川に行くにはどうしたらいいか』
全然話が見えない。
『なんで奥多摩なんだよ』
『気がついたら終点の奥多摩だった』
『そうじゃなくて』
普通に昭島から品川に行くとしたら立川で乗り換えて新宿方面に行かないといけないはずだが、まさか。
『逆方向の電車に乗ったまま乗り過ごしたんだろ』
『やはりそうか』
なにがやはりだ。
『なんで途中で気付かないんだよ』
『品川の水族館に行こうと思い立ったんだが自力で都心に出るのは初めてだったんだ』
昨日の今日でなぜ水族館……、いや、そうか。アキシマクジラの周りにいたような海の生き物を実際に見ようとしたんだ。
そのときふと教室が笑い声に包まれたので、うっすら聞こえていた教師のジョークに私も受けた振りをした。その裏で全然違うことを考えている。
周りの細かい生き物もきちんと描けば今のコククジラではなく当時のアキシマクジラらしく見せられる。昨日は確かにそういう話をしたが、そのために翌日初めて一人で都心に行くのもためらわないのか。
授業時間中に、電車の乗りかたもよく知らないのに。本当に優先順位がおかしい。
そういうふうになれるってすごいよな。この教室にいる誰もそこまでできないってことだもんな。
午後二時。本人がどういう時間の見積もりだったか知らないが、今から奥多摩を出発して新宿で乗り換えると……。
『着く頃には真っ暗になっちゃうだろうな。閉館に間に合わないかも』
『残念だ』
そう返ってきてやり取りは途切れ、そのまま休み時間になった。
「ほのちゃーん」
授業の間の短い休み時間にもモリーは席を立って駆け寄ってくる。
こうすることでこいつが学校に通えるならそれでいいが、こいつには他に本当の話し相手というものがいない。
「成瀬からの、見たか」
そう言われて初めてモリーはスマホを取り出す。モリーも同じグループに入ってはいるが、モリーが授業中にスマホを見ていたはずがない。
「えーっと……?」
やっぱり後から読んでも話が見えないみたいだ。
「まあ、電車を乗り間違えて品川の水族館に行けなかったってだけの話だよ」
「そっか。そんなに海の生き物が見たかったのかな」
モリーが力なく言う。その声を聞いて改めて、成瀬が不憫だと思う。
あいつにとっても思い切った行動だったかもしれないし、楽しみにもしていただろう。
ちょっとでも埋めてやれたら。
「でも、昨日ってアキシマエンシスの小さい化石を見てみたらっていう話だったよね」
「ん?そうだな」
「先にそっちを見るんじゃダメだったのかな」
「両方見といたほうがいいよな。あ、そうだ」
今あいつが奥多摩から昭島に戻ってくる頃には大体放課後になっているだろう。
「あいつアキシマエンシスに呼ぼう。今日また見に行こう。いいよな?」
「えっ、あっ、うん」
そして放課後。まだ成瀬の姿はなかった。
アキシマエンシスの一階、雑誌や児童書の本棚が並んだホールの隅に、幅一メートルほどの標本ケースがある。私とモリーは職員さんの案内を受けていた。
「三つ分かれているうち左が拝島橋より上流、真ん中がアキシマクジラと同じ八高線のあたり、右が多摩大橋の辺りと、上流から下流の新しい時代の発掘地に移り変わってます。環境も違って、一番上流の層は陸の層だから陸の植物やゾウやシカが出るんですね。アキシマクジラの層は浅瀬、一番下流の層は深い海の底だったんです」
「段々深くなったんですか?今は陸だから段々浅くなったんだと思ったんですけど」
学校の外のモリーは少しは元気だ……が、声が小さい。やはり学校の奴に見付かるのを恐れている。
「二百万年近く前のことですからね。その後にも色々な気候変動があって今の地形に辿り着いているわけです」
「なるほど」
今回の目的はアキシマクジラの周りの様子を知ることである。
「陸の生き物ってアキシマクジラとは直接関係ないですかね」
「流木やクルミの殻が海に流れ着くかもしれないですよ」
職員さんがオオバタグルミというのを指差す。ごつごつした殻の化石と、殻が埋まっていた跡の化石がある。
「オオバタグルミは絶滅してますけど、他にもマツ、ナラガシワ、ハンノキと、どちらかというと暖かい水辺の木々が多いです」
「メタセコイアもありますよね」
とモリー。
「そうですね。今は展示してないですけど多摩川の他の地域でもメタセコイアはたくさん発掘されてます」
モリーは元々メタセコイアを中心に木のほうが詳しかったはずだ。
しかし私についてまわるようになったのもメタセコイアがきっかけだった。今どのくらい気にしているんだろう。自分の知識を成瀬のCG制作に進んで役立てようとはしていないと思うが……。
「アキシマクジラと同じ地層からは貝を中心に浅い海の生き物や、巣穴の化石が見付かっています」
貝殻やサメの歯、骨の破片に混じって、石の棒みたいなものが並んでいた。
「巣穴とか足跡とか、そういう生き物の暮らしの跡が地層の中に残ることもあるんです」
「ゾウの足跡の化石なら見たことあります」
モリーはメタセコイアについて調べたとき見たもののことを言っている。
「ゾウの足跡も多摩川にありますね。小さな巣穴の跡も同じように残るわけです。アキシマクジラはこの巣穴を作る生き物を食べたのかもしれません」
「アキシマクジラの食べ物って……」
「泥の中にいる細かい生き物を食べたんだよ」
私の疑問にモリーが答えた。大きさは落としているがかなり楽しそうな明るい声だ。職員さんも続ける。
「今のコククジラと同じように海底の泥をろ過して小さな甲殻類などを食べたと考えられていますよ」
そんな基本的なことも知らなかった。モリーがいてくれてかなり助かっている。
「貝はアキシマクジラの食べ物ではなかったはずですけど、当時の環境を教えてくれます。どれも今ならもっと北国で採れるものか、その仲間ですからね。ここにないですがホタテが特に分かりやすいです」
「陸は暖かいのに、海は冷たかったんですか?」
モリーが食い違いに気付いた。
「そういうことになりますね。今の地球上にもそういう場所がけっこうありますけど、北から冷たい親潮が流れ込んでいて海水が冷たくなっていたんです」
職員さんはスマホを取り出して何か検索し、画面をこちらに向けた。
茨城の南側と千葉の北側から昭島まで陸地が大きくえぐれたように海に沈み、南のほうは神奈川と千葉の南側をつなぐ陸地でふさがっているという地図だった。
「北からの親潮は流れ込みやすいけど、南からの黒潮は一番奥の昭島までは入りにくかったみたいですね」
「あ、こんな大きい海だったんですね。単に多摩川が太くなったのを想像してました」
「他のクジラや大型動物もたくさん見付かってますからね。次の時代のこれも両方アシカか何かの骨ですよ」
アキシマクジラだけで泳いでいたのではなく、他のクジラやアシカとすれ違っていたのかもしれない。そんな光景を少し思い浮かべていると、
「来たが」
突然、背後からの声。成瀬だった。
「ああ、ちょうど職員さんに説明してもらってたとこだよ」
「そうか」
さすがに奥多摩から取って返して疲れた顔をしている。
「メモしてあるから後で教えてやろうな。な」
「う、うん」
モリーは私を盾にして成瀬から隠れる位置にずれていた。
「世話になるな。では私から質問しても?」
「ええ、もちろん」
職員さんは成瀬を迎え入れた。
「アキシマクジラ以外に完全に絶滅している種はありますか」
お、敬語が使えたのか。
今のコククジラと見分けのつかないクジラを当時のアキシマクジラに見せるためには重要なことだ。
「それなら、この中ですと……、ブラウンスイシカゲガイと、オオバタグルミがそうですね。それから、メタセコイアみたいに国内では自生しなくなった植物と、ホタテみたいに東京湾からはいなくなった海の生き物がいます」
「なるほど」
成瀬はブラウンスイシカゲガイ、二つの二枚貝の化石を食い入るように見つめ、角度を変えて何度もスマホで写真を撮った。
こんもりとした山のような形をしていて、くっきりした縦の筋がいくつも走っている。大きさはおにぎりほど、かなり存在感がある。
土の色をしたその化石の隣に、そっくりの形だが明らかに化石ではない、薄い褐色の貝殻が並んでいる。
「成瀬、この貝殻」
化石から蘇らされたブラウンスイシカゲガイの貝殻。
ラベルには品川の水族館から寄贈されたとある。元々成瀬の目当てだった水族館で、化石から再生されたブラウンスイシカゲガイが飼われているようだ。
「やはり改めて水族館に行く必要があるな」
「先にこっちで見ておいてよかったんじゃないか?」
「というと」
「アキシマクジラと関係あるって知らなかったら、生きてるのを見てもスルーしたかも」
私がそう言うと成瀬は標本ケースから顔を離して一瞬考え、それから、深くうなずいた。
「あの、アキシマクジラと他の生き物の関係にご興味があるようでしたら……」
職員さんはそう言って、郷土資料室の中に私達を案内した。
ホールとは別の小部屋、郷土資料室の中は少し薄暗い。
端の壁にはアキシマクジラやメタセコイアがいた頃の陸と海の動植物を風景の中にちりばめたイラストがかかっている。
陸にはゾウの群れが練り歩き、海にはアキシマクジラの隣に別のクジラも泳いでいる。
そのイラストのすぐそばにまた化石の入ったガラスケースがある。
「アキシマクジラと一緒に発掘されたものです」
「重大な手がかりだ」
ケースの中身は大きな二枚貝とサメの歯が三種類ずつだった。成瀬はケースの周りを撫でつけるように、何度も向きを変えてケースを覗き込んだ。
サメの歯で一番大きいのは、ホホジロザメだという。
サメに詳しくない私でもその恐ろしさは知っている。そんなのの歯がアキシマクジラと一緒に見付かったということは。
「私達のクジラ」の身に何が起こったのか、血生臭い想像をしてしまう。
成瀬は貝に集中していた。私も貝だけ見ていよう。
貝の中で一番目立っているのはさっきと同じブラウンスイシカゲガイ。今度は三つもある。
「ブラウンスイシカゲガイはたくさんいたんですか」
「はい。当時の昭島の環境がぴったりだったみたいで、大きさも他の産地より大きいです」
成瀬は握り拳を作ってケースに添え、大きさを比べたまま写真を撮った。
拳に力がこもって、親指の爪が白くなっていた。
その週の土曜日。
今度は間違いなく、揃って午前十一時に品川の水族館に到着できた。
水辺の公園の中にある、なんとなく九十年代っぽい建物だ。
「またこの三人で水族館に来るとは思わなかったな」
「うん」
入ってすぐ川や港の生き物を通り過ぎ、少し奥まったところにある、近海の恵みと東京の化石のコーナーへ。
壁いっぱいの大きな水槽には美味しそうな魚がたくさん泳いでいる。そのいっぽうで、砂が敷かれたり大きな石が置かれたりしている小さな水槽が、ガラス窓の向こうにずらりと並んでいる。
色々な貝をまるで研究所のようにきちんと管理しているところを見せているのだ。
「この辺全部ホタテか?」
「ホタテは昭島からも発掘されているということだったな」
成瀬は早速ホタテを観察し始めたが、
「トウキョウホタテだと?」
「何だそりゃ」
確かに水槽の下にはトウキョウホタテと書いてあった。普通のホタテと変わらないホタテが砂の上に横たわっているように見えるが、「発掘地:千葉県市原市」の文字が。
「千葉なのに東京……夢の国かよ。あ、こっちのやつは東京か」
「昭島とは産地も時代も離れているな」
そう言いつつも成瀬は熱心に観察を続けている。
殻の間からたくさんの短い触手が生え揃い、薄いオレンジ色の帯や黒い点々が見える。
「やはり生きている姿を見ておいて正解だったな。殻だけで考えるのとは全く違う」
「うん」
浜辺に落ちている綺麗な物体ではなく、肉の詰まった生き物だ。
「ここの貝みんな絶滅したやつか」
モリーは水槽の並んだ窓ではなく、その脇の掲示を見ていた。
「古生物ガストロノミー……?」
「ん、何だそれ」
「今美味しく食べてる生き物がその味になった歴史を明らかにするんだって」
それでホタテを中心に貝ばかりなのか。
読み進めていくと絶滅したホタテの仲間を実際に調理した写真が出てくる。
しかし一枚目から何かおかしい。
貝柱の刺し身なのだが、やけに厚さ、いや高さがあり、皿にそびえ立っている。柱というからにはこれくらい高くあれとでも言うかのようだ。
その横には、茶碗のように分厚く深いホタテの殻。
「うわ、何だこのデカいホタテ。「タカハシホタテ」?」
「それならここにいるな」
成瀬が水槽を指差す。
一見大きめのホタテがトウキョウホタテと同じように砂に横たわっているように見えるが、下になっている殻は完全に砂に埋まっている。敷かれた砂は他の水槽よりずっと分厚い。
そして水槽の上にはあの茶碗のような殻が飾ってある。どっしりと半分砂に埋まって暮しているようだ。
「大味であんまり美味しくないんだって」
モリーが解説の続きを読んでぽつり。
「本当に食べて確かめたんだなあ」
わざわざきちんと管理して育てた大昔の貝を食べてしまい、それで美味しくなかったという話を大人が本気で文章にまとめ、真面目な内容として掲げている。
すごく変な活動のはずだが、確かに私の見た世界はこれで少し広がってしまった。
「トウキョウホタテはけっこう美味しいみたい。タカハシホタテと違って泳ぐから今のホタテみたいに身が締まってるって」
「は?泳ぐ?」
「ホタテって泳ぐんだよ。あっ、ほら」
水槽の合間にはモニターが立てられていて、ちょうど「泳ぐトウキョウホタテ」というタイトルが出ていた。
すぐに、砂の上に横たわったトウキョウホタテを真横から見る映像が始まった。
上から棒が出てきてトウキョウホタテを何度かつつく。
すると、トウキョウホタテはいきなり体を揺らし、殻をパタパタ動かして泳ぎ出した……貝殻が開く側に向かって。
「え、そっちに進むのかよ」
「蝶番の両側に水の吹き出し口があるんだよ」
同じ映像がスローで繰り返される。貝殻が開く側から水を取り込んで蝶番側から水を吹き出しているのがなんとなく分かる。
映像が切り替わって、岩に貼り付いているちょっといびつなホタテの姿が映る。「ホタテの仲間には中新世のエグレギウスホタテや現在のアズマニシキのように、岩に糸で取り付いて泳がなくなるものもいます」という字幕。
「アズマニシキならアキシマエンシスにもあったがあれは嵐で流されてきたものらしいな。アキシマクジラが現れた砂地にはいなかったはずだ」
いつの間にか成瀬も映像を見に来ていた。
画面が切り替わり、その成瀬が急に色めき立つ。
「おお」
画面には「跳ねるブラウンスイシカゲガイ」という、次の映像のタイトルが出ていた。
アキシマエンシスで見たのと同じ薄い褐色をした、合わせ目からはハート形に見えるくらいふっくらした二枚貝が現れる。貝の間から白い身が覗く。
その貝をまた棒がつつく。
すると突然、貝が飛び跳ねた。
貝らしからぬ機敏な動きに、私達は三人揃って息を呑んだ。殻の間から何かが現れ、貝本体を跳ね上げたように見えた。
またスローモーション映像。やはり殻の間から足が伸びて跳ねたようにしか見えなかった。
「えーっ、何だこれ……」
「思ったより大変な特徴を持った貝だったな。素晴らしい」
成瀬はいつの間にかメモ帳とシャープペンを取り出して絵を描いていた。
「お前、CGだけじゃなくて絵も描くのか」
「モニターの映像は撮影禁止だから記録するためなら何でも使うぞ」
映像はまな板の上のブラウンスイシカゲガイに切り替わった。作業員が殻むきナイフを差し込んで殻をこじ開ける。
殻の中には、やはり足としか言いようのない、膝のような部分で曲がった肉が収まっていた。
「今のイシカゲガイと同じように足が発達しています」という字幕。
「本当に足っていうのかこれ」
「これは大収穫だ。ただ動かない貝を添えるよりも説得力のある映像が作れるぞ」
成瀬は拳を握り、水槽の中のブラウンスイシカゲガイを見付けて観察し始めた。
「貝はアキシマクジラが食べたわけじゃないんだよな」
「だが砂泥に生息していたなら食事中のアキシマクジラが近付いた可能性はある」
和歌山でイサナケトゥスから離れなかったときと同じ目になっていた。
水槽に添えられたブラウンスイシカゲガイの名札には、トウキョウホタテと同じように東京の王子で発掘されたとあった。
ここの展示だけ見てもアキシマクジラと関係あるとは気付かないわけだ。やっぱりアキシマエンシスを先に見ておいてよかった。
古生物ガストロノミーの掲示にはブラウンスイシカゲガイの項目もあった。すでに食用としてわずかに流通しているらしい……。
成瀬が水槽と映像の間を行ったり来たりし始めてしまい、しばらくそれをやめないのは明らかだった。
モリーもモリーで、その背中はいつの間にか同じ展示室の、「奥多摩の化石で辿る太古の世界」というタイトルが付いたコーナーに移っていた。
奴が間違えて行った奥多摩。私は苦笑した。
モリーが見ている水槽の中には海藻の造花が立っていて、またホタテみたいな扇形の貝がいくつも貼り付いていた。
「こっちもホタテか?」
「ちょっと違うみたい。モノチスっていうんだって」
水槽の隣に化石がある。生きているのと同じ形の、黒い殻がいくつも重なり合っている。元々固いから化石に残りやすいのか。
産地はあきる野市。時代は「三畳紀(二億五千万年前)」。
「アキシマクジラの百倍以上昔か」
「こっちの魚?みたいのは三億年前だって」
ウナギともミミズともつかない半透明の小さな生き物が何匹も規則的に素早く体を波打たせて、水中で位置を保っていた。
骨はなさそうだったが、先頭に二つの目と歯らしきもののある口、尾の先に鰭があるから魚らしくは見えた。
「クリダグナトゥス コノドントの仲間」とある。隣に並んでいる日の出町の化石とは少し違う種類らしかった。
「東京だけでこんなに色んな時代の化石があるんだね」
化石に拡大模型が添えてある。縦長の閉まらない口の左右に細長い牙が並び、口の上に目が飛び出ている。
「こんな変な顔の魚も奥多摩にいたのか……」
ほとんどの場合歯しか残らないというが、化石を見ても全然分からないほど小さい。
「本物は綺麗だな」
「うん」
懸命に泳いでいる生きたクリダグナトゥスは、照明を受けて斜めの筋をきらきらと光らせていた。
「これらにまでは手は出さないが見ておく価値があるな」
「わっ」
何の前触れもなく成瀬が背後から声をかけてきた。
モリーが少し退き、空いたところから成瀬がクリダグナトゥスを覗き込んだ。
「私は知らないうちにこれらの産地に足を踏み入れていたことになるな」
「ブラウンスイシカゲガイはもういいのか」
「今できる限り姿や動きを把握できた。だいたいは作れる自信がある」
「そうか。これからどうする?」
「サメや魚を見る。昭島からではないがサメ以外の魚も化石が見付かっているらしい」
成瀬が指差した先には、多摩地区で見付かった魚の化石についてまとめた掲示があった。
親切にも、館内でどこにその仲間がいるかまで示してある。
「アキシマクジラの時点でいたのは……、イワシとゴンズイとサメか」
イワシとゴンズイは今でも普通に近海にいる魚だから、すぐそこにいた。
まずはイワシ、長い流線型をした小さな魚の群れが銀色の渦になってきらめく。そんな水槽が、並んで二つ。
片方は黒い点が脇腹に並んだおなじみのマイワシ、もう片方は「スコムブロクルペア」。
「白亜紀後期のレバノン?」
「恐竜時代のニシンの仲間なんだって」
「アキシマクジラどころの古さじゃないじゃん」
「ということはアキシマクジラと一緒にこんな姿の魚が生息していたと見て間違いなさそうだな」
成瀬はあくまでも作品の参考にするという姿勢だ。
「こんな大量に集まって細かく動いてるの、CGで作れるか?」
「本当に一つひとつ作って動かしたらPCがもたないからそれらしく見えるように工夫せざるを得ないな。さてどうするか」
その早口は困っているというより、工夫を考えないといけないのが楽しいという感じだった。
なぜかモリーが、私のまとめて上向きにした髪の毛の束をぎゅっと握った。
ゴンズイはヒマワリの種みたいな縞模様をした、ナマズに似た魚だった。こっちも群れを成しているがイワシみたいに目まぐるしく泳いだりはせず、アマモという縦長の植物の間をくぐり抜けている。
「これもイワシと同じで工夫しないと作れないかな」
「群れを成していることより当時もこんなアマモ場があったのかどうか考えることになるのが問題だ」
成瀬の頭の中ではすでに当時の海の風景を組み立てているのだろうか。
この水族館で一番大きいサメは、順路の一番最後にいるとのことだった。
もうすぐショーが始まるという案内をしているイルカプールにもその隣のペンギンプールにも寄らず、トンネル水槽をあっさり通り抜け、サンゴ礁もクラゲもデンキウナギも全て横目に通り過ぎた。
つまりこれも、修学旅行のときにクジラ以外飛ばしたのと同じ。人に引っ張られるのではなく自分からやってみると、
「図書館で目当ての本を探してるみたいだな」
図書館だったら見たいものだけ見るのは当然のことだ。アキシマエンシスですでにやっている。
この水族館も和歌山の巨大水族館も、実はアキシマエンシスと同じなのか。
もう出口が見えるというところまで進むと、ずどんと大きな水の塊のような円柱水槽があった。
その奥の暗がりから、二匹のサメが現れた。
「おお……」
人間より大きいかもしれない。尖った歯の並んだ口、小さな黒目。巨大なアキシマクジラの骨格とは違った意味で圧倒される。もしこの水槽の中に落とされたら絶対に敵わない。
一匹は白っぽい灰色、背中が高く盛り上がってがっしりした格好で、もう一匹は黒っぽいシャープな姿だった。
「白いのはシロワニで、黒いのは恐竜時代の……スクアリコラックス……ファルカトゥス?っていうんだって」
「ワニ?」
「昔の言葉なんじゃないかなあ」
「ホホジロザメはいなくても複数種見られるのはありがたいな」
成瀬は最初からスマホとメモ帳両方とも用意していた。
「ああ、アキシマクジラと一緒に見つかったホホジロザメとは違うのか」
「顔付きがけっこう違うみたい」
「どういうふうに?」
白っぽいほう、シロワニが近くに来て、モリーはそいつの顔を指差した。
「こっちは頭が低くて口が小さい感じがするよね」
モリーは普段からは考えられないほどハキハキと喋っている。昭島から、つまり学校から遠くて、学校に関係ある奴がいるわけないからか。
黒っぽい恐竜時代のほう、スクアリコラックスは奥で泳ぎ続けていた。
「あっちはもう少しホホジロザメに似てるけど、そこまで頭が大きくないかな。ちょっとスリムみたい」
「うーん、そうか」
モリーと話しながら、ちらっと成瀬のほうに目をやった。
あいつはサメを見ながらもきちんとこちらの話を聞いてメモを取っているし、そのことにモリーはあまり注意を向けていない。よし。
「やっぱ生態がホホジロザメとは違うってことだよな」
「そうだね。あっ、ねえ」
モリーは水槽の底を指差した。水色の床面に白いかけらが散らばっている。
「あっ、抜けた歯が落ちてるのか」
「細い針みたいなのと、幅広い刃物みたいなのがあるね」
「ってことは」
ここで改めてサメの口を見た。
シロワニの歯は全て針状に尖っている。スクアリコラックスの歯はこれと違って傾いた三角だ。
「やっぱり別々の歯だ。食べるものが違うのかな」
「えーっとね」
モリーは解説板の前に戻った。
「どっちも魚を食べるけど……、スクアリコラックスは元々魚だけじゃなくって落ちてるものもなんでも食べてたんだって。恐竜の死体も食べてたみたい」
「すごいな」
二種類いるうちの細いほうなのに元々の食事はワイルドだ。普通に感心していると、
「種類は違っても実物を前にすると考察が進みやすいな」
急な成瀬の声にモリーがびくっと震えた。
「アキシマクジラと同時に発掘されたサメの歯はこれらとは違ってどれもほぼ正三角形だった。歯の持ち主はアキシマクジラを食べたのか食べたならどのようにか考える必要がある」
それは私が考えるのをやめた部分だった。
「もしかして、それもCGで作るのか」
「ホホジロザメもアキシマクジラと同じで飼うことができない生物だ。アキシマクジラがどのように昭島に骨を埋めたのかと併せて動かす意義は大きいだろう」
「あの」
モリーが私の後ろでか細い声を出す。いつまでも私越しで話していても仕方がない。
私は話し込んでも他のお客さんの邪魔にならないようにモリーを背中に貼り付けたまま水槽から離れた。
それから中腰になり、モリーが顔を隠せないようにしてやった。
「何だそのトーテムポールのような恰好は」
「こうしないとモリーが隠れやすいだろうが」
「え、ええ……」
「まあいい。私は森沢の意見を歓迎している」
モリーの、ぜえ、という呼吸が背中から聞こえた。
「あの、アキシマクジラが生きてた頃のことを知るのは、楽しいんだけど」
弱々しい声。私は肩に置かれた手に自分の手を重ねた。
「アキシマクジラが、食べられちゃうところを、作るの?」
「そのつもりだがそれだけではなくできるだけ色々な場面を作りたい。生きているところが見られない以上再現できるものは全て再現する意義がある」
モリーは私の肩を押す手に力を込めた。そうか、体を起こさなくていいのか。ちょっときついが。
「どうした」
「その、そんなに色々自分で作って、上手くできなかったり、見た人が納得しなかったり、怒らせたり……、怖くないの?」
こいつはずっと、自分の知識と考えを形にすることができなくなっている。
それで私の背後に隠れ続けているのだ。
成瀬は少しの間視線を宙に向け、それからまたモリーを真っ直ぐ見た。
「そういうこともあるかもしれないが私自身が完成品を見たくてやっているんだ。あまりそういったことを心配しすぎても仕方がないといったところだな」
成瀬の声の調子はずっと、全く変わらない平板な早口だった。
成瀬がモリーと同じことで困るはずがない。逆に困らないから学校にも来ずにいられるのだ。
モリーは私の肩から手を下ろした。成瀬に対してもう何も言えることがないようだ。
「さて早く帰って作業がしたいと思うんだがお前達は他に何か見なくても問題ないだろうか」
「私は大丈夫。モリーは?」
モリーも小さくうなずいた。そもそも順路を戻って何か見る余裕がなさそうな感じだ。
「今日はお前達も観察して気が付いたことを話してくれてとても良かった。ありがとう」
成瀬は素直に礼を言うが、私は心から喜ぶことができなかった。
こいつが何か作って世に出すのにモリーを手伝わせることがモリーにとってどういう意味を持つか、あまり考えていなかった。
モリーの目や知識が役に立つことは間違いないのだが。
役に立つと思ってしまうこと自体、成瀬と同じで完成したアキシマクジラの姿を早く見たいという気持ちに囚われているのかもしれない。
出口を抜けると空は曇っていて、雨が降っていたのか地面は濡れていた。
[クリノカルディウム・ブラウンシ(ブラウンスイシカゲガイ) Cliocardium braunsi]
学名の意味:ダーフィト・アウグスト・ブラウンスの傾いた心臓
時代と地域:更新世(約180万-10年前)の本州東岸
成体の殻高:10cm前後
分類:軟体動物門 二枚貝綱 異歯亜綱 マルスダレガイ目 ザルガイ科 イシカゲガイ亜科 オオイシカゲガイ属
ブラウンスイシカゲガイは更新世の本州東岸、中でも東京および千葉近辺を代表する絶滅二枚貝である。
ブラウンスイシカゲガイの属するザルガイ科の多くは、放射肋(放射状のうね)が発達し、厚みのあるふっくらとした殻をしている。ザルガイ科の多くの属名に含まれるcardium(心臓)とは貝の合わせ目から見ると輪郭がハート形に見えることを指す。
またザルガイ科は斧足が長く発達し、さらにあたかも脊椎動物でいう膝のような曲がりかたをする部分を持ち、貝殻の中の空間は折り畳んだ斧足で大部分が占められる(トリガイFulvia muticaの可食部である)。この斧足により砂泥底に潜るだけでなく、敵に襲われた際に斧足を勢いよく伸ばし、飛び跳ねて逃げることもできる。
ザルガイ科の貝自体は日本でも各地の沿岸に分布しているが、イシカゲガイ亜科はどちらかというと水温が低い海域に生息している。ブラウンスイシカゲガイが発掘された地点も、生息当時は親潮の影響が大きい海であったと考えられる。
以前は日本沿岸に現生するイシカゲガイKeenocardium buellowiやエゾイシカゲガイK. carifornienseもブラウンスイシカゲガイやその近縁で北米北西岸に生息するオオイシカゲガイC. nutteriと同属に含められていたが、これらが別属に再分類されたため、ブラウンスイシカゲガイと同属の貝は現在は日本近海には生息していないことになる。これらは新生代を通じてトリガイ亜科から分かれて分化したようだ。
ブラウンスイシカゲガイはイシカゲガイ亜科の中でも比較的大型で、東京大学に赴任した地質学者ブラウンスが東京の石神井川岸に露出する王子貝層で発見したことに因んで命名された。やや角張った放射肋が23~26本あった。殻そのものは分厚くて丈夫に見えるが、肋は地層中で腐食しやすく、状態の良い標本は少ない。
王子貝層や千葉県成田市の清川層など代表的な産地では後期更新世の地層から産出するが、前期更新世の地層である昭島市の上総層群小宮層からも多く産出する。小宮層の個体は大型で、当時小宮層が堆積した環境がブラウンスイシカゲガイの生息に適していたことが示唆される。
ブラウンスイシカゲガイはアキシマクジラと同時に、ウバガイ属の一種Pseudocardium sp.、エゾタマキガイの近縁種Glycymeris aff. yessoensis、ホホジロザメCarcharodon carcharias、ヨゴレ(サメの一種)Carcharhinus longimanus、メジロザメ属の一種Carcharhinus sp.などとともに産出している。小宮層から他に産出する貝化石も、ホタテガイMizuhopecten yezoensisやエゾマテガイSolen krusensterni、アカガイAnadara broughtoniiなど現在では主に関東地方より北で産するものが多い。しかしブラウンスイシカゲガイのように絶滅しているものは少ない。
[ミズホペクテン・トウキョウエンシス(トウキョウホタテ) Mizuhopecten tokyoensis]
学名の意味:瑞穂国の東京で発見された櫛状の貝
時代と地域:更新世の日本
成体の殻高:約15cm
分類:軟体動物門 二枚貝綱 翼形亜綱 イタヤガイ目 イタヤガイ科 ホタテガイ属
イタヤガイ科(ホタテガイの仲間)は三畳紀にはすでに現われ、放射肋と耳状突起のある扇形ないし円形の殻を持っていた。
トウキョウホタテはホタテガイと同属で姿もかなり似た貝である。ホタテガイと比べると肋が少なく間隔が不規則である。
イタヤガイ科には足糸で底質に体を固定するものと、砂泥底に横たわり敵が来たら閉殻筋(貝柱)の力で水を噴出し泳いで逃げるものがいて、イタヤガイ科の中での系統に関わらずどちらかの生活様式を取り、成長段階で変化する種もある。
トウキョウホタテはホタテガイと同様に泳ぐものの特徴を持っていた。前後対称(二枚貝の殻は体の右と左にあるので、片側の殻を平面に置き殻頂を上にしたとき人間から見た左右が二枚貝の前後である)で円形に近い薄い殻や、足糸湾入(足糸を出す溝)が目立たない耳状突起などである
トウキョウホタテもブラウンスイシカゲガイと同様、王子貝層でブラウンスによって発見された東京や千葉の更新世を代表する貝である。
[コトラペクテン・エグレギウス(エグレギウスホタテ) Kotorapecten egregius]
学名の意味:畑井小虎博士の抜きん出た櫛状の貝
時代と地域:前期中新世(約1700万年前)の日本(岐阜)
成体の殻高:約8cm
分類:軟体動物門 二枚貝綱 翼形亜綱 イタヤガイ目 イタヤガイ科
エグレギウスホタテは足糸で付着するものの特徴を持ったイタヤガイ科である。
殻頂が尖っていて殻高が殻長より大きく、くっきりした10本ほどの放射肋があり、耳状突起は大きく非対称だった。これらは水を噴出するには向かないが足糸で体を固定するのには適した特徴である。
主に岐阜県瑞浪市の瑞浪層群明世層から発見されている。北からの海流が流れ込んで温帯気候となっていたようだ。
[フォルティペクテン・タカハシイ(タカハシホタテ) Fortipecten takahashii]
学名の意味:高橋氏が発見した丈夫な櫛状の貝
時代と地域:後期中新世(約700万年前)から前期更新世(約100万年前)のサハリン、日本北部
成体の殻高:約18cm
分類:軟体動物門 二枚貝綱 翼形亜綱 イタヤガイ目 イタヤガイ科
タカハシホタテは足糸で固定するか泳ぐかというイタヤガイ科の生活様式の大別に当てはまらなかった。
右殻が大きく膨らんで椀状になっていて、体積はホタテガイを大きくしのいだ。また左右とも殻がとても分厚かった。
足糸で体を固定するような特徴もなく、また重く水の抵抗が大きい体では水の噴射で泳ぐこともできなかったと考えられる。さらに産出状況と合わせて考え、重く膨らんだ右殻を下にして砂泥底に半ば埋まるようにして横たわったまま動かず、敵からは厚い殻を閉殻筋の力で閉じて身を守っていたとされている。
孵化後2年までは遊泳性であるホタテガイとほぼ変わらない形態をしていたが、その後成長の仕方を変えて分厚い形態を得ていた。成熟すると運動にエネルギーを費やさず産卵のためのエネルギーと殻の容量を確保していたようだ。
生息期間を通じて産出する地域が変動していた。生息に適した冷たい海域の変化を表していると考えられている。
[モノチス・オコティカ Monotis ochotica]
属名の意味:耳が一つのもの
時代と地域:三畳紀後期(約2億2000万年前)の世界各地
成体の殻高:約7cm
分類:軟体動物門 二枚貝綱 翼形亜綱 イタヤガイ目(?) モノチス科
モノチスは一見ホタテガイに似ているがそれほど近縁とはいえない、ホタテガイの属するイタヤガイ科の主に生息してきた年代より遡る三畳紀の貝である。
左殻は緩く膨らみ、右殻は平らな形をしていて、全体的に前に向かって傾いていた。殻はとても薄く、細く明確な放射肋が多数あった。耳状突起はあまり目立たず前方のもののほうが明確だった。
密集して発掘されることが多く、標本数も多い。しかしもっぱら異地性(生息地ではないところに運ばれてきたと考えられるもの)で近縁な現生種も知られていないことから、生態があまりはっきりしていない。ただ足糸により海藻に付着して生活していたと推定されている。
日本国内でも各地から産出する。東京都内でもあきる野市の五日市盆地から発掘される。奥多摩地域には地殻のプレートの動きにより白亜紀以前の幅広い年代に海底で堆積した地層が持ち上げられた付加体が多く分布していて、モノチスの発掘される地層もそうした付加体の一部である。
[クリダグナトゥス・ウィンゾレンシス Clydagnathus windsorensis]
学名の意味:ウィンザー地方で発見されたクライド川の顎のないもの
時代と地域:石炭紀前期のヨーロッパ(スコットランド)
成体の全長:4cm前後
分類:脊索動物門 コノドント綱 オザルコディナ目 カヴスグナトゥス科
クリダグナトゥスはコノドントと呼ばれる微化石として知られる歯を持つ「コノドント動物」であり、その中でも数少ない、全身の体型や構造が分かる痕跡が発見されているものである。
コノドントは1mm以下ほどの小さな硬組織の化石で、カンブリア紀から三畳紀までの地層から発掘される。「円錐の歯」を意味する名前のとおり1本の曲がった円錐形のものもあるが、櫛状のもの、まつ毛状のものなど枝分かれしたものもあり、形状によって分類されている。広範囲に発掘され多くの種が短期間に移り変わっていたため、示準化石(同じ種が発掘される地層は同じ年代で堆積したという基準となる化石)とされている。
東京都内でも日の出町三ッ沢の石灰岩から石炭紀の、奥多摩町白丸から三畳紀のコノドントが発見されている。
複数種類が一定の規則で並んだ状態で発見されることがあり、1個体の生き物が複数種類のコノドントを歯として持っていて、その配列が化石に残ったものだということが分かる。一つずつのコノドントはエレメント、エレメントが並んだ摂食器官はコノドント器官、コノドント器官を持つ動物をコノドント動物という。
エレメントは多数発見され、コノドント器官も若干のヒントをもたらしてきたが、コノドント動物の実態はコノドントの発見から100年ほどの間明らかにはならなかった。魚類かそれに近い脊索動物であろうとは考えられてきたものの、コノドント動物を食べてエレメントが腹部に残った動物がコノドント動物そのものと誤認されたことや、分類が不明だったオドントグリフスOdontgriphusという動物がコノドント動物であると言われたこともあった。
1983年にはエディンバラ地方北部でコノドント動物の全身の印象化石が発見され、これに続く発見によりコノドント動物の体型や大まかな体の構造が明らかになった。この最初に印象化石が発見されたコノドントがクリダグナトゥスである。
印象化石によると、コノドント動物はウナギに似た細長い体の前方にコノドント器官を含む口と大きな1対の目を持っていたが、口を閉じる顎の構造はなかった。体側には前方に開いたV字をした筋が並び、体内には1本の筋が通っていた。体の後端には鰭状の部分があった。
これらの特徴から、コノドント動物は脊椎動物であり、ヤツメウナギやヌタウナギと顎のある魚類の中間に位置すると考えられている。
歯の働きをするエレメントは口の中に左右対称に並び、尖ったものほど前方に、幅のある丈夫なものほど奥に配置されていた。尖ったエレメントで餌となる物質や生物を濾過または捕獲し、丈夫なエレメントですり潰したようだ。
ウナギのような体型と大きな目から、ある程度活発に泳ぐ能力があったと考えられる。クリダグナトゥスは沿岸の浅い海を泳いでいたようだ。
[スコムブロクルペア・マクロフタルマ Scombroclupea macrophthalma]
学名の意味:大きな目のサバのようなニシン
時代と地域:白亜紀後期(約9500万年前)のレバノン
成体の全長:12cm前後
分類:硬骨魚綱 条鰭亜綱 ニシン目 ニシン科
ニシン目は白亜紀にはすでに繁栄していた。スコンブロクルペアはニシン属に含める意見もあるようだ。
現生のニシンやイワシによく似ていて、遊泳し続けるのに適した細長いV字の尾鰭を持っていた。
[スクアリコラックス・ファルカトゥス Squalicorax falcatus]
学名の意味:鎌状のワタリガラスのようなサメ
時代と地域:白亜紀後期(約8500万年前)の世界各地(主にアメリカ西部)
成体の全長:約2m
分類:軟骨魚綱 板鰓亜綱 新サメ区 サメ亜区 ネズミザメ目 アナコラックス科
サメの系統は古生代まで遡るものの、現在見られるような姿をした新サメ区のサメが現れたのは中生代のことである。
骨格が軟骨からなるために多くのサメの化石が歯のみである。スクアリコラックスも、現生のイタチザメGaleocerdo cuvierによく似た、高さより幅が大きく、外側に切り込みがあって先端が外向きの歯で知られる。
いっぽう、スクアリコラックスはいくつかの全身の化石が発見されている。ファルカトゥス種は通常2mほどで3mを超えることはなく、カウピ種S. kaupiやプリストドントゥス種S. pristodontusは3mほどになった。
現生のネズミザメ類と共通する、流線型の体と大きな胸鰭や尾鰭を持った、遊泳によく適した姿をしていた。また循鱗(いわゆる鮫肌をなす鱗)の形態も、体表の水流を整え水の抵抗を減らすのに適していた。
深さのある下顎もまたイタチザメと似ていて、肉を素早く切り取るより強く噛みちぎることに適していた。
魚を捕らえるいっぽうで大型動物の死体を漁るようなことも多かったと考えられている。
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