第87話「武蔵野フォッシリウム編その1 化鯨、およびレビヤタン再び」

 アキシマエンシス。ただの公共の図書館とは思えないこの施設の名前の元になった骨が、エントランスホールに釣り下げられている。

 制服姿の私達二人の頭上に白く長い顎が突き出ている。

 その上にはクチバシのような頭。私をくわえ上げでもしそうな大きさだが、例え化石から蘇らされてもそんなことをするはずがない。

 並んだ肋骨の両脇で四本指の手が後ろに伸びる。生きていたときは鰭の中に指が埋まっていたはずだ。

 背骨はもっと奥まで、緩い弧を描いてぞろりと続く。もし真っ直ぐ伸ばせば、口の先から輪郭だけの尾鰭の先まで十三・五メートルもある。

 アキシマクジラ。学名エスクリクティウス・アキシマエンシス。

 ティラノサウルスでさえこいつの大きさには敵わない。もし生きていたら今蘇らされて飼われている最大の恐竜より重い……だからこそそれはありえないが。

 海のない私達の町の名前を冠したクジラの、町の誇りと呼ぶにふさわしい威容だ。骨格が作られてここに展示されるようになって、本当によかった。

「やっぱデカいな」

「うん」

「そのせいで飼えないって言われても、うちのクジラはこうじゃないとな」

「そうだね……」

 修学旅行から数日経った放課後だった。

 私達はこの骨格が見たくてたまらず、中学校から急いでここに来たのだ。

 まだ真新しいこの施設は、図書館であると同時に郷土博物館でもある。本棚の隣に化石が置かれ、児童書のエリアのすぐそばに土器が並んだ部屋がある。

 とはいえ、公共施設は公共施設。

 私よりかなり背の高い森沢くるみ……モリーが、私に隠れるように背を丸めているのは警戒しすぎだ。

「前出て見りゃいいじゃん」

「ほ、放課後だから。学校の誰かがいるかもしれないから」

「途中から自転車だったのに先に来てる奴なんかいるかな」

 こうするのが小学生の頃からモリーの癖になっているのだ。こんな風だから修学旅行のときも私が同じ班に誘わないとどうにもならなかったのだが。

「あっ、ほのちゃん、ほら」

 モリーが何かに気付き、私も骨格の下にそいつを見付けていた。

 なるほど、モリーの心配は当たっていたのかもしれない。

 あいつが「学校の誰か」と呼べるならだが。

 私より頭一つ、モリーより一つ半低い、同じ制服の姿。背中に届く分厚い海藻のようなくせ毛。

「成瀬じゃん」

 聞こえるように呼んだつもりだったが、そいつは振り返らなかった。

 あれ?人違いか?まああいつ学校にもあんまり来ないのにこんなところに……と頭をかいたところでようやく、長い前髪の間のとろりとした目が私を見た。

 成瀬麻由は面倒臭そうに口を開く。

「赤星炎(ほのお)……」

「フルネームやめい」

 モリーはモリーで、まとめて端を上向きにした私の髪を後ろからつまんで離さない。

「いちいちそこを持つな」

「だ、だって」

 修学旅行中ずっと同じ班で過ごしていたというのに、未だにこうだ。

 確かに、班を組めと言われてもじもじしていたモリーと班決めの日にいなかった成瀬を拾ってそのまま引っ張っていっただけで、成瀬と仲が深まることもなかったが。

 学校の行事なんてこんなもんだ。

 上手くいってる奴がはしゃぐのが目立つばっかりで、こいつらみたいなのは気付かれもしない。

 しかし、成瀬が私達と同じくアキシマクジラを目当てに来ていたのは、その修学旅行のときのことで分かっていた。


 修学旅行先の和歌山で、私達はアキシマクジラと同じ化石クジラが泳ぐのを見た。

 巨大古生物水族館「アクアサファリわかやま」のイサナケトゥスというクジラだった。

 本物のクジラ、しかもアキシマクジラと同じヒゲクジラの仲間が泳ぐ姿は、率直に言って胸を打った。

 水槽ではなく外の海を区切った特別なプールの中、岩礁を背景にイサナケトゥスの黒い体がうねり、尾鰭が水を切って細かな泡を巻き上げる。

 デッキに上がれば、水の中から裂けた口が開き、また閉じて水があふれ出す。シュッと音を立てて霧のような潮が吹き上がり、風に乗って獣臭が届く。薄目を開けてこちらを見つめ返してくる。

 昭島市はクジラの化石が出たクジラの町だ、町の中にもクジラのモニュメントやマンホールがいっぱいで毎年クジラ祭りをやるんだ、と言ってはいても、東京湾から多摩川をずっと遡ったところだ。海にも生きたクジラにも接する機会はなかった。

 うすぼんやりとしていたクジラのイメージが突然、血の通った生き物に塗り替えられて戻らなくなってしまった。

 成瀬はイサナケトゥスに貼り付いて離れなかったが、私とモリーも恐竜時代の海の生き物よりクジラを優先することに文句がなくなっていった。

 しかし、生きたイサナケトゥスと我らがアキシマクジラには、どうあがいても乗り越えられない歴然とした差があった。

 イサナケトゥスの全長は、アキシマクジラの半分しかないのだ。

 今や化石の生き物を蘇らせることができる時代だといっても、蘇らせたものを飼うことができなければそれまでだ。だから恐竜もあまりにも大きいものは世界でもほんのわずかな巨大動物園にしかいないし、海のものは水が必要な分ますます厄介だからなおさらだ。

 そうなると、あまり大きくないクジラしか蘇らせられないというわけだ。化石から蘇らせたのでなくても、大きすぎるクジラが水族館にいないのは仕方ないことだ。


 このアキシマクジラの骨格は、数年前初めて公開された。

 何度も話に聞かされ、マスコットとして町に描かれていたクジラがやっと姿を現したのだ。

「骨でもこっちのほうが好きだな、私は」

 私がそう言うと成瀬は小さくうなずいたが、骨格の真下から離れて奥へと歩き出した。成瀬の目当てはアキシマクジラではなかったのか?

 いや、やっぱりアキシマクジラだった。

 ホールから吹き抜けの上に続く階段の下にはガラスケースがあり、成瀬はそれを覗き込んだのだ。

「骨というならこっちが本物だ」

 そう言う成瀬の隣で、その実物化石を見る。モリーもついてきている。

 左前肢、と書いてある。左の鰭の中にあった腕の骨ということだ。

 ざらついた石の色をしているし、形は平たい。

 モリーのほうを振り向くと、

「あっ、えっとね。二本になってる部分が肘から手首までみたい。二本になってるのは人間と同じだよね。それで、細かいのが指の骨と、手の甲もかな」

 こそこそとした声で説明してくれた。

「なるほど」

 つい、自分の左手を触って比べてしまう。本当に百万年以上も岩の中で眠っていた骨なのだ。

「すっげーな……」

 背後でモリーもうなずく気配がしたが、

「しかし」

 成瀬が、意外なほど力をこめて言った。

「生きていないとただの骨だと思われる。私はそれがとてもよくないと思う」

 そう言って成瀬は、長い前髪の間から真っ直ぐこちらを見上げた。

 ああ、そのとおりだ。

 上手くいってる奴が活き活きとはしゃいで目立つばっかりだ。さっきからイサナケトゥスの活き活きとした姿が、頭に浮かんで離れないみたいに。

 じゃあアキシマクジラの意味って何だ。私にとってアキシマクジラが意味を持つ理由って。

 今、続けて見るべきものができてしまった。それはここにはなく、骨ではない。

「成瀬。今日自転車か?」

「近いから歩きだが」

「そうか。じゃあ私の後ろに乗ってけ」

「えっ」

 その声を出したのは今後ろにいるモリーだった。


 町を横切る大きな段差の下に出て、南へ向かう緩やかな坂道を下っていく。多摩川に近付く道だ。

 成瀬は大人しく荷台に乗っている。そのさらに後ろから、モリーがやや距離を置いてついてくる。

 成瀬には目的地が分かっているようだ。

 広い河川敷は傾きかけた日の光で黄色く染まっている。

 上流に進むとすぐに、ぼやけた水色をした八高線の鉄橋が見える。そして道の脇には、アキシマエンシスと同じように新しい看板が立っている。

 六十年以上前。この鉄橋のすぐ下の川べりで、アキシマクジラは見付かった。

「ここに来て何をする。新しい化石でも探すのか」

「まさか。ただこっちのほうが何か思い付くような気がしてな。つい引っ張ってきちゃったけど……」

「そうか。そうかも」

 そう言って成瀬は黙り、発掘地点のほうを見つめ始めた。

 アキシマクジラは文字どおり骨を埋めたところの名前を付けられたのだ。

「モリー」

「あっ、うん」

「アキシマクジラって多摩川を上って来たのかな」

「えっ、ううん。その頃はこの辺まで海で、アキシマクジラは砂浜に打ち上がったの。ほら、ここ」

 看板には千葉や茨城から昭島まで海が大きく入り込んだ地図が載っている。やはりモリーはこういうことをすぐ説明してくれる。ついて来させる甲斐のある奴だ。

「なるほど。つまり砂浜が南北に……」

 鉄橋が通っている方向と同じ向きの砂浜があったのだ。それが横切る川ではなく。

「すごい変化だよな」

 私は河川敷を上流のほうから下流のほうまで見渡した。土手の上の遊歩道から見下ろしても河川敷の運動公園「くじら運動公園」が広がるばかりで、川そのものは茂みに隠れてよく見えない。

 その運動公園の駐車場に降りていく道に成瀬が見えた。

「あっ、なんだあいつ」

「発掘地点に行くのかな」

 ここまで来たのだから川べりまで行ったほうがいいのは確かだ。私も道を降り始めた。

「モリーはどうする?」

「う、うん。行く」

 駐車場の脇を通り抜け、茂みの反対側に出て砂利を踏みしめて進むと、むき出しになった多摩川がすぐそこにあり、成瀬も先に川岸にいた。

 だいぶ浅いとはいえ、踏み入れることのできない黒い水面にはどきりとさせられる。

 はっきりここと示されているわけではないが、川に接している固い地面はアキシマクジラが発掘されたのと同じ地層だ。

 両岸の土手も、コンクリートの橋脚に横たわる鉄橋も、全て私達を見下ろしている。ここは川が作った大きな溝の底だ。

 それが、アキシマクジラがここに来たときには全て無く、砂浜が全然違う向きに広がっていた。

 無茶苦茶すぎて土手や橋に押し潰されそうな気がしてくる。

「ここが海から川になるのって、ものすごい時間かかってるよな」

「うん、二百万年近く前だからね」

「それに比べたら……」

 見上げた鉄橋は確か戦前からあったはずだ。終戦直後に橋の上でものすごい大事故があったらしい。しかし、歴史だと思っていたそれも含めて。

「アキシマクジラにとっては、人間に見付かったのなんてつい最近のことなんだな」

 私にそう言われて、成瀬は小石をつまんだまま立ち上がった。あれも元は砂浜だったんだろうか。

「焦るなということか」

「まあ、アキシマクジラに関してまだできることはたくさんあるんだろうな。生き返らせて飼うっていうのは置いといて」

「そうか」

 すると成瀬は小石をその辺に投げ捨て、スマホを取り出して操作した。

「できることをやってはいるんだがな」

「何?」

 まさか、どこかでアキシマクジラを生き返らせて?

 成瀬にスマホの画面を突き付けられ、私は全身に鳥肌が立った。

 生きたアキシマクジラが本当にいる……。一瞬そう見えてしまったからだ。

「私が作った」

「これ、は……、CGか。このCGを、成瀬が作ったのか」

 イサナケトゥスよりずっと大きそうで、ずっとごつごつした灰色のクジラが、力強く尾を振って体を揺さぶっていた。

 海の中ではなくただ水色の空間で、横には私達と同じ制服の女の子が立っていた。まさにあの骨格と同じく十三・五メートルあることになっているようだ。

 造りにも動きにも、ぎこちないところが何もなかった。

「すごい」

 モリーもやはり私の後ろから見ていた。私は深く息を吐いて力を抜いた。

「成瀬にそんな特技があったなんて、全然知らなかったな。修学旅行でも全然話してくれなかっただろ」

「まだ人に見せるにはほど遠かった。今もそうなんだが和歌山であれを見てから少しはマシにできた」

「登校する間も惜しんで作ってたってわけか」

「そうなるな」

 何がそうなるなだ。学校から見たら成瀬はれっきとした不登校だ。本人は登校することそのものが頭から抜けているように見えた。

 それだけCG作りに打ち込んできたのか。

「今も満足してないわけ?」

「そうだ。これはアキシマクジラに見えない」

「すごくよく出来てるみたいだけど」

「コククジラとの区別がない」

 そう言われて、確かに見えかたが変わった。コククジラはアキシマクジラにごく近い種類の今生きているクジラだ。

 成瀬はスマホを一旦引っ込めて少し操作し、また見せてきた。

 隣に立っていた制服の女の子が今度はいない。こうなるとこのクジラと昭島との関係は何もない。私達と同じ制服と並んでいたから、昭島と関係あるクジラに見えていたのだ。

「そうか、さっきのままでも市外から見たら昭島と関係あるなんて分かんないよな」

「私はこのモデルをコククジラ扱いしてもいいものとして売ってるんだ」

「何?売ってる?」

 中学生にとっては重大なことに思えたが成瀬は特に何も言わなかった。こいつは物事の優先順位が中学生離れしているらしい。

「モリー、アキシマクジラとコククジラって生きてるときの見た目で区別できるのかな」

「えと、分かんないけど、多分できない」

「だよな」

 前からそういう風に聞いている。アキシマクジラは骨の細かい部分がコククジラと違うだけで、見た目はそっくりだったはずだと。

「それでどうやってアキシマクジラらしく見せたらいいんだろうな」

「やりかたはある。当時の海の様子を作り込んでその中に置けばこれがアキシマクジラだと言い張れる。しかしそれが難しい」

「技術的に?」

「それもある。それに海のことを知らなさすぎるのを和歌山で実感した。あのクジラは砂じゃなく岩に囲まれてただろう。風景は全く参考にならなかった」

 アキシマクジラとは全然違う風景の中にいたのだ。

「今までお前達に見せなかったのはお前達も海に詳しくなさそうだからだ」

 私に関しては全くそのとおりだった。しかし、

「モリーならちょっとマシだぞ」

 私はずっと後ろにいたモリーの肩をつかみ、ぐいっと前に押し出した。

「え、ええっ?」

「モリー。何か気付いたこととかないか」

 成瀬はモリーを真っ直ぐ見ている。

「簡単なことでいいからさ」

 しかしモリーは目を合わせようとしない。こりゃダメかな、と思ったが、モリーはおどおどしながらも話し始めた。

「ええっと、その……。アキシマエンシスって、アキシマクジラと同じ地層の、貝とか細かい化石もあるから……。それで海の様子が分かるんじゃないかな、って」

「やっぱりそう思うか。森沢くるみ」

 成瀬はまた声に力を込め、モリーの大きな背中がびくっと震えた。人の名前は意外とちゃんと覚えてるんだな。

「今までアキシマクジラ以外の小さな生き物は難解すぎて手が回らなかった。種類が細かいし情報が集まらない」

 成瀬は肩を落として目線を空に向けた。

「正しいとは分かっていても正直自信がないな」

「そうか……」

 あれだけのものを作った奴が自信を失うようなことに対して、何と言ってやればいいか分からなかった。

 なんだかすごくもったいないな。

 河川敷の風景は黄色から橙に変わり、暗くなりかけていた。

 そのとき、成瀬より向こうに私達以外の人陰が突然現れた。

 キャップをかぶったがに股の年寄り。しかも、犬程度の大きさの丸っこい恐竜にリードを付けて連れている。

 大きな頭、高く太いクチバシ、革でカバーされた頬の棘、茶色い背中、短い手、しっかりした脚、ブラシのような毛の生えた尾。

 あれはプシッタコサウルスとその飼い主。通称プシッタコおじさん、略してプシおじとして昭島で知れ渡っているおっさんだった。化石の生き物をペットにするのが広まったとはいえあのくらいの大きさになるものを個人が飼っているのは割と珍しい。

 すると、プシおじに気付いたモリーがすぐさまその場を離れ、プシおじに駆け寄っていくではないか。

「おじさん、こんばんは」

「おお、こんばんは」

 モリーはそのまま元気よくしゃがみ込み、プシッタコサウルスの革紐でくくられたクチバシの上に手をかざしてから頭をなでる。

「森沢くるみが突然明るくなったな」

「あいつ、学校と関係ない大人は全然平気なんだ。プシおじともけっこう前から顔見知りみたいだな」

「私のほうが怖がられるとは」

 この場には奇妙なゆがみがあった。それはモリーがクラスメイトよりもおっさんと談笑していることだけではなかった。

 プシッタコサウルスはモリーの手になでられ続けている。

「なあ、悔しくないか」

「私は別に撫でたくないぞ」

「ちげーよ」

 プシおじが撫でさせてくれないわけないだろ。

「外国の恐竜にああやって触れ合えるのに、すぐそこで見付かったクジラにこれ以上手が出せないことだよ」

 成瀬はうつむいて黙った。

 しかし、すぐに顔を上げてスマホを構え、大きな声を出した。

「二人とも!」

 モリーはびくりと、プシおじはきょとんとして成瀬のほうを見た。

「プシッタコサウルスを撫でているところを写真に撮っていいだろうか」

「へ?」

 こいつ、まさか今そこにいるプシッタコサウルスに興味が移ったのか?こっちのほうが身近だからって?

「おお、どうぞどうぞ」

「う、うん」

「協力ありがとう」

 シャッターを切りながら、成瀬は私にしか聞こえない声でつぶやいた。

「記念撮影ではなく今の会話を忘れないためだ。自信がなくても私は私の良いと思うことをするぞ」

「そうか」

 まだたくさんの化石が眠っているはずの河原の上で、プシおじとモリーとプシッタコサウルス、そして成瀬の髪に覆われた小さな背中が一際明るく、西日に照らされていた。




[エスクリクティウス・アキシマエンシス(アキシマクジラ) Eschrichtius akishimaensis]

学名の意味:昭島市で発見された、動物学者ダニエル・フレデリック・エスクリクトのもの

時代と地域:前期更新世(約180万年前)の日本(東京都)

成体の全長:13.5m

分類:北方獣類 鯨偶蹄目 鯨河馬亜目 ヒゲクジラ下目 コククジラ科 コククジラ属

 アキシマクジラは、東京都昭島市の多摩川河床で発見された、現生のコククジラE.robustusにごく近縁なクジラである。

 1961年に八高線の鉄橋が多摩川を越える位置で、上総層群の小宮層という地層が露出していたところに化石が発見された。部分的に欠けてはいたものの全身骨格の大部分が保存されていた。

 化石は国立科学博物館の主導で発掘が進められ、同館新宿分館で保管・調査が行われていたが、本格的に研究が進むようになったのは2012年に群馬県立自然史博物館に移送されてからであった。コククジラ属の一種として記載されたのは2016年である。コククジラ属唯一の化石種となる。

 現在は群馬県立自然史博物館に実物頭骨、昭島市教育福祉総合センター「アキシマエンシス」に全身復元骨格と前肢・肩甲骨・下顎・肋骨・椎骨の実物、頭蓋のレプリカが展示されている。

 現生のコククジラに非常によく似た形態をしていた。しかし、頭頂部で合わさっている骨要素(前上顎骨、上顎骨、鼻骨)の形態が異なり、鼻骨の後方が幅広い四角形をしていることが、コククジラの祖先ではなく同属の中で別の系統に属していることを示している。

 上向きにゆるく湾曲した幅の狭い上顎、ヒゲクジラ類としては幅が狭くほぼ二等辺三角形の下顎、筋肉の付着部が小さいことなど、頭骨全体の形態はコククジラと変わらないことから、生前の特徴や生態はすでにコククジラによく似ていたと考えられる。

 コククジラはヒゲクジラ類に属するが、他のヒゲクジラ類とは採食の方法が大きく異なる。他のヒゲクジラ類は何らかの形で海水を口中に取り込み、ヒゲ(髭板)を通して排出することにより海水から餌生物をろ過する。これに対して、コククジラは海底の砂泥を顎の側面(主に右側)から取り込み、ヒゲを通して(主に口の左側から)砂泥を排出することで、ヨコエビ類を主とする砂泥中の小さな動物を捕食する。

 このため、コククジラのヒゲは他のヒゲクジラ類と比べて短く丈夫である。喉のうねは少なく、喉が広がって多くの海水を取り込むようにはなっていない。またクジラの中でも特に沿岸性が強い。

 アキシマクジラもこのような特徴と生態を持っていたと考えられる。

 体表に凹凸や外部寄生生物(フジツボやクジラジラミ)が多い、長い距離を回遊するといったコククジラに見られる他の特徴も持っていたかは不明だが、コククジラに寄生するハイザラフジツボ属Cryptolepasのフジツボはアキシマクジラより前の年代から確認されている。また、より後の年代ではあるがコククジラに寄生したハイザラフジツボの酸素同位体比の履歴から、数十万年前の時点でコククジラが現在のように回遊していたことが分かっている。クジラが回遊するようになったのはアキシマクジラの生息年代より前のようだ。

 アキシマクジラが発見された小宮層からは主に北方系の貝化石と、アナジャコ類やフサゴカイ類の巣と考えられる生痕化石が発掘される。アキシマクジラの餌となりうるのはどちらかというと後者であるが、貝の種類も小宮層が堆積した当時はやや冷たく海底が砂泥に覆われた、それほど深くない海の砂浜であったことを示す。

 当時の南関東には現在の茨城県・千葉県東岸に当たる位置から大きく西に切り込んだ湾が広がっていて、小宮層が堆積した時点では昭島市の位置は湾の最も奥だったようだ。アキシマクジラは回遊の途中でこの湾の奥に立ち寄ったことになる。現生のコククジラでいえば回遊のほぼ中間の地点である。

 アキシマクジラは地域住民に特に親しまれている古生物のひとつである。昭島市内にはクジラをモチーフとしたモニュメントや公共設備が多く設置され、「昭島市民くじら祭」というイベントが開催されている。実体が解明されるのに長い時間がかかったこともあり多くはコククジラ属の姿ではなく戯画化されたクジラの図像だが、2020年に前述のアキシマエンシス(アキシマクジラの種小名にちなむ施設名である)が開館したとおり、今後も引き続き注目を集めていくものと期待される。


[イサナケトゥス・ラティケファルス Isanacetus laticephalus]

学名の意味:幅広い頭を持った、勇魚(いさな)と呼ぶにふさわしいクジラ

時代と地域:前期中新世(約1700万年前)の北太平洋西側沿岸(三重県、岐阜県)

成体の全長:不明(亜成体の全長は4~5m)

分類:北方獣類 鯨偶蹄目 鯨河馬亜目 ヒゲクジラ下目 "イサナセタスグループ"

 イサナケトゥス(イサナセタス)は、三重県の阿波層群平松層と岐阜県の瑞浪層群山野内(やまのうち)部層で発見されたヒゲクジラである。現生のナガスクジラ科とよく似た姿をしていたと考えられるが、発見されている化石はいずれもごく小型である。

 ラティケファルス種が報告されたのは2002年で、2016年・2017年に発見された瑞浪のヒゲクジラは同属の別種とされる。

 ラティケファルス種は頭骨を中心に、5個の脊椎、下顎と肋骨の断片が発見されている。

 平松層から発見された頭骨は長さが1mほどで、全長は4~5mだったと推定される。ただし、この頭骨には耳を構成する耳周骨と鼓骨の縫合線が完全に癒合していないという、成熟していないヒゲクジラの特徴が見られる。

 かつてケトテリウム科に分類されていたような、現生のヒゲクジラの科に属さないヒゲクジラだが、ケトテリウムCetotheriumと異なり前頭頂骨と吻部の境界が直線的である。ケトテリウムではこの境界がV字形をしている。イサナケトゥスと同じ特徴を持ちながらケトテリウム科に分類されていたヒゲクジラを"イサナセタスグループ"と呼ぶことがある。

 後頭部の側面にある鱗状骨の後関節突起が下に張り出すのが、イサナケトゥスの独自の特徴である。

 鼻孔は眼窩の少し前方に位置していた。鼻孔より前方が長く発達する現象(テレスコーピング)が進んでいたといえるが、現生のヒゲクジラほどではなかった。

 吻部が比較的幅広かった。上顎の内側は現生のヒゲクジラと同様、浅いm字型の面を形成し、深い溝が放射状に走っていた。この溝はヒゲに栄養を与える血管が収まる溝であり、現生ヒゲクジラ同様にヒゲが発達していたことが分かる。

 中新世には東海地方の南側から海が湾状に入り込んで、海岸線の位置が時代により前後した。1700万年前には海が大きく進出して瑞浪地域に達し、瑞浪地域は水深30mほどの海となっていた。イサナケトゥスはこの湾に生息していた。

 この湾が前後の時代と同様温暖な気候であったか、デスモスチルスDesmostylusやエゾイガイCrenomytilus grayanusのような北方系の動物の化石が示すとおりやや冷涼な気候であったかははっきりしていない。瑞浪地域はエゾイガイの殻が合わさったまま密集した化石が示すとおり、エゾイガイが付着するような流木など浮遊物の多い海だったようだ。

 なお、2016年・2017年に発見された同属別種の化石は、椎骨と肋骨を含むものと、吻部の一部、頭蓋、下顎、椎骨、肩甲骨、上腕骨を含むものの2体であった。前者は未成熟個体であると考えられる。後者はさらに非常に若い個体であるものの、すでに平松層のラティケファルス種の頭骨に近い大きさだった。


[プシッタコサウルス・シネンシス Psittacosaurus sinensis]

学名の意味:中国で発見されたオウムのようなトカゲ

時代と地域:白亜紀前期(約1億1千万年前)の中国東部

成体の全長:1.5m

分類:鳥盤目 周頭飾類 角竜類 ケラトプシア プシッタコサウルス科

 プシッタコサウルスは角竜類に属する植物食恐竜だが、トリケラトプスなどケラトプス科のものとは異なり二足歩行をしていた。

 そもそも角竜類の系統はプシッタコサウルスに似た二足歩行のものから始まったが、プシッタコサウルスは二足歩行の小型の角竜類としては初めて発見されたのでプロトケラトプス科とケラトプス科の祖先であると考えられていた。実際にはそれらの祖先であるというより、同じ祖先から分岐して独自の特徴を持つようになったようだ。

 顎の先端が丈夫なクチバシになっていたことと頬に尖った突起があったことは角竜類全体に共通する特徴である。

 オウムに例えられて命名されたものの、クチバシはそれほど尖っていなかった。頭骨全体が短く丈夫で幅広く、噛む力が強かったようだ。ケラトプス科のようなデンタルバッテリー(予備の歯が大量に連なった構造)はなかったが、食物を切り刻むのに適した歯を持っていた。

 頬の突起は横向きに伸びていて、シネンシス種では特に長い。頭骨を正面から見るとかなり横長な印象を受ける。

 前肢は短く二足歩行に適した体付きだったが、胴体や尾はがっしりしていた。

 発見されている個体数が多いこともあって骨以外の様々な痕跡も発見されている。まず、尾の上に剛毛状の構造が並んでいたことが分かっている。おそらく原羽毛(枝分かれしていない羽毛)と考えられる。

 体表については鱗の印象、さらにメラニン色素の痕跡も発見されている。このことから背側は濃い茶色、腹側が薄い茶色だったことが分かり、直射日光ではなく散乱光の中で影をぼやけさせるのに適していたことになり、開けた土地より密林に生息していたのではないかとも言われる。

 胴体内部に細かい石が固まっている標本もあり、飲み込んだ後の食物をすり潰す胃石と考えられる。

 行動に関しても痕跡があり、34頭もの幼体が1頭の成体とともに巣らしき円形のくぼみの中に発見された。1頭の子供にしては多いことから、複数のメスから生まれた子供を1頭の(おそらく縄張り争いに勝った)メスが守っていたとも言われている。

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