第86話「二龍松 -日奈とPn05-01・02-」
町の子供達のための科学館の、広くて緑にあふれた庭。
五月のさわやかな風の中、木陰の東屋で母親と小さな女の子がお弁当を広げている。
「いいお庭があってよかったね」
世話をしている私にとって嬉しい言葉が聞こえる。でも、ここが活き活きした緑に囲まれたいい庭なのは、ただの庭ではないからだ。
科学館の庭らしく、小さくても立派な植物園になっている。
草木にネームプレートが付いているのはもちろん、番号を付けてちゃんと管理しているのだ。
クヌギ、コナラ、ケヤキ、ツバキ。馴染み深い植物が多い。
クリとカキは花が咲いたし、観察のネタが多いアジサイにつぼみが付いている。きちんと観察記録を取らないと。
赤いプロペラのような実が付いたイロハモミジ、大きなイタヤカエデ。ぴかぴかの松葉を茂らせて伸びるクロマツ。
そして、一千万年以上前の植物、オオミツバマツは、全体を本館とフレームの間に張った細かいネットで覆われている。
まだ高さは十メートルほどで支柱がしてある。元気に育ってはいるのだが、ネットの中で窮屈そうにも見える。
ここで五番目のマツ科(Pinaceae)の種類で一本目の木なので、管理番号は「Pn05-01」。
三葉のマツ、つまり松葉が二本ではなく三本で一束になっているマツの仲間らしく、真っ直ぐな幹をしている。
防虫ネットの下で、同僚の摩耶がネットを引っ張ったり変な角度から覗き込んだりと観察に苦労しているのが見えた。
あの動きだけでもどかしさが伝わってくる。せっかく大きな植物園から分けてもらった化石種の木なのに、こんなに観察しづらくしないといけないのは困ったことだ。
オオミツバマツの周りの「生きた化石」のソテツ、モクレン、イチョウの脇を通って近付くと、がさがさと落ち葉を踏みしめる音に摩耶が振り向いた。
「あの右側の上から三番目の枝、どう思う?よく見えん」
「どれどれ」
摩耶はネットから離れ、ネットに取り付けられたA4ノートほどの観察窓を見せた。春に開いた雄花が散ったかどうかを確認しているところなのだった。
ネット越しではあまりに見づらいからと、私が苦労してネットを切り抜き窓枠を取り付けたのだが。
いくら向きを変えようと引っ張ってもネットに邪魔されて大して動かせない。それだとどうしても他の枝に隠れて見えない枝が出てくる。
覗き込む角度を変えても今度は窓に光が映り込んで阻んでくる。どっちに引っ張ろうが視線が阻まれることには変わりなく……、
「あー……。一旦窓外すわ」
「マジで」
今なら熟して種を付けたマツボックリがないことは分かっている。ちょっとの間窓を外すのは問題ない。
腰の道具入れから小さな工具を取り出し、枠のナットを素早く回して窓を取り外した。これなら視界はだいぶマシになる。
「雄花散ってる」
「よっしゃ流石。ありがと」
摩耶はメモを取ると、これでやっと終わりとばかりに大きく伸びをした。
「あーっ、ネットなきゃいいのにーっ」
「そうなんだけど、それだけはね」
一転、摩耶の肩ががくっと落ちる。
「自家受粉で正常な種ができてその辺に飛んでいって生える確率どんくらいよ」
「それは低くても種の数自体がさ。マツの種は一キロくらい飛ぶっていうし」
ネットで守られているのは中のオオミツバマツではなく、ネットの外の生態系のほうだ。
この近くの野外に他のオオミツバマツは植えられていないから他家受粉する心配はないけど、もし、万が一、自家受粉した種が外に飛ばされていってそこで芽吹いたら、一千万年前からの外来種になってしまう。
それでこうやって種の逸出を防止しないと植えてはいけないわけだ。
館内ではザリガニやアカミミガメを逃がすなと口を酸っぱくして言っているのだ。この庭から外来種が現れるのが許されるわけがない。
「窓がパカッと開くようにしとくわ。数も増やそう」
「そんなことできんの。すっげー」
私が窓を付けるまで皆どうしていたんだろう。あっ、まだ枝が伸びていなくて見やすかっただけか。
「ホントは出入り口が付けたいんだけどね」
「あー、そのほうが絶対いいけど……」
もう一番低い梢も頭を撫でる程度の高さにある。でも、ちゃんとした出入り口を付けるには数人がかりの大工仕事が必要だ。
私達は二人してテントを仰ぎ見て、作業の面倒くささを思った。そしてこの木の健やかさを。
重厚な樹皮?刺々しい葉?マツは重々しい木だろうか。
いやしかし、この真っ直ぐ伸びた幹、さらさらとした葉の爽やかなきらめきも見るべきだ。
ここでは剪定師とよく相談して、野生の三葉のマツらしい樹形を崩さないように育ててきたのだ。
今は三葉のマツはアメリカにしか生えていないが、こんな木がかつての日本に生い茂っていたはずなのだ。
今は細かい作業を進めよう。それがここのオオミツバマツのためになる。
私は同じ庭の中のビニール張りの小屋に入った。植物の苗などを管理するための温室である。
色々な植物の苗や、気軽に外で見せられない希少な植物の鉢植えが、アルミの棚に並んで日の光を受けている。みんな健康だ。
仕切られた小部屋には一際大きな鉢が床に直置きされて、まだ一メートルもないマツが植わっている。
二本目のオオミツバマツ、Pn05-02だ。
成長途中のマツボックリが三つも付いているのが見える。こっちは01の雄花から採取した花粉で受粉させているから、雌花がマツボックリまで育っているのだ。
しかも02のマツボックリはこれだけではない。
01を包んでいるのと同じメッシュを木の枠に張って作った箱がある。中を覗くと、トレーの中心で十センチほどあるマツボックリが鱗片を全開にしている。
今の日本に生えているマツのものよりずっと大きく、刺々していてかっこいい。
しかし、まだ幼い木に生ったものだからオオミツバマツの標準よりは小さい。種が入っていないのではと心配していたのだが。
トレーの上には、薄茶色をした半楕円のかけらが十個ほど。吹けば飛ぶように薄く小さい。
そう、薄い羽が一枚生えた、風に吹かれて飛んでいくオオミツバマツの種だ。
しっかり乾かしたらちゃんと種を出してくれた。
うちの木から採れた種だ。化石から再生する設備も大きな敷地もないうちでもちゃんと種を残させてやれた。
うちの二本のオオミツバマツがついに植物らしいことを成し遂げた感じがする。
といっても、別にこの種を植えるわけではない。いつかそうするかもしれないけど、今はそうするには種ができたという実績も新しい木を育てる準備も足りない。
一つ、竹のピンセットで拾い上げる。マツの種の羽はすぐに欠けたり曲がったり、種から取れたりしてしまう。息を止めて、目を離さず、綿を敷き詰めた小さな標本箱に寝かせてやる。
そしてそれを標本棚に収めるために、本館の収蔵庫に向かった。
天体の古い模型や手作りの実験器具などがスチールラックに並ぶ。
たくさんの引き出しがある木の棚が三つほど並んでいる。この棚には押し葉標本や種の標本、昆虫や羽毛が収まっている。
その横のスチールの本棚に、摩耶が観察記録ノートを収めるところだった。
「見て」
「おお、マジか。すっげー」
オオミツバマツの種の標本箱を見せてみると、摩耶も一目で意義を分かってくれたが、
「さっそく飛ばしてみようぜ」
標本箱の蓋に指をかけるではないか。
「スト――――ップ!!」
「お?」
とっさの叫びに摩耶の指が無事に蓋を離れた。
「よしよし……いい子だ、そのままそっと箱をこっちによこすんだ……」
「ノーフライト?」
「ノーフライトだ」
摩耶はちょっと不満そうに標本箱をこちらに返した。
「よく飛ぶっつってたから見てみたいんだけどな」
「よく飛ぶ。よく飛ぶ構造なのが問題なんだ」
私はイタヤカエデの種が収まっている棚を瞬時に思い出し、そこを一発で開けて標本箱を取り出し、摩耶に手渡した。
「動きに迷いがない」
「比べてみたらいいわ」
どちらもスイカの種ほどかそれより小さい本体に羽が生えていることには変わりない。
しかし、オオミツバマツの種には透けるように薄い羽が補強もなく貼り付いているだけだ。
イタヤカエデの種は羽と完全に一体化し、太い脈でつながっている。
「あ、ホントだ。カエデのは頑丈そう」
「マツのはすぐ羽が取れたり壊れたりするから、あんまり飛ばして遊べないんだよね」
摩耶も軽くかぶりを振りながらイタヤカエデの種を私の手に戻した。
「せっかくよく飛ぶのにもったいないよな。お客さんに見せれたらいいのに」
「いやもうホントにまったくそれでしかないひどい機会損失をしている」
急に早口になったので摩耶が後ろに引く仕草を見せた。しかし本当に摩耶の言うとおりなのだ。
種を遠くまで飛ばして、他の木がまだいない海岸や荒れ地に辿り着くのがマツの戦略だ。
なんとなく日本っぽい彩りだとしか思われていないマツという生き物のことをもっと見てほしい。種がよく飛ぶということを見せられたらそれにぴったりなのだが……。
夜、帰宅して夕飯をつつきながら。
摩耶と話したことがまだ引っかかって、なんとなく短文SNSの検索欄に「翼果」と入力していた。
翼果、つまり羽が生えていて風に乗る種のことだ。
画像や動画が付いている投稿の欄を見ていると、鮮やかな紅色をしたイロハモミジのペアになった翼果が木に鈴生りになっている写真が目立つ。熟すと茶色くなって左右に分かれ飛んでいくのである。
身近なところで簡単に見られるし、熟していないうちは真っ赤なリボンみたいで可愛いし、熟すと丈夫で飛ばしやすい。本当にいい翼果だ。
同じ身近な植物の飛ぶ種でも、マツボックリの中でひっそり育って、飛んでから地面に落ちたらすぐ壊れてしまうマツの種の目立たないことよ。まあ厳密にはマツのは翼果って言わないしな……。
検索ワードを「マツ 種」に変えても収穫はないだろうか。
いや……、あった。
何かの動画をユースクリーンに公開したという告知だ。「飛ぶ種原寸大で作ってみた イタヤカエデ・クロマツ」?
投稿者名には「自由研究工作ユニット メイプルシーズ」とある。メイプルシーズ。カエデの種。いかにもという名前だ。
折り紙やスチレンみたいなもので飛ぶ種の原理を再現することはよくあるが、原寸大で作ったとはどんなものか。
動画を開くと、白衣を着た中学生くらいの女の子二人組が現れた。場所は明らかに学校の理科室だ。自由研究工作ユニットとは科学クラブなのか。
『はいどーも!天才のいろはです!』
『完璧っていうことになっている歩羽(ふう)です』
『二人合わせて、いつか飛び立っていく工作ユニット』
『メイプルシーズです』
きっちり作り込まれた字幕が出て、いかにもユースクリーナーという感じだ。
『今回はこのコンビ名の由来にもなっているカエデの種を作るということなんですけれど、このいろはが普通のものを作るわけがないと思います。そうだね、いろは』
二人の前の机には、すでにクリップの付いた紙片や半楕円に切り抜かれたスチレンシートなどが散らばっている。こういうのがワークショップなどで普通に作られる飛ぶ種の模型だ。
『そのとおり!もうね、こんな回りながらゆっくり落ちるのを再現した折り紙なんか配るほど作ってきました!』
『いろはが勝手にたくさん作って勝手に飽きているだけで、カエデの種の飛ぶ原理を再現した素晴らしい教材ですよ』
作りかたを考えたかたに申し訳ないのは確かだが、元気なほうが言っているとおり簡単な模型以上のものを求めているのは私も同じだ。ピンポイントに個別の植物、特にマツに、という導線が引けたら。
『本物が飛んでいるところを再現してじっくり見たい!ということで今回は!』
『はい』
『実物大で本物と同じシルエットに作ってしまいたいと思います!イェッ!!』
元気なほうがそう言って自分で拍手するが、静かなほうは黙って横から白いトレーを出してきた。
そこには二種類の種が載っていた。丈夫そうなイタヤカエデと繊細なクロマツだ。定規を横に並べてあるから二センチ弱しかないのがすぐに分かる。
『この小さい薄いのを本当に実物大で作るって言っているんですね、いろはは』
『作る!!』
静かなほうの静かな圧力にも負けず元気なほうは拳を握る。
そこで場面が切り替わって、元気なほうが紙をにらみながら切り抜いているところがアップで映った。
種をスキャンしたものを用紙にたくさん印刷して、それを切って種の原寸大模型としているわけだ。なるほどそうすればいいのかと納得できる方法だが。
カメラが引いて、横で静かなほうが黒板に種の図を描いていた。
『カエデやマツの種には薄い羽のようなものが一枚生えています。このため、木から落ちるときに空気の力で回転して落ちるのがゆっくりになります。その間に風に流されることで、親木の木陰から離れて広がっていくことができます』
そう言って回りながら落ちる絵を描いている間に、元気なほうがカエデの種の形をひとつ切り抜き終えた。
輪郭だけで終えず、種本体だけを印刷したものもいくつも切り抜いていく。細かい作業に息を荒くしている。
本体部分をのりで貼り合わせて、完成したかに見えたが。
空中で手を離しても本体側を下に真っ直ぐ落ちるだけだ。失敗か?
『繊細なバランスによって回転が成り立つので、重心が正しい位置にないと回転しないのです』
静かなほうが静かなままに解説を入れる。
ギギギ、とうめきながら元気なほうが慎重に本体部分にカッターを当てて削ぎ落とし始めた。
落としては切り落としては切りを繰り返している間、静かなほうは黒板の図に矢印を描き加えて回転と力のバランスを説明するが、うまく飛ぶかどうかが気になって頭に入らない。
『でいっ!』
ついにしびれを切らしたらしく大きめに切り落とした、というか数枚ひっぺがした。
『ほいっ!ああ――――っ!!』
模型はひらひらといい加減な動きで落ちる。本体部分を軽くし過ぎたのだ。
『繊細な調整が必要であるということがお分かりいただけたと思います。ほら、いろは。記録して続けて』
『おう……』
淡々と解説を続けつつ、倒れ伏していた相棒の背中をポンと叩く。
しかしそこから映像は早回しになった。
右では元気なほうが切って貼って落としてはまた切ってを何度でも繰り返す。
左では静かなほうが図に少し書き加えてから、飛ぶと分かっている大きな模型をいくつか飛ばしてみせる。それも終わるとタブレットをおおっぴらに操作し始めた。
だんだん悔しがる動作も小さくなってくる。
やがて、ふいに倍速が終わり。
元気なほうの手から離れた種の模型は、見事に回転しながらゆっくりと宙を舞い降りた。
『っしゃああ――――――っ!!』
のけぞってのガッツポーズ。本当によかった。
静かなほうも拍手しているが、
『じゃ、記録が終わったら次はこっちね』
クロマツのほうらしき用紙を無慈悲に突き付けた。さっきまでのカエデの用紙より薄手で繊細そうに見えた……。
結局そこで一旦暗転し。
動画は、元気だったほうが床にうつぶせに横たわり、その背中に向かって静かなほうが二つの種の模型を落とすシーンで終わった。
白衣の背中に二つの模型が乗り、おもりの量がどれくらいで成功したかの字幕が付く。まあ、両方成功したなら何よりである。
そうだ。両方成功してるじゃないか。
ちゃんとマツのほうが落ちるのが遅い。カエデとマツの違いが反映されているのだ。
スキャンして印刷した紙から作れるなら、今のカエデやマツだけじゃなくオオミツバマツも……。
翌日。
ワークショップのための工作室で、物理系の職員である壮年の男性、梶さんがやけにてきぱきと道具や材料の準備を進めていた。
「植物の物理的な性質に興味を持ってもらえるなんて嬉しいですねえ」
必ずしもそうではないというか、例のメイプルシーズの動画で静かなほうが説明していた内容は頭に入らずじまいだったのだが、梶さんに見せたらむしろそこに食いついたのだった。
「マツの種に合わせるならこのあたりの紙がいいでしょうね。のりはこれかな。スティックのりを使って常に一定量が塗れるようにしていたのはお見事ですね」
さすがいつも子供達に科学の原理を体験させる工作をたくさん考え出しているだけあって、材料選びに迷いがない。
しかし、さらにかなり精密そうな電子秤まで出てくる。
「科学館でプロが作るのですから、重量を合わせないと面白くないでしょう。もちろん、おもりの量も彼女らのような現物合わせではなく、きちんと当たりを付けますよ」
技術的なハードルが上がっていく!いや、本当の技術者に頼ったのだからそれはそうか。
「よいしょっと」
最後に出てきた道具はパソコンとプリンターだった。
梶さんは画像編集ソフトで、クロマツの型紙を表示した。メイプルシーズが配布しているのだ。
「彼女らがおもりの量の調節に苦心したということは、重心を確実に合わせる必要があるということです。この型紙を貼り合わせれば重心が合うのなら、部品の面積と寸法を測定すれば……」
そう言って梶さんは画面に現れた数値を表計算ソフトに並べて計算していく。
「えっ、この計算は?」
「どれだけの面積の部品がどの位置にあるかを基に重心を出して、逆にこれから作るオオミツバマツの模型でおもりの部品をどれだけ貼り合わせればいいかを割り出すんです。えーっと、こっちをこう、と。よしできた」
おもりの枚数の計算結果が出て、そのとおりに部品が並んだオオミツバマツの型紙が完成。本体部分の部品のうち一枚は四割ほど欠けている。
さっそく用紙に印刷する。
「これでも調整は必要でしょうね。さあ、作ってみましょう」
あの元気なほうが悶絶していたような苦難が待ち受けているのか。しかしオオミツバマツの種は三センチほどあって割と大きいのだから、狂いなく切り抜くのは簡単なはずだ。
これが飛ぶところを見るためなら……。
しかしその瞬間は思ったよりあっさり訪れた。
一回目にうまく回転しなかったのでおもりの欠けた部分を少しだけ減らして印刷し直し、組み立てたら。
手を離すなり、オオミツバマツの模型は素早く回転し始めた。
私が見ているのを分かってそうしてくれているかのように、ゆっくりと落ちていく。
「大成功ですね」
「すごい……、ありがとうございます!」
何度となく私はオオミツバマツの模型を飛ばし、写真や動画を撮った。
種は植物の一個体だ。大昔の生き物を自由に殖やせない立場の私達でも、オオミツバマツの一個体全身の、一生のうちで特にダイナミックな動作を再現することができたのだ。
それならオオミツバマツだけで満足してはいられない。
「梶さん、さっきの計算方法を詳しく教えてほしいです」
「もちろんそのつもりでしたよ」
ソフトの使いかたと計算の意味(これはちょっとつらかったが)を頭に叩き込んだ私は、すぐさま館内の地質学の展示フロアに向かった。
オオミツバマツをスキャンしたものが飛ばせるなら、綺麗に残った翼果の化石をスキャンしてもいけるはずだ。
ちょうどいいものが標本ケースの中に一つある。前々から珍しい木の化石があるなと思って気にしていたのだ。
ベージュの石の板の真ん中に、直線的な形をした翼果の黒い痕跡がある。
植物化石の名産地・那須塩原で発掘された、クロビイタヤの種だ。
オオミツバマツと違って今も生き残っているカエデの一種だが、かなり珍しい。私も東北の植物園に見学に行ったときに一度見せてもらっただけだ。
わずかしか生き残っていないのは氷河期が終わってしまったせいだという。
この翼果を私の手で蘇らせられるなら。
別にこの化石を一旦借りてきちんとスキャンしてもいいのだが、なんだかそんな手続きももどかしい。私はスマホをそっと標本ケースのガラスに近付け、慎重に写真を撮った。
オオミツバマツほどではないが比較的大きいし、マツではなくカエデなので厚みがあって丈夫だから作りやすいはずだ。梶さんに新しく用紙を選んでもらえば……。
クロビイタヤの種が四十万年の時を越えて再び宙を舞うのに、それほど時間はかからなかった。
スキャン画像や写真だけではなく、論文の図版からだって作れるはずだ。
そう思って挑戦した後日、いきなり壁にブチ当たった。
「あっ、また曲がった」
「十三回目~」
オオミツバマツの種を拡大した模型を飛ばして遊んでいるだけの摩耶に失敗を数えられている。
「なんつったっけそれ」
「イーシーストローブス。最古のマツ科」
「全然イージーじゃねえな。はっは」
摩耶も言いながらしょうもないと思っている笑いかただ。
「しかし、小型化と実物の再現は重要なテーマには違いないですから」
梶さんもそうは言ってくれるが、大きい模型を作ったのは梶さん本人だ。そのほうが来館者のワークショップには有用なのだから梶さんは迷わず拡大するというわけだ。
というか梶さんは何かパソコンを使った作業の手を止めていない。
パソコンにつながった箱から赤い閃光がまたたく。
「梶さん……?なんすかその光?」
「まあまあ、ははは」
なかなか成功しないからしびれを切らして関係ないことを始めたのかもしれない。
一億五千万年前、恐竜の時代のマツボックリから分かった種の形なら、再現できれば相当楽しくて意義があるだろう。
せっかくそう思って取り組んだのに、わずか八ミリのそれは曲がらずきちんと切り抜かれることも、まんべんなくのりを塗られることも拒み続けた。
なぜこんなに小さいのか。あまり小さいとイーシーストローブス本人にとっても飛ばしづらいはずだが。
いや、当たり前のことだ。
種を風に乗せて飛ばすというのはくじ引きのようなものだ。生育にちょうどいい環境の土地に辿り着くとは限らない。うまくいく確率のほうが格段に低いだろう。
だから一つひとつの種にあまりコストをかけず、その代わりに種の数を増やすのは当然だ。イーシーストローブスのマツボックリは細長い。多分だけど、その分種をたくさん作れるんじゃないか。
つまり、ものすごく作りづらくなるくらい種が小さいことこそが、イーシーストローブスの生態を表している。
十四個目の模型は、羽は上手く切り抜けたが、一枚目のおもりが正しい位置から盛大にずれた。
「よしっ!」
「え、嘘だろ」
「嘘だがとにかくよし!」
「何か思い付いたんですね?」
そう言って梶さんは、今度は実体顕微鏡から顔を上げた。
待たせすぎて梶さんの領分とあまり関係ないことまでさせてしまったのか。
「はい。そもそもワークショップに役立てばいいですからね」
この十四個の残骸がイーシーストローブスの繁殖戦略を物語ってくれる。
「じゃあそちらも役に立つんですね。それはなにより。まあ、」
梶さんは立ち上がり、手から何かを放った。
「こちらは上手くできましたから、一安心ですね」
梶さんの手からイーシーストローブスの模型が、見事な回転を見せながらゆっくり落ちるのだった。
「薄い紙だからレーザーカッターでは焼けてしまいそうでしたけど、なんとかなりましたよ」
あの光はレーザーで、曲がらないように紙を切り抜いていたのだ。
そして、実体顕微鏡を使って部品の貼り合わせを。
「大人げない――!!」
「梶さんの勝ち~」
嬉しそうに笑う梶さんの腕を摩耶が高々と引っ張り上げる。
さらに後日。
もはや飛ばすことのないイーシーストローブスを標本箱に収めて。
この十四個を乗り越えた私には迷いはなかった。次に選んだ論文からなら……、形はおかしいが、なんとかいけるはずだ。
時代はさらに遡って二億七千万年前、恐竜より前の針葉樹マニフェラ。
この木には大雑把に分けても三種類の種がある。
カエデやマツと大体同じ一枚羽の種。ネズミの顔のような左右対称で二枚羽の種。その中間の、片方の羽が小さい二枚羽の種。
一枚羽のものはオオミツバマツやクロビイタヤとそんなに変わらず、あっさり飛ばすことができた。慣れたものだ。こんなに簡単に恐竜より前の時代の様子が見られるなんて。
でもこれだけではまだ三分の一だ。しかも形が違うものには梶さんに教わった計算も通じないが……。
種本体、つまりおもりの部分はほぼ変わらないはずだ。なら部品を変えなければそれでいい。
そもそも参考にした論文で一枚羽以外はあまり、左右対称は特にほとんど飛ばないとしている。飛ばないからいい加減に作っていいとも言えないが、飛ばないなら出来を確かめようがない。
果たして片方の羽が小さい二枚羽のものはちょっと回りながら素早く落ち、左右対称のものは真っ直ぐ落ちるだけだった。変な種だ。
これで合っているとしたら、マニフェラはなぜいろんな形の種を作っていたのだろう。
近場にも落としておいたほうが生き残りやすかったのだろうか。それとも本当にただ羽を生やしたばかりの過渡的なものだったのだろうか。
動きが見られなくても見られても、種を飛ばす木の生態にはまだ触れたばかりのところだ。
さらにしばらく経って。
「……というわけで、羽が片方だけあることで安定した回転を続けることができ、かえって落ちるのが遅くなるわけです」
工作室に集まった子供達を前に、梶さんが種の飛行原理の解説を終えた。
今回の模型製作の成果を元にしたワークショップだ。
「風に飛ばされやすければ日陰の外とか、他の木が生えていないところとか、芽を出すのに都合がいいところに飛ばされる可能性が増えるんです。他の方法で移動する種もあるんですけど……」
「羽の生えた種なら紙で形を作れば簡単に再現することができるというわけです」
私が植物の説明を、梶さんが物理と工作の説明をする。
低学年の子やそれほど自信のない子に作ってもらうのはさすがに十センチに拡大したイタヤカエデの種だ。みんな軽々と組み立てて、飛ばすのを楽しんでいる。
動かないはずの植物の動きに触れて目を輝かせている。
高学年の子や自信のある子には、上級コースとして私と同じオオミツバマツの実物大に挑戦してもらっている。
「誰かできましたかー?」
「むずい!」「できました!」「ちょっと飛んだ!」
きちんと飛ぶところを見せてくれる子も何人かいた。一千万年以上前の種の動きが子供達の手で蘇ったのだ。
型紙にはもちろん、「原案・協力:メイプルシーズ」と明記してある。
「でもこっちはやっぱり無理でした」「これ小さすぎ!」
上級コースのテーブルの真ん中には、イーシーストローブスの型紙と、完成した模型が入った標本箱が二つ、「超上級者コース」として置かれている。片方の箱は私の失敗作、もう片方は梶さんの成功作だ。
「似たような形でもっと小さい種もありますよ」
「ええーっ!」
私は講師テーブルに置いてあった標本箱を上級コースのテーブルに置き直した。ヒメシャラ、モミジバフウ、サルスベリ。どれも五ミリ前後の種をバラバラと大量に飛ばす。
彼らは標本箱を覗き込んで息を呑む。イーシーストローブスに挫折させられた子達の目には驚異だったようだ。
植物の動きの面白さや知らなかった生態に触れさせることができた。私と梶さんは成功を喜び合い、日誌をつけてワークショップを終えた。
工作室を出て下りの階段に出ると、正面は縦長の窓。
ちょうど大きいほうのオオミツバマツ、Pn05-01の姿がネットの裏からよく見えた。
西に傾きかけた日を受けて、密な松葉をきらきらと輝かせている。
もし、この木が化石から蘇らせたのでも、挿し木をしたのでもない野生の木だったら。
これは本当は、一生のうちで空を飛ぶことのある軽やかな生き物なのだ。
[ピヌス・フジイイ(オオミツバマツ、フジイマツ) Pinus fujiii]
学名の意味:藤井健次郎博士のマツ
時代と地域:後期始新世(約3300万年前)から中新世(約1200万年前)の東アジア(日本)
成木の全高:不明(10m以上?)
分類:マツ綱 マツ目 マツ科 マツ属 ミツバマツ節
オオミツバマツもしくはフジイマツは針状の葉が3本まとまって短枝につくマツの一種だが、このようなミツバマツ節のマツは現在は国内には生息しておらず、北米大陸にしか自生していない。
岐阜県土岐市の土岐口陶土層という中新世の地層からは特に保存状態の良い球果が多数発掘されている。共産する植物から、河川に接する沼沢地、またその周囲の山地・丘陵地から流されて堆積したものとされる。
葉の特徴から和名が名付けられているものの、15cmほどになる大きな球果(マツボックリ)でよく知られている。この球果は先のとがった形をしていて、鱗片の「へそ」が棘状になっている。また基部(被子植物の果実でいう「へた」)が偏っている。この球果の形態は現生のミツバマツ節のマツとよく似ている。
マツの種子は非常に薄い羽が1枚貼り付いた構造になっていて、森林からマツの生育に向く他の樹木のない荒れ地や海岸に達するほど長距離を風に流される。(この羽は果皮の一部ではなく鱗片の一部なので、マツの種は厳密には翼果に含まれない。)
球果の鱗片に残された種子からしてオオミツバマツも同様で、羽を含めた種子全体が33mmほどの長さになり、羽は楕円を長軸に沿って二分したような形状をしていた。
葉などの化石も上記の土岐口陶土層で発見されていて、やはり針状の葉が3本短枝に付いている。
元々オオミツバマツP. trifoliaという名で知られていたが、オオミツバマツのタイプ標本はフジイマツと同種であることが明らかになり、先に名付けられたフジイマツの学名に統一された。一方、フジイマツとされていた標本の多くは別種であることも明らかになり、ミキマツP. mikiiと命名された。
[アケル・ミヤベイ(クロビイタヤ) Acer miyabei]
学名の意味:宮部金吾博士の鋭い葉をしたもの
時代と地域:後期更新世(約40万年前)から現世の日本(北海道南部、東北北部、東北南部から関東北部にかけての3地域)
成木の全高:10~20m
分類:双子葉植物綱 ムクロジ目 ムクロジ科 カエデ属
クロビイタヤは日本固有種のカエデである。クロビは黒っぽい樹皮を表す。イタヤはイタヤカエデに似ていることを示し、大きな葉を板葺きの屋根に見立てた言葉である。
葉は10cm前後になり、5つに大きく切れ込み、さらに縁には丸みを帯びた大きな鋸歯がある。
種子は他のカエデ同様、2つが1対となって育ち熟すと分離する、種子本体と1枚の羽が丈夫な脈で連結した翼果である。他のカエデの翼果のペアは多少とも角度が付いてハの字型に連結しているがクロビイタヤの翼果のペアは一直線に連結する。翼果1つは前縁が真っ直ぐで全体に直線的な姿をしている。
冷涼な気候の一部の地域にのみ生息する。飛び飛びに分布しているのは、最終氷期以前は広く分布していたが、それ以降に気候変動が起こり、現在の生息地の起伏に富んだ地形で生き延びることができたためと考えられている。しかし現在の生息地も開発が進んだことにより減少し、絶滅危惧種となっている。
栃木県那須塩原の塩原層群(塩原湖成層)という地層から葉や翼果が発掘されることがある。この地層は周囲の火山による噴出物が古塩原湖というカルデラ湖に堆積した後に古塩原湖が干上がって現れたものである。クロビイタヤ以外にも非常に多数の植物が発掘され、この植物群集はブナ科が13%を占める冷温帯落葉広葉樹と暖温帯植物からなる。当時の気候は現在の那須塩原と同様かやや温暖だったようだ。
[イーシーストローブス・マッケンジエイ Eathiestrobus mackenziei]
学名の意味:マッケンジー氏が発見したイーシー地方の球果
時代と地域:ジュラ紀後期(約1億5000万年前)のヨーロッパ(スコットランド)
成木の全高:不明(10m以上?)
分類:マツ綱 マツ目 マツ科
イーシーストローブスはマツ科(マツ科の系統に連なるもの(ステム・マツ科)ではなく現在のマツ科を含むグループ(クラウン・マツ科))に含まれるものとしては現在最古とされる針葉樹である。それ以前に知られていた最古のマツ科より3000万年遡るものである。
スコットランドのブラックイスルという地域にあるジュラ紀末の地層から、長さ8cmほどの細長い形をした球果が発掘されている。
この球果の鱗片一つに、羽の付いた種子が左右対称にペアになって収まっていたことからこの球果がマツ科であることが裏付けられる。この種子の大きさは本体が3mm前後、羽を含めた全体が1cm未満と比較的小型である。
[マニフェラ・タラリス Manifera talaris]
学名の意味:手のような短枝が付き翼のあるサンダルのような種が成る木
時代と地域:ペルム紀後期(約2億7千万年前)の北米(テキサス)
成木の全高:不明(10m以上?)
分類:マツ綱 ボルチア目 マヨニカ科
マニフェラは羽の生えた種子を付けた針葉樹としては現在最古とされるものである。
ヒトの手のように5つに分かれた形をした短枝と、それに付着した種子が発見されている。この短枝は雌性の生殖器官で、枝分かれの根元近くに種子が付着した痕跡が右・中央・左の3箇所ある。種子はこのうちどれかに付着していたが、左右どちらかに付着したものは左右対称ではなく、種子の形態は大きく分けて3種類に分かれた。
3種類とも水滴型の種子本体の丸みを帯びたほうから斜めに羽が生えていたが、その羽が2枚で左右同じ大きさのもの、2枚だが片方が小さいもの、片方1枚だけのものの3種類である。
カリフォルニア大学の研究チームは紙製の模型でこれらの種子を再現し実験することで、落下時の運動や速さに違いがあったことを明らかにした。つまり、羽が2枚で左右同じ大きさのものは真っ直ぐ落下するか急角度の螺旋を描いて落下した。羽が2枚だが片方が小さいものは回転はしたもののやや速く落下した。羽が片方1枚だけのものは回転しながらゆっくりと落下した。
マニフェラに近縁でより後の年代のマヨニカMajonicaの短枝には中央の種子の痕跡がなく、種子は羽が1枚のものだけだった。落下が遅く分散しやすい種子を作る性質だけが残ったという進化を示しているのかもしれない。
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