第82話「ルンペルシュティルツヒェンとエコー -愛花とひまわりと昆虫館-」
とある昆虫館、バックヤードの一室。
薄暗い中をなかば手探りで職員が動く。風が立たないようエアコンも扇風機も止められ、徐々に蒸し暑くなっていく。早くことが済まなければ、やり直せるのは何時間か後だ。
職員の手の中で電子機器のモニターがオレンジに光る。無骨なデザインをした音声レコーダーだ。
フェイクファーをかぶせられたマイク部分が、縦長の飼育ケースにそっと向けられる。中にはシダの葉が活けられているが、もちろんこれは録音の対象ではない。
葉の上に一匹の昆虫が現れる。その姿はバッタによく似ている。緑の長い体、後ろを向いた細長い後肢。
しかし、細長い触角を柔軟に振り回し、小さな複眼とともに薄暗がりの中を探っている。
やがてそれが落ち着くと、虫は背中を覆う翅を震わせ始めた。
チリリリリー、低く鋭い鳴き声が響く。
それを正しく録音することができて、職員は、ふう、と息をついた。
今年も白亜紀の鳴く虫ニッポノハグラの鳴き声を記録することができた。ローカルニュースやSNSでも、この地域の新たな風物詩として伝えられるだろう。
*****
完全に木陰に覆われた森林公園の道を、それに合っていない陽気なファッションをした同級生、星井ひまわりがどんどん進んでいく。私はついていこうとして足がもつれかける。
母がリュックの中にねじ込んだ水筒が重く、母がかぶせてきた帽子がわずらわしい。コミュニティバスを降りてすぐこんなひんやりとした森なのだったら必要なかったのではないか。
「星井さっ……、ひ、ひまわりちゃん」
名字で呼びかけて、バスの中でそうしろとごねられたとおり、下の名前で呼び直した。
「ちょっと、はっ、早い」
「愛花ちゃんごめんね!でもほら、もうすぐだから」
ひまわりが言うとおり、道の先に建物が見えてきた。目的の……あくまで主にひまわりの目的の、昆虫館である。
「これでゴキブリのことが分かるよっ!」
「あの、道であんまり、大声で」
「ママも喜ぶはず!」
ひまわりは誤解を招きそうなことをわざわざ大きな声で叫ぶ。人気のないハイキングコースで助かった。
別にひまわりの母がゴキブリについて知りたがっているわけではない。むしろゴキブリが家に出るたびにすごく怖がるのでなんとかしてあげたい、そしてゴキブリ対策を自由研究のテーマにしたいのだと、ひまわりは言っていた。
だからその母と一緒に来るのは無理だったにしても、
「なんで私が……」
今日何度目かの言葉が口をついて出た。
するとひまわりが急に立ち止まってこちらを振り向いたので、私はつんのめって倒れそうになる。
「大丈夫だよ、動物園のライオンとか恐竜と一緒だよ。こっちに向かってきたりしないよ」
無邪気にもそんなことを言って私を励まそうとする。私がゴキブリを怖がっていると思ったのだろう。
「そうじゃなくて」
ひまわりは小首をかしげる。
「いつも一緒にいる、杉山さんとか、田口さんとか」
ひまわりと同じように華やかな子らを誘えばよかったのではないか……と、名前を出しながら自分でも違和感を抱いた。
「だってあの子たち、こういうときつまんないから」
あまりに率直な答え。
「あ、こういうときだけね。いつもは楽しいから」
そう付け加え、人差し指を口の前に立てた。そしてまた歩き出す。
正直に言ってしまえばそういうことなのだろう。クラスでも目立っている連中が昆虫館でゴキブリなど見たところで、ただ騒ぐだけで真面目な調べものにはなるまい。
私自身はゴキブリをそんなに怖がってもいない。ただ悪そうな見た目の虫だと思っているだけだ。ひまわりが私を道連れにしたのは的確だったと言わざるを得ない。
それにしても、今は間接的に私もひまわりの母のために動いているというわけだ。
ひまわりは一見いつも好き勝手やっているかのように見えるが、その実、今回のように、二言目には「ママが」「ママに」「ママも」だ。
母親のことばかり気にかけて自由研究のテーマまで母親のため、果てにはわざわざゴキブリを見に昆虫館まで来る。
私のリュックに入れられた水筒の重みや、色々聞かれたあげく単に自由研究のためで交通費はコミュニティバスで往復百円、入館は市内の小学生なので無料ならと許された、私のままならなさと同じものを、ひまわりも抱えているかもしれない。
母親のために我慢してゴキブリを見る羽目になっておろおろしているひまわり、というものが見られるかもしれない。私はそんな意地の悪い気持ちも持っていたのだった。
「こんにちは、いらっしゃい」
「ゴキブリが家に出ないようにする方法ってここで分かりますか!?」
入館早々親切にも挨拶してくれた若い女性の職員さんに、ひまわりは臆面もなく大声でたずねた。一応大事に飼われているのだろうに、気を悪くしないだろうか。
職員さんは一瞬視線を上に反らして、すぐに笑顔で答えた。
「そうですね、ここでゴキブリを詳しく見てみれば分かると思いますよ。簡単にご案内しましょうか」
「わあ、お願いします!」
なんと、虫に敵対的な理由で来たのに分け隔てなく歓迎するではないか。
「ここには化石から生き返ったゴキブリの仲間もいるんですよ」
「ええっ、こんな身近なところに大昔の生き物が!」
ひまわりは目を輝かせるが、
「でもゴキブリなんだけど……」
「確かゴキブリのほうが恐竜より古かったと思うよ」
「よくご存じですね」
職員さんがひまわりの知識を誉める。
「ほら。だから恐竜よりすごいんだよ」
そんなことですごさが決まるものだろうか。
「それでは、こちらに」
職員さんはエントランスホールから見学順路へと歩き出した。
「ゴキブリとその祖先の歴史を知ればゴキブリが家に出てしまう理由もわかると思いますよ。長い歴史の中で出てきた種類と今の種類を比べて展示していますから」
小さな展示室に入ったと思ったらすぐに隣の、ゴキブリ捕獲器のパッケージに似せた赤い屋根の飾りが付いた部屋へと進んだ。
壁は腰くらいから上がガラス張りで、大きな飼育ケースが並んでいるのが見えた。飼育ケースより奥は作業スペースのようだった。
「恐竜より前にいたのは、ゴキブリそのものというよりゴキブリの祖先のちょっと違う虫だったんですよ」
そう言って職員さんが見せてくれたケースの中にいる虫は、しかしほぼ大きめのゴキブリにしか見えず、身構えてしまう代物だった。
「これはアルキミラクリスといって、三億年くらい前のゴキブリの祖先です」
「ね、別に怖くないでしょ」
「こうやって見る分には……」
ひまわりがさっきそう言い張っていたとおり、ガラスの向こうで丸太に止まってじっとしている虫を怖がる必要はないのだった。
それに、色は落ち葉のような明るめの茶色だし、足もあまりとげとげしていない。ちょうど「悪そう」な部分がないことになる。
「この頃から今のゴキブリに近い格好をしていたんですよ」
「楕円形で平べったいですね!」
「でも何かこう……、羽が大きいような」
大きな羽が背中から広がって、マントを背負ったような格好をしている。
「そうなんです。この頃は地面が湿っていて小さな虫には歩くのが大変だったらしくて、ゴキブリの祖先も木の間を飛んで移動していたみたいなんです」
「愛花ちゃん、すごくいいところに気付いたね」
なんだかひまわりに協力したみたいになってしまった。
「今も熱帯の森には飛ぶのが上手い種類がいるんです。このポーセリンローチはすごくよく飛びますよ」
紙飛行機みたいに言われてもな、と思って三億年前のやつの隣のケースを見てみれば、そっちの種類は薄いベージュ色をした水滴型の、小さな落ち葉のような虫だった。
「森にいるんですか?家の中じゃなくて?」
ひまわりがたずねる。
「そうですね。元々ゴキブリも野生の昆虫でしたし、今もほとんどの種類のゴキブリは人間の建物には入らないで森の中で暮らしているんです」
生き物は全て野生で生まれたのだから、よく考えたら当然のことだった。それなら今目の前にいる二種類とも別に問題になったりは……、
いきなり両方とも一匹ずつ飛び立った。
「わっ」
思わずのけぞってしまう私を見て、ひまわりがくすくすと笑った。しかし私をからかい続けることはせず、
「本当によく飛ぶんだ」
ゴキブリとその祖先に落ち着いた目を向けていた。さっきからの余裕はただの軽口ではなかったのか。
「あっ、隠れてるのもいる」
ひまわりが指差す先には、丸太に樹皮がゆるく縛り付けてあり、丸太との隙間にゴキブリの祖先が身を潜めていた。ひまわりは本当にちゃんと観察している。
「ほらこっちも」
今の森のゴキブリのほうも素早く落ち葉の下や物陰に出入りしているようだった。
「平たくて出っ張りがない楕円形なので、昔から隙間に隠れるのは得意だったみたいなんです。家の中に出てくるゴキブリもそうですね」
ひまわりは話を聞きながらもスマホで虫の写真を撮っている。スマホにゴキブリの写真が残ることもいとわず、着実に自由研究を進めている。私の意地悪は相手が気付かないうちにもう一蹴されてしまった。
しばらく「平たくて出っ張りがない楕円形」の虫が隙間に挟まっているのが何種類か続き、ずっと物陰に隠れて暮らしていたんだなと納得しかけたところに全然違う虫が現れた。
ほっそりしていて目が大きい、光沢のある深緑色の、固そうな虫だ。あまりコソコソ隠れず樹皮に止まっている。
「ゴキブリは終わりなんですか?」
ひまわりが職員さんにたずねる。
「これもゴキブリの親戚なんです。ポノプテリクスっていって、体が甲虫……カブトムシやテントウムシみたいに固い種類です。カマキリの親戚でもあります」
「へえー。あれっ?」
私もひまわりと同じことに気付いた。
「じゃあカマキリも」
「そうなんです。カマキリとゴキブリは近い仲間なんです」
隣のケースには見慣れた黄緑のカマキリがいた。
「そういえば羽の感じが似てるけど……」
そんなことが考えられるくらいには私もゴキブリを落ち着いて見てしまっていた。しかしカマキリはさっきまでのゴキブリらしい虫とは格好も暮らしかたも何もかも違いすぎる。
「カマキリが家に出てきたらただの迷子ですよね」
ひまわりはカマキリに対してまでも可愛らしい言いかたをした。
「虫の形がその虫の暮らしと関係あることがよく分かる例ですね」
さっきの「平たくて出っ張りがない楕円形」の話が説得力を増したことになる。
カマキリのさらに隣には楕円形ではなく球形の虫……、ダンゴムシが、小さいゴキブリと一緒にいた。
「ダンゴムシも隙間に隠れるのは得意ですよね」
私がそう言い終わらないうちに、そのダンゴムシは体を開き……、頭を起こして六本の足でサッと走り出した。
「えっ」
「実はこれも今のゴキブリなんです。ヒメマルゴキブリっていう、メスだけダンゴムシそっくりの種類です。丸くもなれますよ」
「えーっ、すごい!ゴキブリって色々なんですね!」
横で見ていたひまわりは無邪気に感心しているが、ダンゴムシだと思ったものの殻からゴキブリの顔と足が出てくるのに直面した私は唖然としてしまっていた。ここに来てからちょっと変なことが起こりすぎているようだ。
「本当に色々なんですよ。シロアリもゴキブリに含まれるっていいますし」
なんだかとんでもないことが聞こえた気がしたが今すぐには受け止められなかった。
いかにもゴキブリらしいゴキブリが出てきて安心してしまうくらい、ものを見る基準がおかしくなってきた。
「恐竜時代の後半に、今のゴキブリと同じ仲間に含まれる本当のゴキブリが出てきました。これはペルルキペクタといって、白亜紀の中国で小さな恐竜や哺乳類から逃げ回っていた種類です」
「恐竜はゴキブリを食べてたんですか?」
「小さくて虫を食べる種類なら、そういうこともあったみたいです。ペルルキペクタの時代には虫を食べる動物の種類が増えたので、その前のゴキブリの祖先よりも隠れるのが得意になったとも言われています」
樹皮や木の葉の下にしっかり隠れていたが、大きな羽が見えた。最初のほうにいたものの羽ほど大きくはないようだった。
隣のケースにいた、どう見ても今の人間の家に出るゴキブリそのものも同じようにしっかり隠れていた。クロゴキブリという普通の名前が説明に書いてある。
ここまで見てくれば私にも、ひまわりにももうとっくに分かっていた。
「大昔からゴキブリの隠れ家になる隙間が森の中にあって、それが家の中にもあるから家の中に出てくるっていうことなんですね!」
「お見事、そのとおりです!森の中だったら落ち葉の下や朽ち木の割れ目、家の中だったら片付けていない紙ごみや生ごみ、家の設備の隙間ですね」
ひまわりは聞きながら勢いよくメモ帳に書きつけている。
「ゴキブリにとっては隙間の中が湿っているのも大事です。隠れているうちに体が乾いてきたらそこにはいられないですからね」
「じゃあ逆に湿っぽいところの隙間に気を付ければ」
「家の中からゴキブリが住みやすいところをなくせるっていうことになります」
おおーっ、と、ひまわりが声を上げる。
一応普通の知識のような気もするが、ここまで見てきたらかなり説得力を感じる。
それにしても、隙間をなくせばいいんだと活き活きしているひまわりの家の中はいったいどうなっているのか、というより、ひまわりにとって活き活きとしていられる環境ってなんなんだろうか。
ゴキブリが怖いのを我慢していたとまでは言わないが、慣れないものを見つめて気を張り、気付かないうちに疲れてしまっていた。
ひまわりを置いていくようにゴキブリの部屋を出て、明るく綺麗なものに誘われるように重いガラス扉を開いた。
その先は、花が咲き乱れ、たくさんのチョウが舞い飛ぶ温室だった。
ハイビスカスやランタナといった低木の花に囲まれるようにして白い鉄製の優雅なベンチがある。ふらふらとそちらに近付いているうちに背後にひまわりの気配がした。
私はベンチに身を預けたが、ひまわりは座らずに辺りを見回していた。
「宿題できそう?」
聞くまでもないと思ったのだが、
「んー、うーん……。もうちょっと考える」
なぜか今一つしっくりきていない様子なのだった。
そして今度はひまわりが、空けておいたベンチの片側に触れずどこかへ歩き出していく。
「あ、あれ」
先に置いていったのは私のほうだしひまわり相手に寂しくもならないが、ひまわりのマイペースぶりを見誤っていたかもしれない。
まだ追いかける気力は出ないので、私は私でベンチの上や周りを飛ぶチョウでも眺めていることにした。
白地に黒い網目の大きなチョウが、ゆっくりと頭上を通り過ぎていく。濃い茶色に薄い青緑の模様が入ったチョコミント風のチョウが花から花へ渡る。羽の先だけが鮮やかなオレンジ色であとは真っ白のチョウが素早く駆けていく。
まだまだ見分けられないほどのチョウが現れる。
そんな中に、おかしなものが混じった。
羽のまだらが透明で、胴体がどっしりと太い。飛びかたも少しばたばたして、明らかにチョウではない。
まさか最初に見た大きな羽のゴキブリの祖先ではないだろうが、また何かおかしな虫がこの温室にもいるのか。
「愛花ちゃーん、セミがいるーっ」
ちょうどひまわりが大声で呼んできた。
立ち上がってそちらに向かいながら妙なことに気付いた。さっき通り過ぎた虫がセミだとしても、今セミの鳴き声は温室の中ではなく外からしか聞こえてこない。それに、外にいくらでもいるセミを、わざわざ温室の中に南国の綺麗なチョウとともに放ったりするだろうか。
ひまわりはイチョウの苗木らしき鉢植えの木の横から呼んでいた。
しかし私がそこに着く頃には、ひまわりはすでにそこを通りすがった職員さんに声をかけているところだった。
入館したときもそうだったが、異様に素早いし、人にものを聞くのに躊躇がない。それに、ゴキブリについて知るという用が済んだのにもかかわらずあの行動力。
そうか、あれが好奇心を発揮している人間の姿か。
ひまわりが連れてきた職員さんは父親より年上の男性だったので、少し緊張させられたが、職員さんは穏やかな口調で話し始めた。
「ここにいるのはね、セミの大昔の鳴かない親戚なんだよ」
そう言うとおり、イチョウの鉢植えはたくさんあってセミのような虫もたくさん止まっていたが、鳴き声は全然聞こえなかった。
「セミの幼虫が土の中で育つことは知ってるかな」
「はい!何年もかかって地面の上に出てくるって」
「そうだね。その間セミの幼虫がどうやって暮らしているのか、おじさん達にも分からないことがたくさんあるんだよ」
依然として穏やかに語るその言葉に、私は思わず温室の外、セミの鳴き声が聞こえるほうを振り返った。
さっきの女の職員さんはゴキブリのことならなんでも知っているように見えたのに。セミは街中にも公園にもあんなにたくさん鳴いているのに。
そのセミが何年も何をしているのか、ベテランらしき職員さんにさえ分からない?
「えーっ、そうなんですか!」
ひまわりは声に出して驚いてみせる。私はそんなに簡単な言葉で表すことができない。
「それで少しでもセミのことが分かるように、最初から地面の上で育つセミの親戚を飼っているんだよ」
職員さんはイチョウの苗木に止まっている虫を指差した。
「この大きいのがダオフゴウコッススで、」
さっき飛んでいた種類と同じ、暗く鮮やかな赤の羽に透明のまだらがある種類だ。羽が大きく、毛が生えていて、ガのようにも見える。
「この葉っぱの上にいる小さいのがシナポコッススだよ」
こっちはセミと比べるとだいぶ小さい。羽の模様はもっと簡単で、ただ羽に深緑の縁取りがあるだけだった。
ゴキブリの祖先や親戚もそうだったが、まるで呪文みたいな名前は聞いただけでは覚えられない。ひまわりもメモを取っている。
しかし、大昔のそんな虫よりその辺のセミのほうが不可解だというのか。
「壁に化石の写真がかかってるでしょう」
職員さんがまた指差すほうを見ると、額縁に収められた写真の中で、薄いベージュ色をした石の板にセミの羽の形がくっきりと浮き出ていた。
「あれは鳥取で見付かったアブラゼミの祖先の化石なんだよ。研究が進めばああいう今のセミにもっと近いものを飼って、セミがどんな風にして鳴くようになったか調べられるんだ」
私達は夏が来るたびに、飼えもしない虫のどうやって始まったかも分からない鳴き声に取り囲まれているのだ。片付ければ出て来なくなる単純なゴキブリよりよっぽど深い闇に包まれた虫ではないか。
ひまわりは目を輝かせて職員さんの話を聞き続けていた。
セミのことが頭から離れないまま温室の順路を通り抜けるうちに、階段を上り、温室の中の高台から建物の二階に抜けた。
ほんのり薄暗い部屋の中に、低く鋭い、チリリリーという鳴き声が響いていた。
セミではなくコオロギかなにかだ。少しほっとする自分がいた。
「あっ、キリギリスのコーナーかな」
ひまわりが先に説明を読んで言った。名前を聞いたことはあってもツルやウミガメと同じ「お話の中の存在」という感じがした。
並んだガラスの上には「キリギリス」「クツワムシ」「ハタケノウマオイ」というような今の虫らしい名前に続いて、また大昔の虫らしき名前……、「ピクノフレビア」と「ニッポノハグラ」があった。
しかし今のものも大昔のものも並んで飼えていることが、私をまた安心させた。どうやら素直な連中らしい。
「鳴いてるの、あっちだね」
そう、鳴き声は大昔の虫のほうから聞こえる。
ピクノフレビアとニッポノハグラの両方ともよく似た声で鳴いていた。
そしてどちらもバッタによく似た、少し背が高い感じの黄緑色の虫だった。ピクノフレビアのほうが大きい。一匹ずつ前のめりの姿勢になって、羽を震わせるたびに鳴き声がする。
「こうやって鳴くんだね」
「うん」
どこがどうなって鳴き声が出るのか見て分かる。これは、楽しいと言ってよかった。
ひまわりと肩を並べて覗き込み、鳴き声に聞き入りながら見つめても、おかしな感じがしなかった。
昆虫館の外に出ると、太陽はすでに木々の向こうに隠れようとしていた。
セミはいっこうに鳴き止む気配がない。歴史も育ちかたも謎に包まれた虫達……。
ひまわりは少し上の空になってセミの鳴き声に耳を傾けていた、かと思ったら急にその場にしゃがみ込んだ。
セミの幼虫が土の道を横切ろうとしていたのだった。
そういえば私はセミの羽化を見たことがない。見れば少しはセミのことが分かるだろうか。
しかしここで最後まで見届けることはできない。私達はのこのこと歩くセミの幼虫を踏み潰さないように気を付けて離れた。
セミに混じって、コオロギが鳴いているのが聞こえた。いや、もしかしたらキリギリスの仲間かもしれない。
「自由研究、セミとか鳴く虫のことにしよっかな」
ひまわりが言い出す。
「あれ、その、ゴキブリは?」
「うーん、ゴキブリのことはママにどうやったら出なくなるか教えてあげれば充分かなって。それより鳴く虫のほうがまとめたら面白そうだったから」
最初から、ひまわりは母親にもテーマにも縛られていなかったのだ。それにあの躊躇のなさ、身軽さ……。
ひまわりは、自分がいいと思った物事に忠実なだけなのだ。母親のことを気軽に話題に出すのも単にそういうことなのだろう。
セミのことは訳が分からなくなってしまったが、ゴキブリとキリギリスとひまわりのことは分かったような気になれた。
三日後。
私は机に向かったまま、昆虫館で見たことをどう自由研究にまとめたものか未だに迷っていた。
ひまわりみたいに素直に展示に感心していればすらすら書けたのだろうか。私は連れて行かれただけだから混乱してばかりだった。
セミの羽化でも見るか、しかしひまわりもセミのことをやると言っていたからかぶるかもな……などと考えていたところに、そのひまわりからスマホにメッセージが届いた。
なにかカブトムシのような、しかしもっと真っ黒で横幅があり、どっしりとした虫の写真。続けて、「動物園行ってきた!」との文。
動物園に行ってきてなぜ強そうな虫なのか。
首をかしげるキャラクターの画像を送った直後に、「昔日本にいたゾウのうんちを食べてた虫なんだって」と説明が届いた。
ああ、また昔の虫か。しかもひまわりの奴、私を完全に虫仲間と見なしている。何がゾウのうんちだ。
しかし、その簡単な説明がゆっくりと静かに私を驚かせた。いきなり実物を直接見せられるよりかえって私にはよかったのかもしれない。
つまり、大昔は日本にもゾウがいて、そのゾウと関わり合って暮らす生き物もいたのだ。
なんとなく、今と昔の日本列島の形の違いということが連想される。どこで聞いた話だったか。
知りたいことを知る。そういう自由から、ひまわりの真似をしてみようか。
「詳しく」と言っているキャラクターの画像を、ひまわりに送ってみた。
[ステム網翅類 stem-Dictyoptera]
石炭紀以降の地層からゴキブリに非常によく似た昆虫の化石が多数発見されていて、元々は現生のゴキブリと同じくゴキブリ目に含まれる「真のゴキブリ」であると見なされていた。
しかし、系統の分岐に基づく分類法によってゴキブリに近縁な昆虫の類縁関係が見直されると、現生のゴキブリ全てを含むグループがゴキブリ目であり、それに最も近縁なのはカマキリ目で、この2つのグループが分岐する前に現れたものはゴキブリ目には含まれないとされるようになった。
ゴキブリとカマキリが分岐した後の「真のゴキブリ」と呼べるものより前に現れたものは、「真のゴキブリ」とよく似た姿をしていつつ「真のゴキブリ」とは異なる特徴も持っていた。そのようなものをステム網翅類、分岐した後のゴキブリとカマキリのグループをクラウン網翅類(網翅上目)という。ステム網翅類は便宜的にブラットプテラ目という側系統群として扱われることもある。
ステム網翅類はすでに、広がった前胸部と平たく丈夫な前翅に守られた小判型の体、長い触角、発達した肢などを備え、一見ゴキブリにとてもよく似ていた。落ち葉や樹皮、倒木などに潜り込んで死んだ動植物を中心に食べる、現生の多くのゴキブリに近い生態をすでに確立していたと考えられる。
ステム網翅類の現生ゴキブリとの特に大きな違いは産卵の方法と幼虫の姿にある。
ステム網翅類は長い産卵管を持っていた。これで卵を植物に1つずつ産み付けていたと考えられる。現生のゴキブリが複数の卵を1つの卵鞘にまとめてしばらく保持しておく、または胎内で卵を孵して幼虫を産むのとは大きく異なっている。
加えて、ステム網翅類の幼虫は胸部が大きく広がって、カブトガニを思わせるシルエットになっていた。身を守る方法が現生のゴキブリの幼虫と異なったのかもしれない。
成虫の体型の違いとしては、ステム網翅類には体の割に翅が大きいものが多かった。現生のゴキブリと比べて持続的な飛行を行うことが多かったと考えられる。石炭紀には湿地帯の森林が多く、小さな昆虫が長距離を移動するには濡れた地面を歩くより木の間を飛ぶほうが安全で効率がよかったようだ。石炭紀には空中でステム網翅類を捕食する可能性のある捕食者も限られていた。現生のゴキブリではポーセリンローチ(Gyna属)のように翅が大きく樹上で多く過ごし、木から木へ飛行するものがいる一方、樹上性であってもなくても飛行能力を失ったものも多い。
[アルキミラクリス・エギントニ Archimylacris eggintoni]
学名の意味:エギントンの原始のミラクリス(ミラクリスは近縁種の属名。意味は「粉挽き小屋のゴキブリ」)
時代と地域:石炭紀後期(約3億1000万年前)のヨーロッパ(イギリス)
成虫の全長:約5cm
分類:昆虫綱 "ステム網翅類" アルキミラクリス科
アルキミラクリスは、大きな翅や長い産卵管を持ちゴキブリのような姿をした、典型的なステム網翅類のひとつである。
アルキミラクリス・エギントニの保存状態の良い化石をマイクロCTスキャンにかけるマンチェスター大学の研究によると、アルキミラクリスは肢の先に真褥盤葉(しんじょくばんよう、euplantulae)と呼ばれる吸盤のような働きをする軟らかい突起があり、爪は発達していた。木に盛んに登っていたようだ。肢の棘はあまり目立たなかった。
また地上の腐植質を食べる現生ゴキブリのように丈夫な顎を持っていて、餌は地上で摂ったようだ。
アルキミラクリス・エギントニはアプソロブラッティナ属Aphthoroblattinaに分類されることもある。アプソロブラッティナは全長50cmにもなる「超巨大ゴキブリ」であるという噂が流れたことがあるが、単に「全長50mm」が誤記されたのがきっかけのようだ。なお「超巨大ゴキブリ」としては翅の大きなステム網翅類の姿ではなく現生のオオゴキブリPanesthia angustipennisに似せた姿の画像が流布しているが、そのような姿であったわけではない。
ステム網翅類・真のゴキブリ両方合わせても、現生の9cmほどに達する一部のゴキブリが史上最大級であるといえる。家屋性のゴキブリはこの半分程度にしかならない。
[ポノプテリクス・アクセルロディ Ponopterix axelrodi]
学名の意味:ハーバート・R・アクセルロッド氏とA.G.ポノマレンコ氏の翅
時代と地域:白亜紀前期(約1億2000万年前)の南米(ブラジル)
成虫の全長:約15mm
分類:昆虫綱 網翅上目 ウメノコレウス上科 ウメノコレウス科
ウメノコレウス科は特に丈夫な前翅を持ったクラウン網翅類である。甲虫によく似た姿をしていて以前は甲虫であると考えられていたが、実際にはステム網翅類と同じくゴキブリに近い特徴を多く持っていた。系統としては網翅類の中でもゴキブリ目よりカマキリ目に近い。
ポノプテリクス・アクセルロディはブラジルのアラリペにあるクラト層の最下部ノヴァ・オリンダ層から多数発見されている。この地層は酸素のない湖または塩湖の底に堆積したもので多数の節足動物化石を含み、その節足動物の26%はポノプテリクスと、よりゴキブリらしい2種の網翅類で占められている。
ポノプテリクスは一見ハンミョウやカミキリムシのような細身の甲虫によく似た姿をしていた。大きな複眼のある幅広い頭、細い前胸部、重ならずに正中線で合わさって半楕円状になる前翅を持っていた。なお、直接類縁関係のない現生ゴキブリ目のカブトムシゴキブリ(Diploptera属)にもこのような前翅が見られる。
前翅には小さなくぼみが並んでいて、これが翅の剛性を高めていたようだ。翅脈には甲虫には見られない特徴があり、これが甲虫ではなく網翅類であることを示している。
大きな複眼やカマキリと近縁なことから肉食性を思わせるところもあるが、近縁種に花粉が付着していた例もあり、食性はあまりはっきりしない。
福井県の手取層群北谷層からポノプテリクスと同じウメノコレウス科に含まれるペトロプテリクス・フクイエンシスPetropterix fukuiensisなど、5種の網翅類が発見されている。ペトロプテリクス・フクイエンシスは前翅のみだが、ウメノコレウス科が甲虫ではなく網翅類であることを改めて裏付けた。
[ペルルキペクタ・アウレア Perlucipecta aurea]
学名の意味:金色の堆積物から発見された透明な胸部を持つもの
時代と地域:ジュラ紀末または白亜紀前期(約1億4000万年前)のアジア(中国)
成虫の全長:約2cm
分類:昆虫綱 網翅上目 ゴキブリ目 ゴキブリ上科 メソブラッティナ科
メソブラッティナ科はゴキブリ目(「真のゴキブリ」)の中でもゴキブリ科に近縁とみられるグループである。
ペルルキペクタは中国・遼寧省の義県層という地層で、保存状態の良い化石として複数発見され、体の各部の詳細が明らかになっている。
しっかりした顎と細長い触角を持つ下向きの頭部、円盤状の前胸部、腹端をやや越える翅、棘の並んだ発達した肢など、典型的なゴキブリの姿をしていた。
メソブラッティナ科は日本国内からも福井県の手取層群北谷層から白亜紀前期のプラエブラッテッラ・インエクスペクタPraeblattella inexpectaとプラエブラッテッラ・アルクアタP. arcuataが発見されている。山口県の美祢層群桃ノ木層から発見された三畳紀のトリアッソブラッタ・オカフジイ(オカフジムカシゴキブリ)Triassoblatta okafujiiもメソブラッティナ科であるとされることがある。義県層や桃ノ木層は湿った環境だったが北谷層はそれらと比べると乾燥しつつあった。
[パラエオンティナ科 Palaeontinidae]
パラエオンティナ科はセミにやや近縁な、三畳紀末から白亜紀前期にかけて生息した昆虫である。
当初は大きな翅や鱗粉のように見える毛からガの一種と考えられていたが、詳しい観察によりセミにかなり似ていることが分かった。
姿や分類こそセミに近いものの、セミ科に最も近縁なテチガルクタ科の昆虫がヒトに聞こえるような音声で鳴かないことや、セミ上科(セミ科とテチガルクタ科)以外の半翅類が幼虫期に土中で生活しないことから、パラエオンティナ科の昆虫もセミと違って大きな声で鳴いたり土中で育ったりはしなかったものと考えられる。なおセミ科の昆虫はペルム紀にはすでに現われていたようだ。
パラエオンティナ科の多くは、ガと間違えられていたように、セミと比べて大きな翅を持っていた。セミよりもゆっくりと長く飛んでいたと思われる。
イチョウ類と同じ地層から発見されることが多く、樹液を吸う植物としてイチョウ類をよく利用していたとか、白亜紀前期以降になるとイチョウ類が衰退したことが絶滅の原因とも言われている。また同じ時期に滑空性の羽毛恐竜や飛行可能な鳥類が増えたため、これらによる捕食圧も絶滅の一因かもしれない。
[ダオフゴウコッスス・シイ Daohugoucossus shii]
学名の意味:化石コレクターのヤン・シー氏の道虎溝のコッスス(コッススはボクトウガ属のガの属名だが、パラエオンティナ科を表わす言葉として使われている。意味は「木の幹の中にいる芋虫」)
時代と地域:ジュラ紀中期(約1億6000万年前)のアジア(中国)
成虫の翼開長:約110mm
分類:昆虫綱 半翅目(カメムシ目) 頚吻亜目 セミ型下目 パラエオンティナ科
ダオフゴウコッスス・シイは中国の道虎溝層という、淡水で堆積した昆虫の多い地層で発見された。比較的大型のパラエオンティナ科の一種で、現生のミンミンゼミHyalessa maculaticollisほどの体格と、より大きくずんぐりした翅を持っていた。肢や腹部には細かい毛が生えていた。頭部は幅広く現生のセミに似て見えた。
化石に残っている模様の痕跡によると、前翅の前半分全体に色が付いていて、前翅の後ろ半分と後翅は色が付いた部分と透明な部分のまだらになっていた。
[シナポコッスス・スキアッチタノアエ Synapocossus sciacchitanoae]
学名の意味:フラン・シャッチターノ氏の翅脈に癒合があるコッスス
時代と地域:ジュラ紀中期(約1億6000万年前)のアジア(中国)
成虫の翼開長:約60mm
分類:昆虫綱 半翅目(カメムシ目) 頚吻亜目 セミ型下目 パラエオンティナ科
シナポコッススも道虎溝層で発見されたパラエオンティナ科の一種である。ダオフゴウコッススと違いかなり小型で、現生のセミでいうと国内最小のイワサキクサゼミMogannia minutaと同程度の体格しかない。ただしこちらも翅はかなり大きかった。頭部は小さく、セミというよりカメムシのような顔付きをしていた。
シナポコッススの化石にも翅の模様の痕跡があり、前翅と後翅1枚ずつ色のある部分で縁どられていた。
[グラプトプサルトリア・イナバ(イナバムカシアブラゼミ) Graptopsaltria inaba]
学名の意味:因幡国の色を塗られた演奏家
時代と地域:後期中新世(約600万年前)の東アジア(日本)
成虫の全長:推定約60mm
分類:昆虫綱 半翅目(カメムシ目) 頚吻亜目 セミ型下目 セミ科 アブラゼミ属
イナバムカシアブラゼミは鳥取県の辰巳峠層という地層から左前翅が発見された、現生のアブラゼミG. nigrofuscataと同属のセミである。
現生のアブラゼミと同じく翅に色が付いていたが、翅の細かい形や翅脈の微妙な形に違いがあった。
辰巳峠層では植物と昆虫の化石が豊富に発見されていて、堆積した場所の周囲がムカシブナFagus stuxbergiなど温帯性の落葉広葉樹を主体に常緑広葉樹および常緑・落葉針葉樹をわずかに含む森林であったことを示す。イナバムカシアブラゼミも現在の日本の森林と似た森林に生息していたといえる。
[プロファランゴプシス科 Prophalangopsidae]
プロファランゴプシス科はどちらかというとキリギリスに近縁な、いわゆる「鳴く虫」のグループのひとつである。ジュラ紀に現われ、現在は8種のみ生息している。英語で「グリッグgrig」と呼ばれているもののこれは直翅類全体を表わす言葉でもあり、和名は特にない。
コオロギは胴体の幅と高さが同じくらいで頭が大きく、キリギリスは胴体が高くて頭が小さいという体型の違いがあるが、現生のプロファランゴプシス科はやや高い胴体とやや小さい頭を持ち、コオロギとキリギリスの中間のような姿をしている。
ハンプウィングド・グリッグCyphoderris monstrosaという現生種は黒い体と短い翅を持ちコオロギに似ていて、針葉樹の花粉を主食としている。オス成虫が他のキリギリスやコオロギのように翅のやすり状器官をこすり合わせてチリリリリーという12kHz前後の鋭い鳴き声を発するいっぽう、幼虫も別の器官で超音波を発する。おそらく地上の捕食者を撹乱するためと言われている。
プロファランゴプシス・オブスクラProphalangopsis obscuraは現生種だが1つの標本からしか知られていない。この標本の翅のやすり状器官から、この種は4.7kHzほどの低い単音の鳴き声を発することが推定されている。
中生代のプロファランゴプシス科の化石が世界各地から発見されていて、現世より繁栄していたようだ。化石種はキリギリスに似た姿だったと見なされることが多い。
中生代のプロファランゴプシス科も鳴いたとみられ、アルカボイルス・ムシクスArchaboilus musicusの翅の化石に残されたやすり状器官から鳴き声が復元されていて、カネタタキOrnebius kanetatakiに似た、6.4kHzほどの周波数のやや低い鳴き声だったようだ。
[ピクノフレビア・スペキオサ Pycnophlebia speciosa]
学名の意味:美しい太い翅脈
時代と地域:ジュラ紀後期(約1億5000万年前)のヨーロッパ(ドイツ)
成虫の全長:約10cm
分類:昆虫綱 直翅目(バッタ目) 剣弁亜目 キリギリス下目 ハグラ上科 プロファランゴプシス科 アボイルス亜科
ピクノフレビアはゾルンホーフェン地方のジュラ紀末の地層から発見されたプロファランゴプシス科の昆虫である。この地層は外海とのつながりが限られた静かな礁湖の、酸素の乏しい水底で堆積したもので、世界有数のラーガシュテッテ(多様な化石を多数産出する地層)として知られている。
ゾルンホーフェンで発見された直翅類としては特に大きいが、より大型のロブスタ種P. robustaも発見されている。
化石は横から押しつぶされているので生前よりキリギリスらしい体型に見えている可能性もあるが、化石で見る限りは頭が縦長で翅が大きくて肢がほっそりとした、ウマオイHexacentrusやクツワムシMecopoda nipponensisに似た姿をしていたように見える。
前肢に現生の直翅類と同じような鼓膜が見付かったとされた化石があるが、実際には母岩の凹みと変わらないようだ。現生のキリギリス類の場合は前肢の棘が発達しているものほど肉食の傾向が強いが、この化石の前肢には特に棘が見られない。ハンプウィングド・グリッグと同様に植物質が主食だったのかもしれない。
[ニッポノハグラ・カガ Nipponohagla kaga]
学名の意味:日本の加賀の国のハグラ(ハグラは同じプロファランゴプシス科の昆虫の属名。由来は不明)
時代と地域:白亜紀前期(約1億3000万年前)の東アジア(日本)
成虫の全長:不明(前翅長45mm)
分類:昆虫綱 直翅目(バッタ目) 剣弁亜目 キリギリス下目 ハグラ上科 プロファランゴプシス科 アボイルス亜科
ニッポノハグラは石川県の桑島化石壁という、手取層群桑島層の露頭で発見されたプロファランゴプシス科の昆虫である。
桑島層は堆積した泥の粒子が細かく生物遺骸の形が残りやすいものの、堆積した泥に酸素が多く含まれていて昆虫の体が分解されやすかったらしく、昆虫の化石はわずかしか発見されていない。そんな中でニッポノハグラの前翅および後翅と、カガプシコプスKagapsychops araenaというアミメカゲロウ目(カゲロウ目ではない)に属する昆虫の翅が同じ母岩で発見されている。翅のみであるにも関わらず前翅と後翅が揃っている点は貴重であるといえる。
翅の形態でいうとニッポノハグラはピクノフレビアと比べると小さく、ややほっそりとしていたようだ。
[ヘリオコプリス・アンティクウス(ムカシナンバンダイコクコガネ) Heliocopris antiquus]
学名の意味:古い太陽の糞虫
時代と地域:中新世(約2000万年前)の東アジア(日本)
成虫の全長:不明(前翅長28.5mm)
分類:昆虫綱 鞘翅目(コウチュウ目) コガネムシ科 ダイコクコガネ亜科 ナンバンダイコクコガネ属
ムカシナンバンダイコクコガネは石川県珠洲市の柳田累層から左右揃った前翅のみ発見された甲虫である。現生のナンバンダイコクコガネ属という糞虫(ふんちゅう)の属に含まれる。
糞虫とはコガネムシ上科の中で哺乳類の糞を主食とするもののことで、タマオシコガネ(フンコロガシ)ScarabaeusやセンチコガネPhelotrupes等がこれに当たる。ダイコクコガネ亜科はその中でも主にオスに頭部の角や前胸部の突起が発達したグループである。
ナンバンダイコクコガネ属は全長5cmほどになる大型の糞虫で、東南アジアとアフリカに生息していてゾウなどの大型の草食哺乳類の糞を主食としている。
本州の中新世の地層からもゴンフォテリウム・アネクテンス(アネクテンスゾウ)Gomphotherium annectensやステゴロフォドンStegolophodonのような初期のゾウ類や、サイ類の化石が発見されている。アジア大陸から分離しきっていなかった頃の本州で、すでにナンバンダイコクコガネ属と大型草食獣が現在のような関係を確立していたことを示唆している。
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