第81話「ビスターン村の竜 -清香とジョン、クリス、スティーブ-」

 高く無骨なコンクリートの柱の間、骨組みの多いガラスの向こうも、柱と同じ灰色の空だ。

 梅雨を迎えて、この動物園に何十年も前からある温室の中も蒸してくる。翼竜が飛びやすいように風が抑えられているから余計にだ。

 通路からカメラを構えて木の幹を見張っていると、汗こそ流れるほどではないがじっとりとして落ち着かない。

 私はこの動物園の職員ではなく、研究のために連携している大学の院生だ。

 黒い頭と水色の背中の小さな翼竜が、長い尾を引いて何度もかすめ通る。ソルデスである。

 この古びたジャングルでソルデスも活発に行動していることには違いないが、ソルデスは今の私の研究対象ではない。手のこんだ証明をしなくても、彼らはどう見ても賑やかに暮らしている。

 通路から網で仕切られた向こうには、刺々しいソテツ、高く伸びた木生シダと地表を覆う普通のシダ、そしてヤシとモンステラ。一見太古のジャングルに見えるが大して古くない植物も混ざっているし、化石から再生された古植物は数えるほどだ。

 が、それで何の問題もないということが、この私の撮影技術で証明されつつあるのだ。

 といっても、こうして自力でカメラを構えて撮る技術ではなかったはずなのだが……。

 ソルデス達は視界の外で、ソテツやヤシを巧みにかわして木生シダの幹にしがみつき、幹にくくり付けられた餌入れからミールワームやコオロギをつまみ出している。

 ここでは他にもアヌログナトゥスという翼竜を導入しようとドイツの動物園に働きかけているが、もし本当にそうなったらますます騒がしくなるだろう。アヌログナトゥスの過ごしかたは寝ているか飛び回っているかどちらかだという。

 今の私はソルデスに気を取られている場合ではないが、ソルデスもソルデスで私の研究対象に贈られたごちそうには目もくれない。

 おかげで、私もそのごちそう、つまり鶏のレバーが葉の軸の間に挟んであるヤシのあたりを見つめたまま、蒸し暑い中でただじっと待っていられる。

 お目当ての彼らのうち誰か一頭がすぐに餌を見付け出すはずだ。はずだが、それがいつかは知る由もない。

 従来の研究では数ヶ所にカメラを取り付けて5分おきに自動で撮影させればそれでよかった。そういう撮影機材のセッティングや画像処理が、私が先に持っていた技術だった。

 センサーでも使えれば……、しかし、まだしばらくは私自身が徒手空拳で手探りする段階だった。

 やがて、ヤシの木の下にお目当てのうちの一頭、まさに一「頭」と呼ぶにふさわしい大きな楕円の頭が現れた。

 ディモルフォドン。空中を飛び回るソルデスとはずいぶん違うが、これも翼竜の一種だ。

 来たのはオスのジョンだ。もう私にも鼻面の細かい模様で見分けが付く。

 しっかりした爪としゃかしゃか動く四肢で歩き回る。前肢の翼や後肢の尾羽はしっかり畳まれ、尾は斜めに持ち上げられて動きを妨げない。うっすらと緑がかった灰色のまだらの毛は粗く、獣じみている。

 高い吻部はタイル状の鱗に覆われ、クチバシというより顎というべきものだ。わずかに開けた口から牙が覗く。そんな口先を持ち上げ、鼻を利かせてヤシに近付く。

 私は録画を開始する。

 思ったとおり、ジョンは迷わずレバーのあるヤシの根元に手をかける。

 さらにファインダーを直接覗き込んで、ジョンの動きに注視する。録画しながら静止画も撮りたい。

 ジョンは繊維に覆われた幹を素早くよじ登っていく。大きな頭は上から見ると幅がとても狭く、まるで印象が違って見える。

 不得意なことを迷いながら仕方なく、というのではない。当然のこととして行っているのがレンズ越しに伝わる。自信ありげな「狩り」の様子である。

 幹の上のほうにはつる植物が垂れ下がりシダが生えて、ジョンの行く手を阻む。ジョンは的確にそれらを避けて、葉の軸が折れてできた突起にうまく爪をかける。

 世の中にはディモルフォドンが翼竜なのに滅多に飛ばないからといって、不活発で不充分な暮らしを強いられていると決めつける輩もいるという。そんなのは見ているだけで観察していないのだと言わざるを得ない。

 かく言う私も目視で撮る技術には自信がない。機材やデータを扱っていたほうが今のジョンのように堂々としていられる。

 そのジョンの姿を表現する力が私にあるのか、しかし私が圧倒されるような姿であれば撮影が多少上手くいかなくても役立つかもしれない……。

 ジョンがヤシの葉のすぐ下に辿り着いた。私は連写し続けている。

 そしてジョンは、葉の間を覗き込んだと思うと口先を素早く差し込んだ。

 その次の瞬間、ジョンの姿はもうファインダーになかった。

 一瞬だけ、翼の内側半分にあるはずの明るいマゼンタ色をした部分が見えた気がした。ジョンは口を葉の間から引き抜いてすぐに木から飛び立ったのだ。

 ジョンはすでに地表に降り立ち、レバーを口にくわえてシダの茂みをかき分けていた。

 すぐそこでメスのオリビアが口や爪を使って毛を整えていたのだが、ジョンの勢いに後ずさりした。

 オリビアはジョンの持っているレバーに気付いてギャッと一声上げるが、ジョンはすかさずレバーを口に収めて茂みを越えていった。

 撮れた写真をその場で確認すると、餌をくわえ取った瞬間は撮れたものの、さすがに飛び立つ姿まではよく写っていなかった。

 私が直接撮影したのではこれが限界か。必要なときにだけは飛ぶというのもディモルフォドンの生態の一部なのに、惜しいことだ。

 しかし、この動画と写真があればこの古い施設でディモルフォドンが活発な行動を取っていることが直感的に示せる。当初の目標どおりの収穫だ。


 三脚を畳みカメラをケースに収めていると、写真を欲していた本人が温室の通路に入ってきた。

 薄い緑の作業服、長い髪をアップにしてきれいにまとめている。飼育員の夏木さんである。

「キヨさーん、撮影できたー?」

「ええ」

 彼女が私のことをキヨさんと呼び出してから、彼女しかそのあだ名を使う機会がない。まるでばあさんのようなあだ名だ。

 夏木さんの手には巻いた長い紙の筒が抱えられている。今年に入ってから親の顔より見た内容のポスターだった。

 つまり、私がこの前まで行っていた研究の発表ポスターである。

 温室の中に複数のカメラを設置して一定時間ごとに撮影し、画像認識でどのディモルフォドンがどこにいたかを記録することで、ディモルフォドンが温室の中を活発に移動して暮らしていることを示したのだ。

 夏木さんは撮影していた場所を通り過ぎ、通路の突き当りの壁に向かってポスターを広げ、腕を伸ばし背伸びをして貼り付けた。

 先に貼られていた何か色褪せたポスターの隣だ。気にも留まらない場所から、私の過去の成果を誇示しているちょっとわずらわしい場所になった。

 しかし私がそれをわざわざ口に出さないので、振り向いた夏木さんは無邪気にも嬉しそうに笑っている。

「えっへへー、やっと貼れたー。どう、どう?」

「まあ、いいんじゃないですか」

 すげない態度を取ってみせても夏木さんは笑顔を崩さない。

「あっ、そうだ!今日の写真ももう貼っちゃおうか!ね、どう?成功したんでしょ?」

 喋りかたが騒がしいだけで、飼育スペース側に手を立てて小さい声で話しているのはさすがだ。

「夏木さんが使うつもりで撮ったものですし、まだ次の研究に入るまでの準備ですからね。お好きに使ってくださいよ」

「やった!じゃあ見よ!すぐ見よ!」

 即座に袖を温室の外へと引っ張っていこうとするが、片付けがまだ少し残っていた。


「うぁっはぁー!すーごい撮れてる!初めて見た!」

「え、初めて?」

「こうやって写真で詳しくは初めてってこと!いっつも素早すぎてどうやってるかよく分かんないんだもん」

 夏木さんはPCで写真を確認し、というか堪能して大はしゃぎしている。私自身にとってはそこまでよく撮れたものでもないが。

「これ全部ドイツに送っちゃっていいの?」

「それはまあ……いや、全部は容量大きすぎでしょう。十枚くらいだと思うんですけど」

「十枚!?この中から!?酷な選択を迫るー……」

 そんなことを言って眉間にしわを寄せる。

 まあ、ここまで言ってくれるのなら、ここが満足な暮らしをディモルフォドンに提供しているとドイツの動物園に示す役には立つのだろう。

「ねっ、どれにしたらいいと思う!?」

 夏木さんは机の上に置いてあった妙なぬいぐるみを両手で掴んで問いかけ始めた。

「君のお仲間のことなんだから真剣に考えて!?」

 夏木さんの手の甲に、褐色のまだらの毛が生えた翼が垂れている。ぬいぐるみをよく見ると、丸い頭に真一文字の口、大きな黒い目。毛に覆われているが耳はない。頭と肩がほとんどそのままつながっている。

 無茶振りを受けるそのぬいぐるみは翼竜、しかもドイツの動物園にいるアヌログナトゥスのぬいぐるみだった。

「夏木さん、それって」

「うふふ、これねー、世界一本物そっくりのアヌログナトゥスのぬいぐるみ!あっちから送ってきてもらっちゃった!」

 世界一というかアヌログナトゥスのぬいぐるみ自体他にないんじゃないだろうか。

 見ろと言わんばかりに差し出すので手に取ってみれば、やたらと良く出来ているのは確かだった。

「なんかね、アヌログナトゥスを3Dスキャンして作ったんだって。よく分かんない!」

「道理で」

 毛皮の下にある筋肉の膨らみかたや、関節の骨の浮きかたまで再現されている。アヌログナトゥスがディモルフォドンやソルデスと同じ翼竜というより、モルモットとコウモリとカエルを混ぜたというか、何かいわゆる小動物的に見えることがよく表れている。

 想像するに、3Dモデルの表面に合わせて布を切り出し縫い合わせたのだろう。

 まじまじとぬいぐるみを見つめる私の視線の先に、夏木さんの両手の平と微笑みがあった。その手にぬいぐるみを載せると夏木さんはそれを愛おしげに撫で始めた。

「すごいよねえ、あのずーっとグルグル飛び回ってるアヌログナトゥスが手の上にいるんだよ」

「いや、いるわけじゃないですが」

 しかし夏木さんはぬいぐるみを真剣に見て、いや、観察していた。

 私にもそうして得られているものが分かる。アヌログナトゥスの存在の厚みだ。今まで画面の中の存在だったアヌログナトゥスが急に生き物として感じられてくる……。

「よっし!!」

 夏木さんが突然ぬいぐるみを真上に掲げ、私はその勢いにのけぞった。

「アヌログナトゥス呼べるまで待てない!このぬいぐるみ使ってあのコーナー作り替えるわ!」

「あのコーナー……?」

「翼竜全体の紹介のコーナー」

 本当に心当たりがない。温室の外の話だろうか。

「さっき見たじゃん。キヨさんの研究のポスターの隣!」

 そう言われて、うっすらとした記憶の中から、同じように色褪せてうっすらとしたポスターの絵柄が浮かび上がってきた。

 確かに様々な翼竜の姿が描かれていたはずだが……。

「コーナーなんていうものじゃないでしょう、あれは」

「だからよ!!」

 あんなポスターを貼ったままにしていてもせいぜいノスタルジーの演出にしかならない。

「なくすか完全に作り変えるべきです」

「それよ!よっしアレの出番だ!」

 夏木さんはそう声を上げながら、机から跳ぶように離れた。

 そしてスチールの棚をガラッと音を立てて開き、上半身を潜り込ませた。何か当てがあるに違いない。

 ほどなく、小箱を手にして戻ってきた。上の蓋を開くとさらにプラスチックの標本ケースが入っていて、その中には綿に包まれた白い小さなゴム風船のようなものがある。

「あ、翼竜の卵ですね。ディモルフォドン?」

「そう!でね、またクリスが産みそうなのね」

 クリスはここにいるディモルフォドンのメスのうちの一頭だ。

「今巣作りしてましたよね」

 ずっと観察し続けていれば飼育員でなくても把握してしまう。

 夏木さんはにやっと歯を見せて笑い私を見つめた。


 二日後、私は再びカメラを構えて温室の木を見つめ、じっとりと過ごしていた。ただ今度はあっさり目的が達成されつつある。

 折れて断面に大きなくぼみができた木の幹……実際にはそのように加工された丸太だが、クリスがよじ登っている。

 その口から、抹茶色をしたシダの葉が垂れ下がっているのが見える。写すのは容易だ。夏木さん達飼育員が温室の各所に置いておいたシダやコケが、木の上に運び込まれていく。

 クリスは幹の上の穴に潜り込むと、尾と翼の先だけを真上にはみ出させたまま体を揺する。中では巣材が整えられ、卵を産み付けるのに適した皿状になっているはずだ。

 そうして一度穴に潜り込むと、飛び降りてまた新しい巣材を取りに行くまでは顔を上げない。作業に集中している。ここは安心して卵を産み付けられる場所であると判断しているのだろう。

 これで、前回は活発な行動を、今回はそれだけでなく安全だと判断している証拠をカメラに収めることができた。

 しかし、本当に今回の、ただクリスがシダをくわえて木に登り、穴にこもって翼と尾だけ出している写真が完璧かというと……、

「うん、これで完璧だね!」

 無邪気にも夏木さんがそう言い放ったことで、

「いえ。全然です」

 この写真だけでとどめることに対する私の評価が定まった。

「軟弱ですよそんなの」

「え」

 夏木さんは目を丸くしている。

「軟弱……軟弱だったか……私が……」

 本当は夏木さんも私と同じことをやりたいと思っているに違いないのだ。


 それから次に進むのに結局一週間かかってしまった。

 次とはこの、カシンと音を立ててたわみ、何メートルも下のジャングルを透かす金網の上だ。

 温室全体を見下ろす頼りない鉄の通路、天井近くを点検するためのキャットウォークに上がる許可を得るのに、それだけ時間がかかってしまったというわけである。

 よって私も腰と手すりを命綱でつなぎ、何も下に落とさないよう一つひとつの備品を全て確実にカメラバッグと工具箱に収めながら、手すりにカメラの架台を取り付けている。

 手すりにはところどころ、翼竜の糞の跡が付いている。

 やはり翼竜というものは大した生き物だと思わざるを得ない。小さなソルデスでも、それに歩きたがりのディモルフォドンでもいざとなれば、こんな高さはなんともないのだから。

 しかし、恐怖を誘うとはいってもどうしても下の様子も気にしなくてはならない。スマホにつないだイヤホンから、下にいる夏木さんの声が聞こえる。

「クリスそっち見た。……あ、でもほんとに一瞬だけだった、もう気にしないで巣に入ってる」

「緊張はしてないですね?」

「うん全然。そのままいっちゃって大丈夫」

「では、カメラ取り付けます」

 重いカメラを手すりの外に晒すこの段階が一番恐ろしい。ストラップを命綱に結び付けて、落ちることだけはないように。

 カメラをねじ留めしてもまだ角度の調節がある。これも、固定ねじを緩めすぎていきなりカメラがガクンと下を向き、不調の原因になる恐れがある。

 電源オン、モニターを見る。ねじを少し固いままにして、慎重に向きを変えると……。

 木の幹の中、クリスの巣がモニターの中心に収まった。

 画面右上に木生シダの葉が広がっているだけで、他に避けるものもなく巣の真上はがら空きだ。ねじをしっかり締め、夏木さんに報告する。

「クリスが中で巣材を整えてるのが写ります。こちらは気にしてない様子です」

「やった!」

 どうして頭上の私に対してこんなに無防備なのか。私も夏木さんも気付いていた。

 ジュラ紀当時には空高くから襲ってくる猛禽……もしくは、猛禽みたいな翼竜や恐竜はいなかった。

 木に登ってくる敵……これもまだヘビはおらず、いたとしても小型恐竜ぐらいだろうが、それが来なくて、背の高い肉食恐竜が住んでいない場所なら、そこはもう安全だ。

 という推測が成り立っていたようで、ひとまずよかった。今の鳥類だったらこうはいかないだろう。

 安堵のため息をつきながらシャッターを押しているうちに、クリスは巣材を取りに木から降りようと穴の縁に手をかけた。

 これは、と思い連写する。

 クリスは翼と尾を伸ばして穴の外に飛び出す。

 翼の隠されていたマゼンタが見えた。

 飛んでいる姿がきちんと写ったわけではない。またしても飛び立ったことが分かる程度の写真だったが……。

 今モニターには別のものが映っている。皿状にならされた、くすんだ緑のシダやコケのマットだ。中央がくぼんでいて、いずれそこに卵が産み落とされることが察せられる。

 架台だけをこのままにして、定期的にカメラを取り付け見張ればよい。なんならそろそろ産みそうになったタイミングでカメラを取り付けたまま遠隔操作してもいい。

 高所作業の危険はともかく、技術的には全く簡単に、巣の中の撮影ができるようになってしまった。

 巣や卵が撮影できたら、もう誰もここのディモルフォドンが満足な暮らしをしていないとは言えない。言わせまい。

 目的の上では今度こそ本当に完璧、なのだが……。

 夏木さんに向かって軟弱とまで言ってしまった私が、見えている目標を避けていて良いものか。


 キャットウォークに上がる手続きが進まなかった一週間、手をこまねいていたのではない。

 巣の中が撮れるようになった今も引き続き、温室の通路からディモルフォドンを観察して過ごしている。

 やや奥まったところのソテツにパトリシアが登っている。

 手の大きな爪をソテツの幹の規則的な凹凸に上手く引っかけ、軽々と体を持ち上げる。

 そしてソテツの葉の軸に素早く口先を突っ込み、レバーをくわえ取るなり、振り向いて飛び降りる。

 慌てて撮影しようとしたりはしない。ただ、どうやれば撮れるか考えている。

 ディモルフォドンは木に登るときは爪を使うが、木から降りるときは翼を使って飛ぶ。

 飛んできて木の幹にしがみつこうとしても大きな顎を打ち付けそうだし、もし葉の上に飛び降りてもヤシやソテツの葉の上から下に抜けるのは一苦労だ。また、爪を使って降りてはまどろっこしい。

 ディモルフォドンは実に合理的に移動方法を選んでいる。これは私がディモルフォドンという展示を穴が開くほど「読み込んで」得た知見だ。

 来園者は普通そこまでじっくりと眺めるものではない。

「飛ばない恐竜もいるねえ」

「ほんとだねえ」

 飛ぶ翼竜のソルデスと違って飛ばないディモルフォドンを恐竜だと思っているのだ。こんな会話が何回聞こえたことか。

 これはある種当然のことだ。ディモルフォドンのきちんと畳んで目立たなくなった翼や、木の上からの一瞬の飛行を見逃しても、来園者に何の落ち度もない。

 ならばどこの落ち度か……、私はまだ貼り替えられていないポスターを一瞥した。

 よほど古いのだろう、主役は再生飼育されるわけのないケツァルコアトルスとプテラノドンだ。今他の施設で実際に飼育されて注目を集めているアンハングエラやランフォリンクスは脇に追いやられている。

 翼竜全体を紹介するものとして作り直すならそれらが中心になるだろうが……、

 ここはディモルフォドン、それとソルデスのすごさを見せる場だ。しかもドイツの動物園にではなく、ここの来園者に。

 遠くで飼われている全然違う翼竜のほうがすごいと思わせてはいけない。

 ならばやはりディモルフォドンが皮膜を伸ばし、鮮やかな部分を見せながら飛ぶシーンが欲しい。

 それならやはり網の向こう、ジャングルの中で凝った撮影をしなければならないだろう。

 そのジャングルの奥ではちょうど今、夏木さんがパトリシアにハズバンダリートレーニングを行おうとしている。

 丈夫な革の長手袋を着けた夏木さんは赤いウレタンスポンジでできた動物用のおもちゃをパトリシアに見せびらかしている。

 パトリシアはおもちゃを見上げると、なんとその場から飛び上がった。

 直後その姿は夏木さんの手の下にあった。おもちゃに手足の爪を立ててしがみつき、夏木さんからコオロギを受け取っている。夏木さんはパトリシアごと手の向きを変えて八方からパトリシアの体を覗き込む。

 合図を覚えさせて決まった頼みを聞かせるのがハズバンダリートレーニングだ。これを完璧にこなすことでディモルフォドン達を手元に留める夏木さんは、まるで鷹匠のように見える。

 パトリシアに注ぐ夏木さんの眼差しもまた、鷹匠を思わせる。私と話しているときの軽やかさは微塵もない。

 どこか怪我でもしていないか、毛並みの悪いところはないか、手足や口の中にできものなどないか……、こちらに噛み付きそうな気配はないか。

 人間を傷付ける牙と人間に傷付けられる繊細さの両方を持ったディモルフォドンの健康を預かる者として、真剣そのものだ。

 ただ、それですら来館者には読み取れない。

「あ、ほら。係の人にすごいなついてるよ」

「わっ、かわいい」

 人間と触れ合っている姿はどうしてもこうなってしまう。あのおもちゃを見せて飛び立たせた「なついているところの写真」ぐらい、すでに夏木さん達飼育員が何枚も撮っている。

 人間の存在が行動に影響を与えてしまう。ならばもはや野生動物そのものを撮影するつもりで望まねば……。

 技術に自信がないからといって目標を避けては、夏木さんに投げかけた言葉が私のほうに返ってくる。ならば元々持っていた技術も動員して工夫するしかない。

 もはやまだここにいないアヌログナトゥスのためではない。アヌログナトゥスが飼えようが飼えまいが、今ここにいるディモルフォドンに対してベストを尽くすべきだ。

 夏木さんとパトリシアよりずっと手前の木にジョンが登り始めた。私はかたわらに置いていたカメラを取り、ジョンにレンズを向けた。

 今は飛んでいるところが綺麗に撮れるはずがない。しかし条件を探るために少しずつ試さなくては。


 結局それから半月。温室内は梅雨ではなく夏のせいでますます蒸し暑くなっていた。餌を隠したソテツのそばを通路から監視しているだけで、汗がこめかみを伝う。

 タブレットのモニターには木々の葉と、温室のガラスを通じて光る背景しか映っていない。

 この画角は、ディモルフォドンがソテツの幹のどんな高さから飛び立ってどんな位置に降りるかを見極め、その経路を割り出して、そのほとんどが収まるようにセットしたものだ。

 さらに、ディモルフォドンと見なせる影が少しでも映ったらすぐに自動で録画が開始するよう画像処理アプリをセットしてある。

 ピントも露出も最適に設定したつもりだ。待ってさえいれば、ディモルフォドンが飛行経路の大半を通り抜ける姿を動画に収めることができる。静止画のほうは、今回のところはあとでゆっくり切り出せばいい。

 カメラはソテツの木のそばに茂っているシダの間に隠してある。ディモルフォドンに与える影響は私が直接撮影するよりはるかに小さくて済む。そのはずだ。

 しかし、もう何も手を出せないまま、パイプ椅子に座って一時間以上もソテツから目を離すことができなくなっている。

 餌が仕掛けられているからといってあの木に登るとは限らない。実際、さっきからディモルフォドンが他の木にばかり登っているような気がする。

 こうまでしてもカメラが警戒されているのだろうか。隠してあっても、ディモルフォドンには匂いやわずかな音が気になって仕方がないということも考えられる。

 そうは言ってもカメラがちょうどいい位置に隠せて光の具合も良い木は他になかったのだ。あの木に賭ける以外ない。

 這いつくばってこそいないが、ジャングルに潜むゲリラとはこんな気分なのだろうか。

 ソルデスは我関せずとばかりに飛び回っている。あいつらだったら数撃てば当たるでなんとかなっただろうか。

 その下をオリビアが、カメラを遠巻きにして歩いていく。それがもどかしいからといって、オリビアが別の木に登るまで見ていてもしょうがない。

 しかしカメラを避けているということは結局ディモルフォドンの生活に干渉してしまっていることになるのではないか。それではあまり粘っても……、

 いや、逆にカメラに近付く奴がいる。

 スティーブだ。ここにいる五頭の中でも他と違う行動を取りがちな、言ってみればマイペースなオスだ。

 茂みの中に口先を突っ込んで、カメラを軽くつつくことまでする。避けないのはけっこうだが角度がずれないだろうか。タブレットの映像は動いていない。

 スティーブはすぐにカメラに飽きて振り返り進む。その先には、目当てのソテツ。

 鼻先を持ち上げて木の上を見つめる。まだ餌があるのに気付いたらしい。

 幹に爪をかけ、登り始めた。

 奴はジョンほど餌探しが上手くない。一度間違った場所に口先を突っ込み、じれったい思いをさせる。

 しかし次の一発は正解。

 と思った瞬間にもう録画が始まる。

 直後、翼を羽ばたかせるスティーブが画面いっぱいに映った。

 スティーブは茂みの切れ間に降り立ち、すたすたと歩いていく。ありがとう、スティーブ。お前がカメラを気にしない奴でいてくれて本当に助かった。

 録れた動画を確認してみれば、スティーブの羽ばたく翼が、真っ直ぐ伸ばした尾が、おおむね満足できるくらいにはよく映っていた。

 そうか、一瞬飛び降りるだけの間にこんなに力強く羽ばたいていたのか。やはりディモルフォドンは翼竜、飛ぶ動物だ。

 一時停止してみると、翼の内側の皮膜にあるマゼンタの部分に濃い色の二重丸があるのが映っていた。

 威嚇の役割をするはずのそれが、今は合格の印に見える。

 ふと温室の入り口を見ると、そこに夏木さんの姿があった。タブレットを頭上に掲げてみせると、夏木さんは小走りになって近付いてきた。



[ディモルフォドン・マクロニクス Dimorphodon macronyx]

学名の意味:大きな爪と2種類の形の歯

時代と地域:ジュラ紀前期(約1億9500万年前)のヨーロッパ(イギリス)

成体の翼長:約1.4m

分類:主竜類 翼竜目 マクロニコプテラ ディモルフォドン科

 ディモルフォドンは大きな頭が特徴の比較的原始的な翼竜である。

 イングランド南部のジュラシックコーストと呼ばれる海岸に露出しているブルーライアスという地層で、プレシオサウルスPlesiosaurusやイクチオサウルスIchthyosaurusといった海生爬虫類に次いで発見された。これらを発見したのはジュラシックコーストで精力的に活動していた化石収集家で在野の古生物学者であったメアリー・アニングである。

 当時、他の翼竜はドイツのゾルンホーフェンでプテロダクティルスPterodactylusが発見されていた程度だったため、翼竜研究のごく初期の発見として重大であった。ただし、そのために当初はプテロダクティルス属に分類されてしまっていた。

 ディモルフォドンのプロポーションはプテロダクティルスを含む他の多くの翼竜と異なっていた。

 頭骨は単に胴体より長いだけでなく高さがあり、4分割した楕円のような側面形をしていた。一見、飛ぶのに邪魔なほど大きく重そうに見えるが、鼻孔と前眼窩窓、それと眼窩が大きく開いてほとんど骨組だけのようになっていた。生きていたとき頭部はかなり軽かったと思われる。また頭骨の高さは大きかったが横幅は狭かった。

 鼻孔より前、頭骨の先端には穴がない三角の領域があり、その部分の歯は長く鋭かった。またそれより後ろの歯も、短いが縁が尖った三角形をしていた。2種類の形の歯という意味の属名はこの歯にちなむ。

 前方の長い歯は、例えばランフォリンクスRhamphorhynchusのような他の翼竜と違って、前や外側に突き出してはいなかった。歯の微細な傷に関する研究によると、陸上の柔らかい小動物を食べることが多かったようだ。

 ディモルフォドンより前の三畳紀後期に生息した近縁種のカエレスティヴェントゥスCaelestiventusもよく似た頭骨や歯を持っていたらしく、このグループの翼竜にとって獲物を捕食するのに高さがあり幅が狭い頭骨や2種類の鋭い歯が有効だったのかもしれない。

 頭部が軽くて飛行の邪魔にならなかったとしても、ディモルフォドンはむしろ四肢を構成する骨の比率から、あまり長く飛ぶことはなかっただろうと考えられている。

 翼竜の翼は腕と「翼指」と呼ばれる第4指で支えられているが、ディモルフォドン以外の多くの翼竜では翼指が長く伸びて長い翼を形作っている。しかしディモルフォドンの場合は第1翼指骨が前腕骨と比べてそれほど長くなく、また翼を形作る骨が全体的に短かった。

 上腕骨に羽ばたくための筋肉が付着する突起(三角胸筋稜)は発達していたので、羽ばたく力は弱くなかったようだ。

 翼指以外の3つの手指の爪は発達していた。これは歩いたり木に登ったりするのには良いが、飛ぶときは気流を乱し、また重りになって羽ばたきを非効率にする不利な特徴である。

 上腕骨と大腿骨はほぼ同じ長さで、翼竜としては後肢が長かった。これも手の爪と合わせて歩いたり木に登ったりするのに適していたといえる。

 足の第5指は細長く、他の指から独立していた。後肢と尾の間にも皮膜があったと思われるが、この第5指が皮膜を支えたり畳んだりしていたようだ。

 比較的原始的な翼竜らしく尾は細長かった。ランフォリンクスを参考に、尾の先端に飛行安定に役立つ小さな鰭があったとされることが多い。

 海成層で発見されたことと背の高い楕円の顎を持っていたことから、かつてはこの顎をツノメドリ類のクチバシに似ているとして、海上を飛んで水面で魚を捕えていたと考えることが多かった。しかしツノメドリ類との類似は表層的なものであり、現在では陸上でもっぱら歩き回るか木に登るかして、小さな爬虫類などを捕食していたと考えることが多い。


[ソルデス・ピロスス Sordes pilosus]

学名の意味:毛に覆われた悪霊

時代と地域:ジュラ紀後期(約1億5500万年前)のヨーロッパ(カザフスタン)

成体の翼長:約60cm

分類:主竜類 翼竜目 マクロニコプテラ ノヴィアロイデア プテロダクティロモルファまたは基盤的モノフェネストラタ

 ソルデスは初めて体毛の存在が認識された翼竜である。

 カザフスタンのカラバスタウ層という、乾季と雨季があった淡水の湖で堆積した地層から、上半身だけがよく保存された標本と全身まんべんなく保存された標本の2つが発見された。

 尾の長い翼竜の中では派生的で、後の年代に繁栄した尾の短いプテロダクティルス類に近かったようだが、どれほどプテロダクティルス類に近かったかは意見が分かれている。

 頭骨は尖った三角形で、眼窩が丸く大きかった。釘状の歯が顎の前方に並んでいた。魚か昆虫を食べていたと思われる。

 翼は翼竜としては短くて前後に幅広かった。どちらかというと水上のような開けたところを飛び続けるより木の間を通り抜けるような飛びかたに適していたといえる。

 全身残っていたほうの化石には体毛や皮膜の痕跡がある。

 翼を形成する皮膜は後肢の足首に達し、後肢の間全体をも占めていた。この後肢の間の皮膜が尾から独立していたかのようにも見えるが、そのように判断するにはややはっきりしないとして、皮膜が尾に繋がっている復元イラストもよく見られる。

 脊椎動物の系統における翼竜の位置から、翼竜の体毛は哺乳類の体毛より恐竜や鳥類の羽毛に近いものであると考えられる。ソルデスの体毛は胴体全体を覆う密で柔軟なもので、体温を保つのに役立ったと考えられる。またソルデスだけでなく他の翼竜も体毛を持っていたと考えられ、翼竜が自身の代謝で体温を保つ内温性であったことを示唆している。

 他の翼竜でも体毛の痕跡が発見されていて、トゥパンダクティルスTupandactylusという翼竜では、大きなトサカの後部にあった体毛にメラニン色素を生成するメラノソームの痕跡が複数種類あった。このことは体毛の色にもそれだけ種類があったことを示唆する。また恐竜の羽毛にも同様のメラノソームが発見されていることから、カラフルな体毛(羽毛)の起源が恐竜と翼竜の共通祖先まで遡る可能性がある。


[アヌログナトゥス・アンモニ Anurognathus ammoni]

学名の意味:ルートヴィッヒ・フォン・アモンが発見した尾のない顎

時代と地域:ジュラ紀後期(約1億5000万年前)のヨーロッパ(ドイツ)

成体の翼長:約50cm

分類:主竜類 翼竜目 アヌログナトゥス科

 アヌログナトゥスは非常に短く幅広い頭骨を持つ翼竜である。

 ドイツのゾルンホーフェンの海成層から発見された。ランフォリンクスやプテロダクティルスといったジュラ紀を代表する様々な翼竜もこの地層から発見されている。

 アヌログナトゥス科の翼竜の頭骨は長さが幅と同等程度かそれ以下しかなく、上から見ると半円に近い形をしている。

 特に、他の翼竜では長く伸びている吻部が切り落とされたかのように短縮していて、側面から見ると大きな眼窩が目立つ。強膜輪の形態から薄明薄暮性であったと考えられている。鼻孔はほぼ前向きになっていた。

 口全体に釘状の歯が並んでいた。また上下の顎の表面に突起があって、感覚毛の基部になっていたとも言われる。

 首も翼竜としては短かったので、全体的にコウモリやカエルのようなコンパクトな体型であった。

 翼はソルデスと同じく前後の幅が広くて、旋回飛行に適していた。

 尾の短いプテロダクティルス類に含まれるとはあまり考えられないにも関わらず尾が短いのも大きな特徴である。おそらくプテロダクティルス類とは別に短い尾を獲得したものと考えられる。

 多くの翼竜が長い吻部で水中の獲物を捕えていたと考えられているのとは違い、アヌログナトゥス科の翼竜はヨタカやコウモリのように木々の間を飛び回り、空中の昆虫を横幅の大きい口で捕えていたと考えられる。

 アヌログナトゥスは海成層から発見されたとはいえ、ゾルンホーフェンの他の翼竜と違って海岸や海上ではなく森林に生息していたとされる。

 翼を体の両脇にぴったりと畳んだポーズで化石化していることから、生きていたときもこのようにコウモリ同様翼を深く折り畳むことができ、日中はこの状態で樹皮にへばりついていたのかもしれない。

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