第83話「ハクトゥリ、ポウアカイ、千疋狼 -亜美とサキ-」
晩秋の野原が日の光を受けて淡いオレンジに光る。ゆるやかな斜面に岩や低木がちらほらと並び変化を付ける。私は高い柵の外から見渡している。
斜面に変わった低木がある。いや、葉ではなく黒褐色の羽毛に包まれている。
小刻みに揺れて、首を動かして羽づくろいをしているのが分かる。
それが首を上げ、私はすかさず自慢のミラーレスで連写した。
史上最も背の高い鳥、ジャイアントモア。
首を真上に伸ばすと、その辺の低木はあっさり超えて三メートル半にも達してしまう。本当に、まるで黒々とした針葉樹のような鳥だ。
もちろん、飛べない。翼のつの字もないから鳥にしてはなで肩だ。だから遮るもののない空の下にこうしてのどかに放たれている。
首を下げて草の穂をついばむものもいて、先の一羽と比べると親子ほども体格が違う。といってもそちらもダチョウより大きくて、大人のオスに違いなかった。
あんなに大きな鳥が駆け出すこともなくのっそりと過ごしている。全く見たことのないような鳥で、私は夢中になって撮り続けた。
そして撮りながら、ブログやSNSでどんな風に紹介しようかと考え続けていた。それはメモしないといけないが、時間を気にする必要はなかった。
なぜなら、今日は園内に泊まれるからだ。
この動物園の敷地内に宿泊できるという動物好きにとって夢のような施設「タネ・マフタ」が建てられ、私は幸運にもインフルエンサー向け内覧会に招待されたのだ。
この動物園は今住んでいるところから遠くて滅多に来れないのに、帰りの時間や宿への移動を気にする必要がないどころか、閉園後や明日の午前にさえ園内にいられる。
その喜びを噛みしめながら、今はとにかくジャイアントモアを見て撮る。
さっき木みたいだと思ったとおり、首や体は枝のようにすらりとしているが、足つきは木の根元のようにどっしりとしている。同じ飛べない鳥でもダチョウとは全然違う存在だ。
顔にズームしてみれば、ビー玉程度のくりっとした目と視線が合う。幅広いクチバシは下向きに曲がって、見る角度によっては笑っているように見える。
ユーモラスな異世界の鳥……というよりもう、漫画の中の鳥みたいだ。
そんなものが目の前にいることにすっかり感じ入ってしまい、しばらくカメラを下ろして見とれていると、
「やっ、いい写真撮れてる?」
後ろから、聞き慣れたシャープで快活な声で呼びかけられた。
振り向くと高校以来の親友、花梨が、紺色の作業服姿で猫車を支えて立っている。
「のんびりしすぎてて紅葉を撮るみたいに簡単だね!」
「はっは、そうかそうか」
依然ここに一緒に来たときは私も花梨も来園者の立場だった。しかし花梨は今、ここで飼育員として働いているのだ。
花梨は猫車をこちらに傾けて中身を見せた。
「モアの餌だよ」
私もすかさずカメラを向ける。ペレットと牧草が山盛り。小松菜と枝付きの木の葉が一束ずつ。それから、細かくカットされたニンジンとパンのかけらが少しずつ。
すると、観覧スペースに私達の他にいた親子連れもこちらに気付いて、モアの餌に興味を示している様子だった。花梨は「じゃあ」と言ってそちらへと猫車を機敏に動かした。動きといい気配りといい、すでに飼育員として様になっている。
高校の頃から私と花梨は動物好き同士の仲間だったが、当時すでに花梨は積極的に動いていき、私はあくまで楽しくという姿勢だった。
そのスタンスの違いのまま、花梨はこんな立派な動物園の飼育員、私は他に仕事がある身でファンとしての発信者となった。
花梨は親子に餌を見せた後、そのまま猫車を押して去っていく。
柵のほうに振り返ると、ちょうど一羽の大きなジャイアントモアが首を下げた姿勢で現われていた。
斜面を降りてすぐそこを通り過ぎ、林の中に向かう。私は柵に沿ってついていってみた。
史上最も背の高い鳥と呼ばれているが、首を高く上げていなくても充分大迫力だ。
背中の高さはライオンどころか、動物園で普通に見かける程度の恐竜も越え、私の頭と同等に達する。鳥なのに「巨獣」と呼ぶべき動物だ。
しかも顔付きは鳥の尖った感じがあんまりしなくて、全然怖くない。
静かな林の中でジャイアントモアが踏み出すたびに、しゃらしゃらとかすかな音がする。体を覆う長い羽毛同士が触れ合って鳴っているのだ。ジャイアントモアの動きが細かく伝わってくる。
動物好きはみんな見に来るべきだ。きっとみんなが来たくなる記事を書いてみせる……。
ジャイアントモアが林の真ん中に着くと、その足元に別の鳥が現れた。
格好はジャイアントモアに似ているがそこまで大きくない、といってもシチメンチョウほどはある。ジャイアントモアを見続けて感覚がずれていた。
他の鳥の雛や動物の子供でたまに見る細長い斑点に覆われているし、あのメスのジャイアントモアの雛なのだろうか。
そう思ったが、その鳥はジャイアントモアから距離を取っている。親子ではない……いや、別の種類だ。
そうだ、ここにもう一種類いるほうのモアだ。最小のモア、リトルブッシュモアである。
リトルブッシュモアはジャイアントモアにはとても通れない灌木の下をすり抜け、姿を消した。そちらを見るのに切り替えたかったのに、あの細かい模様のせいかなかなか見付からない。
小さな赤いものが動いた。リトルブッシュモアの目の周りの縁取りだった。
ほっとしてカメラを向けると、短く尖ったクチバシがファインダーに映った。ジャイアントモアより鳥らしい顔付き……、しかし、すらりとした首や翼のない胴体、体付きは確かにジャイアントモアと同じモアだ。
最大と最小のモアを一日でいっぺんに見てしまった。動物園ファンとしての達成感を味わいながら、リトルブッシュモアが落ち着いて羽づくろいを始めるまで撮り続けた。
閉園三十分前のチャイムが鳴って、私はモアのエリアに接する広場へと急いだ。もちろん帰るためでも寝るためでもない。
宿泊施設タネ・マフタの内覧会ではむしろここからが本番なのだ。
他の参加者……互いにSNSのフォロワーだったり書籍の読者だったり動画の視聴者だったりするが、十人ほどが集まったところで、聞こえてくる鳴き声にざわついた。
「あれ、やっぱりそうですよね」
「ニホンオオカミですね!」
モアの運動場の反対から、ウォンウォン、キャイキャイという賑やかな鳴き声が聞こえる。
「なんだか、木に囲まれたところだとちょっと怖いですねえ」
「そうですか?」
顔見知りの人が不安げにしていたが、私はむしろわくわくしていた。
やや年配の男性の飼育員さんが、手を大きく振ってみんなの注目を集めながら出てきた。
「はい、では皆さん、獣舎に帰る前の活発なニホンオオカミの群れを見てみましょうね」
ぞろぞろとついていくと、そちらにもモアの運動場とよく似た、草原の丘と低地の林からなる運動場があった。
日本犬によく似た五頭の動物がひとかたまりになって走り回っている。ほっそりとしていて、オオカミという言葉で思い浮かべるより少し小さく、色の濃いキツネに見える瞬間もある。
しかしこのウォウウォウという大きな吠え声は間違いなくオオカミだ。
跳ねたり、隣の一頭を鼻先で小突いたりしながら、引き締まった四肢を目一杯動かして丘を駆け回っている。今目の前にいたかと思ったらあっという間に丘の中程まで行っている。
「群れの真ん中に大きくて右耳が垂れてるのがいるでしょう」
よく見ればそのとおりだった。右の耳が半分だけ前に倒れているその折れかたには見覚えがあった。
「あれがリーダーのサキです。元は関東の動物園で生まれたんですが、すくすくと育って今ではここの群れのリーダーになりました」
そう、サキだ。私が今住んでいるところに近い動物園で、まだ小さかった姿を見たのだ。
あの頃のサキはまるで子犬のようにころころとしてものすごく可愛かった。それに、オオカミもイヌのように耳が垂れるのかと感心したものだ。
それがこんなに立派なリーダーになった姿に再会できるなんて。
しかも耳が垂れたままだ。無邪気な表情も陽気な仕草も、今でも可愛いことに変わりはない。
私はサキをなるべくファインダーの中心に据えたまま、ススキの間を、オレンジ色の木の葉の下を、三段の岩の上を、目まぐるしく走るオオカミ達を追える限り連写しまくった。
元々日本の野山で彼らニホンオオカミがそうしていた光景が、サキを中心として今繰り返されている。
そうして、ファインダーから目を離し息継ぎをしたところに花梨の姿が目に入ったものだから、ついこんなことが口をついて出てしまった。
「ねえ、ニホンオオカミってもう野生復帰できちゃったりするんじゃない!?もうこんなに活き活き暮らせてるよ!?」
そう言ってから、ああ、でも生き返らせた生き物を野生に戻すのって前例がないしすごく難しいよな、という理性が遅れてやってきた。
花梨は目を丸くしていただけだったが、
「えっ、それは困るなあ」
と、ただただ素直にそう思っているという調子で返してきた。
「困る?」
「うん。それは、まだニホンオオカミを近くで見て知りたいことがいっぱいあるからね。例えば糞に含まれるホルモンと行動の関係だとかは個体ごとにきちんと見られないと分からないし……。もし今手が付けられない山の中に行かれたら、そういうことがずっと分からないままになって困るだろうなあ」
「あ、そっか……。調べるために飼ってるんだよね。意識してなかった」
じゃあ、と続けようとして、花梨の言いそうなことを先に察して止めた。
ニホンオオカミのことが充分詳しく知れたら野生復帰させられるのだろうかと聞けば、花梨は前から言っていたとおり、生き物の探求に終わりはないんだ、と答えるだろう。そういうところが私と花梨の違いなのだ。
探求に終わりがないとしたら、ニホンオオカミを飼っている状態も終わらないのだろうか。
「野生復帰のことなら、詳しい話が夜の講演で聞けると思うよ」
そういえば、宿泊施設の中で講演会があるのだった。
宿泊施設タネ・マフタは坂の上からジャイアントモアとニホンオオカミの運動場を見下ろす絶好のロケーションに建っている。
森の神様やご神木と同じ名前なだけあって外観も内装も木でまとめられて山小屋風だが、設備はしっかりしていて暖かいし、二階建てで十数組が泊ることができる。こういうこともSNSやブログでしっかり伝えたい。
一階の半分は大きな食堂兼講堂・さらに兼・展示室になっている。
壁の一角に、ジャイアントモアからリトルブッシュモアまで九種類のモアのシルエットがずらりと並んでいる。脚が細いのや太いの、クチバシが尖っているのや丸いの、モアにも色々だ。化石から再生されているのはそのうちのほんの数種。
順に見ていくと、最後に「ハーストイーグル」という名前とともに上向きの矢印が貼られていた。
そのとおりに見上げるとそこは吹き抜けになっていて……、巨大な鳥の飛んでいる姿があった。
「わっ、え、カラス?違うか、ワシか」
鳥の形の凧、鳥凧、というやつだった。体型はカラスに似て、クチバシは大きく翼はあまり長くないのだが、よく見るとワシらしい鉤爪のある足が描かれている。
ハーストイーグル、モアをも捕食していた巨大なワシを実物大で再現した凧なのだ。
リトルブッシュモアなら軽々と捕らえられるだろし、ジャイアントモアでも子供なら、いやもしかしたら大人でも小さいオスなら……。
「もうすぐ夕食付き講演会が始まりまーす。食堂の注文口で一人一膳お食事をお取りくださーい」
放送が響く。
ニュージーランドの展示に夢中になっていて、ニホンオオカミ関係の展示を見る前に講演会の時間になってしまった。
食堂のカウンターから出してくれたのは、ご飯と一人鍋のシンプルな食事だった。
ほとんど地元の食材で、鍋の肉も近くで駆除されたシカやイノシシだという。なんとなく、ニホンオオカミみたいな食事だ。お米や野菜も元はニホンオオカミによってシカやイノシシから守られていたのだろう。
講演会はまだ始まらないが温かいうちにというので、早速箸を付け、動物園の食堂ではなかなかない上等な鍋を味わった。普段のメニューとは違うのかもしれないが、オープン後もここの食事はおすすめできそうだ。
そのうちに内覧会の参加者が皆テーブルにつき、そこだけ食事できる最小限の照明で照らされた。
モアのシルエットと反対の壁にスクリーンが現われ、プロジェクターの映像が投影された。
たくさんの小さな写真を背景に、「モア、ハーストイーグル、ニホンオオカミ 野生復帰の本当のハードル」というタイトルが出ている。
その字を見ただけでも、ああ、やっぱり難しいんだな、と思う。しかし「本当の」とあるからにはしょっちゅう聞くような技術的な理由ではないはずだ。
背景の写真に写っているのはジャイアントモアとニホンオオカミ、それからクチバシが大きく顔面の羽毛が少ない猛禽……ハーストイーグル、それぞれ別の場所で撮ったものだ。
スクリーンの向かって左には白髪の男性、園長が背筋を伸ばして立っていて、明朗な声で話し始めた。
「はいっ、今回はね、特に動物と動物園のことがお好きで、たくさん考えてくださるかたがお集まりくださっていますのでね。そういったかたにこそ考えていただきたい、ちょっと込み入ったお話をしたいと思います」
スライドが移り変わり、文字だけになった。
大きく、「恐竜より順調なのに野生復帰できていない:人間の安全のため」。そして、絶滅した生き物の再生と取り扱いを規制する「ゾルンホーフェン条約」の一部。
「再生した生き物を野生に戻すというのは特に厳しい規制がかかっているんですが、一番厳しい規定は人間の安全なんですね。今回皆さんに考えていただきたいのがここについてなんです」
そこがそんなに大事だなんて知らなかった。一旦箸を置いて、きちんとメモを取ることにした。
しかし、ハーストイーグルはともかくモアとニホンオオカミに関しては引っかかる言いかただった。モアに大した危険もないだろうし、絶滅する前のニホンオオカミは信仰までされていて案外安全だったのではなかったか。
再び文字のスライド。
「送り狼に追われているときは転んではいけない」、そして「熊山騒げ、犬山黙れ」この二つのフレーズが目立つ。
二つ目は初めて聞いたが、なんとなくどういうことか想像はついた。これもしっかりメモ。どうも食事のついでに聞けるような簡単な内容ではない気がする。
「こっちはニホンオオカミがついてくる分にはただ見られているだけなので安全だけれど、転ぶとその拍子に本能的に襲いかかってくるぞっていう意味ですね。こっちの熊山っていうのはクマのなわばり、犬山はオオカミのなわばりのことです。どっちのなわばりなのかで対策が変わるんですね」
クマが襲ってくるのを防ぐには鈴を鳴らしたり喋ったりして音で存在をアピールすればいいという。しかし音を立てるのはオオカミには逆効果なので黙っていようということだ。
「こういうニホンオオカミの危険を避ける知恵が各地に伝わっていたというわけです。現代の日本の人達にはこの知恵を身に着けられないのでしょうか。ここでね、」
広い林の写真が出てきた。よく見ると真ん中にジャイアントモアがいるが、周りに柵が見えない。
さっきの運動場よりずっと広い野外らしく、せっかくいい環境らしいのに、地表はちらほらと土がむき出しになって荒れている。
「これジャイアントモアの特別保護区みたいなところなんですけれど、繁殖がうまくいったと思ったら植物をだいぶ食い荒らしちゃったんですね。まあうちのジャイアントモアもそれで増えすぎた分がやってきたわけで」
昼に面白がって見ていたジャイアントモアにそんな事情があったとは。なんだか彼らが不憫な気もする。
すでに箸を放っておいてペンと手帳だけ持っていた。
モアが環境のバランスを崩すから野生復帰できないのだろうか……いや、それはさっき言っていた人間の安全とはちょっと違う。
「この風景、何かの動物のしわざに似てますよね。この中で分かるかたいらっしゃいます?」
園長はサッと食堂を見回して、
「じゃあそちらのかた、どうでしょう」
すぐに真ん中の私に手を向けた。メモ帳を持っていたのが熱心に見えたか。
一瞬ひるんだが、とっさに答えられる質問だった。
「シカですか?」
「そのとおりです。日本の野外でもシカの増えすぎが問題になっていますね」
ほっとしたところで、スクリーンの中でモアのいる林の写真の幅が半分になり、日本の、シカが地表の植物を食べ散らかした林の写真が並んだ。シカのほうが徹底的に食べているようだ。
「日本でシカが増えすぎたのはオオカミがいなくなったからだとか猟師が減ったからだとか言いますよね。まあそれだけではないにしても」
今度はどっしりとした体つきの猛禽の写真が映った。クチバシは長くて大きく、顔面の羽毛が少ない。
「モアを野生復帰するにはモアの天敵、ハーストイーグルもどうしても必要なんじゃないかと言われているんですけれど、この中でハーストイーグルをご覧になったことがあるかたは?」
私も他の参加者も座席を見回すだけだった。
「そうですね。まだニュージーランドとオーストラリアでしか飼育されていないので、どんな鳥なのか皆さんもあまりご存じないんじゃないかと思います。モアについて視察に行ったときにハーストイーグルも詳しく見ることができましたので、せっかくですからご覧に入れたいと思います」
さっきの写真の倍率が下がって、飼育員らしき人間が写り込み……、私は目を丸くした。ハーストイーグルの体の大きさは、人間の胴体とあまり変わらないくらいある。
わあっ、と参加者の間で声が漏れる。
木の上から見下ろしてくる真っ黒い影はすさまじい威圧感だし、そこから翼を広げて舞い降りた先にあったのは、猛獣がもらうような丸鶏だ。
強くカーブを描いて肉に食い込む爪、肉を軽々と引きちぎるクチバシ、武器は他の猛禽と似ていても、ここまで力強い猛禽は他にいない。
普通の大きさの猛禽が丸ごとのネズミを与えられているのを見てドキッとする、なんていうものと一線を画す。確かにこれは猛獣の食事だ。
再び引いた写真になって、動物園の猛禽用としては大きめ程度のケージ全体が映る。高さは十メートルくらい、地表や奥の壁は緑に覆われている。
「上昇気流に乗ってソアリングしたりはしないので、このケージでも運動不足にはならないんだそうです。重要なのは安全面で、中で作業をするには一旦ハーストイーグルのいるところと仕切った上で完全防備で行います」
作業員は水色の作業着姿で、ヘルメットから垂れ下がった分厚い布で首を隠し、長くて丈夫な手袋を付けている。消防士か、スズメバチの駆除業者みたいだ。
「万が一首根っこを爪で掴まれたらおしまいですし、間違って何かの隙間からクチバシが出てきても大変ですからね。それでもミスが重なることはあるもので……、」
写真から一転、黒バックに白の文字だけの画面になった。
「注意:これからショッキングな映像が流れます」「動物が人を襲うシーンが苦手なかたは無理せず目をそらしてください」「事故の映像を特別にお借りしたものです。すでに事故の検証と対策は完了しています。撮影、公開、先方の施設に対する中傷等はご遠慮ください」。
「こういう際どい映像ですのでね、気を付けた上でご覧くださいね」
画面が切り替わる。
監視カメラがさっきのケージの中らしき空間を見下ろしている。灌木の間から、大きく羽ばたく翼が見えている。ハーストイーグルだ。
翼の下にちらちらと水色が見える。それが何なのか分かって鳥肌が立った。
作業員の腕や背中だった。
ハーストイーグルが作業員にしがみついているのだ。
作業員の背中に点々と赤黒く染みが浮かんでいる。
ハーストイーグルの頭が作業員の頭のすぐ後ろで激しく揺れている。
クチバシは、作業員の首を守るはずの布に隠れて見えない。
つまりあの大きなクチバシが布の下に突っ込まれて……。
銀色の棒が画面下から斜めに突き出てくる。それは翼に邪魔されながら何度も往復し、ハーストイーグルの肩で止まる。
すると、ハーストイーグルの羽ばたきが二度三度して遅くなり、翼をろくに畳みもせず力なくその場に横たわる。棒の先端に取り付けられた麻酔針が利いたのだ。
作業員がほうほうのていで這い出してくるところで、映像は終わった。
自分が首を強張らせながらその映像を見ていたことにようやく気付きながら、長い息をついた。
「というようにですね、万全の注意を払っているはずの飼育員でさえハーストイーグルに襲われることはある、ということがこの事故で明らかになりまして」
ゾルンホーフェン条約の、人間の安全に関する条文のスライドに戻ってきた。
「これはハーストイーグルを野生に戻したらニュージーランドの野外で暮らす人にとって危ないと言われても仕方ないわけで、条約のここに確実に引っかかるわけです。天敵のハーストイーグルがいないならモアも野生に戻れない、となってしまうんですが」
次のスライドには、骨の写真が二つ。人の手にぴったり乗る鳥の頭蓋骨と、両手でしっかり持たないといけない動物の頭蓋骨。
何の骨なのかは言わずもがなだった。
「ニホンオオカミって中型犬みたいですけど、ハーストイーグルより強くて大きくて群れなんですよ」
そしてまたニホンオオカミに関する二つの言葉、「送り狼に追われているときは転んではいけない」、「熊山騒げ、犬山黙れ」。
「これを守っていればニホンオオカミの攻撃を避けられることになっていますね。それをよーく意識して、ここからの映像を見てみてくださいね」
緑の山がすぐそこまで迫っている農村。畑沿いのあぜ道を腰の曲がったおばあさんが歩いていく。
続いて、雑木林を歩く、オレンジのゼッケンを着けた人々。大人二人が数人の子供達を引率している。
「これはうちの動物園が開いている自然体験会です」
昆虫や花について賑やかに話す声が入っている。
夢中で進んでいく子供が、つまづいて転んだ。
映像が切り替わり、大人のみの一行がもっと山奥へと向かう。
リュックサックに付けられたクマ除けの鈴が鳴り響く。
この音を聞くのがクマなら去っていくだろう。もしニホンオオカミなら。
映像は引いて、森を広く映す。
「熊山騒げ、犬山黙れ。皆さんはどちらの山か判断できるでしょうか」
園長がそう一言放って、講演は終わった。
それから質疑応答の時間が始まって、他の参加者は盛んに園長に質問を投げかけた。私はといえば、寒気を振り払うために腕をこすっているばかりだった。
鍋は冷めてしまって、背筋を温める役には立たなかった。
個室の設備も並みのビジネスホテルを超えて快適そのものだったのだが、それを堪能しながらメモの内容などをまとめる、というわけにはいかなかった。
窓の外は暗闇の野山。
しかも、ニホンオオカミの遠吠えが聞こえてきていた。
大丈夫だ、この風景はただの動物園で、ニホンオオカミが吠えているのも獣舎の中だし、この施設自体が安全なところだ。
とにかくそれだけ考えて、十時前にはベッドに入った。
しかし眠っていても遠吠えは聞こえていたようで、夢にそれがはっきり現われていた……。
夢の中の私は、暗い森を無我夢中で走っていた。
周りを無数のオオカミの影に取り囲まれている。笹や落ち葉をかき分けるガサガサという音、ウォンウォンという吠え声に混じって、楽しそうな話し声が途切れず続く。
「そっちだそっちだ!」「思ったより粘るなあ」
オオカミ達が喋っているのである。
やめて、と何度も声を絞り出すが、オオカミ達は私の言葉には少しも耳を貸しそうにない。
「あとちょっとだ」「楽しみだなあ」
仲間達だけで言葉を交わしているのだ。
最も落ち着いた一頭の、右耳が半分垂れている。サキだ。
「逃がすんじゃないよーっ、ガキどもが待ってるよーっ」
「おおーっ」
サキの声に群れが沸き立つ。やはりサキがリーダーだ。
私がサキの小さい頃の可愛い姿を知っていても、サキにとって知ったことではないのだ。
もう本当にただ前を向いて走るしかなかった。
すると、オオカミとは全く違う丸い影が正面に出てきた。
シチメンチョウほどの大きさで細長い首がある。リトルブッシュモアだ。
先導するように走るそれに従って、私は藪の中に突っ込んだ。
もう吠え声も話し声も聞こえない。ニホンオオカミにも入って来れそうなものを、意外にもそれで振り切ってしまったようだ。
肘と膝で這って藪を抜けると、そこには明るい丘が広がっていた。
リトルブッシュモアはそそくさと木陰に隠れ、三羽のジャイアントモアが遠くに見える。二羽は首を下げて地上を探り、一羽は首を伸ばして辺りを見ている。
そうか、ニュージーランドは南半球だから昼間なんだ。夢の中なのでそんな勘違いをしていた。
立ち上がって、日の光と清々しい風を浴びた。
いや、こんなのんびりしている場合ではない。野外にジャイアントモアがいるということは。
私は慌てて背後の空を振り返った。
カラスに似た、しかし巨大な影。
ハーストイーグルだ!
と思ったら、その影は真横に滑るように揺れた。体に全然厚みがない。
誰かが揚げている凧だったのだ。
私は力が抜けてその場にへたり込んだ。
そして、本物のハーストイーグルがいないことに安心してしまうのを、動物好きとして少し残念に思うのだった。
そこで目が覚めた。
怖かったけれど、大事な夢だった。そんな気がした。
それに、最後には動物が好きな気持ちを取り戻せた。
ここは動物園の中だ。この感じが薄れないうちに見に行ける。私は急いで身支度を済ませ、カメラを持ってタネ・マフタを飛び出した。
作業服姿の花梨が冷たい風の中でも元気に猫車を押していた。
ニホンオオカミも、すでに運動場に出ていた。
小走りに追いかけ合う姿に身が引き締まる。
互いにマズルをこすりつけたり前足で相手を押したりしている。無邪気で楽しそうな姿だが、それは夢の中で私を追いかけるオオカミ達も同じだった。
動物園にいる動物も恐ろしい猛獣なのに、いつの間にかそのことを忘れてしまっていたのかもしれない。
柵で守られているのはこちらも同じだ。今後私が夕べの講演の最後に出てきたような緑の中を歩くとき、ニホンオオカミを柵から出してやれないことを申し訳なく思うだろう。
とはいえ、恐ろしいからこそ。
牙を光らせて甘噛みする。爪の生えた手で相手を押す。たくましい四肢で一緒に跳ねる。澄んだ目で見合う。
その輪の中心にサキがいる。ここに来てから出会った仲間に囲まれて、大人のニホンオオカミとして躍動している。
あのじゃれ合いには私は決して立ち入ることができない。一本線が引かれた向こうの出来事だ。そんなニホンオオカミ同士の世界を見せてもらっている。
そのことが、昨日よりいっそうありがたく感じられた。
ウォンウォンという吠え声に混じって、クウという気弱そうな鳴き声も聞こえる。
もし落ち着いて聞けていれば夕べの遠吠えも聞きごたえがあっただろう。あの遠吠えは動物園中に聞こえていたに違いない。
そうだ、それなら他の動物……それこそ、隣の区画のモアにも聞こえていたはずだ。
すぐにそちらに行ってみると、ジャイアントモアは昨日と変わらず羽づくろいをしたり草をついばんだりしていたし、リトルブッシュモアはリトルブッシュモアで平然と林の中をうろついていた。変わったことなど何もないと言わんばかりだ。
「やあ、早いな!」
花梨が声をかけてきた。
「ねえ、モアってニホンオオカミの遠吠えで眠れなくなったりしないの?」
「心配してくれるのか」
その裏のない笑顔を見ただけでモアが本当に平気なことが分かる。
「モア舎の中まで遠吠えはよく聞こえてるんだけどね、全然気にせず寝てるよ。危ないものだと思ってないんじゃないかな?」
「ああ、ニュージーランドにオオカミはいないから」
そもそも遠吠えなんか先祖代々知る由もないのだ。
「多分ね。安全なところにいれば遠吠え自体は危ないものじゃないから、怖がらずにいてくれるのはありがたいよね」
朝の忙しい時間の花梨は受け答えもほどほどに去っていった。
遠吠えと自分の身の危険を結びつけて考えないところは、モアのほうが夕べの私よりよっぽど分かっている。そういう知恵が備わった存在に見える。
ジャイアントモアが過ごしている丘や、その向こうの山まで、ジャイアントモアにふさわしいおごそかな土地に見えてくる。
自然が美しいって、本当はこういうことなのかもしれない。ただ風景が綺麗なだけではないのだ。
そのことが少しでも写真に表れるように、ズームにせず構図をよく整えて、ピントを慎重に決めて、写真を撮る。
するとジャイアントモアが立っている丘の手前に二本、別々の種類の木が写り込んだ。ネームプレートがかかっているので、そうするのが筋だと思ってきちんと読んでみた。
枝がイガイガとした棘のような葉で覆われているのが「アガチス」、大きな鱗のような模様があるのが「マルハチ」。
かつてのニュージーランドの風景、ジャイアントモアの世界もこういうものだったのだろうか。多分、これよりさらに見事だっただろう。
[モア目 Dinornithiformes]
モア目は、15世紀までニュージーランドに生息していた飛ばない鳥類のグループである。ユーラシアやアフリカでいう偶蹄類やゾウのように、各種の大型植物食動物としての生態的地位を占めていた。コウモリを除く哺乳類のいないニュージーランドは、このように独自に進化した鳥類を多く擁する。
モア目の中の分類には混乱が生じていたが、現在は3科6属9種を含んでいるとされる。
飛ばない鳥類を多く含む古顎類に含まれる。しかし、翼である前肢の痕跡すらないにもかかわらず、飛ぶことのできるシギダチョウ科と最も近縁であることが古代DNAの解析から知られている。
モア目の大まかな特徴は、ダチョウStruthio camelusやエミューDromaius novaehollandiaeなど現生の飛ばない大型鳥類、つまり他の古顎類によく似ていた。モア目のどの種も、長い首、小さい頭、大きい胴体、長い後肢を持ち、翼は退化していた。
そのいっぽうで、ダチョウなど現生の大型の古顎類とは異なるモア目独自の特徴も多かった。
骨格の大きな特徴として、翼の退化がさらに進んでいた。胸骨とごく小さな肩甲骨があるだけで前肢そのものは痕跡すらなかった。ダチョウと違い、翼を飛ぶことと無関係なことにも使わなかったことになる(これはむしろダチョウのほうが独特なのだが、ダチョウが大型の飛ばない鳥類の代表として扱われがちなので注意する必要がある)。
プロポーションの特徴として、後肢の中足骨が短くて太く、足指はどれも太長かった。骨盤の股関節から後ろは小さかった。このような後肢の形態のため、長距離を高速で走行する能力には乏しかったが、大きな体重を支えることや、斜面や凹凸のある土地を歩くことには適していたようだ。
眼窩はあまり大きくなく、眼窩の前に大きな涙骨が下がっていた。
モア目の9種は大きさ、クチバシの形態、後肢の形態、生息環境や生息地などが少しずつ異なっていた。
ヒトがニュージーランドに移入する前にモア目を捕食していたのは、後述のハーストイーグルを主とする大型の猛禽であったと考えられている。
13世紀前後にニュージーランドにポリネシア人(後のマオリ族)が移入した後、乱獲によってモア目は絶滅した。移入から絶滅には数百年かかったと考えられてきたが、繁殖率や捕獲率、人口などの数理的な研究によると、移入から150年前後で絶滅したと考えられる。
有史以降にヒトの手によって絶滅した大型動物の中では珍しく、西洋文明とは無縁だったことになる。
マオリ族のかつてのゴミ捨て場のようなところから痕跡が見付かるのと、伝承の中にモア目に関する内容がいくらか残っているのを除くと、化石化はしていないもののヒトの手によって直接記録されたものは特にないことになる。
いっぽう、絶滅した年代が新しいぶん、古代DNAの分析は進んでいる。シギダチョウ科に近縁であるという分類もその成果による。
[ディノルニス・ロブストゥス(サウスアイランド・ジャイアントモア、オオゼキモア) Dinornis robustus]
学名の意味:恐ろしく大きく屈強な鳥
時代と地域:現世(15世紀まで)のニュージーランド(南島)
成体の高さ:メス3.6m オス2.4m
分類:鳥綱 真鳥亜綱 古顎類 モア目 ディノルニス科
ディノルニス属に含まれるモアをジャイアントモアといい、モア目の中で最大のものである。
中でもサウスアイランド・ジャイアントモア(ロブストゥス種)は2種いたうちの南島にいたわずかに大きいほうで、首を高く掲げれば史上最も背の高い鳥類である。メスのほうがオスと比べて格段に大きかった。
なお、そこまで首を高く上げたポーズを取ることは少なかったと考えられているが、背中までの高さでも1.5m以上になる。
クチバシは幅広く平たい三角形で、縁は緩くカーブしシャベルのようなシルエットをしていた。ダチョウのクチバシに似るが、ゆるやかに下向きに曲がっていた点が異なる。
大腿骨や脛骨に対する中足骨の長さの比率は、ヒクイドリよりは低いがモア目の中では高いほうだった。
環境、高度、気候とも南島各所に幅広く分布し、木や低木の葉を選んでつまみ取ったり、森以外では草本植物をむしり取ったりしていた。このように、大きな体で幅広い環境と食物を利用する生態的地位はゾウにも例えられる。
ノースアイランド・ジャイアントモア(ノヴァエジーランディアエ種)N. novaezealandiaeの卵殻にオスのDNAが残存していたことから、少なくともノースアイランド・ジャイアントモアはオスが抱卵していたと考えられている。
[アノマロプテリクス・ディディフォルミス(リトルブッシュモア、ヤブモア) Anomalopteryx didiformis]
学名の意味:ドードーのような姿の奇妙な羽を持つもの
時代と地域:現世(15世紀まで)のニュージーランド(北島・南島)
成体の高さ:1.2m
分類:鳥綱 真鳥亜綱 古顎類 モア目 エメウス科
リトルブッシュモアはモア目の中の最小種で、シチメンチョウMeleagris gallopavoほどの大きさにしかならなかった。
クチバシは短くて幅が狭く、ジャイアントモアと違ってあまり下向きに曲がっていなかった。頭骨のクチバシを除いた部分はやや幅広かった。
後肢は脛骨が長かったものの中足骨はかなり短く、比較的細かった。
北島により多く生息していた。中高高度の、冷涼湿潤で急坂や凹凸のある土地のやぶの中や、空がすっかり覆われた森で生活していた。
木や低木の葉、草をつまんでいたと考えられている。また、クチバシの特徴から枝のような固い部分をちぎって食べることもできたようだ。
[ヒエラアエトゥス・モーレイ(ハーストイーグル) Hieraaetus moorei]
学名の意味:ジョージ・ヘンリー・ムーアの所有する土地で発見されたタカのようなワシ
時代と地域:現世(15世紀まで)のニュージーランド(南島)
成体の翼長:最大3m
分類:鳥綱 真鳥亜綱 新顎類 タカ目 タカ亜目 タカ科 イヌワシ亜科 ケアシクマタカ属
ハーストイーグルは、かつてのニュージーランドで最大の猛禽であり頂点捕食者だった鳥類である。
独立属のハルパゴルニス属Harpagornisに分類されていたが、古代DNAの分析によりケアシクマタカ属に分類し直された。同属の現生種は中型程度の猛禽である。
ハーストイーグルがケアシクマタカ属の他の種と分岐したのは220万年ほど前と考えられる。ニュージーランド全体が一旦水没したのはそれよりかなり前で、ハーストイーグルはニュージーランドの生態系の歴史の中では比較的新しく現れた種だった。小さな近縁種から急速に大型化したようだ。
ハーストイーグルには大きさだけでなく、プロポーションとクチバシに独特な特徴があった。
翼長自体は最大3mほどでコンドルVultur gryphusと同等だが、胴体はコンドルより大きく、翼長や翼の面積の割に体重が大きかった(最大で15kgになったと考えられている)。
このため飛行速度が大きくなるので、多くのワシやタカのように上昇気流を利用して帆翔し続けることはせず、オウギワシHarpia harpyjaのように木の上で待機して、木の間を通り抜けるように飛んで獲物に飛びかかったと考えられる。
猛禽としては長い、コンドルのようなクチバシを持っていて、小さな獲物を丸呑みするより大きな獲物を引きちぎることに適していた。しかし足はコンドルとは違い、太さ以外は同じケアシノスリ属とよく似た、掴むことに適した足を持っていた。
獲物と格闘するときに離されないように足でしっかり掴んだが、食べるときはコンドルがそうするようにその場で引きちぎったのではないかと言われている。このことから、モア目のような大きな獲物を捕食することがあったと考えられている。ジャイアントモアの成鳥を捕食できたとは限らない。
ハーストイーグルではないかと思われる洞窟壁画があり、全身が黒く塗られているが頭だけ塗り残されている。コンドルのように頭に羽毛がなかったのかもしれない。
マオリ族の伝承の中には人食いの怪鳥が登場するが、これはマオリ族が移入してからもしばらく絶滅していなかったハーストイーグルのことが伝承に残っているのだともいわれる。ハーストイーグルはモア目とほぼ同時期に、食料不足やマオリ族との対立などにより絶滅した。
[カニス・ルプス・ホドフィラックス(ニホンオオカミ) Canis lupus hodophilax]
学名の意味:道を守るオオカミ
時代と地域:現世(20世紀初頭まで)の日本(本州、四国、九州)
成体の肩高:55cm
分類:哺乳綱 食肉目 イヌ型亜目 イヌ科 イヌ属 オオカミ種
ニホンオオカミは、オオカミのうちかつて日本列島に生息していた亜種である。
独立種とする意見もあったが、古代DNAの分析によるとイヌC. l. familiaris(こちらもオオカミの亜種である)と共通の祖先を持つことが分かった。日本列島に渡来する前のニホンオオカミの祖先とイヌの祖先が交雑していた痕跡もある。
西洋文明の科学による検証が絶滅間際まで行われなかったため、イヌ(野犬)との違いが曖昧なままで日本人に認識されていたが、第一大臼歯がイエイヌと比べて大きいといった、現生のオオカミと同じ特徴を持っていた。
オオカミの亜種としてのニホンオオカミの最大の特徴は、オオカミの中では特に小型なことである。現生のオオカミが肩高70~80cm、体重30~40kgほどになるのに対して、ニホンオオカミは肩高55cm、体重20kgほどであった。
小さく身軽になることで、狭くて餌資源が少なく、山地の斜面が多く、やや温暖な日本列島に適応したのではないかと考えられる。
四肢、特に前肢がやや短かった。吻はやや短く幅広かった。
国内に3つある剥製は毛皮の色が抜けてクリーム色になっているが、大英自然史博物館の保存状態の良い仮剥製標本(生前の形態に仕上げていない毛皮)などの確実な色の証拠によると、濃い茶色の毛をしていたらしい。
生息当時の記録によると、あまり山奥ではなく人里に近いところにも多く生息していたと考えられている。ホンシュウジカCervus nippon aplodontusやニホンイノシシSus scrofa leucomystaxを主な食料としていたようだ。
牧畜が盛んでなかった日本では、ニホンオオカミが人命や家畜を脅かすことより、ニホンジカやニホンイノシシを捕食して農業上の害を取り除くことが重んじられ、神聖視される傾向にあった。
しかし、馬産地である東北地方を中心として、ときとしてヒトにとって危険を及ぼす存在であることは認識されていて、ニホンオオカミのなわばりを通過するときの注意点が広まったり、人里からニホンオオカミを遠ざける儀式が行われたりもしていた。
亜種名のhodophilaxは「道を守るもの」という意味だが、これはニホンオオカミがなわばりを通過するヒトをすぐに襲わず観察しながら尾行していた、いわゆる「送り狼」の習性にちなむ。
ニホンオオカミが絶滅した経緯は、大まかには17世紀に遡る。
まず17世紀(江戸時代)に入ると、江戸幕府に関連する建築物の建材をはじめとして木材の利用が増え、また農地の開墾も盛んに行われたため、森林伐採が進んでニホンオオカミは個体数を減らし始めた。
江戸後期にはさらに狂犬病やジステンパーが国内に入り込んだが、ニホンオオカミが群れをなしていたためにこれらの伝染病が広まりやすかった。さらに、狂犬病に罹患したニホンオオカミがヒトを襲う事故が多発するようになり、神聖視の対象から駆除対象に変わってしまった。
明治に入る頃にはすでにかなり減っていたが、さらに明治政府の政策によって駆除に拍車がかかり、1905年に奈良県で捕獲された個体を最後に確実な記録は途絶えた。
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